human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

責任の孤独

「どうしたんです?」院長はいった。
「いや」わたしはうろたえていった。
「なにか話したいことがあると思ったんですが。よく考えたら、話すことは別にありませんでした」
 それから、また、わたしは黙った。院長もだ。いやはや。たまりかねて、わたしはいった。
「無理です」
「なにが?」
「こんな『仕事』、わたしにできるわけがない」
「じゃあ、誰がやるんです?」
 そして、また、わたしは黙った。肝心な時に、なにもしゃべれないなんてな。わたしは、この世でいちばん愚かな人間になったような気がした。

「星降る夜に」(高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン』)

 
胸に手をあて、その鼓動を身に帯びる。
 
 無意識を、意識する。
 見えないものが、見えてくる。
 語る前に、語り終えてしまう。
 その口は、開く機会を失う。

 無意識を、意識する。
 動くものが、止まって見える。
 街の喧騒が、静謐の原子に分解される。
 その調和は、彼岸を此処に引き寄せる。

 無意識を、意識する。
 一陣の風が、生死を吹き抜ける。
 一葉の水脈が、秩序の理を開示する。
 その国は、破れずして山河たる。

 無意識を、意識する。
 君の目が、僕の目を見る。
 僕が、君の目を見つめる。
 その光は、減衰を超越する。

責任の孤独は、その証明を請け負う。
 
 × × ×

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

「テキトーと適当のあいだ」の民主主義

 

 もし、キリスト教イスラム教、プラトニズムやマルクス主義ハイデガー思想の中に何か非民主的なものがあるとすれば、それは〈人間〉や〈理性〉や〈歴史〉の本性に関する何らかの特定の学説にあるのではなくて、これらの宗教や哲学をあまりにクソ真面目に考えすぎることにあるのである。それは原理主義へと向かう傾向、つまりこれこれの宗教あるいは哲学の学説に同意しない者を民主社会の危険分子だとみなす考え方なのである。どんな学説も、それ自体はたいして危険なものではない。民主主義がそうした学説のいずれかに忠実に従わなければならないという考え方が危険なのである。
(…)
ロールズの言い方を借りれば、民主主義的な社会理論は、「哲学的な意味では、表層に踏み止まら」なければならない。それはもはや、民主主義の哲学的「基礎」を探し求めるべきではないのである。そうした理論は、共通点を持たない人々を公正に取り扱いうるような道徳的センスを理論的に表現することで満足すべきなのであって、そうしたセンスを何かもっと確実なものに基礎づけようとすべきではないのである。

「哲学をクソ真面目にうけとること」リチャード・ローティ/吉岡洋訳(『現代思想 1989 4 Vol.17-5 臨時増刊 総特集 ファシズム FASCISM』p.89

 
冷静と情熱のあいだ」のように、
「AとBのあいだ」という言い方は、
言葉にして定義できないものや状態を、
なんとか表現しようとする苦肉の策です。

あるいは「民主主義」も、
そういうものなのかもしれません。
定義して確定させてから維持するのではなく、
遂行的な試行錯誤を通じて形を成していくもの。

導きの星」という表現もあります。
決して到達しないと知りつつ、
理想に向かって歩み続けること。
そのプロセスに終わりはありません。
 
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Goodbye, and Goodhello

 ねえ、クリストファー・ロビン。もういってもいいよね、「疲れた」って。ぼく、ほんとうに疲れたんだ。
 世界がこんな風になったのは、向こうの世界で(どんな世界か知らないけれど)、とんでもないことが起こったからだ、というやつがいた。だから、ぼくたちは、自分で自分のことを書かなきゃならなくなったのだと。そうなのかもしれない。でも、そんなことは、もうどうでもいいのだけれど。
 クリストファー・ロビン、「外」を眺めているのかい。ただ、「虚無」しか見えないのに。でも、もしかしたら、きみには、もっと別のなにかが見えているのだろうか。

さよならクリストファー・ロビン」(高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン』新潮社,2012)

 
「物語はかつて、人から人へ語り継がれたきたんだ」
「そうね」
「なぜなら、その物語は、形はなくともずっと残されるべきだと、人々が思ったからだ」
「……」
「そして、人は物語に形を与える方法を見つけた」
活版印刷?」
「そういうことだ。いや、石板とか、壁画とか、古いものはいろいろあったけれど、ひとつの革新はそこにあった」
「紙は文字を書くにも、束ねて保存するにも便利だものね」
「本を発明することで、人は語り継がずとも物語を残すことができるようになった」
「物語が確とした形を持つことになった」
「それは物語の本質ではないけれど、物語を後世に伝えたいという一世の人々の願いを叶えるには十分な形態だった」
「……そして?」
「そして、今再び、物語は形を失くすに至った」
「電子媒体?」
「そういうことだ。画面に呼び出せば文章は現れる。が」
「それを『形を持つ』ということはできないのね」
「形を持つものは、同時に異なる空間に現れることはできない」
「……」
「データは無限に増殖する。それは、本質的にデータが物ではないからできることだ」
「……つまり?」
「つまり、物語の伝授は新たな段階に入ることになった」
「物語は形なく伝えられ、更に伝えるために形を得て、そして更に伝えるために形を失った」
「形は本質ではない、しかし伝達効率の決め手ではあった。効率の名の下に、物語は形を変えてきた」
「文字通り?」
「そういうことだ。そして」

「形式が本質を喰い破る?」
「……」
「形を得た物語は、形があることで力を、その効果を幾分失いはしたけれど、それでも人々は物語に願いを託して引き継がれた。物語の本質的な力が減じた分、形を得ることで新たな可能性も生まれた。けれど、再び形を失った物語は、もう前には戻れないのね?」
「……そうだ」
「語り継がれる物語には、物語自身に力があった。形を得た物語は、その形によって、異なる時空にいる多くの人々が力を引き出せるようになった。けれど」
「けれども、力を失い、一度は得た形をも失った物語は」

「消えていくのね?」
「……」
「データとしては残る。無限に増殖する可能性も秘めている。でも、消えていく。そうね?」
「……」
「では、私たちはどうすればいいのかしら?」
「……」
「再び、形を取り戻す? データを、形式ごと破壊する?」
「それは、僕たちがこれから考えていかなきゃならない。後戻りはできない。僕らにできるのは、先に進む道を選ぶことだけだ」

「本当かしら?」
「……?」
「かつて物語は本当に、過去から現在へ、現在から未来へ、伝えられてきたのかしら?」
「……」
「形なき物語は、形に永遠を求める必要がなかったのではないかしら?」
「……」
「物語に形を与えた人は本当に、それで心の平穏を獲得したのかしら?」
「……つまり?」


「その先はあなたが考えるのよ、プー」
 

「おじいちゃんは死んでしまったけれど、私の心の中にいつまでも生きている」という言い方が慣用表現みたいにしょっちゅうされるが、「私の心の中にいつまでも生きている」ことは回想される情景の中で死んだ人も生きていることとは違うのではないか。何が違うか? と訊かれたって今の私には答えられない。しかし、回想するという行為を、「私の心の中」という閉じられた領域の中だけで起こっている個人的な行為と考えないで、もっと現実的で非 - 主観的な次元に開くことができたら、というか、〈主観 - 客観〉という二元論で貶められている主観に正当な領域を切り開くことができたら──大げさに言えば、回想するという行為を世界に還元することができたら──、今と過去の関係を変えることができるのではないか。
 回想される情景の中では今はすでに死んでいる人が生きているのだが、見方を変えれば、回想される情景の中にいる自分自身もすでに死んでいる人と同じように戻ってこない。私は今はすでに死んでいる人と会うことができないが、回想の中にいる自分自身とだって会えるわけではない。私がよく知っている私はそういう死者の領域にちかいところにいるのだ。

「時間には人間の力は及ぼせない」p.164-165 (保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』草思社,2007)

 × × ×

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

  • 作者:保坂 和志
  • 発売日: 2007/10/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

運転手と王さま

 × × ×

 言葉には意味がある。
 人は意味を頼って言葉を発する。
 時には言葉にない意味を頼って。
 意味は根に養分を与える、土のあるところでは。

 木は枝を伸ばし葉を拡げる。
 葉の重なりは光を遮り陰を生む。
 陰に形はなく、形なきところに陰はない。
 陰に宿るもの、形あるものにはないもの。

 × × ×

 人から人へ伝わる、意味のある言葉。
 言葉が持つ意味、人が新たに乗せる意味。
 言葉には座席があり、意味の乗客は限られる。
 乗る意味、降りる意味、乗り続ける意味は運転手。

 目の前で出発したバスに乗り遅れる。
 意味は泰然とバス停に佇む。
 バスはひっきりなしに到着する、座席も空いている。
 乗り遅れることに恐怖はない。

 バスは道を走行する。
 路線図はない、時刻表もない。
 運転手はハンドルを握っていない。
 自動運転はまだ実現されていない。

  荒れた道では靴をはく。
  舗装されれば裸足で歩く。
  靴と道路は仲が悪い。
  こいつがいなければ、とどちらも思っている。

 王さまは赤い絨毯の上をゆっくり歩く。
 赤い絨毯はくるくると王様の前で解かれていく。
 王さまは裸足だ。
 服が着られているかは定かでない。

 バスが王さまの前で停止する。
 乗客はみな降り、王さまが乗り込む。
 運転手は変わらない。
 バスは赤い絨毯の上を走り出す。

 王さまは行き先を告げる。
 運転手は首を横に振る。
 王さまはハンドルを要求する。
 運転手は両手を上げる。

 バスは赤い絨毯の先端に乗り上げる。
 王さまは赤い絨毯と運転手に警告する。
 赤い絨毯はくるくるを止め、運転手は何も言わない。
 バスは道なき道を進む。


 言葉は意味を背負い続ける。

 × × ×
 

尽きぬ流れの「初源」の風景

『水源 The Fountainhead』(アイン・ランド)を読了しました。
かなりの大著で、平日に一日1~2時間読み進めて、半年かかりました。

あとがきに書いてあったことですが、
著者は20世紀初期にロシアで生まれたユダヤ系の人で、本名はアリッサ・ローゼンバウム、アメリカに亡命して映画業に関わりながら小説や論文をものしたと言います。
一般的にはハイエクフリードマンと並んでのリバタリアニズム(libertarianism)提唱者と言われ、しかしそれを本人は認めておらず、論文によって自らが追求したのは客観主義(objectivism)の思想であったらしい。
『水源』の執筆から完成まで、七年。

それはさておき。

───

この本からいろいろなものを得て、
いろいろ考えてみたいこともあり、
でも何かまとめたことを言おうという気にはならない。

物語は(僕が最後まで読んだのだから)終わってしまったのですが、
何かが終わったという感覚、たとえば喪失感のようなものはない。

あるいは、読中に心を動かされた一節につけた多くの付箋が、
これから読み返されるのを待っているからかもしれない。

───

この本では、「自己中心主義」と「利他主義」が大きなテーマの一つです。
本ブログでちょっと前に「自己責任主義」と「他責主義」のことを書きましたが、
これらに関係することでもあり、僕はこの点に深い関心を持って読んでいました。

リバタリアニズムは「自由至上主義」とも呼ばれていて、
自由はいいのですが「至上」が付されることで、原理主義の一種のように見えてしまう。
原理主義も一括りになどできませんが、どこかしら頑なで融通がきかず、ある方面で極端になるというイメージがある。

でも、そうだけど、そういうことではないんだと。


著者がある思想の体現者で、その思想が一言で表せて、
それを前提にして著者の物語を読んだ時に、読者の理解は進むかもしれない。
読みながら、ある場面描写や人物の発言について、疑問に思うことが減ることもある。

でも、その前提に依拠することで、圧倒的に失われてしまうものがある。

───

僕は以前に、小説でも随筆でもいいんですが、ある種の書き手のことを「渾身系」と呼んだことがあります。
もちろん学問に資する分類ではありませんが、この分類に沿えば、『水源』の著者もその一人です。
「渾身系」の著者の作品を読む時の僕の姿勢には共通点があります。
それは「この人の文章には並々ならぬものが詰まっている」という想定をすることです。
というか、読んでいて、気負わずともそう思わせてしまう書き手のことを僕は「渾身系」と名付けたのでした。

 ここには、深く考えるべきことが書かれている。
 考えて考えて、今の自分に分からなくとも、心に留めておくべきことかもしれない。
 この文章の中に、世界の認識を変える一言が含まれている予感がする。
 これが当時に書かれ、数えきれぬ人々が読み、
 その人の数だけ受け取られ、解釈が施されてきたが、
 今自分が考えているこの文章が賦活する予感が、
 かつての読者に既に見出されているものだ、という考えにはどこにも根拠がない。
 世界の真理が言葉として書かれ、その文章が世に出回り、しかし世界を何も変えない、
 それは必ずしも言葉が力を持たないことを意味しない。 
 ある本に託された真理がその未曾有の力を発揮するのはいつか、
 本が出版された時か、ベストセラーになった時か、世界中の人が読んだ時か、

 それとも他ならぬ自分自身がこの本を読み終えた時か?

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水源―The Fountainhead

水源―The Fountainhead

 × × ×

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「システム」または「壁」、および「個」または「卵」にかんするリオタールの発言(1988)

 

 それこそが《敵》なのだと私は思いました。《敵》は資本主義ではなく、私が《大きなモナド》と呼んだ、誰もコントロールできない発展のプロセスなのです。人間は自分たちがその発展の作り手だと思っていますが、実は人間は作り手ではなく、ただ単にその担い手であるに過ぎません。このプロセスは人間よりも遠くからやって来て、また人間よりも遠くにまで行くのです。(…)なぜ《敵》なのか。それは、まさに倫理がないからであり、倫理を必要としていないからなのです。そして、倫理だけでなく、それはまた美学も必要とはしていません。そこにあるのは、われわれが理解しているような意味における《エクリチュー ル》では全くないような美学でしかありません。そこにあるのは、情報を生産するという必要だけなのです。それに対して、私がさきほど、《ユダヤ的思考》という名のもとに、大急ぎで描いたもののなかには、情報はありません。このような思考の様態においては、あるのは情報ではなく、出来事なのです。われわれは、何世紀もかかって、出来事のなかに含まれている情報を理解しようと努力します。しかし、ある意味では、われわれはけっしてそこに到達することはありません。すなわち、出来事の意味、つまり出来事が運んでいるものをわれわれが《情報》と呼ぶものへと特定化し、固定化することは、まさに倫理を禁じてしまうのであり、そのことはあなた[質問者=豊崎光一]が《ストックされた思考》──つまりただストックされたに過ぎない思考──について語った通りです。倫理にもエクリチュールにも、いかなるストックもありません。それぞれの度ごとに、ひとは《はじめ》にいます。この誕生については、ハンナ・アーレントにとても美しい文章があります。反省的判断についてのものです。反省的判断は誕生のようなものなのです。それは、知識なく、つまり判断基準なく判断するという能力だからです。
 ところが、われわれは、発展によって極度の脅威に曝されています。それは、この発展が認識、情報、コミュニケーション、流通、そして進歩についての理念を持っているからです。つまりその発展においては、意味は、まさに出来事を迎え入れるために、そして私の言う《起こるか?》のために、そしてエクリチュールの源泉である瞑想のために必要な、空虚な時間、空虚な空間というものを排除してしまうからなのです。これが、私がごく簡単にお答えできることです。

ハイデガーが知らなかったもの 《ユダヤ的なるもの》と西欧における倫理の問題」ジャン=フランソワ・リオタール小林康夫
現代思想 1989.4 Vol17-5 臨時増刊 総特集 ファシズム』p.128-129

※太字は引用者

香辛寮の人々 2-8 (承前)

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」 - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-6 (承前) - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前) - human in book bouquet

* * *
 
「僕はここ最近ずっと、システムについて考えている」
「へえ、何のシステム?」
「特定の何かじゃないんだ。一般的な…という言い方もよくないな。定義を考えよう。僕が言いたいのは……『人の意図から離れたところで社会を維持しようとする仕組み』のことだ」
 セージは天井を見上げる。白熱電球がひとつ、あかあかと光を発している。
「君のいうそれを、今はシステムと呼ぼう、と?」
「そうだ。だからいろんなものを含む。いちいち挙げるのは面倒だけど、たぶんシステムに含まれないものはほとんどないと思う」
 彼は頭を戻し、とりとめのない面持ちでフェンネルの眉間を眺める。

 どうやら彼の頭は高速回転しているらしい。
 そこには充実の雰囲気があり、同時に空回りを運命付けられているようにも見える。
 個人が扱うには大きすぎる問題?
 どうなのだろう。
 そもそも何をもって、大き「すぎる」などと判断するのか?
 意識に限界がなければ、意識の扱う対象にだって限界もないだろう。
 もちろん、健全だとか酔狂だとか、そういったことはまた別問題だが。

「それで…君のいうシステムは、具体的に考えるよりは、なんというか、概念のまま考えた方がわかりやすいのかな?
「いや、分からない。それは考えてみないことには」
「うーん、そうであれば、とりあえずは具体例に落とし込んだ方が、考えやすいんじゃないかな? 理論を構築したいわけでもなし、あわよくば教訓だとか、警句みたいなものが導ければいいくらいに思っているのだろう」
「いや、分からない」

 フェンネルはセージに向き合っているが、その目が何をとらえているのかは窺い知れない。
 そうだった、下手に相づちを打ってもフェンネルの場合には逆効果なのだった。
 円滑な言葉のキャッチボールが、そもそも求められていないのだから。
 だから気を遣う必要はない。
 ないのだが……。

「何を問題にしていたのか、ちょっと忘れちゃったけど、新聞の話をしていたんじゃないかな。そう、新聞を読んでいるとね、そこに書かれている言葉の多くに、ちぐはぐな印象を受けるんだ。論理性とか、嘘か本当かとか、そういう問題じゃない。ニュースにしろ評論にしろ……いや、そこはひとくくりにできないな。主に政治の言葉にしておこうか。政治家の発言、行動、政治的なニュース。一つひとつのニュースには、それが報道される意味がある、と少なくとも送り手は考えて紙面を構成している。その意味に従って、ニュースの書き方、つまり実際に起こったことの切り取り方が選ばれる。そういう報道側の意図は裏にあって、でも表には、政治家の意図がある。国会で、記者会見での発言、あるいは靖国に今年は行ったとか行かなかったとかの行動、彼らの言動の一つひとつが目的を持っている。少なくともそのはずだと僕らは考える。政治家は自分が見据える目的を達成するために、日々活動しているわけだ。その目的が、彼ら自身のためなのか、僕ら有権者のためなのか、はた目に明らかではあるけれど、そこは今は問題じゃない。僕がちぐはぐだと感じているのは、彼らが目指していることと、彼らの言動がもたらす結果とが食い違っている、ということだ。それも、社会情勢とか人民の反応に対する彼らの『読み』が間違っているからではなく、端的に彼らのもっているはずの思想と実際の言動とが乖離している」

 セージは目を丸くしてフェンネルの話を聞いている。
 真剣ではあるが、その内容に驚いているようにも、何も理解してないようにも見える。

「どう表現すればいいんだろう。あんた、本当にそんなことやりたくてやってるの? 言いたくて言ってるの? ざっくり言えばこうなのかな。何かに無理やり言わされていて、でもその自覚が全くない。自分の意思ではないものを、あたかも自分の意思であるかのようにして自信満々に振る舞っている。……いや、そうか。自信満々に振る舞うことが正しいんだ、という確固とした自信があるんだ、彼らには。で、形式、姿勢にばかりこだわって、彼らの発言の内容にまで思考が届いていない。内容なんて後でどうにでもなると思って、とにかく政治家としての格好を取り繕うことに夢中になっている」
「ああ。それはそうかもね。国会でのやりとりを見ていると、閣僚の答弁の杜撰さに動揺して発言が混乱する野党議員の方が異常に見えるくらい、大臣の面々はつるりとした顔で発言しているからね」
「あの国会答弁の絵面は相当にグロテスクなはずで、だから国会中継がニュースの素材になる時はニュアンスが皆無になるほど細切れの断片でしか扱われない。まあでも、どこかの放送局では最初から最後まで見られるはずで、そのグロテスクが完全に隠蔽されているわけではない。ただ、というかだからというか……『世の中って結局こんなもんだよ』という諦念、あるいは侮蔑の認識の象徴になっているんだよ、あれが」

「あれというのは…国会答弁の中継が、かな。国のお偉いさんがテキトーなこと言ってごまかしているのが常識になる、というようなことかい」
「うーん。そういう一面もある。ただその……まず、『閣僚の答弁の酷さは市民のモラルハザードを招来する』みたいな発言を野党の誰か、えーとあの福耳の人かな、言ってたけれど、あれは一面的な見方であって、閣僚答弁は彼の言う原因であるだけではなく、結果でもあるんだ。つまり、彼らの存在を許しているのは紛れもなく僕ら、有権者一人ひとりだからね。その、政治家の誠実さとか、まっとうさよりも経済政策を優先した一部の大勢が求めた結果が現状なのかもしれない。それは経済情勢の好転のために他の面には目を瞑る、という判断だね。だけど、その判断自体がモラルハザードであり、その始まりであると考えることもできる。だから彼らは鏡、政治家の醜悪な姿は僕らの映し身であって、見るに堪えない理由は倫理観とか義憤の表れではなく、羞恥心なんだよ」
「ふむ」
「それとね……そうそう、こっちの方が大事だ。政治家の印象の話をしても仕方がない。その印象が、当たり前に受け入れられている、あるいは華麗にスルーされている、問題はこちらの方だ」
「ええ? 誰も受け入れてはいないだろう」

「個人の感情としてはね。だけど総意として、たとえば内閣支持率もその一つだけど、もう内閣総辞職してもいいくらいの失態をいくつもしているのに未だ現状が維持されていること。常識外れな突拍子もない政策が立案されて批判され、実行されて批判され、撤回されて批判され、それでもまた同じようなことが繰り返されていること。これらが意味するのは、結果として、今の政権を社会が受け入れているということだ」
「結果として、ね。なんだか突き放した言い方に思えるけれど。あれだな、ゲーム理論を思い出すね。一人ひとりが効率を追求して、結果として集団全体が非効率に運営されるという話」
ゲーム理論? 信頼理論じゃなかったっけ。まあいいけど…でもそうだな、そういう話かもしれない」
個人主義の追求が社会を衰退させる」
「うん……誰が言ったか全然思い出せないけど。ダメだな、理論を整理するには提唱者の名前もしっかり記憶しておかないと」

 話すごとに俯いていくフェンネルの額は、今はテーブルにくっつかんとしている。
 肘を付いて持ち上げられた両手の指がひよひよしている。
 餅を喉に詰めて苦しむ田舎の爺さんのようだ。
 声を上げて助けを呼びたいが、嫁の手前、格好悪い姿を見せられない。
 その表情はわからないが、だいたい想像はつく。
 まあ、こういう時にはフォローが必要か。

「ん? いや、別に理論的な考察をしたいわけではないのだろう」
 指のひよひよがぴたりと止まる。
 予想に反して、少し浮いた頭の下は無表情だ。
「そうだった。……コーヒー入れよう」
 セージの興味津々という観察顔は、フェンネルの目に入らない。
 彼は立ち上がって、ふらりと台所に向かう。

 文脈不明な話を長々と聞いているだけなのに、セージは自分が元気になってきたことに気付く。
 彼のエネルギーを吸い取ってしまったろうか、と思う。
 エントロピー、という言葉がふと浮かぶ。
 無秩序性のとめどなき拡大、というやつだ。
 この法則は、外部とのエネルギー交換が存在しない系の内部で成立する。
 今いるリビングがその理想的な系だとして……、
 僕とフェンネルのどちらが、より無秩序になっただろうか?
 いや、しかし秩序と静謐とが同じベクトルとも限らないな。
 意志のエネルギーは、あくまでメタファーに過ぎない。

 だが、メタファーによって、僕らはエネルギーを獲得するのだ。
 物理学にしてみれば僕らが住む世界はSFに思えることだろう。

* * *
 

香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前)

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* * * 

 ヒハツ・コーヒーが入ったカップ2つを手にして、フェンネルがテーブルに戻ってくる。
「この胡椒自体に燻製のような香りがあってね、ドリップ前に粉に足すとコーヒーに深みが増すんだ」
「ふむ。君はどんどんスパイスに詳しくなっていくなあ」
「別に知識が増えてるわけではないけれど」
 そう言いながらフェンネルは嬉しそうだ。
「あれだろう、スーパーの調味料売り場に並んでる小瓶を片っ端から買っているんだろ?」
「そう言って間違いではないが、表現が過激だな。数年かけてコツコツ集めてきたのさ」
 セージはカップのコーヒーを口元にゆっくり持っていき、何度か息を吹いてからすする。
 うんうんと頷くが、感想は特に漏れない。
「今の君の流行りは何だい?」
「コーヒースパイスとして、かな? ヒハツの相性の良さを知ったのが最近で、それからは組み合わせを色々試している。例えばそうだな、五香粉、スターアニスキャラウェイ、セージ。ヒハツは裏方で香りを支えるイメージだから、そのペアには個性がくっきり前面に出てくるものを選ぶ」
「へえ。…これには何を入れたの?」
「ヒハツだけだよ」
「へえー。深い、のかな? 浅くはないかな、うん」
「君はコーヒーならなんでもいいんだろう」
 すまし顔のセージを真似て、興味のなさそうにフェンネルも言う。

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 コーヒー談義を諦めたのか、真剣な表情に戻ったフェンネルが口を開く。
「最近また新聞を読むようになったんだけど、時間もあるからじっくり読むんだよ。今のウィルス騒ぎで政治の酷さや醜さが露呈しているけれど、どうも何が問題かが分からなくてね」
「問題はいくらでもあるんじゃないのかい? 感染拡大への対応が遅すぎたとか、国民への経済保障の方針が決まらないとか、それなのに実用性の疑わしいマスクはさっさと配るとか…」
「うん。そういうのを挙げれば切りがないよね。で、切りもなく延々と報道されている。テーマにニュースバリューがあると開き直って、重要なことも瑣末なことも、ニュースの緊急性に選別もかけずに垂れ流している。そしてそれを聞く方も鬱々としながら、まあ仕方ない、こんな時だから当然こうなる、と受け入れている」
「そりゃまあ……仕方ない、としか言いようがないよね。僕らには」
「別に僕らが何かしなければいけない、とは思わない。その、感染拡大を止める適切な行動以外に、ということだけど。だからむしろ『何もしない』のがいいのかもしれない、『自粛の要請』なんていう論理の破綻した命令に従ってね。…いや、そうじゃないんだ。僕が考えているのは、今起こっていることに対してじゃなくて、その受け取り方の方なんだ」

 フェンネルを見るセージの目が大きくなる。
 口にせず、(来たぞ)と言うのは彼の目である。
 彼は抽象的な話に特にこだわりはないが、話が抽象的になると活き活きしてくるフェンネルを面白いと思う。

「受け取り方? どう行動するか、でもなくて、考え方の話かい?」
「そうだ。考え方、思想の話だ。だからこの思考を深めていったからといって生産性は全くない。でもむしろそれは求められていることかもしれない。つまりウィルスで経済活動が壊滅的に停滞している今こそが、生産性という価値観そのものを疑う岐路でありうるからだ」
「おいおいフェンネル、もう少し順序立てて話してくれよ。君の頭は理解しているのだろうけれど、その理解を言葉にしてもらわないと、こちらは君の論理についていけない」
「……いや、すまない。それは君の言う通りだし、君が間違っている所があるとすれば、それは君だけじゃなくて僕も理解していないことで、その点において僕は正しい」
「そこで自慢するのか? ああ、無知の知、とでも言いたいんだろう」
「鋭いな、セージ。君が話が逸れるのを喜んでくれる友人でよかったよ」
「喜んではいない。諦めているだけだ。君が逸れた道から戻って来れなくなることもね」
「すまない。……真面目さが必要なのはこういう時だな。いつも真面目なつもりなんだが、自分用と他人用で仕様が違うのが難儀だ。いや、君は何も悪くない」
 ぶつぶつ言いながら、フェンネルは渋い顔でコーヒーを一口飲む。
 眉間の皺によってコーヒーの苦味が増長されたという風情である。

「ニュースには良いニュースも悪いニュースもあるけれど、その2種類のニュースを念頭に置いた時に僕らが感じるのは、悪いニュースが圧倒的に多い、ということだろう」
「そうだな。毎日随所で起こる事件には気が塞ぐし、お祭り騒ぎのようなイベントのニュースには『もっと大事なことがあるだろう』と思ってしまう」
「ニュースの良し悪しにはもちろん個人の主観的判断が介在している。政府が国民に一律でいくら払うと決まって、ありがたいと喜ぶ人もいるし、金額が少ない、どうせ何ヶ月も先だろうと不満に思う人もいる。そういう個々の判断の違いはあるんだけど、一方でもっと大きな、一つひとつのニュースの内容とは別の次元における判断というのがあるんだ。たとえば、世の中が悪い方向に進んでいるという社会認識を持つ人がいくつかのニュースに触れた時、その中に肯定的な文脈のものが含まれていても、良いニュースの中から凶兆を嗅ぎ取ってしまう。彼にとっては、彼が目にし耳にするあらゆるニュースが悪いニュースとなる」
「まあ、そういう人もいるだろうね。悲観的というか、もう少し気楽に考えればいいのにと思いたくなるけれど」
「僕が問題にしたいのは、そういうネガティブな人が、なぜそんな考え方をするのかということなんだ」

「それこそ、その人個人の考え方の問題じゃないのかな」
「そう考えれば、それが結論で話が終わってしまう。…いや、話を続けたいからそう言っているわけじゃないんだが、これは実はとても大きな問題なんだ。社会問題にせよ、個人の生活上の支障にせよ、なにか不都合が起こった時、あるいは現にいま起きているという時、その不都合を個人の責任にする風潮がある。いつから始まったかは今はおいておくけれど、その風潮は、確かに、一つの思想であり考え方に基づいたものなんだ。…ああ、『自己責任』という言葉が妙な使われ方をして流行った時期があっただろう」
「紛争地域に個人の都合で行った民間人が、テロ組織に人質にとられたニュースがあったな。あれのことか」
「うん。あの時かもしれないし、あれは単に、僕らの社会にずっと通底していたその風潮がいっとき暴風域に発達したということかもしれない。とにかく、その…そうだな、名前をつけておこうか。自己責任主義、あるいは他責主義、といったところかな」
「え、その2つは同じなのかい」
「違うと思う。けれど、この2つが同じ文脈で使われること、2つ並べると違和感があるが別々に使われると同じ意味になってしまうこと、これもたぶん、今考えようとしている問題とつながっていると思う」

「厄介だな。いや、君がじゃなくてだよ…話が大きすぎて、話がちゃんと進んでいるのか脇道に逸れているのかがよく分からないという意味でね」
「確かに。これは僕以上に厄介だ」
 セージはスルーを決め込む。フェンネルのジョークに対する扱いは、それを発する時の彼の表情で判断できるのだ。
「まあ、結論が出るかどうかは大したことではなくて、問題意識を何かしらの形にできるところまでもっていければいいね」
「その通りだ」

 夜は長い。
 明けない夜はないが、待てども来ない朝もある。
 夜の底で二人が待つのは、朝ではない。

* * *
 

香辛寮の人々 2-6 (承前)

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* * *

 カップのコーヒーは空になっていたが、二人とも特に気にするふうでもない。
「君が居心地が悪いと感じたのは、会話はいちおう論理的に整合性がとれているというだけで、言葉のやりとり以外の面でコミュニケーションが成立していなかったからだ。君が彼といる時に気付けなかったメタ・メッセージの偏った読み落としは、彼にとっては合理的な判断だったはずだ。そしてそれが意味するところは、コミュニケーションの目的が君と彼とで違っていたということだよ」
「目的だって? そんなもの、普通に会話する時には想定しないんじゃないかな」
「その場合は『普通に会話する』ことが目的になる。純粋にコミュニケーションを楽しむ、とも言える」
「うーん。当人は意識していない目的、ということならそう言ってもいいのか」

「たとえば、販売員とか詐欺師とか、言葉を操って聞き手を特定の行動に導くのを仕事とする人々は、普通に会話しているだけのように相手に思わせながら、だんだんと話を自分の望む方向に誘導するだろう。政策を人々に納得させるために説得を試みる政治家も同じだ。必ずしも有権者の意向通りに政策が決定されるわけではないからね」
「彼がそういう類の人だというのかい?」
「いや、それは知らない。肩書きがどうこうではなく、性質として似た業種の人を例に挙げたまでさ。ともあれ、彼らは会話が自分の想定している筋道通りに進むことに神経を遣う。純粋なコミュニケーションを装うことと同時にね。どれだけスキルの高い人間でも、この二律背反的な2つの作業を矛盾なく完徹することはできない。だから彼らは自分の目的を達成するために、両立不可能な局面では前者を優先する。会話を楽しむだけだと思っていた相手が違和感を覚えるのはこの瞬間だ」

「なるほど。でも君の言うような洞察ができるのは、自然な会話の進行を自分で観察している人だけじゃないのか。そんなことをしている時点で、その人のコミュニケーションの目的が純粋かというのも疑わしいな」
「そうだなあ。判断が難しいところだけど、こういう考え方もできる。意識は必ず、自己言及的な一面を持っている。言葉の意味が確定していて、しかも他人とのあいだでその認識を共有できている、そういう前提で僕らは会話をするけれど、会話をしながら、一方では自分や相手が使った言葉の一つをとらえて『この言葉の意味は本当にこうだろうか?』と考えたりするだろう。実際に言葉の意味は、同じ文化圏にいても、使う時の文脈やニュアンスに応じて揺れ動くものだ。きっと、これと同じなんじゃないかな。『自然な会話ってなんだろう』と思いながら自然に会話する、という感じ」
「……ふむ。言われてみればそれは、現実にはありふれたことかもしれないね。無意識レベルでの符牒のような、『特定のこの人にとっての自然な言葉遣い』をお互いに形成したり、探り合ったりしながら会話をすることで、人間関係ができ上がっていくわけだから」

 セージは新たな発見に表情を明るくする。
 一方のフェンネルは伏し目がちに空のカップを見つめている。
 同じ地点を共有しようと彼に向き直ったセージは、置いてきぼりを食らった気持ちになる。

「コーヒー、もう一杯足そうか?」
 フェンネルの右手が、力なく中途半端に持ち上がる。返事をしようとして、その返事がなにかに中断された形だ。中空の手も、ばらばらに広がった五指も微動だにしない。
「いや……うん、そうなんだが、違うんだ。この頃よく新聞を読むんだけど……なに?」
 セージは口をへの字にして、目だけで笑っている。

「いいや、何も違わないよ。ちかごろの新聞がなんだって?」
 フェンネルは逆さ月になったセージの目を見る。視線の先の自分の右手を見る。
 試みに握りしめてみる。指がごわごわしていると感じる。

「もう一杯いれようか。今度は君、僕のを味わってみなよ。最近ペッパー・コーヒーが自分の流行りなんだ」
「なんだって? コーヒーに胡椒なんて、相性良いとは思えないけど」
「胡椒もスパイスの一種だからね、実は合うんだな。ふつうの胡椒は試してないけど、ロングペッパーってのがあってね。別の名をヒハツという」
「へえ。なんかそれ、ホームズの格闘技みたいだな」
「それはバリツ」

* * *
 

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」

 
 フェンネルは共同の居間で新聞を読んでいる。両肘をテーブルにつけ、片手にコーヒー。居間には彼しかいない。
 業だな、と感じる。昨今のウィルス報道のことだ。
 報道はニュースをなんでもかんでも伝えるが、その姿勢はマスコミに必然の他力本願だ。その言葉を浴びるほど受け取れば、その人間が扱う言葉にも同じ傾向が現れる。「他人が自分のために何をしてくれるか」ばかり考える人間が増えれば、「他人のために何ができるか」を考えることがビジネスになる。そしてビジネスとして確立していく流れに沿うように、形式が内容を侵食していく。手段が目的にすり変わるのは、昔誰かが言った行雲流水のごとき自然現象にも思われてくる。
 玄関のドアが閉まる音がする。廊下を歩く足音に、誰が帰ってきたのかとフェンネルは思う。
 顔を上げると、居間の入り口にセージが立っている。

「おかえり」
「こんばんわ、フェンネル。今日は遅いね」
「こういう日もある。…何かあった?」
「わかるかい。ちょっとね、面白いことがあって」
 フェンネルが立ち上がろうとするのをセージが止める。
「いいよ、自分で淹れる。慣性さ」

 セージはフェンネルの向かいの椅子に座る。疲れているが元気そうな顔をしている。
 脳と身体の相反、という言葉がフェンネルの頭に浮かぶ。

「今日は人と会ってきたんだ。古い友人に『あなたのためになるからぜひ会ってみてほしい』と言われてね。街まで出て、カフェで話をした。夕食前に短く済ませるつもりが、気がついたらこんな時間だ。ふと外を見た時に暗くなっていてびっくりしたよ」
「それじゃあ夕食は抜いたの?」
「結果的にね。まあ、こういう日もある」
 セージは規則正しい生活を送っているが、神経質というわけではない。自分の規則から外れることに頓着がなく、むしろ楽しんでいるようにも見える。彼は「規則は時々破るために普段は守るんだ」と言ったことがある。
「空腹にコーヒーはこたえると思うけれど。冷蔵庫に何かなかったかな」
「いいんだ。疲れた体にはいい刺激になるさ」

 セージはため息をついてコーヒーをすする。フェンネルは俯いた彼の顔をじっと見ている。
 彼は顔を上げない。テーブルに広がった新聞の隅の記事を読んでいるように見える。

「どう言えばいいのかな。悪い人ではなかった。詳しい話は省くけれど、彼はいろんな分野の仕事に携わっているようで、僕の自己紹介を聞いたあとで、その僕のためになるようなことをいろいろ聞かせてくれた。その延長で、僕に新しく行動を起こすことも勧めてくれた。全体的になるほどと思ったんだが、どうも行動を起こす気にまではなれなくてね、彼にいい返事はできなかった。それでも彼は快く受け入れてくれたよ。最初から最後まで、こちらの目をしっかりと見て、真摯に受け応えしてくれたように思った。それでもなぜか、彼と分かれてから後味の悪さが残ってね。いや、後味というか、居心地の悪さみたいなものを会った最初から感じていたような気もするんだ。相手に全く非がないから、どうも理由は自分にありそうだ、でも何がそうさせるのかがよくわからない。……まあ、面白いと言うのは語弊があるか。見ての通り、どっと疲れる出来事だったのだけど、謎が生まれたという意味では興味深いとも言える」

「話の内容は面白かったの?」
「うん。自分が知らない分野のこと、関心はあるが掘り下げて調べたことはなかったこと、会話のなかで彼はそういった僕の関心を引き出してくれてね、上手に説明してくれたよ」
「それで……ただ熱心に話したから疲れたというだけではないように見えるけれど、どうしてだろう?」
「それなんだ。なんだかね、会話はちゃんと成立しているんだけど、手応えがないというか、ニュアンスが伝わっていないというか。いや、別にこちらに明確な意図があったわけじゃないから、ニュアンスもなにもないように思うんだけれど」
 フェンネルには"彼"の顔が、その表情がありありと思い浮かぶ。黒光りする乾いた瞳。流暢に踊る唇の頑なさ。
「そうだな。彼の話しぶりとか、聞き耳の立て方とかが、予定調和的だったということはない?」

「……?」
「具体的に言おうか。細かいところでは君の事情に合わせたことを喋っていながら、それが結局は彼が言いたいことに必然的につながっていく。彼が言いたいことは最初からあって、君の話がどうあれ、そこに結びつけられる。個別的な君の情報が、一つの結論を彩る装飾的な材料にしか用いられていない。そういう感じ」
「うーん、なるほど。言いたいことはわかるけど、相変わらず君の具体例は抽象的だな」
「君が彼との会合を抽象的にしか語らないから当然だよ」
「それはそうだ。しかし……うん、たしかに、僕の違和感は彼の話の内容ではなくて、態度にあったのかもしれない。僕の曖昧な話でよくわかったな。君にも何か経験があるのかい?」

「過去に君のいう彼と同じような人間に会ったことがあってね。僕は自分で考えるのが好きな人間だから、最初から違和感には気づいていた。コミュニケーション能力が高くて、予定調和的な展開を望んでいて、かつそれが自身の利益と結びついている人間には独特の雰囲気が宿るんだ。態度に揺らぎがない。真摯に聞く姿勢にブレがなさすぎてこちらを観察している印象を与える。予定調和を乱すこちらの反応を過小評価する、あるいは無視する。会話の逐一に敏感なはずが特定のメタ・メッセージには極めて鈍感になる」
「メタ・メッセージ?」
「コミュニケーションに関わる要素のうち、コミュニケーションの質や成立可否に関わる信号のことだ。会話の中の言葉や、しぐさや表情などがそれに含まれる」

「ふうむ。そこまで分析できているのか。君はその時、相当イヤな思いをしたんじゃないかな」
「その時はね。とはいえ、分析して昇華できれば、すべてはいい思い出だよ」
「ああ、君は好きだったね。『昇華班活動報告』ってタイトルで昔書いていたな。内容はどうあれ、文章にエネルギーが満ち溢れていて、読んでいるこちらまで元気になった」
「最近は昇華班の出動要請がめっきり減ってしまってね。この平和を喜べばいいのだろうけど、乗り越えるべき壁がないのが寂しい気もする」
「ふふ。どちらでもいいと思っているだろう」
「まあね」

* * *