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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

デジタル平安時代の崩壊とその先

日本の歴史を見ていると、外国でもそうかも知れないが、何か外来の事変に出くわすと、内に蔵せられて今まで気のつかなかったものが、忽然首を動かして事物の表面に揺ぎ出て来るのである。何か刺戟をもたぬと心の働きの鈍るのは、個人生活の場合は固よりそうであるが、集団生活でも実にかくの如きものがあるのである。鎌倉時代に、それまで長いあいだ外国との交通が途絶していたのが、また始められたという事実は、日本文化の発展史上決して見逃すべきでないと思う。平安時代が政治上に崩壊的気勢を示し、文化的に爛熟期をすぎて頽廃期に入ったとき何かの衝動が与えられないと、民族精神は萎靡[いび]不振、ついに取返しのつかぬほど腐敗するのであった。そこへ大地の声が、農民を背景とする武家階級から上がって来た。そこへ南宋を圧迫した勢で、日本の西辺を侵しきたらんとする蒙古民族の猛進が頻繁に伝わってくる。入宋の僧侶たちは新しき大陸の空気を呼吸して帰ってくる。今まで沈黙を守るよりほかなかった庶民階級の思想と感情が、武家文化──大地精神──を通じて開かれるようになる。何か日本民族霊性そのものの響がこの間に鳴りわたらなければならぬのである。果然、武家階級は禅道に入り、庶民階級は浄土思想を創案した。武家文化は更に公卿文化を統摂することによりて、禅精神をして日本人の生活および芸術の中へ深く浸透せしめていった。一方、浄土思想系は日本霊性の直接的顕現として大地に親しむものの中に結実した。

「第二篇 日本的霊性の顕現」p.78(鈴木大拙『日本の霊性岩波書店、青三二三-一、1972)
原書の出版は昭和19年12月

 
引用箇所を含む第二篇を読んでいて、現代日本平安時代に似ているという連想を持ちました。
年号の語感から、現代日本とは平成から令和*1のあいだのことです。
 

 平安時代は、なんと言っても女性文化時代である、(…)この時代は、奈良時代の豪壮雄大なるに対していかにも繊細優美であった。(…)佶屈聱牙[きつくつごうが]の漢文学に対抗して、「女[おみな]もじ」を考え出して、それを自由自在に駆使して、柔らかく細やかな感情を表現した平安朝時代の女性は実に偉かった。(…)
 
 仮名文字の発達がどのくらい日本思想の独自的展開に資することがあったかは、十分に認識する必要がある。(…)屈伸に自由でなく、連結に緊密を欠く漢文字では、思想の表現はおのずからそれに制せられる。みずから作った道具でみずからをくくることは、人間万事の所為の上に現れる。近代の思想も、自分で作り出した科学と技術と機械とで自由を失って、かえってみずからを破壊に導いているではないか。仮名文字がなかったら、日本は明治維新の大業を成しとげ得なかったと思う。外来の文字・思想・技術等は、いずれも仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性などによりて、国民精神発展の上に自由に取入れられたのである。この事実を考えてみると、我らは平安朝女性の創造的天才に対して、十二分の謝意と敬意とを表すべきである。

同上 p.79-80

 
平安文化、そして「仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性」から、つい橋本治の『桃尻語訳枕草子』を思い起こして読みたくなってきたのですが、それはさておき。

日本的霊性が伝来仏教の影響を経て開花したのは鎌倉時代であって、それ以前の平安時代ではない、という文脈で、平安時代の「よきところ」も上で引用したように述べられてはいるんですが、本筋はその「あしきところ」が次の時代の下地になったというところにあって、たとえばこのようなことが書かれています。
 

 女性文化の欠陥は、しかし、その長処そのものがそれなのである。和らぎはよいが、時には骨がなくてはならぬ。柔らかみはよいが、「女々しさ」はあまり歓迎できぬ。泣くもまた妙だが、いつでも「涙ぐましい」では埒があかない日本民族の感情的性格は、女性によりて十分に代表せられているが、我らの実際生活は感情だけではいけない、理知も入用だし、また霊性の動きもなくてはならぬ。女性は感覚性と感情性とに富んでいるが、論理と霊的直覚に欠けている。(…)女性文化は箱庭で出来る、温室性をもっている。平安朝時代は日本が箱庭式に生きていた時代である。日本民族の女性的性格の方面の発展するに最も好都合な条件を備えた時代である。風にも当らず雨にも濡れずに育つ苗はかよわい。頑強で根づよい大木は、どうしても暴風雨に曝されて、深く深く大地に根を張らなくてはならぬ。こんな強靭な根幹は、「物のあわれ」の世界では生長せぬ。

同上 p.80-81

 
女性の性質について云々されていますが、現代的に言い直せばこれは「女性性」ということでしょう。
生物学的性差としては男性か女性かのゼロイチではなく、グラデーションがあって、男性は「女性に比べて、女性性よりも男性性のほうが平均的に高く発現している」というのが実際のところです。
社会的性差つまりジェンダーの見直しは、この生物学的性差という科学的概念が近年より正確になってきたことに対応しています。
…いや、これも本論に関係のない話ですが。

引用の下線部などを読むと、夜のテレビドラマが恋愛ものばかりだとか(韓流ドラマもそうだし、「恋の落下傘」だったか、今は脱北ドラマが流行ってるそうですね)、「あつもり」「マイクラ」といったデジタル箱庭もののネットゲームが思い浮かびます。

…またまた話が逸れますが、アレクサンドル・コジェーヴという人が60年代初期に「ポスト歴史時代は西洋の日本化に帰着する」と言っていたそうですが、コロナ禍の巣ごもりツールとして世界的人気を博している「あつもり」のことを考えると、コジェーヴが当時語ったことを今また参照し直す価値があるかもしれません。
長いですが抜粋します。
 

「ポスト歴史の」日本の文明は、「アメリカ流の生き方」とは正反対の道を歩み始めた。おそらく、日本にはもはや「ヨーロッパ的」意味での、あるいはその語の「歴史的」意味での、宗教道徳政治もなかったであろう。しかし、純粋状態で育まれたスノビズムによって、「自然的」ないし「動物的」所与に対する否定的な規律が生み出され、これらの規律は、日本あるいは他の国で「歴史的」行動から生まれた規律、すなわち戦争と革命による闘争ないし強制労働から生まれた規律を、その効力においてはるかに凌駕するものであった。確かに、能楽、茶道、華道といった(どこにもそれに匹敵するもののない)日本特有のスノビズムの極意は、身分が高くて裕福な人達の占有物であったし、今なおそうである。しかし、経済的社会的不平等が存続しているにせよ、今日日本人はすべて例外なく、全く形式化された価値、すなわち「歴史的」意味での一切の「人間的」内容を完全に捨象した価値に応じて生きることができる。かくして、極言すればすべての日本人は、原則的に、純然たるスノビズムによって完全に「無償の」自殺を行うことができるのである(飛行機や魚雷が伝統的な侍の刀の代わりになりうる)。この自殺は、社会的政治的内容をもつ「歴史的」価値に応じて戦われる闘争に生命を賭すこととは何の関係もない。以上のことから、日本と西洋世界との間で最近始まった相互交流は、結局は日本人の再野蛮化にではなく、(ロシア人も含めた)西洋人の「日本化」に帰着するだろうと、信じることができると思われる。

ルイ・マラン「アレクサンドル・コジェーヴ「歴史の終焉」をめぐる二つの注記」p.241-242
(『TRAVERSES/6 世紀末の政治』今村仁司監修、リブロポート、1992)
太字は本文太字部、太斜字は本文傍点部

 
引用中の「日本特有のスノビズム」については、前にボルツの本(ここでもコジェーヴが取り上げられていました)について書いた記事↓も関連しています。
cheechoff.hatenadiary.jp
妙な字面ではありますが、僕自身が命名したこの「純粋暗箱形式主義」というのは、直上の引用でいえば、
 " 一切の「人間的」内容を完全に捨象した価値に応じて生きること "
と対応します。
これにちょっと言い足せば、「捨象したり利用したりがフレキシブルにできる」、いわば「"非原理"原理主義」という……
もはや非論理の世界観ですね。

今朝の毎日新聞書評欄に、紙面下の半分近くを使ってこのような広告が出ていましたが、こういう話が「本質」にもなり「流行」にもなる
西洋知識人が時に己の価値観を覆すほど心底驚く、これが「日本特有のスノビズム」の現れなのでしょう。

『日本人は論理的でなくていい』(山本尚)
Amazon(日本語11/26)
オール紀伊国屋書店(ノンフィクション11/16~11/22)
ベストセラー1位

日本人は論理的でなくていい

日本人は論理的でなくていい

 × × ×

えーと、話が逸れすぎですね、何の話だったか…。

鈴木大拙の本に触発されて、日本のこの先についてあれこれ想像していたのでした。

時代は常に最先端で、未来は五里霧中の暗中模索でありながら、「歴史は繰り返す」ともまた常に言われてきました。
先見の明のある人もない人も、未来を予言し、当たっても外れても人は大騒ぎしますが、もっと抽象的に考えて、予言の実際的効果は歴史にもあります
その妥当性を事後的に検証するのではなく、人々に(それが希望であれ絶望であれ)未来のイメージを描かせる物語としての効果。
論理学でいう「行為遂行命題」というやつです。


さて、
鈴木大拙の日本霊性論で展開されていた平安から鎌倉への時代変化を読んで、これを現代日本の「導きの糸」として見るとどうなるだろう、と思いました。
連想が導いたその文化的な類似性から、デジタル平安時代とも見なせる令和日本がどこへ行くのか、その手がかりが『日本的霊性』にある。
そういう姿勢で続きを読むと、まあ妙なバイアスがかかる一面もありますが、おそらく「とても身に沁みる思い」で読み進めることになるでしょう…というのは僕自身の話なのでさておき。

ひとつ「手がかり」のような部分を抜粋します。

 平安朝文化の崩壊は種々の原因によることであろう。が、真の原因は文化そのものを作っていた思想の中に行きづまりがあったからである。即ち公卿文化──女性文化・概念性の文化──は大地に根ざしていない、いわゆる霊性の上皮部に浮動しているものであるから、それだけではいつまでも自体を維持していくわけにはいかないのである。自分自身の力を自覚するにしても、ひとたびは崩壊の機会を経過しなければならぬのである。それには何かの条件で対外的なものにぶつからなくてはならぬ。鎌倉時代はちょうどそんな機会と条件とを与えてくれた。(…)果して然りとすると、平安末期の騒動、政治や経済上の不安、人心の攪乱[こうらん]、それに加えて国難到来の予期では、物の哀れを鑑賞してのみいられなくなった。国民は何か霊性の上に深き震動を感じ始めたに相違ない。固よりかくの如き根源的なものは、有意識的に感じられるものでない。人間はこんな場合では──ことにまだなんら深刻な宗教意識の覚醒を経験したことのない民族のあいだでは──只なんとなく一種焦燥の念に駆られるに過ぎないであろう。そうしてこの焦燥不安の心持ちは、ただ在来の表現方法でそのはけくちを見出したに過ぎなかったであろう。

同上 p.82-83

キーワードとしては「思想の行きづまり」「崩壊の機会」「対外的なものにぶつかる」、このあたりですが、僕はちょっと違うところを考えてみたいと思います。
それは、抜粋の中で太字部にした箇所ですが、「不安」と「焦燥」についてです。


現代は「不安の時代」と言われています。

能天気に過ぎた高度経済成長期から我に返った結果に過ぎないといえばそうで、プラスの見方をすれば「冷静の時代」(惜しいですね、「霊性の時代」ではない)とも言えますが、だとしても普段から気が晴れないのは居心地がよくない、だいいち景気が悪い、言葉通り消費経済が停滞しているじゃないか。
しかし、「不安」が何の原因であり、何の結果であるか、このことはじっくりというか、多方面に思いをめぐらして考えるべきだと思います。


不安のせいで経済が停滞している、そう思える一方で、不安こそが経済成長の原動力であるという一面もあります。
現状に満足し、安心し切っていたら、人は身の丈を超える消費に向かわないからです。

メディアに載り、同時にメディアを延命させてもいる広告は、受け手の嫉妬や羨望を煽りますが、それらの感情が広告上で肯定的に語られることもありますが(というかそれが方便ですからね)、実際のところそれらは「安心」からは程遠く、むしろ限りなく「不安」に近い感情です。

不安から抜け出したい、そう思ってお金を稼ぎ、情報を集めてよりよい消費活動に勤しむ、その消費活動自体が「不安を煽り合う競争」に過ぎないという達観に至った人は、競争の舞台から降りることになるでしょう。


あるいは、「不安」とは何なのか、またどういう状況から抜け出せば「安心」なのか、当たり前のようにこれらのことを使っているが僕たちはどこまで正確にこのことを知っているのか、そういう反省があってもいい。

「不安」は個人の感情であるという常識になっていますが、「不安」は伝播する、それも親しい人や家族の間だけでなく、すれ違う人やメディアを通じて社会的にも伝わっていく。
それは相互参照的ということで、また共同幻想としても現れる。

「周りの人間と同じことをする、同じ価値観でいる」「悪目立ちしない、出る杭にならない」ことに肯定的価値がおかれる文化において、個人の「不安」がどう作用するか。
こう書けばするひらめくと思いますが、「周りのみんなが不安なら自分は安心」という考え方が実際的な効果を持ち得る、ということです。
それを逆から「みんなと違って私だけ安心だとなんだか不安だ」と言ってもよい。

では、私たちが望む「安心」とは、いったい何だろう?
周りの人間なんてどうでもいいという個人主義を徹底してリアルでは鈍感を追求しながら、ネット上の情報の海にキャッチアップして共同幻想に浸る、現代世界の「リアリスト」にとっての「安心」とは?


さて、では「不安」に対して「焦燥」とは何なのか。
引用中での鈴木大拙の使い方を参考に、こう表現してみます。

「不安」:
 現状維持の心境。「このままがいい、なぜこのままではいけないのか」
「焦燥」:
 現状打破の心境。「このままではいけない、なぜかはわからないけど」

辞書を引けばまた違う意味が載っているかもしれませんが、僕が思ったのは、これらの2つの感情が「現状に対する違和感をもった時の心の遷移プロセス」であるということです。

上の引用で、キーワードとして「崩壊の機会」を抜き出しましたが、このデジタル平安時代の「崩壊」がどの段階に至ってそう言えるのかは知りませんが、「崩壊」と「焦燥」は機を一にして起こるだろう、とは言えるでしょう。

あわよくば、これも鈴木大拙の挙げた「自分自身の力の自覚」もまた同時に。


こんな考えを巡らせていると、時代変化に希望を感じることができます。
即物的に起こることは、恐らく楽しいことよりも苦しいことの方が多い。
それでも、抽象思考に価値を見出せるならば、
時代の変化はまず間違いなく、興味深いものになるでしょう。

 × × ×

冒頭の引用で太字部にした部分に触れる余裕がありませんでした。

岩永亮太郎の『パンプキン・シザーズ』をちびちびと何度も読み返しているのですが、おそらくここからの連想で、ふと「禅の精神」とは「日本的ノブレス・オブリージュ」と呼べるなにかではないのか、と思いつきました。
近いうちに掘り下げたいトピックとしてメモしておきます。

 × × ×

日本的霊性 (岩波文庫)

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世紀末の政治 (TRAVERSES)

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  • メディア: 単行本

*1:「令和」が漢字変換で出てこなかったんですが、つまり年号が令和になってから僕がこの語を打ったのは今日が初めてということを知りました。まあ、興味がなかったというだけの話ですが。