危険社会の自己言及とシステム的孤独について
『危険社会』(ウルリヒ・ベック)を最近読み始めました。
読もうと思ったきっかけ(最後にちょっと触れるつもり)はだいぶ前にあって、
しばらく前にテンポラリー(読み待ち)本棚に移したんですが、
先週末くらいに難しめの本を一冊読み終えたので(何だっけな?)、
では次は、というので手に取りました。
× × ×
原著の初版が1986年、僕の誕生年と同じなんですが、
スリーマイル原発事故(1979年だそうです)がその近年にあり、
『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)の紹介が序論でなされたのち、
理論展開の引き合いとして、その原発事故について何度も言及されます。
むろん、今日的な問題意識として福島原発事故に通じない部分は少ないはずで、
(はず、というのはまだ50ページ読んだところなので)
古典というほど内容は古びていません(まあ30年ちょっとだから当然か)。
つまり、当時の常識を現代に読み替える、なんてことをしなくてもそのまま読める。
本書はたぶん名著に数えられているはずで、出版以降さまざまな他書で言及され、
僕は書名も含めて引用されているのを何度か見たことがあるし、
「危険社会(リスク社会)」という考え方としては、もっと一般化しているはずです。
そういう意味で、今読んでみて、論理として新鮮だ、と思う部分は少ない。
でも、翻訳の影響はあるにしろ、原著独特の言い回しみたいなものがあって、
理論の内容よりは言葉遣いにおいて考え込ませる部分が多くあり、
(難解ではないので)さらりと読めそうなところが、たびたび立ち止まっています。
それでまた、考えてみたいことを思いついてしまうと、こうなるわけです。
× × ×
本記事の論旨はタイトルが導いてくれるはずです。
さて、「自己言及」はニクラス・ルーマンを読み始めてからというものずっと念頭のテーマで、
『危険社会』でもルーマンへの言及があって嬉しくなったんですが、
まずはその部分を引用します。
序盤、主張の概略として五つにまとめられているうちの二つ(の部分抜粋)です。
(三)
しかしながら、危険が蔓延し、市場で取引されるようになると、危険は資本主義的発達の論理から切断されるのではなく、むしろその論理を新たな段階に押し上げるのである。近代化に伴う危険はビッグ・ビジネスとなる。危険は経営者が捜し求める無限の需要となる。飢えは鎮めることができ、需要は満たすことができる。だが文明社会の危険は、底が抜け、塞ぐことのできない、限りなく自己増殖する欲望の桶である。危険によって──ルーマンの説に従えば──経済は人間の欲望を満足する環境とかかわりなく「自己準拠的」となる。
(四)
富にあってはこれを所有することができるが、危険にあってはこれに曝されるのである。危険はあたかも文明の一部として割り当てられる。単純に図式化すればこうである。階級や社会〔←ママ。「階級社会」?〕や階層社会においては、存在が意識を決定するが、危険状況においては、意識が存在を決定する。知識は新たな政治的意味を獲得する。したがって危険社会のもつ政治の潜在的可能性は、危険をめぐる知識の発生と普及を研究対象とする社会学理論によって明らかにされ、分析されなければならない。
「第一章 富の分配と危険の分配の論理について」p.29-30
ウルリヒ・ベック『危険社会 新しい近代への道』法政大学出版局、1998
本書の冒頭、危険を考えるための補助線として、富に対する考え方との比較があります。
つまり、「富の生産」「富の定義」「富の分配」という問題との相違を通じて、
「危険の生産」「危険の定義」「危険の分配」を想定し、各々が掘り下げられていきます。
なので、引用の(三)にあるような「危険の需要」という言葉もさらりと出てきます。
さて、ルーマンの「自己準拠」も「おっ」と思った箇所ではあるんですが、
引用した中でいちばん驚いたのが、(四)の太字部です。
「単純な図式化」と本人も書いているように、極めて抽象的な一文です。
まあ、えてして、連想がぐるぐると回り始めるのはこういう抽象に接した時です。
「階級社会においては、存在が意識を決定する」、これはたとえば、
貴族なら貴族のように振る舞う(考える)、平民なら、商人なら、以下同、という感じ。
対して、「危険状況においては、意識が存在を決定する」。
これがどういうことなのかが、本書の全体にわたって詳述されていることです。
よって、本書を読み進めるごとに、繰り返しこの後者の標語を思い起こすわけですが、
僕は引用部で初めてこの一文を目にした時に、瞬間的に言い換えを思いつきました。
……ご推察の通り、本ブログでも頻出する「脳化社会」(@養老孟司)です。
養老先生のエッセイを一つ読んでいれば、この連想だけで「危険社会」がピンと来ます。
ここで「意識が存在を決定する」ことの具体例を、一つだけ引用します。
危険の場合は、排除するか、否定すること、つまり新しい解釈を施すことが必要である。富における取得を目指す肯定的な論理に対して、危険における、排除、回避、否定、新たな解釈といった否定的な論理とは対照的である。
所得や教育などは、人間が消費したり経験したりすることが可能な財産である。これに対して危険は、その存在や分配の状況を理解するためには、本質的に論証の努力が必要である。(…)危険を危険として「視覚化」し認識するためには、理論、実験、測定器具などの科学的な「知覚器官」が必要である。(…)この種の危険にあっては、当事者は、ハリスバーグ原子炉の事故でみられたように、戦々恐々としながら、専門家の判断やミスに完全に身を委ね、専門家の論争の展開を見守るより他はないのである。
同上 p.35-36
危険はそれ自体としては存在せず、何らかの手続き(「論証」)を経たのち、認識できる。
ないもの(「危険」)をあらしめる(「論証」)、つまり存在を意識が決定する。
そして、その危険を「存在」させ、社会的価値を付与するには、「否定的な論理」を要する。
「それがないこと」が価値であることの把握、二重の意味で、危険は意識の賜物です。
複雑な現代社会の中で、危険は、絶えず(往々にして見えないところで)生産され、
科学とその他(経済・政治など)の狭間で定義され、(国や地域に応じて)不平等に分配される。
その危険を認識する前提は、もはや一個人の身の丈の生活とはかけ離れたところにある。
さて、「意識が存在を決定する」のなら、個人は主体的解決法として危険をどう扱うか。
いや、何か結論が言いたいわけではなく(暫定解としては考え続けるしかありません)、
ここまではタイトルの話に触れるための、まえおきであったことにします。
危険社会における個々の危険の原因は、分業が高度に進んだ今、誰かに帰するものではなく、
分業システムにある、という、これもルーマンを連想する言及がなされた箇所を抜粋します。
ただ、その言い方に「あれ?」と思ったこと、これが以下の思考の出発点です。
そこでさまざまな被害を、複雑な工業生産体系の内部にある相互に分離不可能な個々の諸要素と関連づけてみよう。経済、農業、政治などの分野の高度に専門化された近代化過程の舞台に登場する人物たちが相互依存状態にある以上、個々の原因や責任を分離することは難しい。
(…)
言い換えれば、高度に細分化された分業体制こそ、すべてにかかわる真犯人なのである。分業体制が常に共犯となっていることが全般的な無責任体制をもたらした。それぞれが原因であり、かつ結果であり、それと同時に原因ではない。登場人物と舞台、作用と反作用が常に入れ代わる可能性があるので原因が消えてなくなってしまう。この結果、システム的な思考の必要性は当然のこととして受け入れられている。
以上において例示されているように、システム的な思考が何を意味するかは明らかである。つまり、自分の行いに対して個人的に責任を持つ必要もなしに何事かをなし、さらにその行いを続けることができるというわけである。自分があたかもその場に居合わせないかのように行動するのである。人は、道義的かつ政治的な行動をすることなく、ただ物理的に行動する。一般化された他者──つまりシステム──は個人に影響を及ぼし、個人の行動を通じて社会に影響を及ぼしていく。これは文明において見られる奴隷的倫理である。そこではあたかも自然の運命──すなわちシステムの「引力の法則」──に支配されているかのように社会的にも個人的にも行動が行われる。差し迫った生態系の大災害を前にしても自分の責任逃れを狙うこのような「ババ抜き」が演じられているのである。
同上 p.45-46
内容は、まさにその通り、としか言いようがない。
のですが、この引用の後半は「システム的な思考の意味」として記述されています。
この「システム的な思考」が指すのは、個人がシステムを理解すること、ではなく、
「システムの一員となり、依存し切った時の個人の思考」ではないかと思います。
そう考えた時、引用前半は、危険社会の分析でありながら、問題提起ではなくなる。
「システム的な思考の必要性」は、問題解決の条件ではなく、現状の説明として言われている。
何が言いたいかというと、人間のシステム理解の、その針が両極に触れる可能性についてです。
つまり、システム理解は、システムからの独立だけでなく、システムへの一体化にも進みうる。
いや、もしかして当たり前のことを言っているだけなのかもしれませんが、
僕自身はルーマンなどを、現代社会システムの高度複雑化に対していかに個人を保つか、
という視点でずっと読んできたので、驚いたのだと思います。
そして、このシステム理解の両極という考え方が、新たな認識につながる予感もあります。
× × ×
個人がシステムへの一体化を目指すことは、システムの価値観をその身に引き受けることでもある。
最初の引用(三)ではルーマンの説を引くかたちで「経済の自己準拠性」に触れていました。
本来の「経世済民」から遠く離れ、経済は、人間を手段として経済自身のために回るようになった。
経済システムの自己準拠とはそれで、そしてシステムへの一体化を目指す人間はその真似をする。
真似の中身は、おそらくこれまで(過去に)考え書いてきたようなことで、繰り返しません。
上で両極といった、その他方について、が実は本記事の関心ごとです。
システムへの一体化を目指す人間は、システムの自己準拠に準拠することで自己同一化を果たす。
では、システムから独立しようとする人間は、自己準拠的なシステム内で、どう振る舞うのか?
そのキーワードが、おそらく「自己言及」となるはずです。
それは、己が準拠すべき対象をたえず外部に求めようとするプロセスです。
安定化を、静的な閉ループではなく、常に構成が入れ替わる開放系のもとで追及する。
数学の関数で喩えれば、位置xの定数化は動かないが、傾きaは定数にしても位置は変化し続ける。
危険社会のコラテラルダメージからは、その成員は誰しも逃れられない。
が、社会のシステム内で生きるうえで、選択肢はシステムへの適応だけではない。
システムからの独立は、達成不可能ではあるが、「導きの星」として機能する。
それは、階級社会における「下克上の夢」のようなものかもしれません。
環境問題に対して個人がとりうる姿勢を考えてみましょう。
自分にも責任の一端があるらしいが、効果的な解決に貢献するのは不可能な規模の問題。
道義的には何かしなければと感じるが、行く先は徒労の未来しか見えない。
それでも動くか、何もせず後ろめたさに日々苛まれるか、問題自体を否定・無視するか。
問題の規模の大きさは、身の丈感覚が全く役に立たないことを痛感させます。
だから、焼け石に水の環境配慮の行動が、自己満足や偽善に見えてくる。
そして、明確に悪いことをしたわけでもないのに疚しさを感じるのは、理不尽である。
上記の「システム的な思考」を会得した人間にとっての正解は、否定、あるいは無視。
たとえば、「危険社会の自己言及」的姿勢は、この3つ、いずれにも与しません。
話を戻しますが、というのはタイトルのもう一方のことなんですが、
システム社会の中で自己言及を追求することは、何か孤独を感じさせます。
一人でやるか、同じことを考える仲間がいるか、という話ではありません。
システム社会への不適応という姿勢には、何か本質的な孤独が伴うのではないか。
そして、何かそれは、大事にしなければならないもの、のような気がします。
× × ×
『危険社会』を読もうと思ったきっかけ。
蔵書としてはずっとあったんですが、前に読んだ漫画に引用されて目にしました。
それは、いくつか出ている「サイコパス」シリーズの(たぶん)最初の物語。
個人の徳性が犯罪指数(だったかな?)として数値化・測定できる社会というSFです。
この作品以外にも、「表面上は安心安全な社会」という未来SFはいくつもありますが、
そしてその多くは「ディストピア社会」の基調で描写されていますが、
この認識はもしかして偏見であるのかもしれないな、とふと思います。
たぶん危険社会に完璧に適応できた人にとっては、それは「ユートピア社会」だから。
多分に感覚的なことを言っていますが、僕自身は、
システム社会への適応は個人の感度低下と対をなすと考えていて、
ゆえに、「自己準拠的な人々」とはこの先、論理ではなく感覚の水準で、
どんどん話が通じなくなっていくのかな、と本記事を書きながら思っていました。
言葉のやりとりにおいて、論理は通じても感覚が通じない。
これはある種、ベイトソンのダブルバインド状態ではないかと思います。
それは情報伝達ではあっても、コミュニケーションにはならない。
言葉を交わす両者において、言葉の意味は通じながら、言葉を交わす意味がすれ違う。
それは孤独かもしれず、では「それを避けるための孤独」とは何だろう、と思う。