human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」

 価値の領域で、時間地平の「状況の定義」への還元が、包括的な価値変化として観察されたもの──ある部分では、非常に誤解を引き起こしやすい「ポスト唯物論者」というような用語──と一致する。(…)とりわけ、他者あるいはすべてのひとに対する怖れや関心という形式のなかで、不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった。たとえば、この時代は「仮面を剥がれた不安の時代」とさえ性格づけられたのである。

「第六章 現代社会の自己記述におけるトートロジーとパラドクス」p.128-129
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

いきなりなんだ、と思われそうですが、続けて抜粋します。

公共の問題として、不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する。すなわち、不安は議論されず、論破されず、また矯正されることもない。つねに、コミュニケーションのなかに確かなるものとして現れるのである。心配を表明しているひとに、「まちがっているのは君だ」と応答することは不可能である。それゆえ、不安は、そのように扱われるにたるものであり、また敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす。これは、コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、「新しい価値」に的を絞っていくこととして役立つ。

同上 p.129

本書は日々牛歩の如くちびちび読み、
反芻ライクに進みつ戻りつの悪戦苦闘中なのですが、
そうして日をあけて二度三度読むと何らかの意味が浮かんでくる、
正しいとは限らないがそのような経験が刺激になって更に遅々となる。

和訳に問題がある、とこれまで数え切れないくらい思って、
でもそれを悪態ではなく前提として想像力を駆使するわけです。
訳された単語(群)から原文を想像し、さらにその原文の訳出可能性を探る、
なんてことはせず、要するに文脈を意識して訳語から連想する。

と言いつつそもそもちゃんと読解できているかすら怪しいために、
その文脈というのは端的に僕がこれまで読んできて抱いたイメージです。
はなから正しい読解なんざ目指しちゃいません。
以上、言い訳と愚痴のアモルファスでした。

この1週間で抜粋箇所を三度読み直し、何かが見えてきたのでした。
何か、とても恐ろしいものが。

以下、抜粋部分には「」をつけて書きます。

 × × ×

「価値の領域」における「時間地平の『状況の定義』への還元」

これは本ブログで何度も書いてきた、無時間モデルの主流化のことだと思います。
株式会社的・四半期決算的な時間幅が未来思考のベースになっていること。
時が経てば解決すると思うのは怠慢であり、
未来のゴールまでの道筋を現時点で描き切ることを良しとすること。
様々な価値観の変化には、この無時間モデルへの信奉(服従)が伏流している、と。

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」
「不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する」

もはや、不安はア・プリオリな存在となった、と言うに等しい。
これは科学、とくに心理学や精神分析学の発達に関係していると思われます。
個人の頭の中や心の中、極私的で非客観的なものに科学の光が当てられた。
それは個人を救うという意味で革命的であったと同時に、
公共の普遍性を破壊する意味でも革命的であった(のではないか?)。

「不安は…敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす」

比喩でいえば、不安が市民権を得たというようなものです。
各種モンスターのクレームが、その内容を問われずに正当性を得る。

「コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、」
(このすぐ後の「新しい価値」というのは、まだ全く想像ついていません)

これが、立ち止まってうんうん唸りながら考えても意味不明だったんですが、
今日三度目に読んだ時に、ふと着想が湧いたのでした(これが本記事の執筆動機)。
この部分を言い換えるとメタ・コミュニケーションの成立不能状態ではないか。
あるいは、論理(知性・言葉)への信頼の毀損といってもよい。

同じ言葉を使っていてもコミュニケーションが成立しないことは、よくあることである。
前提が違う、言葉の意味を取り違えている、話を聞いていない、相手に興味がない等々。
両者とも言いっ放しで会話が進んでも、それは言葉の次元ではコミュニケーションではない。
けれど一方がその不成立の原因を探り、その原因について相手に理解を求めることができる。
コミュニケーションの成立・不成立に関わらず、その可否への問いは共通の土台となる。
私の話がわかりますかとこちらが聞けば、イエスなりノーなり、相手は答えるだろう。
言葉が、いやもっと広く記号(ボディランゲージなど)がお互いの間で意味を持てば、
次数を繰り上げたコミュニケーション、即ちメタ・コミュニケーションは必ず成立する。

と、思っていた、当のそれが、「不安のア・プリオリ化」によって、なにやら怪しい。
その理路を、どう考えようかと迷っていますが…
優先度の問題にすると単純化のし過ぎになるでしょうか。
不安すなわち個人の主観が、コミュニケーションにおける言葉の意味よりも優先される。
言葉が、主観に応じて意味が捻じ曲げられて読み取られ、また発せられる。
言葉の持つ意味は人々の共通理解であるという前提がそこにはない。
むしろその前提を多数の人が無邪気に信じていることを悪用できるという発想が生まれる。
こう書くと、ポストトゥルースやいけしゃあ虚言癖政治家問題とも繋がっていきそうです。
オオカミ少年が多数派を占める社会が想像できなければ、その実現を避ける術はありません。


そして、序盤の二つ目の抜粋のあとに続く部分を以下に引用しておきます。
予言ととらえるには抽象的すぎるのですが、
やはり僕には恐ろしいことが書いてあると思わずにはいられません。

イデオロギーは、素朴な価値推奨以上のものを差しだすことが、いつも求められてきた。それらは、認知上の構成要素、すなわち社会条件と社会問題の記述を備えていた。ことによると、いまや認知上の構成要素は、記述、「シナリオ」、世界モデル、一般的な招集などの選択を指示する不安の普遍的定式へと還元されえよう。この定式は、独自の任意性を見つけるまえに、社会の自己記述を終結させるであろう。

同上 p.129-130

意味不明な箇所ばかりなのですが、「不安の普遍的定式」という一語にウッときました。

哲学にはかつて、普遍的な正義の形を探求した時代がありました。
ポストモダンがその営為の不可能性をさんざんあげつらいましたが、
それでも正義を探求する姿勢・プロセスそのものの価値は損なわれていません。
人も資源も環境も有限と知れた国際社会において、異文化間の利害は当然対立します。
利害関係が完全に調停することがなければ、末長い調整プロセスそのものが誠意となります。

普遍的な正義、それは実現すべき未来ではなく、
よりよき未来へ向けて歩むための導きの星として、
色褪せぬ輝きをいまだ放っている。

これに対置する形で突如認識させられたのが、
普遍的な不安という当の概念。

どうもこの字面が不吉に思えて仕方ないのは、ここに続く抜粋の文章のせいかもしれません。

というのも、
オートポイエーシス・システムにとって「自己記述の終結」が、
よいものであるはずがないからです。
 

(SRSその2)境界の盾、浸透の矛

 2 自己言及システムには、その基礎的作動に応じて異なるいくつかの類型がある。それは生命(…)、意識、コミュニケーションでありうる。そのような作動を混ぜ合わせることは不可能である。なぜならば、諸作動は閉じたシステムを仮定しているからである。(…)相異なった諸領域はもちろん、因果的に相互連結を内部接続している。とはいえ、それはたんに諸事実間の関係なのではなくて、つねにシステムとその環境世界との関係として組織されているものである。 (p.95-96)

相互連関として、諸システムは内在的、自然的、ないしは宇宙論的統一を有することはない。相互連関はただエコロジカルな諸関係なのである。エコロジカル・システムといったものは存在しない。(p.99)

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

 
システムとその環境世界。
図と地。
その相互変換性。
主客関係の倒立とその解消。

車窓から見える風景。
近くの電柱に目を留めると、後景のビルが動く。
遠くの山並みを見つめれば、平地の街並みが回転する。
図と地は交代可能であり、しかしイコールではないことを知っている。

自己言及システムは、閉鎖かつ開放されている。
細胞壁は境界を設定しながら物質を浸透させる。
矛盾の確立がシステムの作動と自己指示を担保する。
矛盾の起源は、無矛盾の擬制システムによる諸システムの規定にある。

矛盾は存在ではなく、定義である。
 

「シミルボン」アカウント作りました。

 
この一つ前の記事を書評ということにして「本が好き」に投稿し、ようやく100冊目となりました。
前↓に言ってから半月近く経ってしまいました。

書評サイトのこと - human in book bouquet

なにはともあれ有言実行、
さっそく引越し先の書評サイト「シミルボン」のアカウントを作成しました。

https://shimirubon.jp/users/1677675

どう使うかはいろいろ試しながら考えていきます。
アカウント名は個人事業の屋号にちなみましたが、
鎖書店に関連づけるかどうかはまだ分かりません。

なんにせよ、読書ライフ…というより、
もっと広く、本との生活が豊かになるように、
使っていきたいですね。

脳化社会の「もう一つの側面」/ローファイ絶望社会論

『未来を失った社会』(マンフレート・ヴェールケ)を読了しました。

原著は96年初版で、統計データなどは古いのですが、語りがいい。
「絶望の舌鋒を振るう社会学者」とのことですが、楽観はもちろんないが、悲観とも違う。
ラジオの天気予報のように淡々と世界の崩壊(エントロピーの極致)について語る調子は、
昨今流行のローファイ音楽のようでさえある。
「だからどうした、当たり前じゃないか」と言われると、「ま、そうかな」と思う。
絶望か希望か、という水準が、意味遊びに相対化されたような平易さ。

読む人によって、
希望の論理を絶たれて生気を失うかもしれないし、
この絶望の正視が希望へのスタートだと発奮するかもしれない。
と言って実際はどちらもありえないだろうけれど。
まっとうな人なら「陰気臭いなあ」と一言で終わらせそうだ。
著者をもっと頑固な意志の人にすれば中島義道氏に似ているかもしれない。
でも著者は社会学者である(もっと言えば「社会学者嫌いの社会学者」である)。

僕が面白かったのは連想の糧としてであって、
読みながら色んな本や発想と繋がることがあってその都度興味深かったのですが、
書いておこうと思ったことが一つだけあるので書いておきます。

 × × ×

「脳化社会」(@養老孟司)という言葉をこのブログで何度も使ったことがあります。
現代の先進国社会を表現するにこれほどふさわしい言葉はない。
この言葉は、養老氏の社会批評エッセイでもそうですが、基本的に批判的に用いられます。
「ああすればこうなる」、頭でっかちの、身体性抜きの、現在ファースト計画社会。

僕も今までこの言葉はネガティブなイメージでしか使ったことがありませんでした。

この本を読んでいる間、「脳化社会」の言い換えというか関連として、
「挫折を招くコントロール欲(にまみれた社会)」(@ニクラス・ルーマン)、
「好コントロール装置(官僚機構のことだったかな?)」(@池田清彦)、
などを思いついていました。

それで、あろところ(後述)を読んでいてふと、
「脳化社会のポジティブな捉え方は見田宗介がしていたじゃないか」
と思いつきました。
 消費のイメージ(幻想)化による資源浪費の抑制、
 またそれと実体経済との分離による実体経済(→身体性)の回復。
 運命委任と共存する想像力の解放。
現代社会はどこへ向かうか』で描かれた、幸福の未来社会。

見田氏の構想は、現代が脳化社会だからこそ描き得たのでした。
気付いてみると、養老孟司見田宗介がなぜリンクしなかったのかが不思議なほど。
それほどまでに強固に、脳化社会というイメージの「片側」しか見えていなかった。

物事にはすべて両面がある。

この一般論を了解していればあらゆる概念を柔軟に捉えられる、かといえば、
そんなはずはないのでした。
もともとそう思っていたわけではありませんが。
 
 
上で触れた「あるところ」についてなんですが、
この養老-見田リンクについてページ内表紙の余白にメモしていて、
そこにはページ数とともに一言「ポジティブを相殺するためのネガティブ」とあります。

この一言の意味もわからないし、
これと当該リンクとその指定ページの内容との関連もわかりません。

連想ミサイル連射の欠点はリンクの履歴だけが残って、
各々のリンクの意味が忘却されやすいことなんですが、
ちゃんとした意味があったのならいずれ思い出すだろう、
という未来の自分への信頼に基づいた方針なので、
そこはあまり気にせずにとりあえず指定ページのマーカー部を引用しておきます。

著者が引用したヘンリー・ミラーの著書からの孫引きです。

 北では、片時もじっとしていられない人びとのあいだで時間が湯水のように使われているように思える。彼らの一生は、浪費された時間以外の何者でもないといってよかろう。ぶよぶよした顔でセックスに消耗した四五歳の太って息切れする男、それはアメリカが生んだ無意味の最大の象徴だ。彼はエネルギーの色情狂であって、エネルギーがあってもなに一つやり遂げない。彼は石器時代人の残像だ。脂肪と過剰な刺激を受けた神経でできた統計学の束であって、保険勧誘員に不安な診断書を作成してもらえるためにだけ存在している。裕福で忙しなく頭が空っぽの無為の寡婦たちといっしょになって、国中に種をまき散らす。この寡婦たちときたら、おしゃべりと糖尿病が難なく入れ替わる亡霊めいた修道女の一団をなしている女どもだ。

p.281 太字は引用者

この引用部が書かれたのは1977年。
これを昔のことだと思うか、そうでもないと思うか。


それはよくて、
このマーカー部のそばにはメモが二つあります。

 「そう見える他人が存在すること」「他人から自分がそう見られること」
 を、気にしなく(てもよく)なった社会

これが一つ目。二つ目は以下。

 個人主義の「感度の振り分け方」
 cf. RPGのさいしょ、主人公へのパラメータふりわけ、とそのメタ視点

二つ目の後半について、
ロールプレイングゲームの中に、
主人公の初期能力値に対してボーナスポイントを任意に付与する、
というシステムのものがあったと記憶しています。
能力値というのは、力、素早さ、かしこさ、…というような。

まず、個人の能力について、いくつか項目があって数値化できる、
という視点にひとつの人間に対する考え方が現れています。
そして、その数値を(わずかであれ)自由に設定できる、
というシステムは、その考え方に上乗せする形のイデオロギーとなります。


ポストモダンは、価値や規範の相対化を招いたとされます。
いや、招いたというよりは、各地で起こっていたその相対化の、
思想的な見地における現れと考える方が自然でしょう。


引用に対して、なんと強烈な皮肉かとも思いますが、
そう表現されて妥当な人びとが(あるいは当時だけでなく現在も、あるいは大勢)いて、
けれど当人はそう言われてケロリとしているような人びとがいて、

その先にあるのはいくつかの舗装道と獣道とジャングルだという、
ローファイ・ヒップホップな話
でしかないのです。

 × × ×

googleはググれない

 
エントロピーの最果ては、ただ一つ。
思考とは、その過程のシントロピー。

 エコロジーの問題は、現代文明の自動破壊的傾向と道徳の欠如がことのほかはっきり現れる領域の一つである。それは、言語統制とか抑圧、なだめすかし、居直り、テクノクラシー的対処療法、あるいは利己的日和見主義の応用などでは解決できない問題だ。そのような視角から見ると、おそらく楽観主義者よりも悲観主義者のほうに、進歩に払うコストに対する敏感さも、また建設的オルターナティヴに対する現実感覚も、期待できるかもしれない。
(…)
すべてのことがよくなってほしいと思うならば、多くのことを変えねばならないだろうが、変えることは不可能である。というのも、多くの領域で、個人的知性より優れている集団的知性が、よりによって人類がどうやって生きのびられるのかという問いには役立たないからだ。

マンフレート・ヴェールケ『未来を失った社会──文明と人間のたどる道』岡部仁訳、青土社、1998

 
集団的知性にできること。

 あらゆる問題に対して最適解を導き出すこと。
 誰もが納得する希望を語ること。

集団的知性ができないこと。

 最適解を実行すること、その意志をもつこと。
 希望が日和見でなく行動を起こすものとなるための、絶望を語ること。
 

世界は変わる、必然を擬して。
世界は語る、他人事のように。

世界を変える、偶然を排して。
世界を語る、我が事のように。
 

問うて落ち、語りて落ちて、(SRSその1)

 
論理を整理したいというわけではないのですが…

こんにち個人主義を再構築することは、主体なるものの再肯定を意味するものではありえない。われわれは主体に、そのふさわしい継承者、この諸問題に関し、また現代社会の社会構造との関連においても適切な継承者を見つけることによて敬意を払うべきである。

具体的な提案をなすことは、もちろん、危険かつ困難なことである。にもかかわらず、われわれは、近年ブームとなっているわれわれが「自己言及システム」と呼ぶようになってきたものの研究に関する、単純だが広範囲に及ぶ所見をもって開始することができよう。

「第五章 個人的なるものの個的存在性」p.95

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』
引用以下同

この引用部に続く項目はぜんぶで7つあります。
1つずつ取り上げて、関連部分とともに抜粋してみようと思い立ちました。
(が、1の話は次の投稿になりそうです)

1 自己言及諸システムは経験的であり、超越論的地位をなんらもつものではない。(p.95)

われわれは、オートポイエティックな諸システムのエコロジーにおいて、たとえ最高位でないにしてもとにかくも固有な地位──ちょうどゴットハルト・ギュンターが人間の自己意識性に関して述べていた、あらゆる自己内省の諸構造のなかで「もっとも高度にして豊かなもの」のような──を欲してはならない。(p.99)

人間であろうと欲することには、なんらの科学的基礎も存せず、そう欲することはまったくもって衒学的なことである。(p.100)

自己言及性は、あまりにあらゆることを含んでいます。
「地球には植物と動物がいる」
「人間とは動物の一種である」
というレベルの、範囲が広すぎて、言ったところでどうなる、というような。

自己言及システムについての説明論理は、それ自体が自己言及となります。
自己言及についての言及、それはなにかを確定させるための説明ではない。
言及一般が実はそうで、その中でも、自己言及への言及は尚更そうである。
言及自体がその生命性であり、創造循環し続けることがその躍動性である。


「語るに落ちる」という言葉をふと連想しましたが、
これは「問うに落ちずに語るに落ちる」という諺の前半を略したものだそうです。

この型を借りれば、自己言及性とは、

「問うて落ち、語りて落ちて、」

という感じです。そして、

「句点落ちずに読点落ちる」、

ここに終わりはない。


終わりがなければ、始まりしかないのか?
あるいは、

終わりがなければ、始まりもないのか?
そうかもしれない。

(SRS = Self-Referential System)
 

「我輩は官僚である。名前はもうない」

 
『未来を失った社会』(マンフレート・ヴェールケ)という本を読んでいます。

「社会もいずれは必ず人の一生と同じ経過をたどる」という標語を掲げ、
無秩序の増大であるエントロピー現象が社会のあらゆる領域で起こる様を、
歴史事件や統計データを並べたり、あるいは印象派的なエッセイ仕立てで、
社会学的に(著者は社会学者ですが)綴るその基調はシニカルなものです。

が、経済や生活水準の向上にかまけて見ぬふりをしてきた面を見る意味では、
岐路の時代において、まことに示唆に富む視点と考察に事欠きません。


本記事も相変わらず、思考を刺激された一節が発端となっています。
 
 × × ×
 

マックス・ヴェーバーは、官僚制を合法的・合理的支配組織として特徴づけた。そのような支配組織は、合理性、服従、専門、そして非人格性といった原理によって働き、いわばゲマインシャフト行動をゲゼルシャフト行動に変換する。このことは結局、予測可能な規則にもとづき、また特殊な専門家によって、出来事を客観的に片づけることを意味する。
(…)
合理性に関していえば、まったく非合理的でしかない多数の形式主義的、完全主義的な事象が存在するばかりではない。いわば規則を促進させるにつれ、どんな合理性の基準も感じられない官僚エリートの自己淘汰も生じてくる。非人格性、つまり客観性と中立性という点についていえば、価値と規範の規約集や上層の利害関心に奉仕することを優先し、公務における非公式の忠誠関係を顧慮する傾向がある。専門能力についていえば、役人の考えと専門家の判断とのあいだに、頻繁に摩擦が生じる。

 したがって官僚制には、エントロピーの感染源がたっぷりあることになる。しかし、その中心の局面に光を当てているのは、すでに述べたパーキンソンの法則である。つまり、すべて官僚組織は、本来の任務とは無関係に膨張し、自分の仕事をますます自主管理に集中させ、その結果ついに本来の任務をすっかり忘れはて、自分で生み出した問題にいそしむことしかしない傾向をもつ。
 もちろんわれわれは、官僚組織というものが国と公の分野にしか見られないものではなく、経済を含めた社会全体に浸透していることを知っている。

「Ⅳ:「高開発」社会の社会的エントロピー」p.224-225
マンフレート・ヴェールケ『未来を失った社会──文明と人間のたどる道』青土社,1996

 
官僚制のエントロピーとは、もともとは安定した秩序の構築を目指して設計された制度の各性質(合理性、服従、専門、非人格性)が、制度の徹底によってその性質を裏切る方向に作用し、総体的には無秩序を来すことを指します。

特に新しいことを言っているわけでもありませんが、
こうして集中的にネガティブな面を見せつけられると、いろいろな思いがよぎります。
 
 
最初に、引用最後の一文。
「官僚組織(制度)が社会全体に浸透している」。
まあそうだろうなと思いつつ、それが実際何を意味するのかを考えてみました。

同じ一文にあるように、ふつう官僚組織といえば「国と公の分野」がその代表格だとみなされています。
そして市民的な立場からして、官僚的な性質をあまり好ましいものとはとらえていない。

ちょうど自分はいま政府の「家賃補助支援給付金」の申請をしていますが、コロナ禍に対する支援制度の一つである初期の「持続化給付金」の超ザル的対応の反動なのでしょうが、あまりの内容空疎な杓子定規、事実を様式に合わせて歪曲しにかかる形式至上主義的な事務局側の対応に、ウンザリを通り越してある種の感動を覚えさえしていて(だからもう結果的に給付金降りなくてもニコラス・タレブのいう "F××k You Money" としてメンタル面で有効活用させてもらおうかと思ってるくらい)、それでいて申請手続きに関する問い合わせに対応してくれるのは政府委託の(たぶん)民間業者のオペレータで、彼女のまことに人間的な(僕にではなく制度に対する)困惑を漂わせた説明を聞いたりして、手続きのいちいちが興味深いのですが、それはさておき。


まず、官僚組織が社会全体に浸透しているとして、
さすれば一私企業のサラリーマンだったり個人事業者であるわれわれは何の官僚なのか?

あらゆる個人が所属する具体的な組織などというものはないので、
(「国」は今考えようとしている組織としては抽象的な存在です)
官僚組織がもつ性質と共通の性質を担う「なにか」に僕らは属する、と考える。

すると答えは簡単で(というのは僕がいつも考えてることだからですが)、
高度に複雑化・ベンディングマシーン化・匿名化を遂げた「システム社会」ですね。

それのどこが具体的なんだと言われれば、具体例を逐一挙げればいいのですが、
面倒なのでそこは抽象的にまとめるとして、

そのつど人の手や時間を介されてきた生活過程から、人手が除かれ無時間化したこと、
仕組みが単純で、素材や原理や作り手の手間が容易に想像できた生活用品が、そうでなくなったこと、
あるいは法という制度も、ローテクな生活実態に基づいて人間が頭で思い描けるレベルの単純さだった昔に比べれば、専門家集団が膝を突き合わせて時間をかけてあらゆる事態を想定しても事後的に不備があちこち出てきてAIに立案させるのが確実で現実的だなどという意見が出かねないほど複雑になったこと。

総じて、科学(客観)主義、効率主義、平等主義といった建前と、人間の頭脳の(身体性抜きの)拡張である機械計算能力を前提に、人間の集団的生活を円滑に営むために張り巡らされたメカニズムの網のことを「社会システム」と呼び、そのようなシステムによって回る社会を「システム社会」と呼ぶ(ことにします)。

ここで、官僚組織の4つの性質を再掲しましょう。
「合理性」、「服従」、「専門」、そして「非人格性」。
言うまでもなく、そのどれもが社会システムにも当てはまります。

合理性、昨今は発言主の社会的影響力が理の根拠になるという形で先鋭化しています。
服従とは、個人の意思には無関係に、システムに取り込まれざるを得ないということ。
専門、その極度の分化が組織の機能不全を起こす現象を「サイロ・エフェクト」と言います*1
非人格性とは、ネットの生活への浸透がその功罪とも増幅させた「匿名性」でもあります。

ヴェールケ氏が挙げた官僚制のエントロピーの例は、
大きく読み替えずとも僕らの日常生活にの一面でもあることがわかります。


さて。
「官僚制が社会全体に浸透している」、
痛々しくも、これはこう言い換えられると思います。
現代社会の大衆は官僚化している」。

僕らはみな、逃れるすべなく官僚システムの一員、「システム官僚」である。
そう考えると、政治行政を担う人々に対する一般市民の視線に、再考の余地が出てきます。


国家官僚の硬直性や腐敗をニュースで目にして、当事者でなければ、
普段の感情としてそれを「我が事」と思うことはそう多くありません。
他山の石だと建設的にとらえる人の内にも、嫌悪感が芽生えているはずです。

その嫌悪感とは、何か。

あるいは日常的な感覚では道端の吐瀉物に相当するものかもしれません。
眉を顰め、目を背けて「もう、やーね」と吐き捨てるような。
建設的な人なら嫌悪感を抑えつつ、同じ人間だとして「鏡」と考えるかもしれません。
今の自分はこんなことはしないが、時と場所と立場が違えばわからないぞ、と。

けれど、上で「再考の余地」と書いたのは、また別の解釈があるということ。

すなわち、同族嫌悪

先の「鏡」の捉え方は、あくまで基本姿勢は他人事で、
抽象化したうえで我が身に引き寄せるという迂回をしています。
だから、自分の精神にダメージもなければ、抑圧もない。

けれど、実際は誇張された存在であるとしても(国家官僚が官僚制の典型には違いない)、
メタファーとしての「鏡」ではなく、まさに現実の鏡を見ているかのように、
われわれが「彼ら」を直視しなければならないのが本来であるとするならば。

そこには「みずからが吐瀉物」であるような精神的ダメージがあり、
それがなければ、後々訳の分からない形で回帰してくる抑圧がある。
それも、その訳が分かるまでは「繰り返し」で。


とまあ、そのような視点でヴェールケ氏の文章を読むと、
その一語一語に対して身につまされる思いがしますが、
先に引用した節の最後にはこのような記述があります。

 要約すれば、官僚制は、オートポイエーシスの意味では、ますます複雑になる構造と機能を独立させる傾向がある。日常の言葉では、これを官僚の行き過ぎという。このように調整されすぎているシステムの働き方のために、めまぐるしい要求に適切に答えることができなくなる。その場合、社会的エントロピー二つのパターンで働くようになる。当該の組織が多発性硬化症の犠牲になるか、それとも、例外を通例にすることによって、必要な柔軟性を当該の組織が保持するか、そのいずれかである。後者は、機会主義に門戸を開くもので、マックス・ヴェーバーが想像したのとはかなり逆のことを意味している。

同上 p.226

 
太字部の二つはエントロピー増大の二つのパターンということで、
氏の意図としては、どちらも無秩序の拡大を意味します。

融通の利かない組織の硬直化、僕が杓子定規や形式主義と上で書いたのが前者。
後者は、組織レベルの視点でいえば規則の形骸化、恣意的な弾力的運用のことで、
これ自体は当たり前の認識なんですが、僕がふと思いついたのはこの個人レベルについて。


本記事で何度も挙げた、官僚制の4つの性質。
これは、それぞれある面では「非人間性」の一面でもあります。

僕が言いたいのはこういうことです。

官僚組織の成員は、組織上の役割として規則に基づく非人間性の発揮を義務づけられる。
その成員にとって、規則に反する「例外」は人間性を取り戻すための「息抜き」になる。
別の表現をすれば、抑圧された個性は「例外」により己のアイデンティティを取り戻す。

後者に対しては、制服を着崩す不良高校生などが典型例です。
一方の前者の例になるかはよく分かりませんが、今パッと思いついたことには、
理由も必要もないのに自分の衝動を止められない万引き常習犯、
飛行機内でマスク着用に執拗に抵抗して緊急着陸騒動を起こした大学講師、
のような人々に、当てはまると考えられるかもしれません。


……ここで終わると「例外を通例にする」ことがネガティブに響いたままになるのですが、
あらゆる物事には両面があります。

官僚制内部における例外の実行は、人間性を取り戻す行為でもあるわけで、
それが組織や社会からすれば秩序撹乱要因になるわけですが、
その主体である個人にとっては、動機としては至極まっとうな振る舞いといえます。

つまり、要はやり方次第というわけです。

そして、「多発性硬化症」が必然だとして、
その時限タイマーがいつ切れるかは分かりませんが、
(現代の風潮は「よもや自分が生きている間に切れることはあるまい」ですが)
「その時」にその犠牲にならない選択肢は、これしかないのです。

そして、
結局いつもと同じ結論が出てきましたが、

例外の発祥はつねにグラスルーツにあるのです。
 
 × × ×

 

*1:
あるいは「常識の専門家」というものを考えてみてもいい。
ヴェールケ氏の皮肉とユーモアあふれる文章を引用しておきます。

社会学者といえば、わずかなことに関して多くのことを知っている専門家であるのがごくふつうである。エントロピー力学の犠牲者として、彼らは時が経つにつれ、ますますわずかなことをますます多く知るようになり、あげくの果てには、ないことについてすべてを知るにいたる。これに対し常識は、たいてい多くのことをわずかしか知らない多面的知識の持ち主の知的働きである。彼らがエントロピー力学の犠牲者になると、ますます多くのことについてますますわずかしか知らず、あげくの果ては、すべてのことについてなにも知らないようになる」(p.44)

青豆とピーナッツ

 
『遠い太鼓』(村上春樹)をひさしぶりに再読し始めました。
一度目に読んだ時に書き込みがあって、初読は9年前だったようです。


つい最近オフィスで選書中にふと連想したのがきっかけなのですが、
他のきっかけが多すぎて、家にいるとそれが具体的に何だったのか思い出せません。

そういえば、家の本棚から本を取り出したのも久しぶりでした。
低いながらスライド式で幅と奥行きのある家で唯一の本棚は、
普段はインド雑貨屋で買ったテーブルクロスで覆われて居並ぶ本の背表紙は見えません。
では普段読む本はというと、本棚以外のあちこちにある積ん読からのチョイスです。

それはさておき。

『遠い太鼓』はギリシャ・イタリアの紀行エッセイ…ではなく、
氏の言葉でいえば「常駐滞在型旅行記」。
本書の時間軸の三年で氏は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げ、
その間ギリシャとイタリアを転々としながらどっぷり小説に浸かって書いていた期間のことを
「深い井戸の底に机を置いて小説を書いているようだった」と表現しています。
小説にもよく出てくる、井戸のメタファーですね。

それはさておき。


出だしをちらりと読んで、
9年前の自分が引いた線の箇所を読んで「ふーん」と思いながら、
最初に目に留まったのはまえがきのある部分。

氏が旅中に、自分を保つために書く文章である日記に対する姿勢について、
「シンプルでリアルに」、「ジェネラライズしないで」、と書いています。

これは氏のエッセイに限らず、氏の小説全般についても言える姿勢です。

が、そう思いつつも「あれ?」と思う。

僕が氏の小説や(特に)エッセイについて抱いていた印象の一つに、
「そこから引き出されてくる教訓の多さ、多彩さ」があります。


発端が具体的な事柄であるにしろ、
そこから教訓を導き出すのはジェネラライズ、一般化ではないのだろうか?

それは間違ってはいない。

けれど、重点の置きどころが違うのだ。


僕はつい、導出された教訓の方を「果実」だと思って読んでいました。
でもきっと、ハルキ氏が書くにおいて、教訓は「おまけ」なのです。
書く力点で言い換えれば、
瑣末で具体的な人や事件についてのシンプルかつリアルな描写に丹精を込め、
ついでのようにそこから出てくる教訓は「手癖」で継ぎ足される。

そう言って、べつに手癖で書くのが悪いとか誠実さに欠けると言いたいわけではない。
いわばそれは、遠泳のクロールにおける息継ぎのようなものだと思います。

深く潜り続けるには、途中で大きく息を吸って呼吸を整えなければ、体がもたない。


雑駁な経験を整え洗練することで生み出される教訓、
それは普遍の真理でもなんでもなく、
ただ「なんでもないこと」に過ぎない。

みんな似たような経験をして既に分かっていて、
敢えて言わずとも喉の奥に呑み込んでいて、
それでも口に出されれば「そうだよね」と頷き返す、
そのような「なんでもないこと」。

そのようなことがなぜか、格式ばって本に書かれると、
読む方は有難がって拝読してしまう。
そしてお墨付きを得たとばかり、説教してしまう。
それでも口に出されれば(以下同)。

 × × ×

今読んでいる『意識と本質』(井筒俊彦)に、こんなことが書いてあります。

 イスラーム哲学の初歩として、「本質」を2種類に分ける考え方がある。
 一方はマーヒーヤと呼ばれる、普遍的リアリティ、普遍性としての本質。
 他方はフウィーヤと呼ばれる、具体的リアリティ、個体性としての本質。
 世の習いとして、哲学者はマーヒーヤを、詩人はフウィーヤを追求しがちである。
 前者の好例はプラトンの「イデア」、後者はリルケの「即物的直視」。

本質を普遍性に見るか個体性に見るかで本質論ががらりと変わる、
というその多様な例を比較解説する序盤を自分はいま読んでいる段階で、
しかしマーヒーヤとフウィーヤを独特に結びつけようとしたのが芭蕉である、
というのとその概説を読んで非常に心惹かれた状態で上記について連想するのですが、


不易流行というのはマーヒーヤとフウィーヤの往還だと芭蕉はいう(と井筒氏はいう)。

一方で、小説とは具体的リアリティに徹するものであると、保坂和志氏はいう。

でもその保坂氏が、小説の中で一般化したり教訓を書いたりしないわけではない。
小説の中に現れる教訓は、個体性の内側でふと面影を見せる普遍性である。
その普遍性は、小説を規定することもなければ、登場人物を律することもない。
その普遍性は、いわば個体性が躍動するための「息継ぎ」である。

井戸端で痴話喧嘩の顛末を教訓化して「うんうん」と頷き合う生活者のリアリティ。
個体性に埋没する普遍性は、時に個体性を柔らかく包み込む普遍性でもある。


思えば、ハルキ氏の教訓は特に、「どうしようもない感」が強いような気がします。
そりゃそうなんだが、言っても仕方がないよ、というような。
でもそれでも、言わずにはいられない。
たとえば、予定が狂い続け、災難ばかりが起こる旅の道中においては。

そのような教訓を洞察と呼ぶには、俗に過ぎるし、役にも立たない。


そのような時、ハルキ氏は「やれやれ」と呟く。
スヌーピーの生みの親、C・シュルツ氏なら "Good Grief." と言うところだ。
 
 × × ×

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

救済思想と生産主義、なし崩シズムとAI化する人間

 

預言書からキリスト教に至る宗教は、未来へ未来へと向かう精神、現在生きていることの「意味」を、未来にある「目的」の内に求めるという精神において、この近代へ向かう局面を主導してきた。
(…)
 ことにダニエル書は、シリア王アンティオコス・エピファネスによる徹底した迫害と受難の時代に、この現実の地上の絶望の徹底性に唯一拮抗することのできる、「未来」の救済の約束として霊感された。現世に何の歓びも見出すことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来るべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ、現世に不幸な者たちの未来には天国があるということ。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった。

「3章 ダニエルの問いの円環」p.96-97
見田宗介現代社会はどこに向かうか──高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書,2018

また、この前章である2章の末尾にはこのような表現がありました。
下記の「第II局面」とは、人類史における人口増大局面のことです。

生存の物質的基本条件の確保のための戦いであった第II局面において、この戦いに強いられてきた生産主義的、未来主義的な世の<合理化>=<空疎化>という圧力 (p.91)

 
見田氏のわりと最近の著書である本書は、氏の過去の論考を踏まえてはいるがそれらとは違って、非常にざっくりした手法で論理が展開されています。

日本や欧米諸国の青年の精神(価値観)の変化を、定点観測的な統計調査の数値をベースに分析する、その基本論調はきわめてポジティブなものです。
二つ目の引用は、現代世界は、その「圧力」が解除されて「この世界の中に存在していることの<単純な至福>を感受する力が、素直に解き放たれるということをとおして、無数の小さい幸福たちや大きい幸福たちが一斉に開花して地表の果てまでをおおう高原」に位置する、という文脈の中にあります。


それはいいのですが、

そうして一つ目の引用まで読んできて、
ここは生産主義的な価値観、未来を現在に繰り込む「無時間モデル」(@内田樹)の原型というか、
元をたどれば最初にあった思想がこの「救済の思想」であるというくだりで、
見田氏のこのまことに大づかみな発想が正しいかどうかはさておき、
思考を刺激される発想ではあって、
しばらく読む手を止めてあれこれと考えを巡らせたうえで、
ちょっと書いておこうかなと思って本をいったん座右に置いたのがついさきほどのこと。

というわけで、以下本論。
 
 × × ×
 
現代社会で主流となっている(別に傍流でもいいですが)思想の、
その原初形態、あるいはその思想の由来となる思想が仮定できたとします。

前者を現在思想、後者を原初思想と呼べば、
現在思想には原初思想の主な特徴との共通点がある(だからこそ「仮定」できる)と同時に、
原初思想のその他の特徴も何らかの形で引き継いでいる、と考えるのは自然な推論です。


主な特徴というのは、見田氏が書いているように、
「現在生きていることの「意味」を、未来にある「目的」の内に求めるという精神」
のことで、これが原初思想(救済思想)と現在思想(生産主義的価値観)とで共通している。

生産主義が救済思想を採用した、という言い方は違和感があるかもしれませんが、
そうして両者が結びついた理由を考えると、
救済思想が、ほかの考え方よりも「生産性の高い思想」だったからだと思われます。

現在に満足する人間よりも、現状に不満を感じる人間のほうが、より多くの努力をする。
その不満が軽微であるよりも、絶望的であるほど、その現状を打破しようと必死になる。

人類の人口増大期は、生活物資の供給が増え続ける需要に脅かされる時期で、
現状維持では食うにも困る、というギリギリの局面であったのかもしれません。
技術革新が時代を拓く以前は、人力をいかに最大化するかが最重要課題であった。
つまりは勤勉さや質素倹約などを推し進めるための、社会の共通認識の構築。
宗教もその手段として用いられたでしょう。

とにかく、
生産性向上のための思想として救済思想がその中核に据えられ、
その性質は現代の生産主義的価値観にも息づいている

という考え方は筋が通ってはいます。


それで、ここまでは原初思想の「主な特徴」について書いてきたのですが、
僕が考えたいと思ったのは、原初思想の「その他の特徴」の方です。

つまり、上に書いたこと以外にも、
生産主義が救済思想を引き継いだものがあるのではないか、
形を変えていても何らかの結びつきを想定できるものがあるのではないか、
という関心です。


「その他の特徴」として僕は、一つ目の引用の下線部中の太字部に注目しました。
下線部をもう一度ここに抜粋します。

現世に何の歓びも見出すことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来るべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ、現世に不幸な者たちの未来には天国があるということ。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった。

 
われわれの未来に「天国」が待っていること

「天国」にたどり着くためにひたすら努力することへの誠実さには、
それが叶う可能性の低さを度外視することが含まれています。
100%叶わないと分かっている夢を追える、まともな人間はいない。
それは、ある面では現実を見ないことであり、抑圧でもある。

抑圧はその姿を変えて回帰すると精神分析学では言いますが、
たとえば、この誠実さは往々にしてファナティックな形態をとることでしょうか。
あるいは、実際にたどり着く見込みが現れた時に、それを拒否してしまうこと。
「天国」への努力が自分を生かしているとすれば、到着は死を意味するからです。

富み栄える迫害者には「地獄」が待っていること

被迫害者の救済が叶うのは、迫害者がその迫害を継続できなくなった時です。
「被迫害者が成り上がる」ことの裏面として、「迫害者が成り下がる」ことがある。
確固とした強者と弱者の関係が前提とされる限り、それを打ち破ろうとする意志は、
自分の幸福を願うだけでは済まず、必然的に相手の不幸を願わざるを得ない。

「下」にいる者は上がり、「上」にいる者は下がる運命にある。
盛者必衰のこの運命観はもちろん、これを運命と確信する点に強い意志が胚胎する。
そしてこの希望の運命観は、自分が「上」に立った時には逆に自分に恐怖をもたらす。
「上」に立った者は、今度は「下」に回った人々に不幸を願われる側となるからです。


さて。

これらの救済思想の特徴が、現代社会の生産主義的価値観にどのように反映しているか。
特に換言する必要もない気がします。
 
 × × ×
 
”生産主義は、生産の増大が死活問題であった時期には妥当なものであった。
しかし、社会に生産の増大が必要でなくなった時代に果たして幸をもたらすのか。”

見田氏は著書において、
「高原の見晴らしを切り開く」ためのプロセスとして、
このテーマについて検討することが必要だと考えているようです。

そうかもしれません。

が、価値観を維持するのか転換するのか、いずれにせよ、
「やむをえずそうなった」のではなく、
「自らでそれを選び取った」と考えることが大事のような気がします。


日本人は伝統的に、「なし崩し」を好みます。
根本的な変化の決断は自分が下すよりは誰かが下す方がよく、
その誰かは特定個人というよりは「お上」とか集団的意志の方がよい。

けれど、そうした「なし崩し」を落ち着いて受け入れるには前提がある。
それは、日本社会のマジョリティがその主体となる場合です。

ネット民主主義を新たな集団的意思とみなすことはできなくもありませんが、
匿名的、非身体的な現状のネットツールはその使用形態において個人性が強い。
ダンパー数(150だったかな?)というものがありますが、
日常的で身近な接触を前提としてネットがそのつながりを補間する、
という形態では規模が限られるし、
ネットだけでのつながりを何らかの意思を体現する集団とみなすには、
ネットツールはまだまだ未熟です。

共同幻想とインターネットの日常生活化の関係も興味深いですが、
現代社会の共同幻想は、孤立した個人が自己中心的に抱くものに思えます。
その内実は「タテマエ安心ホンネは不安」で、
「みんなが不安だと思っているから、今不安な私もそれで安心」という、
偏差値は変わらないけど全体の学力が落ちている学齢集団
というのと同じ状況を僕は想像しています。


結局のところ、
人が何を望んで、それが実現しようがしまいが、
そのようなプロセス自体はその人が望んだ状態であって、
その自覚が現状維持の納得や現状打破の決意につながるのですが、

橋本治なら「それこそがまっとうな人間の意識活動である」と言うところで、
彼もまたそう思っているように僕もそう思うんですが、
そもそも人は「まっとうな人間の意識活動」をしたいと思うのだろうか、
という疑問には答えようがありません。


話がどんどんずれたまま、”なし崩し”的に終わりますが、

アンドロイドは技術開発が進めばどんどん人間に近づいていきますが、
それはかつては、
グラフにすれば完全な人間性にはたどり着かない「漸近線」を辿る、
ようなイメージを持たれていたと勝手に想像していますが、
現代ではそれとは違って、
というか僕自身がつい最近抱いたイメージがそれとは違うという意味ですが、

グラフには曲線が一本ではなく二本あって、
そのグラフの横軸は人工知能等の技術進歩を、縦軸は人間度を示すのですが、
一本目はもちろんロボットですが、二本目はじつは人間のほうで、
縦軸の目盛り(つまり定義)は人間が操作できるという奥の手があるにしても、
その二本の曲線は交差する(いずれは、あるいは既に)。
森博嗣のWシリーズにはその交差の機微がいきいきと…ではなく淡々と描かれています。


それを人間の側が口では望んでいないと言っても、
それが結果であるのならば、それは人間がそう望んだものです。

自分の願望を自分で否定するのは精神分析でいえば分裂病なのでしょうが、
精神病というのはそのようにマッチポンプで創造されるものなのでしょう。
 
 × × ×
 

 

「前兆」の保存とその変容

 

 もっとも興味深い帰結のひとつは、十七世紀の信仰運動である。そこでは、救済の成就のための試みが私事化されたのであった。(…)
 [こんにち]すくなくとも、この信仰運動の二つの効果は心のうちに保たれているに相違ない。その第一は、自分自身の救済に必要なものとしての義援および慈善をべつとして、他者の経験に向けられていた諸個人の指向性は著しくその価値を減じた。(…)
 
 もしあなたが他者の役割を取得し、その献身を賛美するとすれば、あなたはすでに誤った轍に入り込んでしまったことになる。すなわち、献身は、すくなくとも意図的にはコミュニケートされえないのである。このことは第二の認識にいたる。真実のそして虚偽の献身は区別されえないものとなる。誠実さおよび真性さはコミュニケートされえない。しかし、もし他者が彼の誠実さを知りえないとすれば、個人は彼自身を信頼しえないものと感じることとなろう。同じ問題が恋愛関係にも生じる。恋の片われを確信しようとするものはだれでも、そのように試みることによって不誠実となる。唯一の逃げ道は、不誠実さの告白とならざるをえないであろう。

「第五章 個人的なるものの個的存在性」p.87-88
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

 
コミュニケーションの手段の変化・多様化は、コミュニケーションの質を変える。
その質の変化は、コミュニケーションの定義さえも変えうるが、
コミュニケーションを駆動するものが原初的なモチベーションである限り、
「コミュニケーションの成功」の内実とそのモチベーションは乖離を拡げていく。

ルーマンのいう「成功」とは、そのコミュニケーションが相手の行動に変化を与えることだ。
コミュニケーションの形式や内容が、痕跡を残すこと、保存されることは、「成功」とは関係がない。
そして、「成功」が記録され再現されることが「成功」の再生産につながる確たる証拠もない。
文字媒体の保存技術の発達はしかし、これにより「成功」が飛躍的に増加すると信じて進められた。


本来の「成功」は、生まれた途端に消えてしまう前兆のようなものである。
行動を、また行動の変化を軸に考える者は、「成功の保存」を前に頭を悩ませることになる。


形のないものに、形を与える。
与えられた形は、外形を不変のものとし、時間に対する耐圧を獲得する。

しかしその形はかりそめの、擬制であらざるを得ない。
残余を、行間の存在を前提とした実体化には、その前提を遵守する謙虚さが伴う。
これが、技術革新に伴う跳躍を自らに許した、発祥の者達の認識である。

 × × ×

「真実の献身」と「虚偽の献身」は、区別されえない。
「誠実さ」および「真性さ」は、コミュニケートされえない。
しかし「個人」は「彼」を信頼しうる。
「彼の誠実さ」はコミュニケートされずとも、それと知れうるからである。

ルーマンはこのように言う。
では同じく、こうも言えるだろう。

「献身」の「真実と虚偽」は、区別されえないが、そうと知れうるものである。

(偽善という発想は、「誠実さ」がコミュニケートされうるという誤解に基づく)


コミュニケーションには乗らないものがある。

たとえばそれは個人の内面であり、彼の内面である。
それらは、互いに内に閉ざされ、各々の身体という二重の壁に阻まれて見える。
しかし実際は、その二重の壁をすり抜けて、内面同士が照応し合う。
このことは、コミュニケーションの結果なのか、前提なのか。

内面の明示化、などと言われることがある。
それは記号であり、方便であり、端的に嘘だ。
それは、コミュニケーションに乗らないものを無理に乗せることである。
そうして、コミュニケーションの内実は重層化し、理解は表層化する。


「成功」の確約は、「成功」の質を落とさずには叶わない。
同時に、その質を落とさない唯一の方法は、それと知らずにいることだ。
そうして、存在を認識に従属させる方便が、さらなる内面の変容を導く。

「唯一の逃げ道」は、轍の消えた、かつて通りし獣道である。
 

「ここですね、ここにサインをお願いします」
「何の書類ですか?」彼はきいた。
「誓約書ですね、子供を引き取ったということに対する」
「いや、引き取ったのではない。自分の子供です」
「うん、でも、引き取ったことにした方が、結局は、処理が簡単になると思います。どうします?」
「なんでもいいですが」
「じゃあ、とりあえず、サインを」
 これまでに何枚の書類にサインをしたか、と思いながら、彼はそこに名前を書いた。世の中、肝心なことにはサインをする暇はない。どうでも良いことになるほど、サインが必要なのだ。
「はい、どうも......、これで、来月から、たぶん、手当もつくと思います」
 片手を軽く上げて、部屋を出る。外でまだ二人が立ち話をしていた。
「誰が墜ちたんです?」一人が彼に尋ねた。
「さあ......」彼は知らない振りをした。
 死んだら、誰が自分のための書類にサインをするのだろう。それとも、死んだときのための書類は、もうサイン済みだったか。そうだ、とっくにサインをしたような気もする。

森博嗣スカイ・イクリプス』中公文庫