human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

論理の集合論の不条理について/正直は4チャンある

「意味を為すような一切の言葉の拒絶。声を出すことの拒絶。精神の荒廃、もしくは未然。廃人か、胎児───といったところでしょうか? しかし、どれも健康な青年には到達不可能だとすれば、その拒絶とは謂わば、拒絶できないことそのことが、拒絶すべきであることを保証し続けるような、そういう構造をもっているということになりますか」
「仰るとおり、実に幻想の構造であり続けるほかない拒絶、可能性に留まり続ける拒絶ではございますとも。しかし、それは正解の半分でございましょう。けっして実現されることのない拒絶という幻想の傍らには、実は一片の現実が現れ出ているのであって、棄てがたさ、逃れがたさという一片の現実に支えられて有る〈私〉の生が滲みだしているのでございます。そしてそれこそが、拒絶しつつ生きるという爪先立ちのような生存を末永さんに許していたというのが、残り半分の答えでございます。(…)拒絶し続ける、その表明が生の駆動力になるのでございますよ。言うなれば生命の、永遠のヒステリー状態。私は感覚的にはジャコメッティのあの、無理に細長く引き伸ばされた人物を思い浮かべるのでございますが」

高村薫『太陽を曳く馬』

イェルサレムアイヒマン』でハンナ・アーレントは、自分たちが行った恐るべき所業を肯定的に解釈するためにナチの処刑者たちが完成させたこの捩れについて、精確な記述を提供している。彼らの多くが分かり易い人非人だったわけではない。自分の所業が犠牲者に汚辱と苦しみと死をもたらすことを、彼らは知悉していた。この困難から抜け出す道は、殺害者たちが「〈自分は人々に対して何という恐ろしいことをしたことか!〉というかわりに、……自分は職務の遂行の過程で何という凄まじいことを見せられたことか、この任務は何と重く自分にのしかかって来ることか!」と言えればよいのである。このように彼らは、逆らう誘惑の論理を逆転させることができた。ここでの誘惑とは、人の苦しみを前に根本的な憐憫と同情の念に屈するという誘惑である。すなわち、彼らの「倫理的」努めは、殺害・拷問・陵辱の拒否というこの誘惑に抵抗する任務へ、方向づけられたのである。憐憫と同情の念という自発的な倫理的本能に対する自分の侵犯そのものが、こうして、自分の倫理的偉大の証となる。自分の務めを果たすために、私は他者に苦痛を課すという重荷を引き受ける覚悟を決めたのだ、と。

スラヴォイ・ジジェクロベスピエール毛沢東

 論理の便宜性は、論理の外部からの要請に因る。
 よって、当該便宜性の微調整の基準は、外部事情にある。

 論理の便宜性は、一つの実現形態として、
 全体論理内の論理性の偏頗をとる。
 自ら主張する論理に含んだ一部の非論理を「括弧に入れる」こと。
 これ自体はプラグマティズムから逸脱しない。
 
 己の論理に含まれる非論理を否定、あるいは忘却すること、
 或いは、部分論理の重要性を論理全体にまで拡張すること。
 これらは便宜性の基準が外部事情から離れ、
 論理に呑まれる事態である。

 その時、論理内部の非論理が、論理全体の非論理となる。
 確固とした、しかし非論理に無自覚な論理体系は、
 その破局が訪れるまで修正されることはない。

 破局の定義も、言葉の上で、また二つに分かれる。

 非論理の全体化を招いた部分論理の不成立、
 または、論理構築主体そのものの破局
 前者において、まだ論理は信じられている。
 後者は、便宜性によってもたらされる便宜性の死である。

 人は、自分の言葉によって死ぬことができる、
 また、他者の言葉によって殺すことができる。

 それほどまでに、一人称の死は、
 幻想であり、
 幻想以上に達することができない。
 
 またあるいは、言葉が魔法のようだというとき、
 それは比喩ですらなく、単に同様のものとして、
 同等に非現実なものであるというだけのことかもしれない。

なるほど、論理的であるということは、つねに楽にできる。が、極限まで論理的でありつづけるというのは、ほとんど不可能なことなのだ。こうして、みずからの手で死んでゆく人びとは、自分の感情の斜面にしたがって、その最後まですべり落ちてゆくのである。このように考えてくると、自殺についての考察は、ぼくの関心をそそる唯一の問題、死に至るまでつらぬかれた論理が存在するか、という問題を提出するきっかけをぼくにあたえてくれる。はたして、そういう論理が存在するのか、しないのか、それがぼくに解るのは、ぼくがここでその出発点を示そうとしている論証を、過度の情熱のとりことはならず、ひたすら明証の光のなかだけで辿ってゆくことによってしかない。それは、ぼくが不条理な論証と名づけるものだ。多くの人びとが、この論証をはじめた。だが、その人びとははたしてこの論証をきびしくつらぬいただろうか、ぼくはまだそれを知らない。

カミュ『シーシュポスの神話』

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「僕は”軋轢”を墓碑銘としよう」

といった、保坂和志のエッセイにあった言葉を「また」思い出しました。
 考える人間が、
 ただ考えるだけで満足できる人間が、
 敢えて何かを書こうと思う時、
 その人間の前には軋轢がある。

…ここまで書いて、「墓碑銘」でブログ内検索をかけると、
過去に全く似たような状況で似たような文章を書いているのが見つかり、
相変わらずというか「業だなあ」と思いました。
(思えば、会社を辞める時から全部、回数でいえば4回ですか、
 引っ越す理由が「家がうるさいから」でしたね。すごいな自分)
スヌーピーの作者、シュルツの伝記タイトルを借りて、"Good Grief!" です、まさに。
 
都会の喧騒とノイズから逃れるために田舎へ移住したつもりだったんですが、
家の巡り合わせで(移住者が多い町は住宅事情がよろしくない、言われりゃ当然ですね)、
島で一番煩いんじゃないかという家に一年近く住み、
まあまあまあ、田舎は田舎で様々な生活音が地に響いているなあと体感し、
ま、住む場所をちゃんと決められればなんとかなるとも思えますが、
どうも、全般的な島内の家の分布からして、僕は田舎暮らしも向いていない。
もうあとは山篭りくらいしか思いつきませんね。

島内で家探しはずっと続けていますが、
今年に入って、創業したいジムの建屋を島外でも探し始めていて、
まあどうなるかわかりませんが、
また移住もありうるかもしれません。

 Iターンだったのが、
 Vターンになって。
 さらにもっぺんやれば、
 Zターンですね。
 その次は何だ。
 Wターンか。

うん、4回まではできるってことか(笑)


とりあえず、主目的は移住ではないんですが、
今月末から三週間ちょっと、長崎に滞在予定です。
そこで泊まるのが「移住お試し住宅」だという……
はは、どうなるかわかりませんね、本当に。


9年前の記事から、保坂和志の言葉を引いておきましょう。

 私はこれまでエッセイで「現代という時代を生きづらいと感じる人の方が、この時代にすっかり馴染んで楽しくやっている人よりもずっとちゃんと生きている。」とか「すっかり馴染んで楽しくやっている楽しさより、生きづらいと感じている方がずっと充実している。」というようなことを何度も書いた。
 どう進もうが私にはいつも軋轢があるのではないか。(…)
 世間の人は単純に、小説家は作品が残るとか名が残るとか考えているが、そんなものはすべて過去のものであり、書きつづけると感じている気持ちだけが信じられる。その源泉が私にとって軋轢だったと思うのだ。
(…)
 七〇年代前半、それを聴いた者たちの心を打った Confusion will be my epitaph. という、キング・クリムゾンの歌詞があるが、さしずめ私は
 Friction will be my epitaph. 「私は軋轢を墓碑銘としよう」
だ。
「私は軋轢を墓碑銘としよう」(保坂和志『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』)

保坂氏がストイックかどうかは微妙ですが、「逆境に強い」のだとは思います。
ハシモト氏はストイックを自称していますが、僕が両氏とも好きなのはこの点です。
生きていく中に障害や不都合が多々あったからこそ、乗り越えるために思考を磨いた。
境遇の強制を「行為の強制」ととらず、自分のやり方で道を切り開いてきたのです。
 
軋轢を「くるならこい」と構える姿勢は、それを望むマゾヒストとは異なるのです。
 
「私は軋轢を墓碑銘としよう」 - human in book bouquet

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久しぶりにブログに文章を書きたくなったのは、
もーほんとにお向かいの車検場が煩くて、
元気な時ならまだギリギリ平気なんですけど、
この春先から近くの田んぼの耕運機の音が耳タコになって、
発動機の重低音がぜんぶ頭でハウリングするようになって、
なんとか家の中でいちばん音がマシな所に居場所をかえて、
それで本を読もうとして「うーん、やっぱちょっとなあ」、
という前段があったからですが、
昔の自分のブログ記事を読んで、
気が楽になったというか、
変な話ですが「ほっこり」しました。

短期的な解決はないでしょうから、
またちょくちょくブログを書く習慣になるかもしれません。
本記事の内容は、
たまたま読んでる本が連想で繋がったというだけで、
別に僕の生活とシンクロしてるわけでもありません。


いつの間にか、連想の自由度が、
精神の健康の指標になったようですね。
「鎖書店」の仕事の賜物でしょうか。
被害妄想・知覚過敏の弊害もありますけど、
前者は意志の問題だし、
後者は……意志でなんとかするかな(笑)

うん、書くという行為は何とも能動的で、
その発端は相変わらず、何とも受動的ですね。
僕の場合は…というだけでなく、
保坂和志橋本治もそうだった、
と勝手に思っておきます。

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