human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「弱い現実」と「危険社会の参加率」

一冊の本を読んでいて、ふと思考を催す箇所に遭遇する。
それが区切りのいいところだったりすると、そこで本を置いたりする。
そして別の本を手にとって(続きを)読み始め、前の本を連想する箇所に出会う。

それは一つの面白いことだし、「面白いな」で済ませてもいい。
でも、そこから「なぜだろう」と考えてみるのもいい。

連想でリンクした二つの記述が、内容的にほぼ同じものなら、
その考察にはあまり時間を要さないだろう。
一方で、自分がしたその連想が「飛躍」したものであればあるほど、
その考察に含まれる謎は多くなり、解釈の甲斐も増えるだろう。

そこには、論理を解きほぐしたり繋いだりする知的な充実感だけでなく、
当の連想の主体である自分自身を知るきっかけもあるだろう。

それは前言語的な、従って無意識や身体と通じる自分の傾向を言語化する機会でもある。

 × × ×

という前置きは一般論で、以下は本記事の本題です。

 先述の内田樹くんが出版した『街場の戦争論』(ミシマ社)という本に、大変おもしろいことが書いてありました。
 それは、「強い現実」と「弱い現実」についてのお話です。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、ご説明したいと思います。

平川克美『あまのじゃくに考える』 p.192

平川克美氏の本からの抜粋なんですが、この部分の文章の実質は内田樹氏のものです。
この「ご説明」は実際はもっと長いんですが、
例示から始まる前半部は省いて、要点の後半部だけ以下に引用します。

 当今はよく「現実的に考えろ」とか、「お前の言うことにはリアリティがない」などという言い方をします。
 長いあいだ守られてきた憲法や法律の変更についても、変化する世界の現実に合わなくなっているからだ、という理由で進められます。
 しかし、その変化する現実は、確かに現実には違いないのですが、わずかな入力の違いによって生まれた、たまたまそうなっている現実にすぎないわけです。
 これを内田くんは「弱い現実」だと言うのです

 そして、ぼくたちは、数十年を経ても変化しない「強い現実」に軸足を置くべきであって、たまたまもののはずみでそうなった「弱い現実」に生活の基盤を置くべきではないと結論しています。
(…)
「強い現実」、つまり、入力のちょっとした変化では、変わりようがない確固とした現実というものがある。そこに、生活の基盤を置くべきだと内田くんは言ったのです。
 これはぼくにはものすごく腑に落ちる言葉でした。彼の本のなかで、そこが一番響いたところだと言ってよいかもしれません。

同上 p.194-195

平川氏のこの本は、以前に一度読み終えていて、
さっきは(以下に取り上げるのとは)別の本とのリンクで付箋箇所だけ再読していました。
その中で、この引用箇所を読み返した時に、
この「読み返し」の数時間前に読んでいた『危険社会』の、ある箇所を連想したのでした。

まず、その抜粋をしてから、思考を進めてみようと思います。

階級状況では、この状況を想定している潜在的な脅威、例えば失業などは、当事者に自明な事実である。それを知るためには何も特別な知識手段を要しない。
(…)
日常飲むお茶にDDTが入っており、新品のキッチンユニットにホルムアルデヒドが含まれていることを知った者は、[階級社会において脅威と遭遇した場合とは]全く異なった状況に置かれる。自分が曝されている危険がどんなものか、自分自身の知識手段や経験では決めることができない。(…)これらの物質が、短期間ならどの程度で有害か、長期間だったらどの程度の濃度で有害なのかという疑問についても同様である。しかしながら、これらの疑問に対していかなる答えを持っているかが自分が曝されている危険を決定するのである。危険に曝されているか否か、自分の曝されている危険の程度や範囲、あるいはそれがどういう形で現れるか。これらについては、原則として他者の知識に依存しているのである。
(…)
有害物、危険物、敵はあちこちで待ち伏せをしている。しかし、それが自分にとっていいのか悪いのか、自分で判断することはできない。(…)したがって、危険状況[=危険社会において脅威と遭遇した場合]では、ただの日常生活の事柄が、ほとんど一夜のうちに「トロイの木馬」のような変貌をとげる。その馬から危険と危険の専門家たちが、どっと繰り出す。そして、争うようにして何が危ないか、何が大丈夫かを告げるのである。(…)当事者が危険の専門家を探すのではない。むしろ専門家の方で当事者を捜しあてる。専門家が突然に戸口に現れることもあり得る。なぜなら、危険は日常生活のありとあらゆる物の中に潜んでいると推測されるからである。
(…)
所得減少などのニュースと違い、食品や消費物質の中に有毒物質が含まれているというニュースは、二重のショックを与える。危険そのものがまず脅威である。それに加えて、ショックなのは、自分が直接曝されている危険がどのようなものか評価する主権をも喪失している事実である。

ウルリヒ・ベック『危険社会』 p.81-83

最初に、僕が連想でこの二冊の各々の箇所をリンクさせた意味についてですが、
シンプルに一言でいえば、(僕の顕在意識ではなく)僕の連想が抱いたのはこういうことです。

 危険社会の基盤は「弱い現実」である。

むろん、ここには飛躍があり、粗雑な論理の結合があると思いますが、
その修正や整合性をとるための考察はさておいて、
このテーマをベースに話を進めます。


引用中の「食品や消費物質の中に有毒物質が含まれているというニュース」、
ここから過去の例として思い浮かべるのは、

 紫外線が体に悪いと分かって「日焼けサロン」が廃れていった とか、
 ひじきに多く含まれているとされた「鉄分」が実は調理に使う鉄鍋の成分だった とか、

つまり「健康という概念の中身はある日突然がらりと変わる」ということです。


「健康」という言葉自体が指示するのは、人間のきわめて身体的な状態であるはずですが、
その身体状態は一方できわめて個人差が激しいものでもあって、
「健康」を社会的に定義する過程で、科学の視点を借りて数字を色々と持ち出してきますが、
そうして抽象化された「健康」は、個人差を平均・統計的操作で見えなくするだけでなく、
本記事の文脈上重要な点として、
科学の技術水準如何で評価がコロリと変わりうる


「危険社会では『いかなる知識を持っているか』が自分が曝されている危険を決定する」

とウルリヒ・ベックが言うのを、僕の挙げた例に寄せればこうなります。

 「ひじきには鉄分が多く含まれる」という知識があるから、
 生の(あるいは乾燥の)ひじきをスーパーで買ってきて、
 家のアルミ鍋で煮付けをつくって長いあいだ食べ続けている人は、
 その限りで"鉄分を十分に摂取している健康な人"であるが、
 「ひじきの鉄分は実は調理時の鉄鍋から移ったものだった」と知った瞬間に、
 自分は"鉄分摂取面では不健康かもしれない"と疑いを持ち始める。
 なぜなら、スーパーで買っていたひじきが、その製造過程で鉄鍋が使われていなければ、
 自分は長期間にわたって「人体に必要な一日の推奨鉄分摂取量」を満足していなかったはずだから。
 そしてもっといえば、
 「ひじきの鉄分の真実」を、それが判明しニュースになったとしても、
 彼がその報道を知らなければ、
 彼はやはり鉄分に関しては「健康」なままだったはずである。


「人が決めた健康なんてそんなもんだよ」と割り切る人が大半でしょう。

「一日の推奨栄養摂取量」なんてのも、どうやって決めたのか皆目わからないし、
カップ麺ばかり食べててもこうして身体はピンピンしてるし(と大学生なら言うかな)、
慢性的な食糧不足に見舞われた大戦直後は子供で、長生きした人もたくさんいる。

自分の健康のことは、自分の身体が、つまり自分がいちばん知っている。

でも、そう思う人が一方では、ちょっとは健康に気を遣おうかななどと思って、
野菜ジュースを飲んだりビタミン剤を買ったりする。
彼がビタミン剤の成分と摂取量を考える時の念頭には「一日の推奨栄養摂取量」があり、
その彼の中では、自分の健康は、自分の「頭」が決めたものである。


問題は、
いや僕がここで問題にしようと思っているのは、
「彼の『脳内の健康観』が、将来的に自分の身体に裏切られるかどうか」
ではありません。

考え方ひとつで自分の身体が「健康」か「不健康」かが決まる、という発想。

ここにはどうも、(内田樹氏の概念を借りれば、)
「強い現実」と「弱い現実」の混同があるのではないか。
あるいは混同ではなく、この両者を、
都合に応じて選べる(目の前の現実に適用できる)という作為があるのではないか。
(後者は結果的に両者の混同につながるのですけど)

これは健康問題にとどまるものではなく、
現代社会で暮らす個人の「現実感覚」にも関係するのではないか。

 × × ×

話は一気に戻りますが、
危険社会(脳化社会)の基盤が「弱い現実」であるとすれば、
その社会を生きる人間の主観的な現実も「弱い現実」となる。
(たとえば、日常生活のあれこれに「砂上楼閣感(←なんだそれ)」が伴う、とか)

…疲れてきて文章が雑になってますが、
あとは最初に書きたかったことに触れて締めます。

「弱い現実」よりは「強い現実」に生活の軸足を置いた方が、
生活は(お金じゃなくて精神面で)安定するし、思考も冷静になります。

でも、自覚なく危険社会を信頼してどっぷり浸かっていれば、
生活の軸足は否応なく「弱い現実」に突っ込まれてしまう。


そこで、考え方として思いついたのが、
「危険社会への参加率」です。

システムやルールでいっぱいの現代社会、
そのすべてに関わらずに生きるには文明の利器を全放棄せねばなりませんが、
「弱い現実」的システムに対する自覚が培うことで、
ここまではオーケー、だけどここからは立ち入り禁止ね、
みたいなことができるはずです。

重心はその数値化にあるのではなく、
自分の生活にかかわることの一つひとつに対して「腑分け」をするという姿勢にあります。

実体経済をかけ離れてマネーゲームが価値を決めるお金、
ある面では幻想だし、生活必需品の調達という面では至極実体である、
そのお金に、自分はどのように(どこまで)関わるか。

たとえば、この「どのように」「どこまで」が、上述の参加率です。


まあ、ようするに、
自分にとって何が「強い現実」で何が「弱い現実」か、
それをじっくり考えよう、ということですね。

社会が「弱い現実」を動力にしている以上、
その腑分けは自分が主体になってやるしかありません。

もちろん、本(読書)はその作業において心強い味方となります。

(結論はありません)