human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「羊を持たない羊飼い」が最初にすること

 
自閉症的な社会では、それへの適応が自閉症的性質を亢進させる。
社会からの孤立(距離をおくこと)と全体性(ゲシュタルト性)の維持に相関がある、
という視点は、社会から一度も出ることがなければ、論理矛盾として斥ける以外にない。

 × × ×

引き続き、「島的思考」のコンセプトイメージに関する考察です。

われわれの心と事物との関係は、われわれが事物を考察し、それについて概念を造るというところに成立する。
厳密に言えば、我々は現実をすこしも所有することなく、それについての概念のみを所有する。
概念とは、世界を眺望するための望楼のようなものである。
あるいはゲーテの言うとおり、新しく得られた概念の一つ一つは新たに発達した器官に類するものである。


オルテガ『芸術の非人間化』, 1968

これは最近読み始めた本で、
このちょっと前から村上春樹の最新作も読み始めていて、
オルテガの文章の所々で「街」や「壁」のことを連想していて、
古典的な芸術論と現代小説がリンクする充実とか、
今回のハルキ小説は固有名詞が全然出てこないと思ったがそういうことか、
など思うところは沢山ありますがそれらは本題ではありません。

というわけで、さっそく本題へ。
 
上の引用部を読んでいる時に「島的思考」の新たなイメージが湧きました。
たしか前々回の記事に、分散的集団という言葉の分析で、
「みんなは同じところだけは見ていない」
という言い方をした記憶があります。
否定表現による、集団の共通する性質。

それはある意味その通りで、
けれどこの時、
僕はその分散的集団の「個々の立ち位置」について、
(座標軸プロットの話の中ではしてたのに)イメージしていませんでした。

つまり、
大陸から距離を置いた、浅瀬・近海に浮かぶ各々の小島からの視点、
という表現が既に「立ち位置が一人ひとり異なる」ことを含意している一方で、
分散的集団の「集団」という言葉に引っ張られて、
各々別のところを見ている彼らは「同じ場所に立っている」と、
明言はしていませんが、そうも読めるような書き方になっていました。

 一般名詞に色々な意味を含ませながら、
 それ自体はいいんですけど、
 場所によって同じ名詞に託そうとする意味が違ってくると、
 読む方は「?」となるし、
 そこには後々読み返す僕も含まれるわけです。
 (書く方は表現というより創造なので細かいことは気にしていなかったりする)

 だから前々回の記事と今回の記事とで、
 既に僕自身の立ち位置が少々変わっていたりする。
 (大げさにいえば。まあここは気にしない)

本題に戻ります。

分散的集団は、
この表現はちょっと保留にしましょう。
せっかく島のメタファーを使っているので、
「群島民」(archipelago islander)でいきましょうか。


 彼らは、一人ひとり立ち位置が異なる。
 もちろん、自分でつくった(か何かの縁で形成された)、
 ヒルギの島にいる。
 彼らは、でも実は「みんな同じところを見ている」。
 大陸のほうを眺めている。

 では、同じものが見えるのか?
 違う。
 対象が同じでも、視点が異なるから。

 大陸を見ているのは、彼らは社会の中で生活しているからです。
 けれど、大陸から距離を置いた島に、思考の軸足がある。

 距離を置かないと見えないものを見ている。

 何のため?
 その、距離を置いた社会のため、かもしれない。
 違うかもしれない。

 いずれにせよ、本質的にそれはニッチです。

それを活かす手法の探索は、群島民に限られるものではありませんが、
多様性を生産性に基づいた価値で測るのが経済至上主義社会の境界条件で、
多様性そのものの価値を最初に体現できるのは、
境界外部の当事者である、多様性そのものです。

羊を持たない羊飼いは、まず羊を創造せねばなりません。

 × × ×

最近、並行して、自閉症的能力を社会にどう活かせるかという本も読んでいて、
それで思考が絡まるんですがそれもいいと思っていて文章化には面倒ですが、
タイトルの話をしたいです。
(この「タイトル」は、推敲中に副題に格下げになったものを指しています。
 曰く、「形而上的ブリコラージュ 、読書の(非人間的)芸術化」)
 
「ブリコラージュ」というと、
その対象はやはり「なまもの」、現に身の回りにあるものを想像します。
その存在感やそれらの、それらとの関係性が、ブリコラージュをアフォードする。

のですが、この情報社会に必要とされる……
というか、本家ブリコラージュを現代でまっとうするためには、
その拡張版というか、異次元版というのか、
「形而上的ブリコラージュ」の能力をサブで要するのではないかとふと思いました。

これは、冒頭の概念の創造とも関係があります。


概念を「世界を眺望するための望楼」という時
たとえば『街とその不確かな壁』(村上春樹)の、
「壁」の門の上に設けられた望楼を想像する時、
そこから眺める「世界」とはどこか?
それは「ここ」ではない、
しかし「ここ」と全く関係がないわけではない、
むしろ僕らの「影」、
恐らくは河合隼雄を連想してもいい「影」と大いに関係がある。

また、概念を「新たに発達した器官」という時
たとえばそれを道具と考えることが正しいかどうか。
心臓は人間の(端的に自分の)道具か、肝臓は、膵臓は?
人間の、メタファーでない器官を思う時、
それは、僕らがそれを何かに利用するために持っているというより、
それによって僕らが生かされているものの何かだと言った方が近い。
(健康で頑丈な肝臓は酒飲みには嬉しいかもしれない、
 では肝臓は、酒を飲むためにあるのだろうか?
 言い方を変えれば、
 酒飲みでさえ、酒が飲めるなら肝臓なんていらないと思えるだろうか?
 ここでいう機能は、もともとあったものに僕らが後付けしたものだ)
 
メタファーについては、オルテガの上記の本に面白い記述がありました。

隠喩を用いるということは、人間に与えられた最も有効な能力の一つであろう。
効力の点でそれは魔法のそれに迫っている。
神が人を造るときに人体に置き忘れた道具ではないかと思いたいくらいである。
(…)
或ることの代わりに別のことを用いる思考能力──しかも後者に接近する手だてというよりも前者を排除する手だてとしてであるが──このような思考の働きが人にそなわっていることは、まことに奇妙であると言わねばならない。
隠喩は、ある物を何か別の物であるかのようにみせかけて、これを取り除くのである。

同上

これは「タブーと隠喩」という節の冒頭にあり、
現代のメタファーの機能というよりはその起源における使われ方が書かれています。
 
ある言葉の現代的な意味と起源における意味(語源)とは、
かけ離れていても何らかの繋がりを持つものです。
(それは全くないとは考えられないが、見つけようとしない者の姿勢次第ではある)

言語学用語で、表現(内容)をシニフィアン
表現対象をシニフィエといいますが(今調べた)、
引用で述べられているのは以下のようなことです。

 メタファー(=表現)の起源的機能は、
 シニフィエの修飾のためではなく、
 シニフィエの「排除」のために、そして
 シニフィアン自体の離陸のために使うことにある。

 図と地のペア表現を使えば、
 メタファーは、
 元は図であったはずのシニフィエを地に「墜とし」て、
 シニフィアン(=メタファー)自身が図となって浮き上がる


複雑で理解しにくい概念や論理をわかりやすくするために、
喩え話が使われることがあります。
ここでいう「喩え話=メタファー」はシニフィエの修飾のためにあり、
図であるシニフィエを明快にするための地に徹するべき存在です。
(これが比喩表現の現代的な機能の代表例でしょう)

一方で、オルテガのいう起源としてのメタファーは、
もとの概念を押し退けて(①)、独自の生命を獲得する(②)。
タブーに触れないという意味では①が本来の目的ですが、
実際の運用上、また慣例化によって②の機能が前景化し、発達する。

 × × ×

僕が「形而上的ブリコラージュ」という表現で言いたいことは、
もしかすると、
小説を書くように小説を読む、
というようなことかもしれません。
 
唐突ですが、「広告的論理」というものがあって、
これは指向的、誘導的、対象限定的なもので、
人をして何かをさせるための論理です。

特定の何かをさせないための広告、というものはない。
(そう見えるのは「別の何かをさせるため」が後ろに隠れている場合です)

内田樹の教育論をブログ等で長年読んできて、
また最近でいえば図書館で働いていて、
図書館での読書推進とか小中学校の読書教育事情などを見ていると、
広告的論理は本当に、消費活動の場に限らず、
社会生活のあらゆる現場を当然のように闊歩しているなと思います。
それはSNSにだって浸透するし、
日常の何気ない会話にだって現れている。
 
なにか、
広告的論理の日常への浸透は、
成果主義の日常生活への浸透と関係があるように思えます。

人にどれだけ影響を与えたか、その目に見える成果を見たいという欲望。
あるいは、
その成果が目に見えるものでないと社会は変わらないぞ、という信念

これらの大元には、
社会(の変化)は目に見えるものであり、把握可能である、
という固定観念があります。


ええと、話がぐるぐるしていますが、
僕自身の理解は進んでいて(勝手な発言もいいところですが)、

オルテガのいう「現実と概念の混同」、「無邪気な現実の理想化」、
脳化社会とはこれをこの形のままどんどん推進する社会であって、
僕が、そのような社会に生きつつも染まり切りたくはなくて、
ではそのために(個人は)どうすればよいか。

マングロブックストアはその手段の一つを体現するものとしたいですが、
それはオルテガが以下に述べることと大いに関係があるように思います。

しかし、もしこの自然の手続き[上述の「現実と概念の混同」「無邪気な現実の理想化」]を逆にしてみるなら、つまり、現実と断定したものに背を向け、概念──単なる主観的な模型──をそのまま採り上げ、やせて骨張っているけれども純粋で透明なその状態において生命を与えてみたなら、つまり故意に概念を「現実化」してみたなら、われわれは概念を非人間化──いわば非現実化したことにならないだろうか。
なぜなら、概念はそもそも現実ではないのであるし、それを現実とみなすことは一種の理想化、つまり悪意のない欺瞞なのであるから。
他方、概念をその非現実の状態で活躍させるのは──こういうふうに言わせてもらおう──非現実を実在化することなのである。

同上

対立する微妙な表現とその言い換えが多いので、
抜粋付近の用語を抜いて整理するとこうなります。

 現実と概念との混同、現実に対する執着、無邪気な現実の理想化(、人間の先天的素質)
    ↑
    ↓
 故意の概念の「現実化」、概念の非人間化、概念を非現実の状態で活躍させること、……
 
オルテガの文章を抜粋している章の主題は、リアリズムと袂を分かつ新芸術の分析です。
(新芸術の例として、表現主義キュービズムの名が挙げられています)
それがいいか悪いかとか、伝統的な芸術観との優劣を比較しているわけではありません。

僕はその分析をどう我田引水できるかをこの記事で考えているわけですが、

この新芸術の思想を、
芸術とは何かを表現するわけでこれは「何かをするための思想」になりますが、
僕はこれとは逆に、
何かをしないための思想」として活用できると思っています。
ズバリ言えば、
広告的論理の呪縛を解除(厳密には「解呪」)するために使えないか、と。
 
ものを買うとか、サービスを利用するとか、
消費者として振る舞う場面では、
損得勘定は有無を言わさぬ第一原理ですから、
広告的論理に通暁していた方が堅実でしょう。

ただ、その消費の場面以外に広告の論理を持ち込むこと、
(これを純粋に望むのは己が土俵の拡大を狙う商いの主体でしょう)
それを個人が本当に(あるいはどの程度)望んでいるか、
まずその視点はあった方がいいし(その視点がなくなることを僕は「呪縛」と表現しました)、
その視点に立って眺めた時に、必要とあらば、
消費活動で用いるのとは別の「ものさし」を扱えた方がよいでしょう。

その「ものさし」の説明には、
「これこれである」という限定表現よりも、
「これこれではない」という開放系の表現、
つまり解釈や価値判断が人によって分かれやすい表現の方が馴染むことでしょう。
(なので性質上、この説明をマスコミが担うことは困難です。
 「ニッチ指向」のマスコミ媒体は実際あると思いますが、
 「その対象とするニッチ集団に一意的に受け取られる論理」は、
 ここでいう開放系の表現とはまた別物です

 
場の論理に基づけば、
小説家が芸術家であることを否定する人は少数派でしょうが、
読者を芸術家であると肯定する人はいないでしょう。

けれど、僕がここで考えているのは、
読者は芸術家でありうるということ(森博嗣もそうだし、宮沢賢治もなんか言ってたな)、
芸術家でない小説家なんて掃いて捨てるほどいるということ、
それを確信できる思想とはどのようなものか、
です。

 × × ×

コンセプトイメージの話は、どこへ行ったのか……
 
ええと、改めて考え直しまして、
一つだけメモしておきます。

「概念とは、世界を眺望するための望楼のようなものである。」(オルテガ

一つの概念を手に入れることで、世界の見え方が変わることがある。
僕は、ヒルギ本も、この「概念」に仲間入りさせたいと思います。
 
ヒルギ本は、その内容によってというよりは、
(いや、その内容の質的な保証は僕自身の連想力に懸かっているわけですが)
その形式、メディアによって、世界の見え方に「選択肢を加える」


世界の見え方の選択肢。

言うのは簡単ですけど、
多分これは普段、
「そんなもん一つしかないに決まってる」
と、
敢えて聞かれた場合にはそう答えるしかないような事柄。

頭も一つ、
身体も一つ。
生まれる場所は選べず、
親も選べない。

「そんなもん一つしかない」と考える方が、簡単で、自然。
それが「人間の先天的素質」だと、オルテガも言ってます。
 
ここから先は各々の、
「人間の定義」と「人間への意志」次第です。

しかしそんな説明をしたところで、いったいどれほどを理解してもらえるだろう?
この動きを持たない、言葉少ない街で君は生まれて育った。
簡素で静謐で、そして完結した場所だ。
電気もなくガスもなく、時計台は針を持たず、図書館には一冊の書籍もない。
人々の口にする言葉は本来の意味しか持たず
ものごとはそれぞれ固有の場所に、
あるいはその目に見える周辺に揺るぎなく留まっている。
「あなたが住んでいたその街では、人々はどんな生活を送っているのかしら?」
私はその問いに上手く答えることができない。
さて、私たちはそこでどんな生活を送っていたのだろう?

村上春樹『街とその不確かな壁』,2023(改行、太字は引用者)

 × × ×