human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「百季夜行」、あるいは人形と踊る人形師

けれども、多くの問題は、そもそもその観測点の不同定を棚上げにして扱われている。ニューラルの変幻さを、一瞬だけネガフィルムのように反転固定した仮定の基に、ただ「こうでなければならない」という道筋を引く。それがロゴスだ。
したがって、疑うべき主体とは、すなわち架空のロゴス、その空論によって空回りする風車か、あるいは、紡がれると錯覚させ、実は解け伸び、空間に放射される一筋の糸か。その糸の細さといえば、なにものも結ぶことなく、ただ分断を誘うのみ。

疑うべきものと、認めるべきものは、同じメカニズムのロゴスにちがいない。疑っているつもりになっているだけで、緩やかな存在を認めていることに等しい。(…)

ロゴスには、常に矛盾が包含されることくらい、言葉が生まれるまえからわかっていた。植物も動物も、あるいは微生物さえも、その揺らぎを持っている。その偶然、その変異を内在している。そもそも、そうでないものが存在しないのだから、これを矛盾と呼ぶことに矛盾がある。すなわち、ロゴスの成立が、最初から自身で反転しているということ。だから、ネガなのである。

「第13章 フォーハンドレッドシーズンズ」
森博嗣『赤目姫の潮解』

 混信は渾身にして、
 教会は境界にあり。

 × × ×

縁あって久しぶりに、恐らく十年近くぶりに読んだのですが、
まっったく内容を覚えていませんでした。
「ワケワカラン」という読後感だけは覚えていたんですが、
その初読時の印象もキレーに裏切られたというか。

いやー面白かったですね。

批評は書きたくなくて、
印象をなにか書きたいんですけど、
読了前にパッと(本記事の)タイトルを思いついて。

それだけ、のようですね。


保坂和志を連想することが何度かあったんですが、
視点の移動に類似したものがあって(速度と頻度は全然ちがいますが)、
エスエフか現実小説かの違いはまあどうでもいいんですが、
森博嗣の『赤目姫』は寓話というよりは童話なのに対し、
じゃあ保坂氏の(たぶん連想したのは)『この人の閾』は、
三人称私小説? 人間観察日誌?

 × × ×

小説のリアリティというものを考えたとき、
「リアルの基盤」をどこに置くか、という問題があります。
小説の筋書きが現実的なのか、小道具が、人物心理が現実的なのか、云々。
たぶん、「リアリズム小説」というジャンルが指す対象の中に、以上のものは含まれても、
メタフィクション(だったかな?)、
物語の中で物語の「枠組み」に言及する小説は含まれません。

たとえば、の例としてポップすぎるかもですが、
というかマンガですが、
忍たま乱太郎』(尼子騒兵衛)では、
忍たま達が敵の城に忍び込んだりしてピンチになると、
マンガの「コマ割り」をベリっと破って紙面の裏に逃げていったりします。

たとえばこういうのを、リアリズム小説(マンガですね)と呼ぶか?
まあ呼ばないでしょうね。
そして『忍たま』にリアリティはあるか?
と聞かれると、よくわからない。
面白いし、没入できるけれど、それとリアリティとはまた別のような気がする。
 
 
で、『赤目姫』ですが、まあ確信できるとまでは言いませんが、
登場人物が物語の「枠組み」に言及しているように読める場面がいくつもあって、
(今思うと、その枠とは「作者」のことなんですが、
 作者が必ずしも物語の外にいるとは限らない……)
それでいて、読んでいて僕は「リアリティ」を強く感じました。

それが面白いなと思って、
この面白さは初読時には確実に気付かなかったはずです。
(何せ「ワケワカランがいつか面白く読めるだろう」という悔しさの印象があったので)

いや、しかしそれが作品の面白さを理解したのかと言われれば、
他の読者に共感してもらえるような説明ができるかはよくわかりませんが、
そして今そのような説明が試みられている可能性もありますが、
それはさておき。
 
 
話を戻しまして、
僕は『赤目姫』のどこに「リアルの基盤」を感じたか、
ということをここで考えてみようと思います。

まず、「小説内部で完結する整合性」にはありません。
整合性がない、のではなく、その整合性にリアルを感じたわけではない。
 
読者が小説を読むこと、あるいは作者が小説を書くこと。
『赤目姫』には、明らかにこのプロセス(の感覚)が内包されています。

だから、この小説を読んでいて、
「小説を読むこと自体のリアリティ」を感じた、
と言ってもいいかもしれません。

これはどこか、自己言及的なところがある。
つまり、オープン・システム、開放系のフィードバック・ループ。

そして、その上記プロセスの、一部が強調されたり、減衰したり、
つまり、波がある。
(じっさい、ページの中に「波」があったりもする)

その、強調やら誇張やら、あるいはプロセス描写が安定しないこと、
それが計算されての描出かどうかは重要ではなくて(計算よりは気分だと思いますけど)、
それは小説世界の揺らぎでもあって、
これを別の見方をすれば、
小説世界の整合性が揺らいでいる、とも言える。
が、それもまた重要ではない。
 
面白いなと思うのは、
物語の読感が「揺らいでいる」と読者が感じる時に、
その原因が物語世界の側にだけあるとは限らない。
読者がその時、仕事のことや心配事で上の空で読んでいれば、
読者の散漫な集中力のせいで物語が「揺らぐ」ことだってある。

何が言いたいかというと、
まず、
読者が感じる物語のリアリティは、物語内部とは関係のないところにもある。
さらに、
その認識の裏側で起こりうる現象として、
読者側に起因するリアリティに、物語が介入することがある。
そして、
その現象の幸福な実現形態として、
読者の揺らぎと、物語の揺らぎが、波を重ねて「共振」することだってある。
 
僕がリアリティを感じたのは、ここなのではないかと思います。
これが、たとえば小説主人公への感情移入と異なるのは、
ワンムーブの一方通行ではない点です。
 
 
オープン・システムとは、つまりこういうことです。
 そのことを、書き手が意識できているか。
 そしてまた、読み手も意識できているか。
いずれかが欠けても、「オープン」にはなりません。

森博嗣はエッセイかインタビューかどこかで、
「すごいのは作者ではなく読者だ」
と言っていました。
彼は著作の帯などでよく「天才」と書かれている(書くのは出版側でしょう)けれど、
そんなことは関係なく、あれは純粋な、
小説の成り立ちについての言及ではないかと思います。
 

Gestalt Climbing その2、あるいは高齢化社会におけるクライミング文化立ち上げの理路

 
住み始めて半年経つ離島生活。
半官半Xをやりながらクライミング文化の立ち上げに奔走(というほどでもないが)し、
そちらは紆余曲折あって、今日、とある区民体育館を使うために区議会で話す機会となりました。


その区の住民は全戸140人ほどのうち、半数以上が60歳を超える。
ボルダリングが「ムキムキ若者のイケイケスポーツ」といった一般的印象を持たれているとすれば、
区民の方々が、自分たちがそれ(ボルダリングウォール)を使うという発想を持つことはありえない。
 
若者全盛のプロスポーツではなく、生涯スポーツや武道としてボルダリングを実践する。
これまで町のいろんな人に計画をアピールするうえで、この路線を強調してきました。
といって、口で説明するのは容易でなく、長文の書類にそういった文脈を混ぜてきた、という意味ですが。
 
つまり、僕が島でやろうとしているボルダリング事業の思想を対面で直接戦わせたことはまだありません。
そして、その最初の機会が今日の区議会、ということに、なるかもしれません。
「なるかも」というのは、そういう込み入った話以前の実際的なレベルに終始する可能性も高いからです。
 
区立体育館は公共施設で、「活用」はほとんどされていないが、「利用」は普段からちょくちょくある。
施錠せず自由開放されていて、子どもや他区の部活動など、好きな時に使えるようにしてある。
区民はもちろん、町民はみな「区費」を支払っていて、回り回ってそれは体育館の管理費に充てられる。
 
その現状の区民の自由利用が、僕が個人の営利事業のために一部制限されてしまう、という話なのだ。
中身を問わずこのように問題の大枠だけ捉えれば、マイナスな印象を持たれるのは当然に思われる。
だから僕は、「これまでの自由の制限」というマイナスと、「事業によって可能となる活動」のプラスを具体化して説明し、区民の一人ひとりに比較考量してもらえるようにしなければならない。

 × × ×

まず、マイナスをなるべく少なくする事業の方法の検討。

鍵の管理を事業側(僕)が担うことになると、常時開放ができなくなる、これは恐らく認められない。
他の事業(カフェとか)も同時に入って、共同管理くらいになれば開放維持のハードルは下がろうが、あまり現実的ではない。
この点は、体育館をウォールで分割し、非常口の1つで施錠管理の方法を提案する。
 
次に、公共施設を個人が私的事業に用いる点について。

現状、活用(規模の大きな利用)がほぼないという意味で、区民体育館は「遊休施設」といえる。
遊休施設の活用のために、当初は町(教委)や共創基金の協力を得て公共施設としてのウォール設置を検討したが、
予算規模や立地の面で可能性はないと町からは判断が下された。
この経緯があっての、営利事業展開の提案である。

ウォール設置はじめ、事業に関する施設は全て私財の投入によって賄う。
体育館は区のものだから、区民として利用の優遇があるべきと言われれば、無論、その内容(利用無料など)を検討する。
あるいは、設置費がペイできたら区民利用は無料にする、それまでは事業側へのカンパとして使用料が頂ければ有難い。

区が管理する体育館ゆえ、そこで起こる問題を区が負わねばならない事態を、管理者(区長など)は懸念している。
施設部品の破損については、事業側がすべて設置したものなら、区がその責任を負う必要はない。
利用者の怪我については、正規の利用時には「利用注意書き」の一読とサインを利用者にお願いする(一般的なジムと同様)。

正規以外の利用(営業時間外に触れるなど)で怪我が発生した場合、それを区に訴えるクレーマーが、いないとも限らない。
と、区側は怖れるが、事業者側は、利用者の顔が見える小規模の区だからこそ「匿名者」に振り回される必要はないと考える。
不慮の事故が起こらないレイアウトと利用方法を決めたうえで、それでも起こりうる非正規利用について具体的に話し合えばよい。
 
また、感覚的な内容だが、事業者は「細々と生計が成り立つ」ように運営できればよいと考えている。
だから、事業で得た利益を、区民に還元できる方法があれば、検討・実行したい。
体育館の賃料を払う、館内に区民が要望する別の施設を設置する、等々。

 × × ×

さて、ようやく、「プラス側」の話。

基本的に、この事業は島全体からの来客を期待している。
小学校低学年から、高齢者まで、五体満足で歩くことができ、梯子や脚立に登れる人全員を対象としている。
テレビ番組やオリンピックなどで膾炙しているボルダリングとは違うイメージで、ぜひ捉えてもらいたい。

キーワードは、最初に挙げた、生涯スポーツ、武道(武術)、また、
フィットネス(ヨガ、太極拳など)、木登り、アスレチック、全身運動、等々。

すべてに共通するテーマは、「身体性の賦活」、自分の身体に関心をもち、身体感覚を敏感にすること。
「見ている世界」と「自分の運動について知っている世界」の安定した幸福な結合(J・ピアジェ)。
自身の運動能力に関する、脳と身体の齟齬をなくし、自分の身体と「仲良くなる」こと。


いや、この話はちょっと一時休止して、区民の方への別の関心について考えよう。
体育館のボルダリング利用によって、島からこの区へ人が集まることから描ける未来について。
まず、人が区に多くやってくるようになることを、区民の方々は歓迎するのかどうか。

歓迎してくれるとして、ではそこから、区民が増える、別の事業が生まれる等の展開を描けるかどうか。
ボルダリングは教育にも有益である、授業の一環にも、レスリング等の強化訓練にも使える。
ホテルや観光促進課と提携すれば、観光客を呼び込めるかもしれない。

まず、僕自身は体育館で事業ができるとなれば、この区に住んで住民として事業をしたいと考えている。
ジム運営以外にも、便利屋や古本屋、図書館事業など、区のためにできることは他にもある。
そして、僕はジム事業も含め全て、生涯現役で(あと50年くらい?)続けたいと思っている。
 
こんな人間が現れて、もし現状維持ではなく、僕を巻き込んでの新たな区の未来が区民の方々に描けるなら。
僕はその未来を一緒に実現したいと考えています。
 
 
「プラス」の話に戻る、そしてゲシュタルトライミングについても。

ゲシュタルトライミングのキーワードは「アフォーダンス」(前に書いた記事参照)。
動きに合わせて変化する周囲環境と、身体との相互作用としての運動を考える。

平たい地面に立っている、束縛のない状態がいちばん自由に身体を動かせる……
という常識は怪しく、束縛は「導き」でもあるから、その自由は茫漠としている。

動作の経路や方法に制限があるからこそ、その制限を活かすための身体動作の工夫が生まれる。
その工夫は、茫漠な自由からは得られない発見をもたらし、新たな身体部位の賦活も共にもたらす。
つまり、動作可能性の多様度と自由が相関するなら、多様な制限を伴う動作の工夫の経験こそが、自由を高めてくれる。
この「多様な制限」は、ボルダリングにおける自由な課題設定が最も得意とするものである。

決められた石を使って上(横)に移動する、その多種多様な「壁と身体の対話」の繰り返しによって、
身体のアフォーダンス感度が賦活されると、それは日常生活の感覚も変化させる。
階段の上り下り、布団の上げ下ろし、子どもを抱きかかえたり、買い物袋を手に提げたり。
坂道の上り下り、山道の土を踏みしめる、自転車の漕ぎ始めやカーブ、ぬかるみを歩く。
これまで意識もしなかった、日常生活の動作において、各々の状況における環境との相互作用に意識が向かう。
その相互作用は、自分のその各々の動作の微調整への関心を呼び起こし、試す、やってみるようになる。
 
ちょっとした時の身体の使い方に関心が向かうことは、身体を使うことそのことの喜びと繋がる。

 × × ×

では、行ってきます。
 

Hello to "Blue-Box Parallel World" !

 
セネットの『クラフツマン』も、もう長い間読んでいますが、
海士町に来てからは毎週末の朝食後に読む習慣になってさらに遅読化し、
ようやくそれも最終盤になってきて、読了を惜しむ気持ちが出てきました。

ひょんな偶然(というか偶然の偶然)ですが、
この本が手元に二冊あるというのは大変ありがたく、
一冊は売りに出す前提でいても、気兼ねなく書き込めるもう一冊、
線を引かないページはないくらい書き込めたお陰で発想も伸びやかに、
今日なぞ連想が活発に働いて、時折目を閉じながらちびち読み進めて、
10ページも進まぬうちに二時間が経っているという有様で、
そんな時間の使い方に全く後悔を催させないのは、連想の濃密さ。
 
 × × ×
 
ブラックボックス社会」というのも、常に念頭にあるテーマの一つです。

分業・組織化・自動化・システム化が複雑になるほど、
個人が生活の中で頭を使う必要性が減っていき、
原理・メカニズム・由来・経過を知らぬまま便利さに身を預ける。

そうした無思考の奨励をセネットは
「問題化する思考を消失させるブラックホールと呼んでいますが、
ブラックホールは意識下で発生し、網膜をバーチャルに覆う色眼鏡と化し、
そうして身の回りの物事がブラックボックスとして把握され、
それを気にしなくなる、と同時にその視覚をポジティブに「効率化」と捉える。

世の変化を待つだけで手を拱いていれば、
情報の海に、またそれに流される人々に流されて、
好むと好まざるとに関わらず勝手に生じるかに思えるブラックホールに呑まれる。
周りがみんなそうだから、自分もそれでいい、という人間はまあ、仕方ない。

一方で、
ブラックホールは危険だな、
ブラックボックスは気味が悪いな、
と思う人間は自分でなんとかするしかない。

そんな後者なあなたに「うってつけ」の鎖書、
のタイトルをさっき思いついた、のがこの記事のタイトルです。
ただ、三冊のうち一冊がかなり使用劣化しているので、ちょっと考えものですが。
修理なりクリーニングなり、あと踏ん切りがつけばショップに載せます。
 
 × × ×
 
この記事で考えてみたかったのは、そのタイトルの解題です。
『クラフツマン』を読む目を止めて脳内でイメージ化していたのを、
言葉に移し替えると、どうなるか。


まず、「ブラックボックス」の対となるものを考えました。

黒の反対は白なのですが、
ホワイトボックスと呼べば、透明、スケルトン、内部構造まるみえ、
のようなイメージかと僕は思いました。

うーん、そういうことではないんですね。

カニズムの理解という志向自体は「ブラックボックス化」への対抗となりますが、
その内実を「一望俯瞰」といったキーワードで捉えてしまうと、
実は、同じ穴のムジナというか、ゾンビ狩りがゾンビ(だっけ?)になってしまう。
 
システム(化された道具)を、メカニズムを把握せずに機能だけ利用する、
というブラックボックスの効率的利用は、
プロセスの圧縮、結果の対価を得る手間の「無時間化」がキモです。
一望俯瞰によるメカニズム理解も、この「無時間化」に価値をおく姿勢が共通します。

程度問題はあるにしても、本来、システムが複雑であるほど理解に時間はかかるはずで、
その理解に対する価値を経過の圧縮度で測ることになれば、行き着く先、
理解の内容は単純化され、納得は自己満足しかもたらさなくなる。

SE会社が寄ってたかって管理システムを組み上げる様を想像すればいいのですが、
世の中を回すシステムが、一人の人間がその全貌を理解するのに膨大になり過ぎた以上、
そのシステムの透明化による理解が身の丈を超えるものになるのは必然です

ここで急に「身の丈」が出てきましたが、
身体感覚による理解・把握と有時間化(物理時間でない時間感覚の賦活)はリンクします。
 
さて、話を戻しまして、
とりあえずは黒の反対を、
白ではないが、色でイメージするとして、
まあ感覚的にいろいろと(頭の中で)挙げてみたのですが、

とりあえず、「青」がいちばんしっくりきました。
ブラックボックス(暗箱)に対する、ブルーボックス(青箱)。

そして、この青色のイメージを元手に、
ブラックボックス社会に対抗する「なにか」を想像してみました。

内田樹は著書でよく「思考の肺活量」という表現を使います。
また高橋源一郎が、最近どこかで読んだ本で、うろ覚えですが、
同じ姿勢を「深海(海の底)をゆっくりと歩く力」という言い方をしていました。

まず、青色のイメージが、これらとリンクしました。


青箱は、白箱と違って、
システムのメカニズムが露わになっていたり、
わかりやすく提示されていたりはしない。

暗箱は、その表面がどす黒く、またはつるりと黒光りしていて、
外光をすべて吸収し、またはすべて跳ね返すがゆえ、中は全く見えない。
白箱は、システムの外枠によって「箱」として捉えられると同時に、
光をすべて通すがゆえ、中身が一望できる、ギアやシャフトの一つひとつ動く様が見える。

青箱は、暗箱とも白箱とも違う。
違うのは、箱の外から眺めるだけではない点。
暗箱も白箱も、箱そのものが機能をもち、何かの目的に利用される、その目的が主である。
対する青箱も、機能をもち、目的をもつかもしれない、
ただ決定的に異なるのは、青箱は「箱の中に入るためにある」こと。
それは、青箱というモノの存在理由というよりは、モノを青箱「として見る」ことの理由。

つまり、ある一つの道具は、ある一つのシステムは、
イリイチは『コンヴィヴィアリティのための道具』で、社会制度も「ツール」と呼んでいた)
暗箱でも、白箱でも、青箱でもありうる、ということ。

言い方を変えよう。
青箱は、それを持つ人に、「中に入って身を浸すこと」を推奨(afford to)している。
動かなくなった時計を目前に、子どもがそれを分解する衝動に駆られるように。
 
外から眺めると、青箱の中は、揺らいで見える。
仕組みの構成要素が各々一面を見せるが、中は外と空気が違うのか、揺蕩っている。
もっとよく知るためには、中に入らねば、潜らねばならない。

しかし、入る前から「潜る」と分かっているように、
その中では、外とは違う「なにか」が要求される予感がある。

知識、は間接的なものだろう。
要求されるのは姿勢、その中心は、比喩になってしまうが「肺活量」
つまり青箱の中は「水」で満たされている、だから外からは青く見える。


さて、上で提示した3つの「箱」は、どれも「ものの見方」であるような言い方をした。
そして、青箱は、暗箱や白箱とは「ものの見方」、「ものの触れ方」が違うと言った。

この「箱」のメタファーを、世界観としてとらえた時、
パラレルワールドという新たなキーワードが生まれる。

何を大袈裟な、と思われるかもしれないが、この考え方は現実的である。
 
文明の利器の効率的利用、
最小の労力で最大の利益、
欲望と結果の無時間的結合志向、
これらが、個人はさておき、
「統計的個人の集合」としての社会の原動力であるとすれば、

統計的個人の(スマホに映る像も含む)身の回りに溢れる品々という「箱」の色は、
端的には黒であり、一捻りして白であり、白は黒の「補完色」としての白であり、
そうして暗箱と白箱で埋め尽くされた世界が現代社会の「メインの世界」だとすれば、

自分の生活に寄り添う一つひとつの「箱」を青いと宣い、
時間をかけてその一つひとつに潜ろうとする者の世界は、
同じモノに囲まれている意味で統計的個人と同じく「メインの世界」に在りながら、
「深海の思考」に価値を見出す身体は「もう一つの世界」に所属してもいる。

両者がものの見方によって、
その在り方、その姿勢ひとつで入れ替わるとすれば、
2つの世界はパラレルな関係にあるといえる。

 × × ×

水のメタファーは、なんとなく居心地がよいです。
僕は泳げないので、メタファーである限りにおいて、ですが。
 
 × × ×
 
ちなみに、冒頭の鎖書の三冊の著者は、ダニエル・セネットのほかは、
ナシーム・ニコラス・タレブ、それからアイン・ランドです。

Ulvesang - Ulvesang (Full Album) - YouTube

↑本記事を書いているあいだ、ずっと聞いていました。
たまたま出会ったんですが、筆が進んでよかった。
相性が。
 

3tana.stores.jp

オープンシステムとしての自己言及

いやー、ルーマンは本当に面白い。


いつだったか、『自己言及性について』を1年以上かけて読み終えて、
その次のルーマンはと手に取った『目的概念とシステム合理性』を今読んでいて、
ちびちび過ぎて、どれくらいの期間読み続けてるかもはや記憶にありませんが、

来月、今働いている図書館で終日開催の「図書フェスティバル」があって、
各種イベントのうち自分の担当分に、当日までに利用者アンケートをとって、
名前の挙がった本をフェス当日に面展するという企画があって、
「今年いちばんおもしろかった本」とか、そういう項目を6つ7つ考えるんですが、
「(おもしろすぎて)読み終えるのがもったいない本」てのもいいなと今思って、
今の僕ならルーマンのこの本を推すんですが(誰も読みそうにないですけど)、
というのも、読み終えるのが勿体無いと読み惜しみなどしようものなら、
生きてる間(というか頭がまともに回る間)中にまず読了が叶わない、
ほどの複雑さと分量。


話を戻して、『目的概念とシステム合理性』について。

内田樹の本はもう二十冊以上読んでますが(あれ、早速違う話に…)、
氏のブログも、彼が書き始めた2000年前後から全部読んでいて、
要するに氏の文章というか文体は相当僕の身体に染み込んでいるんですが、
ここまでくると氏の新刊本などは読まずとも書いてあることがわかる、
というか「読み応え」がタイトルと帯だけで事前に感得される、
と言って過言ではないほどなんですが、それでも読むとやっぱり面白い。

それは、感覚として、読むと「いつもと同じことを言っている」のだけれど、
それは内容というより、自分への文章の染み込みかたが同じだというようなもので、
その内容から自分が思いつくこと、連想することはやっぱり毎度毎度違う。

ということは、昔読んだ(と記憶にもちゃんとある)氏の本を改めて読み返しても、
やっぱり面白くて、読んだことあるなあと思いながら、その時に新しいことを思いつく。
 
そういう、「考えるための読書」という姿勢においては幸福な体験が起こるのはなぜか。
ひとつに、氏の考え方が、現代哲学でいう構造主義に基づいていること。

あるテーマについて語っていて、その具体的な内容に触れていても、
アプローチがそのテーマの「枠組み」を常にとらえているから、
総括として枠組みに触れる部分だけでなく、具体的な内容に対する言及を読んでいても、
今そこに書いてあることとは別の(しかし読み手の関心に沿った)ことを連想する。

これは橋本治のいう「行間を読む」というやつで、そこには何も書いてはおらず、
しかし読み手はそこに何かを読む、その時の、その読み手にしか見えない何かを読む。
「同じ文章から毎回変わったことを思いつく」というのはそういうことなんですが、
 
ルーマンの本の読感から内田樹のそれを連想して、まず後者に触れてみました。
「読み手にいろいろ考えさせてくれる本」という視点で両者は似ているのですが、
でも、やっぱり、当然ながら全然違う。
 
ルーマン本を読みながら、もう一つ連想したのが『銀の匙』を使った授業のこと。
この小説は読んだことはなくて、この本を使った国語の授業の話をどこかで読みました。
その記憶で書くのですが、

高校の国語だったかな、半年かけて、授業の中でこの一冊を読み込むというものでした。
銀の匙』は短めの小説らしく、おそらくその授業に満ちているのは、
素材の多様性ではなく、読解の、解釈の、想像の多様性であると思われます。
そして、その「素材」は、少ないよりもっとシンプル、「ただ一つ」ではないかと思う。
(その「ただ一つ」が何かは、ここでは書きませんが)

 × × ×

『目的概念とシステム合理性』は、極度に抽象的な文章が果てなく続く、
恐らく冒頭のいくつかの文を読んだだけで本を閉じたくなるような本です。

僕は別のいくつかの本からルーマンの凄さと難解さを予め知っていたのと、
一時間かけて4,5ページしか進めないような読書ができる生活の余裕があったので、
最初の出会い当時、忍耐強くルーマンの文章に取り組む環境と心構えが整っていました。
「読んで自分が思いつくことが面白い本」が同時にものすごく難解な本だとすれば、
その本の魅力に気付くには相当な時間がかかるのも仕方のないことです。
 
それはさておき、話を戻すと、
この本の延々と続く抽象文は、上で触れた『銀の匙』と同じく(なのか知りませんが)、
「ただ一つ」のことについてのひたすらな解説です。
それは何かと言えば、言わずと知れる、「システム」ですね。
言い方を変えると、ルーマンの文章の一文一文には、全て同じ「但し書き」が付けられる。

 この文章は、「システムとは何か」について書かれています。

全部。本当に。
だから、この本を要約すれば、この一言で済ませることもできる。
 
と、たとえば、「要約(書評)だけで読んだ気になれる本」みたいなの結構ありますけど、
逆に、「その本の要約ができればその本を読んだ気になる」ような読書の姿勢があるとすれば、
ルーマンのこの本は、頁を開く前から読んだ気になれる。
「ああ、この本はシステムのことが書いてあるよ」
と人に説明して、間違いでないどころか、概ね正しいからです。

が、僕が言いたいのはそんなことではなく。
 
「システム」という言葉は、わかるようでわからんような、
どんな文脈でもその文脈次第で勝手に意味が想像されるような単語なんですが、
たとえば「人間」とイコールで結んでも、それほど違和感がない。
だから、上述の但し書きをこう書き換えても、何の問題もない。

 この文章は、「人間とは何か」について書かれています。

そうなると、この本は哲学書なのか…と言われれば、そんな気もしてくる。
 
いや、何が言いたいのかというと、
同じ一文で要約できるような文章が延々と連なっていて、
けれど一文ごとに読み手は色んなことを連想することができる。

こんな本は、もはやふつうの本ではない。

論理やイメージを具体化し、一意的に固めていくために言葉が使われているのではない。
文章は極めて論理的でも、そこに用いられる言葉が高度な抽象性を帯びると、
それらの文章は、何かを囲ったり、限定したり、確定させたりしない

一つの文章を物理学の分子に見立てるなら、分子を構成する各々の原子(単語)は、
分子としては確立しながらも、開放された無数の結合手をひらひらさせている。

解放系(オープンシステム)の文章の性質の、これはその一つでしょうか。
 
もう一つ、「自己言及」について触れていませんでした。

意味を確定させた単語を連ねた文章は、「自己準拠」の性質を帯びます。
それは、その確定させた意味の確かさを基盤として、論理を次に進めるためです。
だから、自己準拠的文章そのものにフィードバック機能はなく、内省がありません。
(文章ではないですが、科学研究の「進歩」的側面は自己準拠をベースにしています)

具体例がないと分かりにくいのですが続けますと、
自己言及的文章は、上と対比させれば、
言ったそばからその意味が自分自身に返ってくるような文章です。
…という言い方は怪しいかな。

……。

別の言い方はないかと思って、今ふとキーボードから離れて本を手に取りましたが、
余計に分からなくなりました。
 
なんというか、
文章が自己言及的というよりはテーマがそうだという方が近いんですが、
その、自己言及的というのはなんだか今の自分にとっては哲学であって、
上で、この「システムについての本」は「人間についての本」でもあると書きましたが、
そうするとこのシステム本は「ものの考え方についての本」であることにもなって、
しかもここで使われる言葉が、意味内容を伝えるためのツールとしての言葉ではなく、
「そもそも言葉が生み出される場面における言葉」のようで、
いやこれもテーマなのか、「なぜ言葉が生み出されるのか」について書かれている……
 
 「開放系の文章」を、開放されたまま分析するのは不可能なんじゃないか。
 いや、分析というか、魅力を表現してみたかっただけなのだが…
 
サイバネティックスのようなシステム論の目的の一つは、
人間の思考の複雑さや多重性、再帰性などをコンピュータで再現することだと思いますが、
実物があって、それに対する再現率を上げていくという発想は、
その科学研究がどうしても数値的にならざるをえないこと、またもっと大事なことは、
実物の性質を数値化して固定することが(成果を数値化するための)前提になる。

一方の、という対比が正しいかは分からないし、
ルーマンの、という限定の仕方もこの分野の体系的知識が僕に全くないので不明確ですが、
僕が感じるルーマンのシステム論に関する文章は、
書かれているシステムに人間を含むことができるようでありながら、
人間の再現ではなく、
人間の複雑性の理解とさらなる複雑化の同時進行が目指されている
 
「何かをわかるということは、わからないことがわかる前よりも増えることである」

と言ったのがソクラテスだったか、違うかもしれませんが、
この名言を、ここだけ読んで「再帰性」という言葉は浮かばないんですが、
これを人間理解に当てはめると、つまりは「思考の再帰性」とイコールということになる。


いや、すみません、
言いたいことを表現するよりも、
自分の中で謎が増える形になってしまいました。

また、未来の自分がこれを読み返したら、
何か書きたくなるであろうことを願って筆をおきます。。
 

27日目:「八百万の神」のみぞ知る 2017.3.27

<27日目> …→宿(ペンション サライ) 20km

(1)砂浜を歩く
大岐の浜。
当然ながら歯が埋まるので脱いで裸足で歩く。
砂の感触が足裏に心地良い。
波打ち際で水がうっすら張ったところに空が映って清々しい。
親指タコの傷が心配だったが結果的にこれは大丈夫だった。
帰り(←打戻り)は「川越え」をやってもいいかも。
入り口は分かっているし。

砂浜に遍路道があり、その砂浜領域の中にも分岐があったのだと思います。
浅い川をざぶざぶ歩いて渡るか、迂回して砂浜続きの道を歩くか。
行きは迂回コースをとったので、帰りはざぶざぶやっちゃおう、という意気込みですね。

(2)歯の切削改善
クジリのハニカマイズ[=歯底に刺して蜂の巣状にすること]を、真上からでなく斜めから(3方向)やる。
今日はチェックインより早めに宿の前に着いたので翌日のために歯を削っていて思いついた。

朴の木はかなり丈夫で粘り気もあり、上から突き刺すだけだと「削る」というより「押し込む」感じになってきて、目が詰まって手応えが硬くなってゆく。
だから、斜めからも突き刺して、削り取るというか、引きちぎるというか。

一日に二時間以上この作業をしてた日もあったはずで、この「突き刺す感覚」は忘れようがないくらい手に残っていますが、ホーンマどんだけ丈夫やねーんと自分で削ってる時は思ってても、歩いてるとアスファルトにどんどこ削られていくんですね。

脚の筋肉は腕の3倍(これはボルダリングでよく聞く話)、どころではありません。

(3)ゲタと足の具合
毎日切削してわりとそつなくやってきていたが、そろそろ歯が短くなってきた。
左足の[下駄の歯の]ナナメ具合はまだ許容範囲だが、かかとと足首の間の部分がけっこう痛い。
歯が短いところ[の真上にあたる足部]に負担がかかるようで、今日の午後に3足目を注文。
明日の宿(くもも)で受取れるので、[下駄が届いたら]早速鼻緒調整をしよう。
一足目は出発前練習&16日もったが、2足目は12日だった。3足目はナナメにならないよううまく使おう。

一本歯は鼻緒が足にフィットしていれば、長時間歩いても靴擦れのような不調(足裏のマメや鼻緒が擦れての皮剥けなど)は起きないんですが、自分の足で試さないですげられた下駄を履けば、まあまずフィットしない。

それを2足目が送られてきた時は無精をして(違和感が大きくなったら調整しよう、みたいな)、足の不調や歯の早期消耗(踏み込む時に歯で地面をまっすぐ射貫けなければ、ブレて歯裏と地面の擦れが大きくなる)を招いたのでした。

(4)以布利遍路道の砂利道
漁港の奥へ進むと石ばかりの浜辺に着く。
歯が斜めに埋もれて難儀したが、カニ歩きやらを試す中で後ろ歩きをやると歯が全然埋もれないことに驚いた。
歩いている間はなぜか納得していたが、今考えるとよくわからないが、誰かが言っていた「鼻緒を前後逆にスゲられるゲタ」は案外いい発明かもしれない。
…思い出した、ギフ高山の彫り士の人だ。
あと砂利浜のあとの南国自然道がステキでした。

「後ろ歩き」の記憶が全くありません。
「鼻緒を前後逆」というのもいまいちピンとこない…が、今ネットで調べると、台座を前後にひっくり返せるように鼻緒用の穴を4つ開けることがあるようで、そのことかもしれません。

あ、最近知ったんですが、一本歯の歯を台座の前後真ん中付近ではなく、後ろの方に設けたものがあるらしく、それはかかとからの着地感覚にいいらしく、一本歯の後ろ歩きというのも「かかと着地感覚」に関したものかなと今は納得できます。
ある種のハイヒール歩きのぎこちなさを想像するとわかるんですが、つま先で着地すると着地面から胴体に達するまでに経由する関節が増えてしまうので、身体全体を使った歩き方がやりにくくなる。
(「ある種の」というのは、ハイヒールでもヒール着地歩行が可能かもしれないからです。見たことないけど…あるいはヒール着地は軸が折れちゃうから厳禁なのかも。履いたことないから全部想像でしか言えませんが…機会があれば履いてみようかな笑)

(5)丸山さん(ギフのおじさん)と再々会
以布利の小学校過ぎの分岐にて。
本当によく会う。
どうかお達者で。

会う人は本当に、何度も会う。
八百万の神のみぞ知る。
(こう言うと「人間以外はみんな知ってる」みたいやな)

(6)宿にて
夕食がスゴい!
魚祭り。
炊き込みご飯を5杯頂いて満々腹。
水を大量に飲んでお湯で[お腹を]温めて落ち着かせて今に至る。
トイレでの「身体に完全に支配されてる感じ」が心細いながら心地良かった。
腹の中(あるのは胃?)にとてつもなく大きいものがいる、とでもいうような。
小さい頃にカゼを引いた時に[よく]見た怖い夢の「自分がとても小さくてやたら大きな物に囲まれている(の中にいる?)」というのに感覚が似ているかも。

舟盛りがあったのを記憶しています。
たしか、同時に夕食を食べていた同宿のかなり痩せた女性に「お腹いっぱいなのでどうぞ」と、刺身やら何やらを頂いた記憶もあります。

この歩き遍路旅では、夕食にご馳走が出るたびに(というか白御飯がおかわりできる場面では全て)食べ過ぎて、苦しむ夜を繰り返していたんですが、胃拡張もあるにせよ、ウォーキングハイとでもいうのか、一日中歩き続けることに独特のテンションがあったのだと思います。
腹八分目という発想が全く無かったなあ…道中のトイレ事情が切実なだけに水分には敏感でしたが。
 
トイレでの、というのは…あんまり詳しく書くのもアレですが、まあ出すもの出さねばという思いで駆け込んだものの降りてくる気配はなく、極限まで膨れたお腹の感覚以外に何も感じず考えられず頭真っ白、わずかな動きが刺激になるので微動だにせず、といった状態でした、あの時は。
「心細いながら心地良い」なんてのは事後だから言えることですが、とはいえ妙な表現ではあって、能動的に考えようとしても全く頭が回らない状態が稀な経験だったからでしょう。

小さい頃によく見た夢を連想したようですが、あれは決して心地良いものではなく、自分の身体が(感覚はもちろん)物理的に小さくなったような、寄る辺ない心地がしたものでした。
あの感じも未だに覚えていますが…まあここで精神分析をしても仕方ありませんね。

所感:
タコがぶり返したのか少ししんどかった。
ガーゼ用テープを使った簡易テーピング(指の裏に巻かない)を思いついたのはファインプレーだった。
ばんそうこうが残り少ないので…
明日は2足目最終日。
正念場だ!

頑張れ!
歩く以外に明日はない!

 × × ×

泊まった翌日の朝に客室の窓から撮った風景です。
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26日目:ハチの巣切削法を閃く 2017.3.26

<26日目> …→宿(ロッジカメリア) 15km 午後過ぎまで弱い雨

(1)渡し船
小さめのガス船? で四万十川をわたる。
海面が近い。
船内を見ていると全く動かないのが不思議。
(車で中を見るのと何かが違う。乗り物の「枠」がないから?)
船賃は¥500。
対岸はハシゴだったが、下駄の歯の根元をハシゴにかけるとするっと上れた。
(歩く時と力のかけ具合はそう変わらない)
これも2本歯に対する利点といえそう。
総じて高機動向。

一本歯でハシゴを登るとなった時、「できるわけないやん!」と最初はすごくビビったのですが、多分それはハシゴの各段(ポール)に歯底を乗せて登るイメージが最初に浮かんだからで、いざハシゴに手をかけて、日記にあるように下駄の根元をひっかけると難なくいけたので驚いたのを覚えています。

一本歯は歯が土台板の中央にありますが、二本歯は中心から前後に分かれて位置するので、日記のいう「利点」はこのことを言っているようですが、まあ、今考えるとあまり差はないような気もします。

(2)お堂で歯を削る
余裕があ(ると思)ったので、雨宿りがてら、クジリを使って[歯底にめり込んだ]石を取り出しつつ、ハニカマイズして削りやすくする方法を思いつく。
押しと引きを時々変えることでも削りやすくなる。
雨の方が削りやすい?
ヤスリは目詰まりしやすい。

マニアックな切削事情。

「ハニカマイズ」というのは、要するに「貴様なんぞハチの巣にしてやる!」的なやつです。
マシンガンなら乱れ打ちですが、クジリ(アイスピックの根元が太いやつ)なら乱れ刺しですね。

表面がハチの巣状になれば、ヤスリで削る時の接触面積は減るので圧力が増し、確かに削りやすくなる。

(3)伊豆田峠越え
足場の多彩さは今までで一番。
足の踏み場がない(と頭は思ってしまう)中、何が何だか分からないままずんずん進んで、左足が右側(内側)にひねるつまずきが何度かあり、また90分ノンストップだったため下りたあとはヘロヘロ。
でも楽しかった☆
身体もまた1つ良い経験をしたと思う。

さらりと書いてますが、自然道の峠越えは命懸けタイムで、考えたら負けます(だから「何が何だか分からない」は正解ではある)。

(4)宿にて
主人は大阪出身? のおじいさん。
丸山さん(ギフのおじさん)がメモを残してくれる。
うる(T-T)
[宿の]安さはピカイチだが……
食事は買ってこないと足りない。
カフェオレおいしい。
洗たくうれしい。
車道そばは仕方なし。

車の音がうるさくて眠れなかったのでしょうか。
 
洗濯については、たぶん洗濯機があったことが嬉しかったのだと思います。
もしかしたら乾燥機もあったのかな?

宿では風呂場で洗って部屋で干すことが多かった記憶があります。
宿の人もそれを見越していて、「クーラーにハンガーをかけないで下さい」と部屋に注意書きが貼ってあったりしたんですが、まあ、セニハラですよね。

あ、昨今流行りのハラスメントではなく、「背に腹」です。
今思いつきました。

所感:
今日もへろへろ。
昨日シャカ力[釈迦力]を出したわりには頑張れた(力が残っていた)方か。
左親指のテーピングをとったのは正解で、指の裏で台が掴めるようになって足の甲の痛みは減った。
(とうげ[峠]でタコがぶり返したような気もするが……鼻緒についた血は何[どこ]の血?)
足首とかかとの間の部分は相変わらず痛いが、こちらも今後快方に向かう気がする。
タコさえ治ればこっちのもの……のはず。
歯の切削はまた明日どこかでやろう。
そういえば今日の後半、ベンチで休憩中に車から出てきた女性がお接待と言ってチョコの袋をくれた。
自分も歩いた、と言っていたが、そうは見えなかったが……
気持ちは有難く受け取るが、なぜかウサンクサイ感じがした。
うーむ。

お接待をしてくれる方に悪い人はほぼいないんですが、胡散臭い人はいます。

お接待による功徳、というのは文化であり、ある意味「機能」と言ってもいいんですが、機能というからには、何か別のことのためにそれはあるわけです。
が、その功徳「そのもの」を求めてお接待をされる方が、時々おられたように思います。

そういう方は、コミュニケーションをしていて、我が強く前面に出てくる。
その出方が、必死さによりあからさまな場合もあるし(自分も本当に歩きたいが都合や身体上の理由で歩けない、という方がそうです)、すまし顔で上手く隠れている場合もある。
でも、後者の人でも、やはり分かる。

歩き遍路を続けていると、沢山の出会いを通じて、そういうことが分かる感覚が身についてきます。
身体性を解放するように歩けていれば、だと思いますが。
 
 × × ×

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この日のリアルタイム記事。
一つ目で、ちょうどハニカマイズ・テクニックについて触れられています。

なんかもう、ヤケクソですね(笑)
歯裏が荒れまくってます。

アスファルトを下駄で歩くのは根本的に間違っている、とつい思ってしまう。
 
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もう1つありました。

この日は余裕があったのかな?
いや、たぶん峠越えでテンション上がってたのかもしれません。
 

三本軸の両側がぐりぐり動いて歩く話

 
身体性に関するメモです。

最近、一本歯で夜の散歩を始めて、
一度で30分〜2時間くらいと幅はあるんですが、
毎度なにかしら発見があって、
でも今日さっき行ってきた中の発見が面白かったので、
そのメモ。
 
身体に三本の軸が通るイメージを多田容子氏の古武術の新書で読んで、
これはいいなあと自分の中で、歩いてる時など時々思い出すんですが、

(身体の中心軸のほか、左右各々、肩甲骨から脚に貫く二本の軸、で計三本)

今日その、両側の二本がぐらぐら揺れるイメージを初めて持ちました。
(今までそんな絵を考えたことはなく、三本はいつも平行でしかなかったのですが…
 考えて見れば当たり前なんですが、動く絵を全く想像しなかったのが不思議ですね)

前回のナイトウォークで、一本歯下駄を骨と見立てるイメージを思いつき、
でもそれだけだと全身に意識がいかないなと、今日はその延長で色々試していて、
左右各々、下駄骨と肩甲骨をセットにして一体化すれば身体のブレが減ることに気付き、
この「一体化」はまさに多田容子氏のあの二本の軸だなあ、という連想がはたらき、
もちろんこれは歩いている間のことなので、その二本の軸は、
竹馬の棒のごとく傾きを刻々と変え、平行になったりハの字になったりする。

その一方で、身体の中心を通る軸は、ずっと地面に対して垂直に屹立しているわけです。
(前傾姿勢なら多少は傾くかもですが、歩行の間その傾きはだいたい一定のはずです)
 
この、中心軸がピッタリと、その左右の軸がグラグラという絵が面白くて、
同時に複雑でもあるなと思って、
この複雑の意味は、「イメージ化できないと実現できない動き」かもしれなくて、
あるいは甲野善紀氏のいう「異方向異速度同時進行」の動きの一種かもしれず、

いやー面白いな。
 
(身体の軸に関する話は↓の記事の前半でも詳しく考察されています)
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25日目:一日中雨の日 2017.3.25

<25日目> …→宿(ペンションひらの) 20.5km 一日雨

(1)足の具合
鼻緒起因のマメはマシになってきた(水は治まらず[?]、痛みが引いてきている)、新たに足首のかかと寄りの部分が痛み出した。
ラストスパートで釈迦力を出したせいかもしれない。
そして痛みはほとんど左足に集中。
今は足の甲の痛みが主流。
アップダウンがあると膝にくるが、歩けないほどではない。
ふくらはぎの「寝起きの重さ」はどんどん威力を増している。
3足目の替え時が重要だが…いつにしよう。
スピードはまだ出ているし前[回の交換時]よりまだ歯も残っている。
研磨修正もできるし、注文は早くともあさって?
状況を見て判断。

満身創痍ですね。

(2)一日中雨
やむことなく出発から到着まで降っていたのは初めて。
雨だと足が疲れにくい、黙々と歩ける、などと思っていたが、長く続くとしんどいことを体感。
食べながら歩きにくいし、いつ休憩できるかがわからない(なるべく屋根[のあるところ]を探すので[休憩のタイミングが]休憩所依存になってしまう)。
今日の後半はなかなか休憩できずにひどく消耗した。
淡々と歩けるし、雨粒を見ながら歩くのも乙なのだが、日光がないと体の元気も出てこないのもまた確か。
修行と呼ぶにうってつけの天気だが、連日はつらいのでたまに降ってくれるとリズムがついていいかも。

休憩はわりと一定時間ごとにとるようにしていた(1時間だっけかな)ので、雨だとその周期が安定しなくて変に疲れが溜まったようです。
晴れていて悪いことはほとんどない(気温が上がりすぎた時くらい)ので、基本は毎日晴れだと心地よいとも言えますが、歩き遍路では日記にある通り「リズム」が大事で、天気にしろ風景にしろ単調過ぎると、それはそれで辛いものがあります。

徳島を出て高知に入り、一度海が見えてからは海沿いの道がずっと続くのですが、最初は開放感でウキウキするものの、何日も左手に海を見ながら歩き続けていると、だんだんウンザリしてきたという記憶があります。

だから、景色が単調な時は、天気が多少は荒れてくれた方が気分転換になることもある。

(3)休憩所のおじさん
[遍路道がその中を通っている]大規模公園の端の方の昔は店だったカンジの休憩所でおじさんに絡まれる(見ないふりをしていたがじっとこちらを窺っているのであいさつしたら近づいてきた)。
タバコを吸っていたので最初からまともに相手する気はなかったが、案の上[←定]というのか、何を言っているのか7割くらいは分からない。
相づちとアイマイな表情でゴマかした。
毎日ここに来てタバコをふかしているカンジだった。
公園のだだっ広さ、スペース利用の乱雑さ(サッカー場のすぐそばが廃棄場[ゴミ捨て場?]だったり、意味不明の池があったり、単品種の畑が延々と続いていたり)と合わせて、「場末感」が色濃く漂っていた。

後半は余計なお世話的なことを言っています。
が、この場末感は今も覚えています。

休憩所は遍路用ではなかったと思いますが、100席以上はありそうなフードコート的な内装で、でも店は何も開いおらず、ただテーブルと椅子がずらりと並んでいるだけ。
壁はガラス張りで、外はだだっ広い芝生なのか草地なのか、とにかく広さだけはあって、というか広さしかない所に人もほとんどいない(館内は僕とそのおじさんだけだったかもしれません)。

意味不明の池、という表現も謎ですが、筆の勢いで書いただけな気もします。

所感:
今日は今までで一番力をふり絞った気がする。
京都歩きの「雲ヶ畑デイ」を想起したほど。
どちらがキツかったかといえば、休憩が全然なかった分雲ヶ畑の方だが、こちらは明日からも歩き続ける。
寝て起きたらもう歩くしかないのだが、体の調子は足の状態が万全とはいえないが、思えば道中ずっとこんな感じで変化しながらやりくりしてきた気がする。
明日も歩く。
「歩々到着」。

雲ヶ畑デイ」について、なんだろう? と思ってこのブログで検索をかけると、ありました。


当時は京都に住んでいたんですが、歩き遍路に出る前の5ヶ月ほど、「修行」をしていました。
一本歯で遍路に行くと決めたのは前に働いていた神奈川の研究所にいる間でしたが、
このあたりの事情も過去のブログに書いてあって、参照すると、
どうやら四年ほど、独身寮の部屋の中(主にキッチン)を一本歯で歩き回る生活をしていたらしく、
その四年のどこかでキランと思いつき、退社する前の送別会の店に下駄を持って行って「これ履いて四国遍路行ってきます!」と宣言して退路を断ったり(笑)したのを覚えています。

で、その修行というのは、京都の街や山をひたすら歩く(まずは靴で、じきに下駄で)。
下駄は最初は夜な夜な川沿いを歩くだけだったのが、日中の(街中でない)車道を歩いたり、山(大文字ですね)を上り下りしたり、終盤には自然道の山越えをしたり、と、時間にあかせて様々なトレーニングをしていました。

雲ヶ畑というのは…えーと、地図でいうとここ↓です。赤丸が住んでいたところ。

この日のスタートは叡山電鉄二ノ瀬駅で、駅から自然道を西へ進んで車道(地図上の白い道)に出て北上、矢印で示したエリア内の「魚谷峠」らへんまで行って引き返し、あとは家まで徒歩、という(結果としての)行程でした。
あ、この日は靴です。

雲ヶ畑デイ」の日に起こったことは以下に記録してあります。
当時はブログ魔だったようですね。マメだなー
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簡単にいえば、記事の中にある「史上最大の後退戦」。
一日中歩いたうえ、最後は命の危険を感じるレベルで山を下るという、相当無茶なことをやった日だったようです。
この修行の日々、山歩きなどで「ヤバいかも」と思ったことは何度もありますが(たとえばこの日とか、あの日とか)、それはもともと自然に無茶な歩き方をする性格だったからで(迷うのが好きとか、同じ道は歩きたくないとか…)、昔からのことで毎度反省しながら直る兆候はまったくなかったのが、「雲ヶ畑デイ」はよほど身と精神にこたえたようで、上のリンク記事には真面目な反省の弁がつらつら書いてあります。
 
最後の「歩々到着」は、種田山頭火から引いています。

京都に住んでいたころ、歩く(とプールで泳ぐ)以外は読書ばかりしていて、京都府立図書館へはよく歩いて本を借りに行っていて(その道中、鴨川でパンを食べながら歩いていてトンビに急襲されたりしていました笑 別の機会での闘いが記録されていました)、山頭火の句集もその時に借りて読んで、「これはまさに自分のことだ!」という箇所だったので、この言葉だけ覚えていたのでした。

検索したら青空文庫にあったので、そこから一部引用します(勝手に改行増やしてます)。

  私は歩いた、
  歩きつづけた、
  歩きたかったから、
  いや歩かなければならなかったから、
  いやいや歩かずにはいられなかったから、
  歩いたのである、歩きつづけているのである。

  きのうも歩いた、  
  きょうも歩いた、 
  あすも歩かなければならない、
  あさってもまた。

僕が歩き遍路に行こうと思ったのは、歩きたかったから、だけでした。
だから、山頭火のこの言葉にとても親近感をおぼえたのでした。

あ、そういえば公園の駐車場でネコの交尾をはじめて見た。
快感という感じは全くなく淡々としかし緊張をみなぎらせていた。
行為に及んでいる間はオスが夢中でメスは周囲をギラギラとうかがっていて、その前後ではオスがやたらとキョロキョロしていた。
ふむふむ。

村上春樹のエッセイにもこんな場面があって、たぶんこの「ふむふむ」はハルキ氏のノリで書いたのでしょう。
いやしかし、この記述のイメージはよく覚えていて、オスメスの交互の緊張具合は人間の同様のソレを全く連想させず、彼ら(ネコ達)の交合が本能なら、人間のは果たして本能なのだろうか……と、これは今ふと思いました。

 × × ×

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この日のメール投稿ブログ記事です。
海沿いの道で、ちょっと高いところに建ててあった東屋での写真ですね。

「爪掛け」というのは、下駄の雨具で、鼻緒の前の部分の雨を防いでくれます。
布の面積が少ないようでいて、これがなかなか、あるとなしとで大違いです。
台座を掴む指の部分が濡れると指の裏が滑って歩行が非常に不安定になるんですが、この爪掛けによって、一番濡れて欲しくないところは守られるわけです。

まあ、土砂降りになるともう指もずぶ濡れですけどね(たぶん地面から跳ねた水が台座の裏から入ってくるのでしょう)。
 

24日目:忍耐の日 2017.3.24

<24日目> …→宿(民宿白浜) 23km

(1)ギフのおじいさんと再会
朝は自分より早く出たのに、国道から自然道(歩き遍路道)へ入る所で待っていた。
自然道を通り切ってから曲がる方向を間違えて車道を戻ってきたらしい。大変……
少し喋ってから別れる。

読んでなんのこっちゃ、と思ったので地図を参照しました。
すると「なるほどなあ」な感じだったので写真を載せます。

右から左へが進行方向で、赤実線と赤点線が歩き遍路のコースです。
(白塗りは道路で、薄黄色塗りは車輌の巡拝道だそうです。そうだったのか…)
赤点線は道路から外れていますが、これは自然道を意味しています(舗装されている箇所もあるが、歩いてしか行けない)。
地図の箇所は、車だと車道に沿ってウネウネ進むんですが、歩きなら自然道を選べばカーブを無視したショートカットができる。
(地図に緑ペンで「トンネルの上を通る」とあり、ここを見てこの自然道の記憶が少し蘇りました。トンネルを跨ぐんで当然アップダウンがあり、ちょっとジャングル的に生い茂った舗装なしの道だった。距離は縮むけどそう楽でもなかったような)

以上の前提で、日記の内容をわかりやすく書き直すと…

 おじいさんが宿を先に出たのに、僕とおじいさんは水色丸の場所で出会った。
 おじいさんはショートカット自然道を選び、紫丸の合流地点で車道に戻ったが、
 そこで間違って右に曲がってしまい、ウネウネカーブを戻って再び水色丸に来てしまった。

というわけです。
地図が若干分かりにくいのもあるけれど、まあよくあるトラップですね。
 
出発前に地図を丹念に読み込んでその日の遍路道をイメージしていれば、間違った道を進んでもすぐ違和感に気付いて修正できる……というのはやはり理想論で、だいたいがみんな無心で歩くので、目立つ目印に遭遇するまで気付かない方がふつうです。
一度通った場所に間違って戻ってきても、見る方向が逆だから全然気付かない、なんてこともあります。

でも、宿に泊まって部屋でやることって、日記書く以外は地図を眺めるしかないので、毎晩ガッツリ読み込むのところは本当です。

(2)ゲタの具合
最近は左足に負担がかかっている。
[両足のゲタのうち]鼻緒がキツい方を[左足で]はくと力を使ってしまうし、逆をはくと歯がナナメなので平地ですら負担がかかる。
後者[の組み合わせで履いて、歯がナナメの方のゲタの歯]を削るのがいちばん左足に負担がかからない方法なのかもしれないが、左足を休憩ごとにちゃんと(足先の)マッサージをすれば前者と左足のペアでいける気がする。
朝の歩き始めが日に日につらくなっているが、これも修行か。

足がダメになって歩けなくなったら即リタイアなので、必死でした。

宿では風呂や温泉に入るたびにマッサージをしていました。
そして可能な時は一晩で二回入ることもしていました。

この二度風呂、宿坊やホテルの温泉だと支障なくできるんですが、個人宅に近い民宿ではお風呂の時間が決められていて、できないこともありました。
それでもこちらは歩き遍路の生命線である身体が懸かっているので、主人や女将さんに交渉をして、オッケーがもらえることが多かったのですが、一度だけ、女将さんに怒られたことがありました(このことは20日目の回想記に書いてあります)。

これも修行か。
その通り。

(3)ずっと国道を南へ[?]
歩き[遍路]道に入り損ねてけっこう長く[国道を]歩いた。
歯裏も二度削った。
歩き××[←判読不能]なる。

所感:
今日は忍耐の日だった。明日もそうなりそうな……

これも地図を見ると分かるんですが、車道と歩き遍路道がときおり交差しながら川沿いを同じ方向に進む箇所があって、間違って車道をずっと進んでも遠回りにはならないんですが、自然道(舗装されてなければ)のほうが膝への負担がマシなのでそちらを選べばよかった、という後悔を書いています。
「南」はよくわかりません。
あるいは「筒」なのか? ホント汚くて読めない(>_<)

宿についての記述がありませんが、それだけ足に気を取られていたのかもしれません。
 
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この日のリアルタイムブログには、タンポポの写真がついています。