human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

群島思考 後編〜エコロジカル・ニッチのタネまき仕事

 
ビジョンが浮かんできました!
やはり待ってみるものですね……

別のことをしていても、他の本を読んでいても、
頭の中のどこかではいつもこのことを考えていたわけですが、
リースマン(『孤独な群衆』で有名な人)の本を今さっき読んでいて、
いちいちの記述がこのテーマへの連想を誘うので、
一文読んでは目を瞑り、みたいなことをしていました。

さて、本題へ。
文章としてうまくたどり着ければよいのですが。

 × × ×

キーワードは、前回も書いた「行間」そして「群島思考」。
後者から「的」を外しました。
比喩であることに変わりはありませんが、
そのイメージが明確になったためです。
 
ヒルギ本は、大陸のそばの浅瀬に蒔かれる「タネ」です。
タネは、日光と海の養分を吸って、おのずと成長していくかもしれない。
でも、そうしてできたマングローブの小島の、
その上から見える景色は、その島に立った人にしかわからない。
その島に立てばみんな同じものが見えるかといえば、そうでもない。
 
僕の古本屋は、ビジネスではない(ビジネスモデルとしては失格)という自覚があります。
でも、仕事だとは思っているし、便宜上ではあれ商品に金額も設定している。
額面通りの、では決してありませんが(そうであることを僕自身は望んでいない)、
一定のお金を払って購入する価値があると思って、ヒルギ本(鎖書)を作成しています。

ビジネスモデルとして失格だという意味の一つは、例えば
仕事量と売り上げの儲けとの釣り合いが(まったく)取れていないこと、
同じ古本を何冊も仕入れるわけではないから、セットは常に在庫が1つしかないこと、
などなど、他にもいくつかある気がしますが、
このビジネス失格性がじつは仕事のコンセプトとリンクしています。

売り上げを伸ばしたい店ならどんな店であっても、
お店の常連さん、ヘヴィユーザが増えてくれば嬉しいものです。
僕だって、自分がセットに込めた思いが通じているかは別としても、
お金を払う価値をその人なりに見出して購入してくれる人がいたら嬉しいに決まっているし、
何セットも買ってくれるのなら「たまたまのこと」ではない、
自分が見出した価値に同意してくれる人がいるのだという気持ちを抱かせてくれる。
常連さんの存在は、お金のやりとり以上に仕事のモチベーションを鼓舞してくれます。

という前段をおいたうえで、
マングロブックストア(←あ、いいなこれ)の運営コンセプトの理想的をいえば、
「一つのセットを、なるべく多くの人に買ってもらうこと」
になります。
今までもなんとなーくは思っていたことですが、
いい機会なのでここで明確に言葉にしておきたいと思います。

 × × ×

「的」を省いた、タイトルの「群島思考」。

この思考の主体は、一人の人間ではありません。
「島的思考」を持つ人がたくさんいること、
一箇所に集まるというよりは日本(でしょうね、まずは)の各地に点々といること、
その分散的集合体(なんじゃそら)が、「群島思考」の主体です。

分散的集合体
矛盾臭プンプンの造語ですが、
冒頭でちらりとふれた「孤独な群衆」とは、似て非なるものです。
 
……ここを突っ込み始めると本格的に話が逸れるんで、
まだマシな方の寄り道をしますが(おいおい)、

この用語がポロッと生まれた瞬間にはたらいた連想があって、
最近はじめて著書を読んだ青木真兵さんという人がいて、
奈良の山村で「ルチャ・リブロ」という私設図書館を夫婦でやっておられる方なんですが、
この人はキュレーターというのか、人と人をつなげるというか、
何かグラスルーツの行動を呼び起こす活動もしておられて、
うちの図書館長が海士町に来られた青木さんと喋った時に、文脈は忘れましたが
「一緒に闘いましょう」と言われたらしく(カッコいいですね)、
地域の土着性をその土地各々で培いながら感覚やビジョンを共有する
といった話ではないかと想像します。

僕は個人的な印象としては、土着性を都会に伝わる言葉で語ることの困難性を感じていて、
 『清貧の思想』で有名な中野孝次の小説をふと思い出したんですが、
 その小説は昭和後期のコミューンがテーマの一つで、
 都会育ちの若者が集団で田舎に移り住み手作りの家具やらを運営資金源にしようとするんですが、
 有名な百貨店が目をつけて特設売り場をつくったげるよってな話になった時に、
 コミューンの思想とは無関係に「カントリーライフを謳歌しよう」みたいな広告がついて、
 つまり自分たちの思想を込めたはずの商品が都会の論理に回収されてしまう、
 という場面があって、
 でも決してその都会の論理には流されないでいよう、と話は続くんですが、
簡単にいえば、
土着性の流行はグラスルーツが別物化していく流れでもある、ということでしょうか。
活動自体がもつ二律背反性を念頭から離さず、流れの変曲点で適切に振る舞う必要がある。
 
話を群島思考に戻します。

効率主義・数字がすべて・エビデンスベース等々の「都会の論理」とは別の価値観をもつこと、
この点については青木さんとおそらく同じことを考えています。
(僕も私淑ながら内田樹に傾倒した人間なので、青木さんには勝手に親近感が湧いています)
が、考え方というよりは仕事の立ち位置の違いによると思いますが、
僕は「都会とは別の論理を構築する」ことを、「武器」ではなく「防具」に使いたい。
(もっと言えば、RPGのパラメータ的にはSTRでもVITでもなくAGI(回避)に振る感じですね)

 父親が子どもに何か伝えたいことがある時、
 達者な言葉で打ち負かすのではなく、
 「背中で見せる」こと、
 言葉以前の「佇まい」で伝えることが効果的な場合があります。

 論理での説得ではないから正確ではないし、
 返事もないから伝わったかどうかも分からない。

 でもこれは見方を変えれば、
 そもそも言語運用が未熟な子どもの論理的納得にどれほどの正確性があるのか、
 また、子どもの経験吸収力がもっとも発揮されるのは自発的な気付きであること、
 これらの視点への配慮に基づいた手段であるともいえる。

都会的論理と「闘う」場合、必然的にその「土俵」に乗ることになります。

いや、たぶん青木さんが都会と地方の行き来という表現に込めているのは
「土俵に乗ったり降りたり」の中で、むしろ後者の時間を増やすべきだということで、
その行き来を身を以てやらないと仲間が増えないという認識があるかもしれません。
だから違いは比重の置き方の差でしかありませんが、
僕のほうは、いわば「都会的論理を避ける」ための価値観構築。
 
土着といっても、ネットを通じて都会的論理はどんな田舎にも遍在しています。

海士町でいえば、島留学・島体験といった形で都会の人々がかわるがわる滞在する、
彼らは都会的論理から逃れる(あるいは小休止の)ために来島したのかもしれませんが、
その彼らが所作として持ち込んでくるものはやはり都会の論理です。
良い悪いでなく、どこにいても都会的論理と接する機会に恵まれるのが現代日本です。

その「恵み」を、自分にとってポジティブな側面に留めるためには、
やはり、そのための日常生活上の努力を要します。
これはどちらかといえば、「闘う」のでなく「避ける」と言った方がよいでしょう。

「朱に交われば赤くなる」か、
いや、白は色を吸いやすいが、赤には染まるまい
という。

 × × ×

……話が戻ってこないので、強制リセットします。
えーと、群島思考の話。

その思考の主体とは分散的集合体である、という所でした。
うん、この用語の語感はとりあえず掘り下げないでおきましょう。

マングロブックストアでは、
ヒルギ本を、一人で何セットも買ってもらうよりは、
1セット買う人がたくさん増えてくれた方がいい。
それはあくまで僕の気持ち的に、ではなくストアコンセプトに添えば、
ということですが。
 
ヒルギ本は「タネ」だと言いました。
僕はセット作成を通じて、
そのタネが浅瀬で気根を伸ばし枝葉をつけて成る「島」、
その島に立ちました。
立って、大陸を眺める視点を得ました。
けれど、
その同じヒルギ本を誰かが購入して、
同じくその島に立った時、
見える景色は僕のそれと同じではありません。
でも、
「大陸から(少し)離れた小さな島からの眺め」
という経験は共有しています。

ヒルギ本を1セット購入し、
恣意性溢れるテーマを奇貨として行間あらたかな三冊を読み(霊験かよ)、
木の幹に片手を添え、右手は日除けにおでこの位置で、
マングローブ島から「官僚広告大陸」を見はるかす、
そんな人々がぽつぽつと現れた結果、
そこ(どこだ?)に「群島思考」が顕現する。
 
ああ、別に僕は、ヒルギ本の全てのセットに、
都会的論理とは別の論理を込めているわけではありません。
(そして見たまんま「ふつうのセット」には「ふつうの論理」が入っています)

が、見方をずらすこと、
本が「こう読んでくれ」と思っている読み方から外れて読むこと、
(その外し方が読者自身の縁とは別のところから出来していること)
この経験自体は、本のジャンル(内容)にかかわらず、
世の中の多数派的価値観から「外れる」きっかけになり得る
と考えています。

何度も言いますが、
僕個人発の(テーマ設定という)恣意性は、
僕の思考を追体験してもらうためではなく、
たった今書いた、
「外れる」ためのきっかけとして受け取ってもらいたいです。

 僕はただ、タネを蒔いているだけ。
 勝手に育った島に立つもよし。
 気根をベースに自分で島を形成するもよし。
 海流に乗って別の浅瀬に向かうもよし。
 「勝手にしやがれ」(@沢田研二
 
「行間」は、複雑系です。
その効果に作用する要素が多すぎて、定量的な分析が適わない。
けれど、定性的に分かることはあります。
その作用素を増やすこと、複雑系のカオス度を上げることによって、
「行間」という空間はさらに広がり、未知性を帯びていくことです。

読者自身の固有空間である「行間」、
その間口(というか「入口のドアの数」)を広げるために三冊が膝を突き合わせ、
その茫漠さを押し留める(「いくつかドアの鍵を準備しておく」)ためにテーマが存在する、

たとえば、そのようにお考えください。

 × × ×

タイトルの「エコロジカルニッチ」について。

このワードは内田樹の文章以外で見かけたことはなくて、
さらにそこから僕の解釈という歪みがもひとつ入りますが、

これは棲み分けに基づいた生物多様性のことだと理解しています。
 生息地が違う、活動時間が違う、主食が違う。
 生命活動の各側面において、他の動物種と性質がずらされていること。
 種の個体数と食物連鎖のピラミッドのバランスがとれていること。
動物の各個体が意識してやった、のではもちろんなくて、
結果としてのバランスが、ニッチという「スキマ志向」によって保たれている。
 
少品種大量生産から、多品種少量生産、そしてオーダーメイドへ。
生産技術や流通の発達によって個人消費の選択肢は飛躍的に増加しました。
では、それによって消費社会における個人の個性は際立つようになったか?

その答えはたぶん、
「もの」を見るか「精神」を見るかで違ってきます。

極端な見方な気もしますが、
僕は「消費活動」と「ニッチ」は本質的に食い合わせが悪いのではと思います。
いや、きっとこれも程度問題で、
双方の道を同時に極めることはできない、ということ。

僕はこの両者に生活の中で主従関係を立てるとしたら、
「ニッチ」を主に、「消費」を従にしたいと考えています。
その具体的な中身ではなく、思想として、振る舞いとして

そういう価値観においては、
「正しさ」もプラグマティズムの後景に退くことになります。
(補足しますが、実用主義の「実用」が既に「ニッチ」側に力点が置かれています)

常識や通念といったものも、「土着」という現場における身の丈に応じて測られます。
(常識や通念は、世間では手間を省くために「ものさし」として使われていますが、
 そのものさしを個人が「測り返す」ためには身の丈感覚を養う必要があります)

 「群島思考」を構成する各個は、
 その拠点が田舎であれ都会であれ、
 自身の、あるいは身近な人との「ニッチ」に基づいて、
 大陸を、その「思想的距離」を保ちながら悠々と眺めています。

 × × ×
 
というイメージでいかがでしょうか、あゆみさん!!
 
 × × ×

前回の記事に「コンセプトイメージ」のことをちらりと触れていました。
じつはこのたび、この「群島思考」の発想を閃いた時に、
勢いに任せて元高の某画伯女史に「絵を描いてください!」とお願いをしました。

一度電話?で話して内容を伝えたんですが、
そもそも抽象度の高い話で、
さらに僕自身「思いつきたて」で理解が未熟なところがあり、
こりゃなんとかせねばなーと、
そう思って書き始め、
ここに至ったのですが、

うーーーん、、、

まあ、結論が出るたぐいの話でもなし、
イメージの言語化がキリよく締められるわけでなし。

引き続き(というかこれまでもずっとそうだったし)、
アレコレ妄想を膨らませてみましょう。
 

p.s.
「分散的集合体」のワードを実は書きながらこねこね?していて、
集合? うん、習合? いや違うか……とかやってて、
分解して考えようと思って、

分散はまあ文字通りでいいとして、
何が集合なんだ? と思ったときに、

「みんなが同じ方を向いている」といえば学校朝礼の集合のイメージですが、
もちろんそうじゃなくて、
でもそういう感じで、
うーん、
「みんなが同じ方だけは向いていない
てのはどうだろう? と思いつきました。
 
「変人の集合はない」というのは僕の格言の一つですが、
たとえば二軸(x,y)の常識度座標を図示するときに、
原点を中心とした円内が常識人の集合だとすれば、
変人たちはその円内にはプロットされないわけですが、
じゃあその座標軸上の別のところに円を描いてそこに点が集まるか、
といえば、そんなこともないですね。

つまり、中心の円より外側にばらばらと変人点は散らばるわけです。

そんな彼らに共通するのは、上述したように、
肯定文「〜である」ではなく、否定文「〜でない」で表される性質です。

この「否定」という表現の字面が、
なんか悪いことのように見えてしまうのは日本語のせいか?

よくわかりませんが、これを言い換えれば、
オルタナティブ」ですね。
で、
否定表現としてのオルタナティブの勘所は、
「それは限定ではない」ということです。

 1から9まで数字があるとして、
 「1だ」と言えば1だけの限定ですが、
 「1ではない」は、2から9までを許容します。

 「1は1で、勝手にうまくやっていればいいさ。
  そして、
  僕は5だけど、2でも9でも、僕は応援するよ」

分散的集合体の「集合」の意味は、
「僕らは同じ人間だよ」という程度の限定なのかもしれません。


p.s.2
「官僚広告大陸」……?
もうこれ、なんだろうな。

また機会があれば掘り下げます。。

 × × ×