human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Craftsmanship for Sensitivity

  
セネットの『クラフトマン』からの抜粋です。

CADはまた、設計士が、実物のサイズとはまったく異なるものとしての、縮尺(スケール)について考えるのを妨げる。縮尺には比率=バランス(プロポーション)についての判断が含まれている。(…)たしかにディスプレイ上の物体は、それが、例えば現場にいる誰かの見晴らしのきく地点から見られているいるように、自在に操作されうるのだが、CADがしばしば誤用されるのは、このときに外ならない。つまりディスプレイ上に現れているものは、ありえないほどに首尾一貫しており、実際の光景ではけっしてありえないほど統一的に構成されているのである。

「第一章 悩めるクラフツマン」p.82
リチャード・セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』高橋勇夫訳、筑摩書房、2016

 
 ”縮尺は実物のサイズとは異なる”
 ”縮尺にはバランスについての判断が含まれる”

このあたりの表現について、
セネットが言おうとしていることと正確に一致するかは別として、
僕自身の経験を改めて照らすものがありました。


縮尺とは、製図用語としては、図面と実物の大きさの比を表します。

 コーヒーカップの高さが100mmで、
 カップの正面図の高さが同じく100mmならば、
 この図面=正面図の縮尺は1:1である。

一方、セネットのいう縮尺に含まれるという「バランスについての判断」、
これは、(1)図面内の物体間の大きさの比率に対する感覚、それから、
(2)図面の物体(群)とそれと対応する実物(群)の対応感覚、を指しているはずですが、
引用した箇所の最後の一文を考慮すると、
(3)(風景内の)実物間のバランス感覚、も含めてよいと思います。

 ”ディスプレイ上に現れているものは、(…)実際の光景では
  けっしてありえないほど統一的に構成されている"

これは一見すると変なことを言っているようですが、
ディスプレイ上の図面データは、その物体間の大きさの比は実物と等しいが、
「実際の光景」つまり実物を目前に人が感じる大きさの比とは必ずしも一致しない、
という意味に僕は読みました。

写実主義が最も実物っぽい描写である、という価値観は
 客観主義のバイアスがかかった主観がなすものである」
といった教訓をここから導くことができますが、
ここからまた別の(自己言及的な)連想が働きました。


最もローテクな状況を想定してもらうとして、
「何かを絵に描こう」と思った人が、その絵を描いて、
さて、その絵かきは、人にその絵を「どう見て欲しい」と思うか?

りんごの絵なら、それを見て「実際のりんご」を感じて欲しい。
基本はそのはずで、間違っても、
「実際のりんごを見て、それを描いている絵かきの画用紙の絵」
を感じて欲しいとは思わない。
それは、感じるまでもなく「そのもの」だからです。

セネットの、クラフトの現場における「テクノロジーの誤用」に対する懸念は、
このことではないか、と思います。
ある目的を達成するための、手段としてのテクノロジーが発達する。
その発達が、人間のクラフツマンシップの発揮を妨げる(不必要にする)とき、
手段であったはずのテクノロジーが、結果を勝手に導き出すことで、目的化する。


いや、文脈がとんでいるので、あいだを繋ぎますが、
冒頭の引用文を読んだ時に、僕は最近読んだマンガのことを連想しました。

あまり実際を知らないので想像で言うのですが、
多作の漫画家の中には何人ものアシスタントと共同作業をしていて、
それは様々な分業の形式をとるはずで、
枠線、人物、風景、吹き出しと発言内容、といった分担があれば、
人物描写の行程も、粗い描線、全身の詳細化、目の描き入れ等に分割する、
ということもあるかもしれません。

昨日読んでいたマンガで、ストーリーを追いながら読んでいて、
ふと目に付いた一コマに、ストーリーとは関係のない想像が働いたのですが、
そのコマでは、斜め横向きの人物の肩上がアップで描かれていて、
その顔における片目の位置が少しおかしかったのです。
人物描写の目がちょっと変だ、という違和感は、
「作画の乱れ」(=同じ人がコマによって別人物に見える)ではなく、
「作画の分業」という連想を呼んだのでした。
(この2つの違いについては、別文脈で掘り下げる余地があります)

つまり、ここでりんごの例と対応するのですが、
僕はマンガを読んでいて、ある箇所で、
「マンガが描く物語そのもの」ではなく、
「マンガが描かれている現場」を想像したということです。

この出来事は、ほんらい、漫画家が意図するところではないはずです。

が、セネットの文章を読むうちに考えさせられたのは、
どうも「そう」とばかりは言えないのではないか、
ということです。


「楽屋ネタ」というのがありますね。
バラエティ番組がテレビにおける発祥だと今勝手に考えていますが、
今ではドラマやPVのクリエーション番組や、
テレビクルーを映像内に映し込む旅番組など、色々あります。

「テレビとは画面上にひとつの幻想を作り上げることで、
 その幻想のリアリティは舞台裏を見せない(想像させない)ことで担保される」

この常識は、リアルの舞台では残っていても、もはやテレビにはないのでしょう。
その昔、「アイドルは"大"をしない」(トイレのこと)という伝説があったそうですが、
それはアイドルが幻想としてリアリティを持っていた時代のことで、
今は「アイドルだって人間だ」を再確認できることにテレビのリアリティがある。

いや、上と同じ話かもしれない、と思って書いてみたんですが、
どうでしょう。
「楽屋ネタは飽きられたら先がない」といつか聞いた気もしますが、
どうなのでしょう。


「楽屋ネタ」の話は、
「幻想の製作現場という手段」を「目的」にしてしまった一例です。
マンガを読んでいる間の作画現場の想像は、
漫画家が意図してそうしているわけではないのですが、
手段の目的化という話に合わせて持ってくれば、
マンガのあとがきにある「このマンガはこうしてできた」という章がそれです。

あるいは、カバー裏に漫画家の顔写真…はほぼあり得なくて、
なんだかよくわからない写真か絵か、著者近影という名の似顔絵がありますが、
そうだ、新聞に漫画家が(なんかの受賞とかで)記事になる時に、
そこは新聞側の規範なのか顔写真を載せている人がいますが、
そこでも似顔絵などで通す漫画家もいますね。

ここにある表現者側の認識は、
「作者の顔写真が作品の世界観に影響を与える」というものです。
その影響の良し悪しではなく、
「舞台裏は物語に対しては異物である」という感覚。


…話を戻しますが、
最初のほうで「自己言及的」連想、と書いた部分にやっと来ました。
自己言及、という言い方は少し妙なんですが、要は、
現象の相互作用は一往復で終わりではなく相互に影響を与え続ける
という話です。

 分析的思考、またそれを表現するための文章化というのは、
 ダイナミックな過程をスタティックに(かつ線的に)置き換えるもので、
 「現象の相互作用」と言う時に、端的にいえば、それが一往復で終わってしまう。

 「ああすればこうなる」という因果の繋がりは、その連鎖はいくらでも続けられるが、
 その因果を想定する主体本人の変化を、その連鎖に織り込むことができない。
 なぜなら、主体が途中で変われば、後半で言うことが前半とは違ってくるから。
 でも、現象のダイナミクスとは、そもそも「そういうもの」です。

リアリティをなんとか言葉にしようとして、
でも必ずこぼれ落ちてしまうものがある。
言い足りない、と思えば言い過ぎる。
どっちだ、と思う間に自分は変化している。
必然的に起こる、表現における不全感。

これの対処法は原理的に2つあって、
表現者が作品の向上のために追求すべきは、言うまでもなく前者です。

 ひとつは「言葉をリアリティに近づける努力をする」、
 他方には「リアリティを言葉に近づける努力をする」。

機械の誤用、楽屋ネタ志向、
また、今思いついた『◯◯(今話題の若い棋士の名前)の作り方』といった本のタイトル、
(中身は知りませんが、おそらく伝記的な内容の本にそういうタイトルをつける発想の方)
も含めてもいいかもしれませんが、これらはどれも、
努力の方向性をいえば後者にあたるのだと思います。

あるいは、消費者とは本質的に後者を追求する存在なのかもしれません。


…ええと、「現象の相互作用」の話をしようとしていました。

養老孟司が、2000年前後の著書で、
「一緒に住む家族が幽霊みたいに思える」という学生の話に対して、
テレビばっか観て育ちゃそうなるだろう、といったことを書いていました。
 テレビの中の人物は一方的に喋る、観ているこちらに関係なく。
 テレビの中で爆発が起こっても、瓦礫の破片はこちらに飛んでこない。
 身近に自分とは関係を持たない秩序があって、
 その秩序の時間は、自分を巻き込まず、自分の影響を受けずに流れていく。

世の中(=身の回りの秩序)とは「そう」である、と思って育てば、
(例えば、家族との会話よりもテレビを観る時間が圧倒的に長い幼少期を経る等)
自分が呟いた言葉に返事がくることを「気持ち悪い」と感じるようになる。
いや、なってもおかしくない。

また、同じ著書の中には、
若い時に非常に苦労して大成した資産家が、
今の若い人に苦労させないために惜しまず教育支援をする、
というニュースを聞いて「なんでそんなことするんだ」と怒り、
養老氏の奥さんに怪訝な顔をされた、という話もありました。
つまり、その資産家の善意を疑うわけではないが、
 彼は自分の「非常に苦労した過去」を果たして肯定しているのかどうか、
 その過去があったから今の彼があることを彼自身がどう考えているのか、
 彼の「若者に苦労をさせない善意」はそのどういう答えになっているか、

といったことに対する自覚に、養老氏は疑問を感じたということでした。

教育の問題は非常に難しくて、
特に世の中(技術革新や生活水準)が大きく変わる時代には、
古くから定常が良しとされた教育観も変容を被ることになる。
そういう変化の時代に、慎重に考えなければいけないのが、
世代をまたがる「現象の相互作用」についてです。

…いや、教育の話は収拾つかないのでやめましょう。
タイトルの話に戻ります。


 ”縮尺にはバランスについての判断が含まれる”

冒頭に引いた、セネットの文章の一節です。

「バランスの判断」、これは感覚的なものです。
手で建築図面を描かずにCADに頼ると、こうした感覚が衰える。
セネットは、引用した節でこう懸念しています。

ここでは建築家、設計者のバランス感覚を問題にしていますが、
無論、この影響は波及していきます。

CADで描いた「ありえないほど首尾一貫した」絵を、
家を建てようとする人や、あるいは展覧会の客などが、
「そういうものだ(=こういうものにリアリティがある)」と思えば、
まさに、そうなる。
(「リアリティの意味」という言葉上のことだけでなく、
 リアリティという言葉が本人の中で指示する感覚的なものまで影響を受ける)

ペンタブと描画ツールで隙なく整然と描かれたマンガを当然と読んでいれば、
漫画家が一人で全部描いた、筆致がありありと浮かぶマンガが「別物」に見える。


これらは、感受性の鈍磨とは言い切れないのかもしれません。
感受性の方向が変わっただけだ、と。
でも、僕はここに「それっぽさ主義」とも言える危ういものを感じます。

自分の感覚がまずあって、
対象がその感覚に対してどう響くか、
ではなく、
自分の感覚の「外部」に確固としたなにかがあって、
その「外部の基準」に対象がどれだけ忠実であるかを自分の感覚よりも優先させる。

感覚の判断基準が「外部」にあって、
でもそれを「内部」のことである、と読み替える、
無自覚的な、自身の感覚への裏切り。


クラフツマンシップそのものについては本記事で掘り下げられませんでしたが、
(それはセネットの本全体にいや(ではないけど)というほど充溢しています)
クラフツマンシップはこの「自身の感覚」を鋭敏にしておくために欠かせず、
また、それはクラフトの(製作者としての)現場だけでなく、あらゆる場面で、
マンガを読むでも、あらゆる消費活動においても発揮できる作法です。

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想像力を派生力に/希望のイコンとしての「パンドラの空箱」

ずっと前からいつ読もうかと思っていた、
セネットの『クラフツマン』をようやく読み始めました。

 僕が工学部で、専門科目が本格的に始まった三回生の頃、
 大学のキャンパスも移って工学部図書館に出入りするようになって、
 読みたい特定の本としてその図書館を探した記憶があるのは、
 クーン、ポパー、ファイヤアーベントといった「科学哲学」の範疇の著作で、
 彼らは当時の僕がもっていた疑問に答えてくれるようであったのですが、
 その時に念頭にあった問題意識とは今思えば正確には「ものづくりの哲学」
 統計力学流体力学やら設計工学等々、各論として意義も実践もわかるが、
 「総じてそれらを学ぶ意味は何か」という疑問には答えてくれなくて、
 しかしそれは工学部生個人の視点で見れば学部の志望動機のようなもので、
 「その答えを見つけたから今君は大学のここにいるのだろう?」という前提があり、
 そして当然ながら(胸張って言うことではないが)大学全入時代に一定数は必ずいる、
 「デモシカ学生」の一人であった僕がその前提を満足しているはずもなく、
 だからこそ当時三回生の時に他学部(文・法・経済など)への転部に悩んだり、
 院に行かずにLECに通って弁理士の資格をとろうと思ったり、
 (結局は周りに(中途半端に)流されて別の大学院へ進学したのですが)
 そうして「自分のことを掘り下げて考える」ことを知らずに血迷い続けていた、
 学生時代の自分をふと思い出したのはなぜかというと、

 リチャード・セネットこそが、
 工学部に在籍する当時の自分を勇気づける本だったのではないか、
 と思ったからです。

 当時これを読んでいれば、
 意気揚々と大手メーカーに就職するか大学に残って研究職をやるか、
 していたかもしれませんが、
 今ほど(いわば「文系」の)本を読むこともなかったろうと思います。

 そのどちらでも、
 それなりによかったのだろうし、
 どちらにしても、
 「自分が選ばなかった道」への想像の芽は摘まないようにしたい。


いや、本論に入る前に逸れまくってますが、

過去の自分にあった人生の岐路を回想することには、
現状の不満とか、その「自分が選ばなかった道」に対する未練がくっついたりしていて、
回想の意味は(誰かと昔話などしていれば特に)最終的にそれらに回収されてしまうのですが、
(「昔はよかった」は容易に「今は(あんまり)よくない」に裏返る)
それは、その方が話が単純だからで、話を単純にしたいからそうなるのであって、
もちろんそれだけではないはずです。

とにかく、なるべく多くの状況で「想像力を抑圧したくない」と思っている僕は、
一人で回想する時にその安易な結論でそれを閉じることは「想像力の抑圧」になると考えます。

というのも、「昔はよかった」の回想に浸るあいだは気持ちとして充実するとはいえ、
その充実の大きさは「でも今は…」と戻ってくる時のダメージに比例し、
従って回想すること自体が充実と反動のアンビバレントに直面して、
「とおりいっぺん(いつも通り、予定調和)の回想」に留まってしまい、
そこから(たとえば、自分が選ばなかった道「の先」といった)羽を広げることがないからです。

なので、回想に通俗的でない価値というか方向性を持たせたい、
ということを前に考えたことがあって、
今ちょうどそれを思い出したので脇道で書いているのですが、
回想は「系譜学的思考」の私的バージョンである、という認識が一つ、
(「系譜学的思考」とは、歴史の転換期を起点に「ありえた別の未来」を想像すること)
もう一つ、「個人的な経験にリアリティを支えられた私小説」というのがある。

小説はフィクションであって、そのリアリティは主に想像力が担い手となります。
小説中の言葉の一つひとつを、文脈と、その言葉に関する自分の経験を元手に想像を膨らませる。
だから、小説で自分の経験が活きるのは、文脈ではなく言葉(単語)のレベルです。
あくまで単純化してのことですが…

一方で、自分の過去の回想というのは、
そのストーリーの始まりに自分の(過去のある時点の)経験があります。
つまり、自分の経験を文脈レベルで活かして、想像を膨らませるのが回想です

だから過去の回想が小説よりリアリティを持つのですが、
いやこの認識自体は言われずとも実感として多くの人が持っているはずで、
けれど今ここで言おうとしている大事なことは、
「自分自身の回想を小説の一種として考える」という認識のほうの意味です。

過去の経験の回想の「元手」を、
自分に手が届きやすいもの(過去なので実際は無理だがそう思ってしまう)ではなく、
想像の素材として、特にビビッドなリアリティを備えたものとして捉える。

想像のリアリティを、「没入感」ではなく「派生力」に投入する、
と言い換えてもいい。

これは懐古が「温故知新」となり、未知の新しいものを生み出すための認識です。

 × × ×

本題です。

『クラフツマン』、期待通りのセネット、
飛ばし読みでなく、噛み締めたくなる文章が続いて、
これまた読了に時間がかかりそうで、
それは良きと思ってぼちぼち読み進めますが、
ちょっと考えたい、というか、
近頃考えていたことと繋げて言葉にしておきたい箇所に出会いました。

最近何度か書いてきた、マリオン『存在なき神」との関連です。


ギリシャ神話の「パンドラの箱」についての記述があって、
その神話の具体的な内容を(『クラフツマン』の序章で)さっき初めて知ったのですが、
簡単にその内容に触れると、

 パンドラというのは「すべてを与えられた者」という意味で、
 プロメテウスが天界から火を盗んで人間界に与えた罰として、
 ゼウスが人間界(プロメテウスの弟?)に贈った初めての女性の名前だそうです。
 「パンドラの箱」というのは、パンドラと一緒に人間界に贈られた箱のことで、
 「ゼウスから贈られた箱は開けるな」と警告されていたにも関わらず、
 パンドラが魅力的な女性だかなんだかでプロメテウスの弟はそれを開けてしまって、
 病気だとか、憎悪だとか、ネガティブなものがたくさん飛び出してしまう。

アダムとイブの「知恵のりんご」と似たような話ですが、
その、パンドラの箱から色々飛び出た「その後に残ったもの」のことを知って、
僕は「へえ!」と思って、想像がいろいろと膨らみました。

そこだけ引用します。

そして、ある日パンドラ(エピメテウス[←あ、これがプロメテウスの弟です]という説もある)はついに持ち前の「好奇心」に負けて箱を開けてしまう。するとそこから痛風、疾病、死、貧困、嫉妬、怨恨、復讐、悲嘆などさまざまな災いが飛び出し、パンドラは慌ててその箱を閉じるが、「希望(「前兆」ともいわれる)」を除いてすべて飛び去ってしまっていた。

「序論 自分自身の製作者としての人間」p.21
リチャード・セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』
太字部は引用者

この箱には、あらゆる災いの種が詰まっている。
開ければ最後、取り返しがつかない。
パンドラの箱」という慣用句には、そのようなニュアンスがあると思います。
引用文もそのように読めます。

 パンドラは慌てて箱を閉じるが、
 時既に遅し、
 災いの種は一つ残らず飛び出してしまった。

僕が知らなかったのは、事前にちょっと触れましたが、
「その箱には希望(前兆)だけが残っていた」ということです。


開けてはならない、パンドラの箱
日本昔話でいえば、竜宮城のお土産である玉手箱を連想します。
要するに同じだろ、と思っている人もいるかもしれません。

この(通俗版の?)「浦島太郎」から考えてみましょう。

玉手箱を開ける。
浦島太郎は浦島翁になる。
さて、この時、いやこの後
玉手箱はどうなったか?

蓋を開けると、煙がもうもう。
箱の中は空っぽ。
この後、玉手箱がどう扱われたかといえば、
手にとって振るわけでなく、覗き込んで詳らかに検討するわけでなく、
放置されたでしょう。
あるいは、造りや飾りが綺麗だとかで、
家に持ち帰り、物入れくらいにはなったかもしれない。


僕はギリシャ神話について詳しく考えたことはありませんが、
ざっくりしたイメージとして、
パンドラの箱もこのようなものだと思っていました。

つまり、
蓋を開けて、あらゆる災いが飛び出し、
人々はその災いへの対処で大わらわ、
残されたパンドラの箱には、誰も見向きもしない。
なぜなら、全てが出払って、そこは空っぽだから、と。

しかし、
そうではなく、「希望」がそこには残っていた。

だからなんなのか?

 × × ×

パンドラの箱」は、メタファーとしてよく用いられます。
たとえば、現代では科学技術に対して、その比喩を使う。
原子力が「プロメテウスの火」だというのと、同じ意味で。

そのメタファーを念頭に考えを進めるとして、

遺伝子工学原子力、戦争兵器、といった、
人類に、文明の発展と同時に滅亡の種をもたらした技術、
これらは「パンドラの箱から飛び出した災い」の具体的な一つひとつです。
技術者倫理、科学哲学といったものは、
これらに対するフェールセーフ的な学問です。

さて、
科学技術がパンドラの箱だとするなら、
時間を特定すればその箱は「開封前」あるいは「開封中」のはずですが、

では、
「災いが出払った後の空箱」は、なんのメタファーなのか?

…わかりません。
今思いついた問いで、その答えを今は思いつきません。
これは宿題にして、方向性を変えます。


先に触れたことを言い換えたものですが、
技術者倫理や科学哲学は、
メタファーでいう「パンドラの箱の中身」を扱う対象としています

ふと僕が思ったのは、これに対して、
「ものづくりの哲学」
「工作人(ホモ・ファーベル)」の精神を掘り下げる哲学、
と言ってもいいのですが、
こちらは「パンドラの箱そのもの」を対象としているのではないか。

そこに何があるのかといえば、
ギリシャ神話のいう「希望(前兆)」がある。

つまり、「ものづくりの哲学」とは、
「ものづくりの希望に関する哲学」であって、
科学技術が文明の盛衰を左右する規模に膨らんだ現代ではそれは、
「人類の希望に関する哲学」でもある

 × × ×

ここで、やっとというか、
話のつながりがあるかは(書いてみるまで)よくわからないんですが、
タイトルの「希望のイコン」の話に移ります。

 箱から災いが飛び出し、
 パンドラが蓋を閉めるも間に合わず、
 「希望」以外のものすべてはそこから飛び去った。

神話の一節、この表現で読めば、
蓋はこの時閉じられたまま、二度と開けられないともとれる。
残った中身も、そして箱自体も、
多くの災いを生み出した元凶として忌み嫌われ、遠ざけられる。

しかし、そこには希望がある。
どういうことか。

希望は、普段遣いの目では見えない。
災いの多様さと規模に隠れて、存在すら認識されない。
かかりきりになる目の前のことが多すぎて、その出自を辿れない。

あるいは、箱に目を付ける者が、まれに現れる。
また、禍々しい封印を解き、その蓋を再び開ける者が。
そして、(知ってはいたが)中は空である
内容物が全て出払えば、箱の中には何も残らない。
合理的精神も要さない、日常の真理。

しかし、そこには希望がある。
どういうことか。(二度目)


「パンドラの空箱」が、イコンとして存在し、
そのイコンの指し示すものが希望である。


『存在なき神』の内容を今思い出しているのですが、
「イコンと偶像」という一節(どころではなかったが)の中にあった記述によれば、

イコンとは、「見る者に、そのものでないものを志向させ続けるもの」である
だから、イコンは意味ではない、意味を持たない。
イコンと、何かの対象とが、一対一に結びついているわけではない。
ただ、イコンは、それをまなざす者に、「なにか」を志向させる。
永遠にそれにたどり着けないことを知っていながらも求めさせる「なにか」を。

偶像は、イコンと同様に「見る者にそのものでないものを志向させる」が、
その「そのものでないもの」は固定されたある一つの「なにか」であり、
その固定対象は、見る者の志向(願望)が投影されたものである。
だから、偶像をまなざす者は、そのまなざしが固着する、居着く。

イコンへのまなざしは、そうではなく、
いわば「安定しないことを本望とする」ようなまなざしである…

このへんでやめますが、
マリオンは「神」を「偶像でもイコンでもないもの」として考えていました。
というのも、イコンは機能としては「神」でも、仮想的存在だからです


話を戻しますが…
セネットのギリシャ神話紹介文を読んでいて、
「パンドラの空箱」が希望のイコンである、
という発想を、なぜかしら抱きました。

本記事ではこの発想を掘り下げられませんでしたが…

「そうであればいい(面白い)」という知的願望かもしれませんが、
同時に、これを日常生活の思想として掲げておくのもいい、と思いました。

 × × ×

あらゆる災いが飛び出し切って、あとに残るのが「希望」であること。
その「希望」は、災いに目を奪われていては、見えないこと。

そして、
「パンドラの空箱」が何のメタファーであるか?
この疑問を、念頭に置いておくこと。


結論というには、何が何だかわかりませんが、
僕の中で、これは大事なことではないか、という認識に至りました。

セネットの『クラフツマン』は、ぼちぼち、じっくり読んでいきます。

 

最近のアボカド捜索料理

相変わらずアボカドが安いので(メキシコ産。円安のせい?)、
週2くらいでアボカドサラダを食べています。

スーパーで買う野菜は、食べたいものではなく安いものを買うので、
いつも使う、使い勝手の良い野菜の値段が高いと時々へんなのを選んだり、
かといって調理は家にあるものでなんとかしようとするので、
ブリコラージュなんですけど、出来栄えもそれほど興味はなく、
でも学習はする(同じ失敗は繰り返したくない)ので、
実験がいちばん近いですが、
創作というよりは捜索料理。

さて。
つい最近までベーコンのことを、
ひき肉みたいな肉(一度細かくしてから固めた肉)だと思っていて、
まあとんでもない勘違いというか、
どこでそんな発想を持ったのかもはや不明なのですが、
(そしてそういう間違いに驚かなくなってしまった)
そうではなく、また保ちもいいので、
グラム100円で売ってるスーパーを知っていたので買うようになり、
それがアボカドサラダに追加されて、
調理法の縁でサラダの具がさらに増えて、
サラダなのかお前は? という進化を遂げています。

なにはともあれおいしいし、
じぶんでつくればだいたいはおいしい。

ねりにねった納豆を炒め中のチャーハンに投入して、
未確認飛行物体的な固形チャーハンを作ってた学生時代が懐かしいです。
自炊は最初から実験でしたが、
あの頃は味もけっこう失敗してました。
(そしてそういう時に限って友人を呼んでいた)

では、以下のアボカドサラダ。
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(1)この肉は鶏胸肉なんですが、
唐揚げライクなものをグリルで作ろうと考え、
衣にオートミールと白ごまを使ったものです。
肉にも、オートミールにも醤油とかバルサミコ酢を垂らしたりして、
なかなかよい。

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(2)ベーコン登場、本家パワーサラダ。
グラタン皿にベーコンを敷き詰めて、
グリルで表10分、裏返してさらに10分。
焼き過ぎて焦げてます。
調理後のグラタン皿にはベーコン油と熱が残っていて、
卵、オリーブオイル、トマトガーリック、各種ビネガーなどを入れ混ぜて、
香ばしいドレッシングを作れます。

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(3)色がちょっと…まあカメラのせいです。
これはサラダではありません。
長芋(ベーコンの下に隠れて見えない)と大根のステーキ、
(要するにざっくり半月状に切って弱火でジワジワしたやつ)
ピーマンのざっくり丸焼きと厚切りベーコン炒め。
デカい具をひとまとめにフライパンで調理。
ふと思いついて、(フライパン上で)長芋にチーズをのせて、
その上にベーコンをのせて溶かしてくっつけて、
「長芋ベーコン寿司」ができました。
あ、これ創作やん、とその時初めて思った。

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(4)再びベーコンのパワーサラダ。
冷蔵庫に長ネギが余っていたので、
ベーコンと一緒にグリル焼き。
サラダとあったかい具が半々というのも、よいですね。
こたつでアイス食べるみたいな。
ちょっと違うか…

実家の近所のグリル洋食屋で、
アイスクリームにブランデーをかけて点火するとアイスが燃え上がる、
「ベイクドアラスカ」というデザートがあるんですが、
アイスの表面が焦げていてあったかいという、
不思議な…つまり(変化量でいう)高エントロピー料理ですね。
あれもおいしい、あれみたいにおいしい。

何でしょうね、
温度差に美味しさというか、刺激を感じるのは確かにあって、
もちろん常温でも美味しさとか出来立て感のある料理はあり(マリネとか)、
そっちの出来立て感は酸化が関係してるのでしょうけどそれはさておき、
熱い食べ物、冷たい食べ物にそれぞれ刺激を感じ、
その刺激は美味しさそのものではないが美味しさを引き立てる。
そして熱さと冷たさの入り混じった食べ物を口に入れると、
なにかカタルシスがある。
その混合のカタルシスは、熱さ・冷たさの各々だけでは得られない、
のか?

いや、この混合のことはよくわかりませんが、

食物と口の中のあいだで熱のやりとりが(多く)行われること、
おそらくこの現象が、
「食物を身体の一部(つまりエネルギーですが)に変化させること」の、
その変化じたいを体感させる儀式的な役割をもっていること。

これが、
「熱移動の刺激が美味しさを引き立てる」の具体的なところではないか、
などと想像してみました。
 

多義語滾りて御座候

 
再び、沼りました。
無人島に一冊」はもうこの本で。
と、まだ読中(でももう終盤)の今なら思える。

「読中の今なら」というのは、
思考が滾(たぎ)るのは橋本治の本を読む間が最高潮であって、
自慢でもなく単純に経験則として言えるのですが、
こんな文章は橋本治の本を読んでいる間しか書けなくて、
未来の自分が読めば「へー!」と感心するであろうことは疑いないからです。

以下、本題。

 × × ×

「自分ははっきりしている。しかし、他人は他人」というのが、本居宣長である。この「他人」は、彼に論難を仕掛けて来る他人[上田秋成]に留まらない。だから、門人にさえこう言ってしまう──《物まなばむと思はむ人あらば、たゞ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちて外には、さらにをしふべきふしはなきぞとよ》(『本居宣長』四十の「玉勝間」七の巻)
(…)
おのれとり分て人につたふべきふしなき事》と、《小手前の安心と申すは無きことに候》とは、同じことである。
《人ノ好ミニ、マカスベシ》と言い、《さらにしふべきふしはなき》と言い、《無きことに候》と断じてしまう本居宣長は、一向に揺らいでいない。これを追っても無駄である。

「第十章 神と仏のいる国」p.374-375
橋本治小林秀雄の恵み』

ここを読んでいて(僕が)思いついた、というだけで、
この文章の文脈はあまり関係ありません。

でも少し触れると、
本居宣長は一向に揺らいでいない」、
「しかし小林秀雄はこれ(これらの発言の状況)を揺らいでいると考える」、
と書く橋本治は「一向に揺らいでいない」。
というように、
研究対象(=本居宣長)と主体(=小林秀雄)とが渾然一体となっている『本居宣長』という本を、
同様に渾然一体になって(同時に明確に分かたれて)読み込んでいるのが『小林秀雄の恵み』です。

さておき。

本居宣長』の引用文は漢文の書き下し文(つまり古文調の感じとカナorひらがなの羅列)が多くて、
最初はうへえと思いながらゆっくり読んでいたのがだんだん慣れてきて、
終盤にたどりついた今はその「ごちゃごちゃして見える文」をむしろ楽しめるほどになったのですが、
これまで『小林秀雄の恵み』を読んできた内容と相まって、ふとした発想が湧きました。


源氏物語』では、和歌がコミュニケーションとして登場人物のあいだでやりとりされます。

その和歌や短歌(どう違うのだろう…)を学校で古文として習う現代人の僕らは、
単語の一つひとつ、また助詞や助動詞の用法の多さに辟易します。
歌の文脈や背景を知り、また用法を理解すれば、「正解」である一つの意味や用法を導ける。

高校の古文の授業でそこまで割り切って教えるかどうかはわかりませんが(僕は記憶がない)、
マーク式のセンター試験で「正解を一つ選ぶ」という問題の出し方が成立している以上、
その試験の問題用紙に「最も適切と思われるものを選べ」という、
"ただ一つの正解"よりは若干ニュアンスの弱い表現が書かれているとしても、
問題を解く方(受験生)はそれを「ただ一つの正解」だと素直に受け取るほかはない。

何せ、そんな微妙なニュアンスにかかずらう余裕なんてないから。


さて、古代のコミュニケーションを現代人はそのように読解することになるのですが、
古代人(平安時代の人々)が、この現代人と同じように和歌を捉えていたはずはない。
では、古代人にとっての和歌とは、いかなるものであったのか?
それは連想として思い浮かぶ疑問の一つであって、
その答えが現代に活きるかどうかは連想の発生とは無関係なのですが、
それを僕は「活かせる」と直感したので、ちょっと書いてみようと思ったのでした。

僕は古文の文法もだいぶ忘れているし、
古典の素養もありません(受験科目としての古文は苦手でした)。
そういう人間が書くものとしてお読みください。

 × × ×

和歌において「価値あり」とみなされている要素。
僕が思いつくのは、総括していえば「多義性をもつことば」です。

たとえば、
 二つ以上の意味が同時に成立する助詞(名詞も?)の用法「掛詞」。
 また、その掛詞を複数登場させて、さらに組合せの妙を生むもの。
 ある単語や枕詞が、かつて読まれた先人の歌を連想させる「本歌取り」。
などなど。

これらの「多義性を賦活する技法」を駆使した歌が、名作とされる。

この名作は、コミュニケーションの手段としても「名作」なのかどうか?
全くの想像ですが、僕はこれを「イエスだと考えます。
そういう前提で、(たとえば平安時代の)和歌のコミュニケーションを考えてみます。


よく知りませんけど、雅な人々は、
使者に文を持たせて意中の人に歌を送って寄越した。
その返事の手続きも同様。
電信電話が発明される以前の「郵便手紙のやりとり」より、さらにスローペース。
そのようにして届いた、一つ(複数?)の和歌。
(そこに文章が別についていたのかもしれませんが)
この和歌が「コミュニケーションとして良好に機能する」とは、どういうことか?

それはたぶん、現代のコミュニケーションが目指すところと、正反対のものです。


雅な古代の人は、和歌に接して、
「この掛詞が思わせる複数のうち、どの意味が正解か?」
などと悩むようなことを、おそらくしない。
そのような発想すら持たない。

彼の実感を代弁(現代語訳)すれば、こうなる。
「へえ、この歌はこうも読めるし、ああも読める。あ、こういうのもアリ? すげえなあ」

一つの歌から思いつく限りの可能性を、その各々を広げていって、
ではその中のどれが「最も確からしいか」という発想を、一切持たない。
ここにコミュニケーションの価値というものを登場させるなら、
それは「その一つの歌が、どれだけ多くの連想を起こさせるか」にある。

こういう言い方をすると、「意思のはっきり伝わらない言葉は曖昧で困る」と、
現代人はそれに価値があるとは思わないかもしれません。
でも、別の言い方もある。

「一つの歌が、受け手に多くの連想を呼び起こすこと」、
これの意味するところは、
「その連想が続く限り、受け手はその歌(つまり読み手)のことを想い続ける」
ということでもある。


ある一群の言葉が、コミュニケーションとして相手に伝えられる。
その言葉の意味が明確であるということは、
その言葉の意味の判断に、相手はさほど「時間」を要しないということでもある

たとえば、「オッカムの剃刀」という概念は、
この「時間」は短ければ短いほどいい(その言葉に価値がある)という価値観を含んでいます。


「コミュニケーションはそれが継続することに価値がある」、
おそらく、この根本的な発想は、古代も現代も変わりません。
システムの生命はシステム内のコミュニケーションの継続だ、
ニクラス・ルーマンも言っている。

ただ、現代はその「継続」をどう実現するかという段になって、
「意味の明確な言葉を次々に(つまり大量に)投入する」という方法を採用する。

ちょっと誤解のある表現なので言い直すと、現代人は、
言葉のキャッチボールの「ボールの往復回数をどんどん増やす」ことでその継続を実現する。
一投のボールに含まれる言葉の量は、副次的なことで、
そのボールの「往復回数」が多ければ多いほど、コミュニケーションが充実していると判断する

そして、古代人は「そういう考え方をしない」
無論、手段がない(短時間に大量の言葉をやりとりできない)ということはあります。
でも、その手段がないことは、「そういう考え方をしない」ことの原因ではない
むしろ話は逆で、
その手段が「ある(ようになった)」からこそ、現代人は「そういう考え方をする」ようになった。


さて、では古代人はどう考えるか。
古代人はおそらく、
コミュニケーションの継続状態を「その相手を想う時間(の長さ)」と捉える。

一つの和歌に接して、
「ああでもないこうでもない」と悩んでいる時間、
その時間が続くあいだはコミュニケーションが継続している。
そのように考える。

だからこそ、「ああでもないこうでもない」を読み手に続けさせてくれる
掛詞や多義語を多く含んだ多義性の豊かな和歌が好まれ、名作とされる。

「コミュニケーションに用いられた言葉の意味が一つに定まらないこと」、
現代(の特にビジネスの場面)では「無作法」や「落ち度」とされるその特徴は、
古代の人々にとってはその真逆の価値、すなわち「美点」であり「福音」なのです。


いや、現代のすべてでそうだとは言いません。
恋人の手紙(メールよりはやはり紙でしょうね)のやりとり、文通を考えればいい。
「恋人のことを想う時間そのものが幸福だ」という感覚が、そこにはある。
また「恋人が好きなものは全部好き」という感覚だってありますが、
これなんてまさに、
和歌から連想されることは全てその和歌の送り主の一部である
てなもんでしょう。

ただ、その幸福と感じる「恋人を想う時間」に、
「恋人が何を言ってるかよく分からなくて悩む時間」を含められるかどうかは、
人によりけりだと思いますが。

とはいえ、恋人の文通は、
「コミュニケーションの古い考え方が抜けずに残っている」のではなく、
「コミュニケーションの本質が形骸化を免れて残っている」、
そう考えるべきだと思います。

というのも、
コミュニケーションは「相手のことを考えてなされる」のが基本中の基本で、
その基本はマニュアル化やデジタル化でどんどん忘れられつつありますが、
(マニュアル化の一面は「いかに労力を割かずに相手のことを考えるか」でもあって、
 だからこそ敏感な人は顧客マニュアル一辺倒な対応に「コミュニケーションの抜け殻」を見る)
それを思い返すには、
「相手のことを全く考慮せずになされるコミュニケーション」がいかなるものか
を想像するだけで足ります。


パッと思いつくのは、ネット上のHPに溢れる「ターゲティング広告」ですね。
文字や画像の情報の伝達によって意思が喚起されるので、
この広告だってコミュニケーションの一種ではある。
が、多くの人は、ネットサーフィン中にこの広告に遭遇して、不快感を味わう。

なぜか?

自分が欲しいかもしれない情報(商品)がその広告に含まれているとしても、
(ターゲティング広告の内容は、ネット使用者の検索履歴などをベースに選ばれています)
その広告の提示は、「自分のため」に為されているのではないからです。

もっと言えば、
受け手の欲求に沿うという面で「相手(自分)のため」という装いをしながら、
その唐突さ、タイミングの悪さ、閲覧中のページ内容への集中を乱すこと、などが示すように、
「相手(自分)のことを想って」という要素がそこには欠片も存在しない
だから、
ページの閲覧に自分の内面を引き出している人ほど、それを気持ち悪いと感じる。

逆にいえば、
ターゲティング広告を何ら不快なく見過ごせる、あるいは利用できる人は、
それをコミュニケーションだと認識していない。
(単に鈍感、というのもあるのかもしれませんが。
 話は逸れますが、読書中に「知らない単語を無意識に読み飛ばす」若者がいる、
 という内田樹のブログの話をふと連想しました)


話を戻します。

もし、コミュニケーションの実質が、
「コミュニケーション相手のことを想像する時間」にあるとすれば、
そのコミュニケーションに要する情報量は二の次でも構わないはずです。

しかし、その「時間」は、それだけでは何も生まない。
情報の量こそが、あるいはその情報が引き出す行為の結果に価値がある。
「何も生まないなら意味がない、ただの時間の浪費じゃないか」、
だから恋愛は無為だとか(結果が伴わなければ)徒労だと言われることもある。

そして、この考え方が生産主義であって、
たとえば古代の人々には思いもしなかった発想でもある。

 × × ×

なんだか最近、生産主義を批判する話ばかり書いている気がしますが、
橋本治を読んでいるとそうなるというところもあって、
つまり「あまり人が言わないこと」だからです。

あまり人が言わないことは、あまり人が考えないことでもあって、
それは自分自身で何かを考えようとする動機のある人にとって、格好のテーマとなる。
だから、言うまでもありませんが、
この論考はほぼ自分のために書いています。
(「学者としての本居宣長」もそのようであった、と橋本治は書いています)


あ、
あと一つ連想することがあって、

僕は日常的な「念頭の関心」の一つとして、
現代に蔓延する「それっぽさ」志向、「やってる感」志向が気になっているのですが、
この問題は「コミュニケーションの宛先」という観点でも読み解けます。

マスメディアの発達がそもそも「コミュニケーションの宛先」を不明確にしたのだと思いますが、
ネットツールの発達はそれに拍車をかけることになりました。
そして、受け手がそれを当たり前に享受して消費するようになったということは、
「コミュニケーションの宛先」に対する関心が低くなったということです。

あるいは、「プライベート」と「それ以外」という形で、
その関心の配分を明確に分けているのかもしれませんが、
テレビの普及が対面コミュニケーションの臨場性に影響を与えたように、
その明確な配分が「明確」になされているとは限らないだろう、と思います。


何より、「宛先」に対する無関心は、
身の丈レベルで自分の周辺で起こることに対する感度の低下と、
(直接といっていいほど)対応していることが僕は気になります。

都会にいるとそれをひしひしと感じて、
でも自分のその感覚は失いたくないと思うから、
人の少ないところで暮らすという生活願望が持続しているのですが、
人口密度が低ければ自分が感じる不快感が避けられるのかと言われれば、
本記事でこれまで書いてきたように、問題はそれほど単純ではありません。

逆張り反デジタル主義」みたいな本が最近新聞広告に載っていますが、
タイトルだけ見れば僕も同意したくなります。
が、どこに行こうとも、

そこにいる人を、まずはしっかり見なければならないと思っています。
 

「もののあはれ」とは喜怒哀楽が等価であること

相変わらず、家での読書は『小林秀雄の恵み』(橋本治)の「沼」に嵌ってます。

今回はスタートが遅すぎる(本記事を書き始めた今はもう寝る時間)ので、
とにかくシンプルに思いついたことを書き殴り、たい。
(でも一つひとつ展開してったらかるく1万字は超えるだろうな…)

「物のあはれ」とはまた、「すべての人の中に感情はある」ということでもあるし、「すべての感情は感情として等価である」ということでもある。でなければ、《俗には、たゞ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也》(『本居宣長』十四の『石上私淑言』巻一)などということは起らない。だから私は、「憎し」だってまた「あはれ」でいいと思う。だから、《物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事く[←くの字点]につきて有物也。》(『本居宣長』十五の『紫文要領』)ということになる。

「第九章 「近世」という現実」p.341

「すべての感情は感情として等価である」

これは「もののあはれ」または単に「あはれ」の意味について述べてあることで、
実際にそうだとか、近世(あるいは中世以前)の常識だったとか、
そういう話ではありません。

が、これはかなり凄いことを言っています。

ここで直接的には橋本治が言っているのですが、元をたどれば、
小林秀雄が『本居宣長』から引用しており、
つまり本居宣長が言っていて、その彼もまた、
『石上私淑言』から引用しているので、「本歌」の人は別にいて、
だから、誰かの洞察というよりは文化として受け継がれてきた認識の一つです。


引用の太字部に触れて、連想が同時にいくつも広がり進んで、
この太字部がマインドマップの中心(スタート)の一語みたいになったんですが、
その「同時」というのは本当で、
どれか一つを今経時的に展開すると他が薄れてしまいそうで怖いんですが、
まあそれは仕方ないので取り掛かります。


上では「そういう話ではない」と書いたことですが、
仮にですが、なんとなくの想像で、
中世(平安時代とか)の雅な人々は「もののあはれ」がわかっていて、
日常的な感情の下地が「もののあはれ」でできていたのだとして、
そこから思いつく疑問は、
 「なぜそういう状態が成り立っていたのか」
 「現代人が同じ状態に至ることは可能なのか」
といったあたりですが、前者からいきますと、

僕が思うには、中世の時代というのは、
 「各種感情(の起伏)の発現が世の中の秩序とは無関係であった時代」
なのではないか。

中世の人々は、日常的に「もののあはれ」と親和的に生活をしていた。
橋本治の言い方を借りれば「すべての感情(たとえば喜怒哀楽)は等価である」と感じていた。
なぜそれができたかといえば、喜怒哀楽のどの感情の起伏があろうとも、
それは日常生活の秩序と無関係であった(秩序を全く乱さなかった)から。

それは珍しいことなのか、それとも当たり前なのか?
現代と比べれば、それはわかります。


現代人は「喜怒哀楽」と言われれば、
ふつう「喜」と「楽」を「いいもの」と考える。
それらが日常生活で多く起これば「幸福な生活」であり、
一方「怒」や「哀」の感情は、できれば避けたいと思う。

一緒に笑えば楽しいし、ずっと笑っていられればいい、
でも我慢もよくないから時には怒ることも大事だし、
悲しいことが起きればしっかり悲しむのも大事。
家族のあいだでは喜怒哀楽のすべてを共有するのが良しとされる。

それが、外付き合い、会社や公的な関係になると、
先に述べた通り「喜」と「楽」に重きがおかれる。
円満なビジネスの関係はお互いがプラスの感情を持つことで促進される。
また、(「哀」は少なそうだが)「怒」は上下関係でよく発揮される。
命令に従わせるため、反論を抑えるために、上司が部下を怒鳴りつける。

さて、こんな現代において、
「すべての感情=喜怒哀楽は等価である」かどうか?
もちろん、等価ではありません。

プライベートな関係では、等価であることが望ましいとされる。
が、それはあくまで理想で、実現は稀である。
ビジネスの関係では、そもそも等価であると考えること自体が非常識である。

つまり、現代人は「もののあはれ」が分からない、
あるいは「もののあはれ」の理解が許されない時代に生きている、
と言ってもいいんですが、まあそれはよくて、

では、現代の常識である「すべての感情=喜怒哀楽は等価ではない」は、
何を意味するのか?
となれば、
「各種の感情=喜怒哀楽は、各々が別の価値と結びついている」
こうですね。
最初の言い方に倣えば、
現代は各種感情(の起伏)の発現が世の中の秩序と関係をもつ時代だ
ということです。

つい最近新聞の書評か三八広告かで見たんですが、
 昨年の統計で女性の自殺が増えたのは、コロナ禍のしわ寄せが
 「感情労働」に従事する人(割合として男性より女性が多い)に行ったからだ、
 といった分析がされていました。
 「感情労働」は、肉体労働、頭脳労働の区分けに対して、
 第三次産業(サービス業)の興隆に応じて加えられたもので、
 それまでの労働(つまり肉体・頭脳)には要求されなかった「感情」が、
 仕事の成果と結びつくようになった。

…と、ちょっと話を単純化してる気はしますが、
上の話の例としてはちょうど良いと思います。

つまり、「感情労働」はその傾向が極端に現れる一例なんですが、
現代では多くの場面で、
「感情(の発現や抑制)が生産性(仕事の成果)という価値観の管理下にある」
ことが当たり前になっている。

それは仕事をしている間だけだろう、と思うかもしれませんが、
そう割り切れている人はおそらくほとんどいなくて、
というのも「リスク(マネージメント)」とか「コスパ」とかが日常語であること自体、
生産性思想が日常生活の中枢にまで浸透していることの証だからです。

言い換えれば、プライベートの感情も生産性の管理下にある。
これはまた、感情の発揮が「計算ずく」であることも意味します。

 あいつの機嫌を損ねたら厄介だから、喜ばそう。笑っていよう。
 この前の不躾を反省してもらいたいから、ここではちょっと怒っておこう。

いや、家族の間の感情のやりとりの全てがそうだとは思いません。
結局このような目先の計算もまた、持続的な感情の相互作用に回収されるからです。

ただ、この「打算の感情」に対して、「無垢の感情」なるものが仮にあるとすれば、
「打算」は短期的なものでいずれは全て「無垢」に回収されるのが家族だ、
なんてことはもちろん夢物語で、両者は常に拮抗するのが現実ですが、

問題がどこにあるかといえば、

生産性思想の浸透はこの両者の拮抗を「打算」側に利するというだけではなく、
それが家族の幻想(家族間は「無垢」であるという)によって自覚されない場合、
その幻想(理想でもある)と現実のギャップがどんどん広がっていくことです。

(これは個人的な偏見なのかもしれませんが、
 僕が子供の頃はほとんど聞くことのなかったはずがいつ頃かとみに増えた、
 「引き攣ったようなガハハ笑い」(男女問わず)がとても苦手なんですが、
 テレビのバラエティ番組の影響だろうなとは思うんですが、
 上記の「ギャップ」の広がりとも関係があるのかもしれません。
 つまり、「いつも笑っていられる生活は幸せ」という認識が転じて、
 「いつも笑っていれば幸せになれる」になり、
 それは完全に「打算的な笑い」なんですが、この認識の転倒が無自覚であれば、
 これが「無垢な打算的笑い」という非常に薄気味悪いものになるということです)
 


いや、実はそんな問題はどうでもよくて(書いてる途中に思いついただけです)、
もののあはれ」の話に戻りますが、

本記事の最初に、
「現代人は「もののあはれ」の理解が叶わない時代に生きている」
と書きました。

そしてそれは、「全ての感情が価値として等価である」という考え方が既に亡く、
感情労働」に代表されるように、
社会(というか生産性思想)が喜怒哀楽の各々に異なるランクを付与するようになったからだと。

けれど、そう書いてみてふと、
現代人は「もののあはれ」を感じる余地を全く失ったのではなく、
それを感じる場面が古代の人々と変わっただけなのではないか、
と思いました。

この辺りのことを一言で表せば、
「現代人の「もののあはれ」はバーチャル化した(のではないか?)」
となります。

つまり、実際の(人や物や金が動く)生活の場では感情が他の価値観に従属しているため、
そうではない場所や時間、たとえば読書やテレビや映画など(まあ娯楽ですね)では、
その従属から逃れて喜怒哀楽を思う存分に解放している。

僕は恐怖映画がダメな性質で、普段見たいとは全く思いませんが、
何の因果か見ざるを得なくなった時は案外見入ってしまうような気もしますが、
あるいは遊園地のジェットコースターなどもこの文脈上は同類かもしれませんが、
普段の生活で同様の感情(場面)に遭遇すれば厄介に違いないような感情でも、
それがバーチャルな場面であれば、その感情についてくるはずの負の実際的価値は抹消される。
だから、普段では起こってほしくないようなことも、バーチャルなら許せるし、
むしろ感情の起伏の消費という意味では「カムカムエブリバディ」ということになる。

いや、これは娯楽の本質というか性質そのものであって、
今さらあらためて言うことでもないなと一瞬思ったんですが、
いいや、気付きとして重要なのはやはり、
これが「もののあはれ」と結びついている、ということです。

しかし、そこに戻る前にバーチャルの話を少し続ける必要があります。


喜怒哀楽をバーチャルで解放して、それと実生活のバランスがとれるのは、
バーチャルと実生活のあいだに明確な境界があってのことです。

SONYウォークマンから始まり(いやテレビか、ラジオからか?)、
スマホやらVRやら、最近はメタバース(metaphysical universe?)とか言ってますけど、
科学技術がその境界をどんどん失くしにかかっていることは周知の通りです。
戦争だってそうですね。
殴打武器が飛び道具になり、戦闘機になり、無人爆撃機になり、原発ハッキングになり。

いや、喜怒哀楽はどこに行ったんだって話ですが、それほど逸れてはなくて、

バーチャルがバーチャル感そのままでリアルに影響を及ぼせるようになること
それによって、
人の喜怒哀楽の発揮が、バーチャルとリアルの間で交錯して混乱することになる。

 × × ×

すみません。
燃料切れです。

「現代人が喜怒哀楽を他の価値から切り離すにはどうするか」
というところまで行けば、
「現代人がリアルで「もののあはれ」を感得することも可能だ」
という結論にもっていけたんですが。

いや、そんなのできるはずですけどね。
できる家族はやってるし、
「サードプレイス」てのもあるし、
本来のボランティアだとか、
大学のサークルなんてのも(いい意味で)能天気なところはそうだろうし。

ただ、家族であれ何であれ、
その場の空気や質感が、
その場にはないバーチャルな情報に押し負けてしまうと、
話は(というか「価値の拠り所」が)こじれていきます。

最初にした引用の一部で締めます。

物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事其事につきて有物也。


p.s.
もののあはれ」のバーチャル化については、
まだ色々掘り下げられそうなので、
機会があればまた書きます。

「科学的合理性が外部環境となる未来」のためのABC

 
内容的には前記事の続きです。

夕食の前の3時間ほどで前記事を書き上げ、
いつもは読書しながらの夕食を何も読まず音楽だけで食べて、
その間に書いた内容を反芻していたらまたいくつか思いつきがありました。

 僕にとっては内田樹が、自分の読書世界を広げてくれた最初のメンターなんですが、
 じつは内田樹(が喋っているの)を実際に見たことが一度だけあって、
 それは奈良のどこかのモダンな(県立?)図書館でのことで、
 「現代の図書館の存在意義について」だか、そんな感じの題目で、
 「講演会場に入って演題の張り紙を見て、今日のタイトルを思い出しました(笑)」
 という(いつもウチダ氏のブログで書いてる通りの)すっとぼけた出だしで、
 その中の話に「人がよく思いつきをする三つの場所」というのがあって、
 昔の諺なのでその3つというのは「枕上(寝てる時)、馬上、厠上」だそうです。

…って、あれ?
この3つに「食事中」というのが入ってた気がして(そもそも「上」ですらない)、
そのために長々と関係ない昔話をしていたんですが、違いました(笑)。

まあいいや。

先の記事が、
一度書いたあと(の食事の後)に二箇所(心理療法の話と註の部分)を追記して、
文字数を見たらおそらく15年以上前にブログを始めて以来最長の9000字超えで、
はわわー、
というかシンプルに疲れただけなんですが、
思いついた面白いこと(タイトルのことです)をまだ書き切れていないので、
頑張ります。

疎経活血湯飲んだのはいいけど、腰痛悪化しそうだな…

 × × ×

先にABCとは何かを書いておきましょう。

 A : アフォーダンス(Affordance)
 B : ブリコラージュ(Bricolage
 C : コンヴィヴィアリティ(Conviviality)

キーワード的にそれぞれの概念の創始者を挙げておくと、
それぞれジェームス・ギブソンレヴィ・ストロース、イヴァン・イリイチです。

最初の発想はなんだったか忘れたんですが、
僕自身の生活思想の中で重要なキー概念をいくつか思い浮かべた時に、
おっ、これABCじゃん(なぜか標準語)、と思ったのがきっかけで、
このABCを、単に僕にとって重要というだけでなく、
なにか論理的に繋げて「〜のためのABC」にならないかな、
といったことを数日前に思ったんですが、
さっきの食事中に「それ」を思いついたので、
じゃあ書いてみよう、というのが本記事の趣旨です。


前の記事で、
 心の時代の"次"は「合理性を超える」、
なんてことを書きましたが、
これは書く前ではなく書きながら思いついたことで、
なぜそう思ったかには成り行き以上の理由がないのですが、
まあそういうものだとして話をさらに乗せていきます。

この「合理性」というのは、
 唯脳主義(唯脳論)、
 唯物論(すべては科学で説明できるという立場としての)、
 科学主義(自然主義、科学万能主義。あれ、唯物論と一緒?)、
などなど、大雑把すぎてとてもイコールでは結べないのでしょうが、
まあこれらとそれぞれ深い関係を持つもので、
代表して「科学的合理性」としておきます。

ええと、話とっちらかってますが、

前記事では安田登氏の言葉と自分の連想を勝手にくっつけたんですが、
心の時代(つまり現代)の次の時代を、
僕は「現世」(目指すべき未来)命名しました。

そしてこの未来としての「現世」とはどういうものか想像したとき、
そこでは「科学的合理性」が神妙にそして忠実に「便宜的合理性」として機能する。
(と考えたのはもちろん、河合隼雄氏の言葉からくっついたからです)

その一つのあり方が、橋本治の言う近世思想のような、
「非合理な神が合理性とは関係なくいて、人はそれでも合理的である」社会。
当然、それは科学を神と崇めるのではなく(そこにいるのは「合理的な神」ですね)、
合理性を棚上げする、「かっこに入れる」姿勢が常識としてある。
つまり、個人の価値観ではなく、社会(あるいは経済)の動力として、それがある。


いいですね(具体的にはぜんぜん想像つきませんけど)。
なんか、ほっこりしませんか。
現代的な生活水準で、近世思想を基盤として暮らす。
最近のSFって、ディストピア志向のものが多いですけど、
こういう未来を想像すれば、現代でもユートピアSF描けるんじゃないですか。

 × × ×

それはさておき、
では本記事タイトルにある「外部環境」とは何か、に移ります。


これは、ルーマンのシステム論における「環境」からの拝借です。

といって、僕自身の理解が非常に怪しいので、
あまり内容の正確性に関しては信用せずに、話半分で聞いてください。
加えて、この(「環境」の)思いつきはこれまで以上に「思いつき」で、
話として繋がるかどうかも書いてみないと分からない出たとこ勝負です。

(かなり弱気だなあ)


システムは、そのルールが存在すればあらゆる階層に見出せます。
個人の意識から、集団心理、諸学問や政治や倫理などをはじめ、
一国の運営や多国間協調、世界の(流通や情報)システム、等々。

各々のシステムには、構成因子があり、(外部)環境がある。
当然ながら、そう言った時、環境は構成因子ではありません。

環境はシステム内に影響を与えないわけではない。
が、環境がシステムに取り込まれるのは、システムの価値観に従ってのことである。
逆にいえば、システムは己の外部環境を、己の視点でしか捉えることができない。


これは、当然のようにも思えます。
人間の主観というものを考えれば、自然科学の客観性も一つの仮説であり、
合理性というルールに最もフィットする面で最有力な主観である、
というのが「客観性」の意味です。

だとすれば、現代人は「自然科学という客観性のメガネ」を通してものを見ている。

「自分がいてもいなくても、自分以外のものは変わらずそこにある」という認識は、
事実というよりは、その「メガネ」を通して見た「仮説としての事実」です。
だから、「自分がいなくなれば全ては消滅する」という認識があってもよいし、
それは実際存在するし(唯心論かな?違う?)、その認識には「実感」が伴いもする。

「環境がシステムの構成因子ではないこと」、
これにも意味があって(というのもそれが環境と因子を分ける意味だから)、
重要なはずなんですが、…ちょっと忘れちゃいました。
えーと…


システム論の説明が全然足りないんですけど、それはひとまずおいて、
話を「外部環境としての科学的合理性」に戻します。

合理性に意味がなくなるわけではなく、それをなおざりにするわけでもない。
ただ、「現世」において合理性は社会的価値の便宜に過ぎず、それは例えば、
現代社会において環境問題が(今のところ)産業主義の便宜に過ぎないようなものである。

産業主義・生産至上主義システムにおいては、環境問題(地球環境)は「外部環境」です。
(経済学の「外部効果」という概念がここで理解の助けになります。
 チッソ水俣川を汚染して経営が成り立ったのは、有害物質の自然排出が影響を与えたのが、
 産業経済システムにおいては何ら価値を(つまり正も負も)持たない「外部」だったからです)

あ、これはいい例かもしれない。
ので、ここを起点に掘り下げてみます。


環境問題は、人類の未来の生存率に関わる意味では死活的に重要なはずですが、
それを重要な価値とみなす主体は、「今後数百年は生きたい現人類の子孫たち」です。
あと二百年はもつ環境資源が、現代の濫用であと百年に縮まったからといって、
現代人が自分の代(自分の孫まで含むとしても)を謳歌するうえでは問題になりません。

環境問題が「便宜」であるというのは、
「未来の人類のことも考えないといけないよね」という「考え方」を、
現代人が社会を謳歌するうえで邪魔にならない限りにおいて考慮する、
(たとえば、子孫への配慮が自分の幸福につながるのであれば、それをする)
という程度には問題として捉えられている、ということです。

それがよいか悪いかは別の話で、
過去の人類が同様の発想を持ったかどうかも別の話です。

「便宜の対象」とされたものに対して、その取り扱いは、
そのものの論理よりも「便宜の基準」の論理を優先して為される。
その「便宜の基準」がどこにあるかといえば、現代社会では産業主義だということです。
そして、その「便宜の実効性」を担保するのが、合理性なのです。

これで、現代社会における「便宜」と合理性の関係が言えたと思います。


話が戻ってきまして、
僕が(概念として)構想する未来社会「現世」においては、
合理性が「便宜の実効役」から「便宜の対象」に格下げされる
ということです。
(やはり具体的な想像がしづらい話だ…)

たとえば、
神の名においてラッダイト(産業機械打ち壊し)運動が推進されたり…
するのだろうか??

ああ、
太陽の塔』(森見登美彦)の名場面の、
「京都四条河原町交差点ええじゃないか騒動」
なんてのは、
一つのユートピアじゃないですかね。
(「騒動」といっても、アーケード街の店が襲撃されるとかではなくて、
 イチャイチャしてる男女カップルをヘタレ大学生集団が引き剥がしにかかる、
 とかそういった平和的な(そうか?)感じだったはず)


…うーん、
「現世」の具体像はまた、木を見て森を見て深めるとしまして、
そろそろ序盤に放り出したままのABCの話(じつはこっちが本題)に移ります。
さすがに体力が…(もう7時間くらいキーボードと格闘している)

本題なんですけど、もう、サクッといきましょう。

 × × ×

件のABCを再掲します。

 A : アフォーダンス(Affordance)
 B : ブリコラージュ(Bricolage
 C : コンヴィヴィアリティ(Conviviality)

これらも僕自身の理解(と連想)をもとに話を進めます。
僕は、これらの概念が、
科学的合理性(の猛威)を緩める
また似た視点ですが、
要素還元主義から「全体性の回復」に方向転換するための、
キー思想となると考えています。
(「全体性の回復」というのは…ゲシュタルトとか、学際主義とかを想像してください)

それぞれを掘り下げます。


アフォーダンス
 生態学ギブソンの提唱した概念。
 人間が己の内なる意思で周囲環境に影響を与える(利用する)行動を起こすのではなく、
 周囲環境(の配置や流れや光学的効果)が人間の行動に影響を与える(時に無意識に)、
 という、人間の主体的行動原理に対する逆転の発想をもたらした。

アフォーダンスの概念は、人の主観の限界性や、人と環境との相互作用、
意識下の運動行為などに焦点をあてることを通じて、
人のシンプル(素朴)な主観的思い込みを解除する可能性を持ちます

しかもそれを科学的合理性の手続きにおいて行うことができる…。

という認識は生態学の建前だと思うのですが、これは別の見方をすると、
科学的合理性が今まで踏み込まなかった領域を、科学の看板を携えたまま切り開くということで、
古くからある泰然と専門分化されている科学分野にとってそれは「いかがわしい領域」でもある。

…ちなみに、本記事のテーマを念頭にアフォーダンスを考えたとき、
僕は「借景」という言葉を連想しました。
自分の家を建てる時に、周りの街並みの佇まいを考慮する、あるいは、
自分の家の庭だけでなく、そこから見える周りの建物や空も、その延長である。
正確な意味を実は知らないのですが(というか自分そういう単語が多すぎるで)、
「借景」は、自分の家や土地という概念の、その自他の境界を薄めるものだと思っています。
アフォーダンスは、これと同じ意味で、個人とその周囲環境の境界を薄めるものです。


<ブリコラージュ>
 構造主義を立ち上げた文化人類学者、クロード=レヴィストロースが、
 研究した地であるアマゾンの原住民と共に暮らした中で、
 渉猟中にいろんなものを拾って「合切袋」に放り込み、
 それを家(テント)に持って帰ってからいろんな用途に用いる、
 そういった「その場のありもので器用になんでもこなす」挙措を名付けたもの(のはず)。
 「器用仕事」などと訳される。

僕は(たしか内田樹が言ってた)「ありものでなんとかする」という表現が好きです。

現代社会でブリコラージュと言う時に、
その「ありもの」の対象範囲をどこまでにするかで議論ができると思うのですが、
つまり、個人の身の回り、とはどの範囲までのことをいうのか、ですが、
今の20代なら(という数字は偏見です)、
Amazonで注文できる商品もぜんぶ「ありもの」と考えるんじゃなかろうか。

別にそれはそれで自由なんですが、
とりあえず僕はそうは思わなくて、
スーパーで買えるものは「ありもの」とみなすにはイマイチで、
ホームセンターのそれなら、まあ及第点かなと思い、
商品としての「ありもの」の理想は100円ショップだな、などと考えます。

つまり、(もともとの)ブリコラージュの本質は、
「ありもの」を拾得した時点ではその用途がまだ判明していないこと、
(しかし何らかの用途が未来に存在しうるというかすかな予感はある)
解決すべき問題が発生した時に、
その解決手段として初めて「ありもの」が発想されること
、だからです。
それゆえ、ブリコラージュの本質が生活でそのまま発揮されるために、
アマゾン奥地のジャングルに住まずとも、現代の都市生活でもそれは可能です。

話が本筋から逸れていますので戻すと、
ブリコラージュの概念が現代で活きるのは、
個人の周囲環境に対する関心を賦活する点です。

前記事に、「自己参照」という思想の一つの側面として、
「個人や集団の自己満足と、周囲への配慮や想像力の欠如の相乗」と書きました。
この傾向は便利で快適、同時に猥雑でノイジー現代社会生活の必然だと思いますが、
その必然とは、意識して「流れ」に抗わねば自ずとそうなってゆく、といったことです。

自分の身の回り(家族や近所の人)に配慮せずとも必要なものは手に入るし、
自分の身の回り(都会の雑踏や通行人)にいちいち意識を回すと気が狂ってしまう、
つまり無関心と想像力・配慮の欠如は生存本能による努力の結果であると、
そういう風に考えることもできます。
(これは不思議にも『下流志向』(内田樹)の「消費から始まる教育」論の結論と一致します)

ブリコラージュの対象を、身の丈というスケールでの自分の身の回りに設定することで、
周囲への関心と想像力を身の丈レベルで賦活することができます。
身の丈感覚というのは、一つの統合性、ゲシュタルトです。


<コンヴィヴィアリティ>
 イリイチの概念。
 「自立共生」などと訳される。

…すみません。
さすがに疲れてきました。

そして、ABCの中ではこの「C」がいちばん、言葉として展開しづらい。
概念が広すぎるというか、いろんな他の概念とリンクするために、
自分の中でまとまった言葉になかなかなりません。
ちょうど最近イリイチの『脱病院化社会』を読み終えたところで、
その読後感から考えを広げてもいいんですが、
今の頭ではその記憶が呼び起こす気力が湧きません。。
…いや、ちょっとだけ思い出すことがあって、

『脱病院化社会』は、医療行為が原因で病気になる「医原病」を、
社会性のレベル、治療時のレベル、などいくつかのフェーズに分けて論じるんですが、
本全体に通底するのは、個人(患者)の自己治癒力を妨げてはならないという主張で、
その主張は科学的合理性に反するものでは当然なく、
そこには合理性を、社会の福利厚生の向上という便宜に従わせるパワーがあります。


続きは次回以降のいつかに委ねるとして、
今日はこの辺で…。

 × × ×

近世→近代→現代(今)→現世(未来)

 
オフィスの鎖書在庫棚が何度目かであふれてきたので、
棚の増設ではなく古い在庫を段ボールにしまうという作業を先日始めました。

そのうち、「出品したけど読み直したい本」が一つあるのを見つけて、
というのは棚にはその本のかわりに同サイズの木材を立てていたから気付いたのでした。

その一冊とは『小林秀雄の恵み』(橋本治)で、
読み直すために家に置いていたことを忘れたいたのをこの作業中に思い出した次第で、
早速(読まないとセットを仕舞えないので)読み始めました。

記録によれば初読は10年前の2011年3月ですが、
それから今までの間に何度か頁を開いたような気もします。


さて、読み出せば引き込まれることは(何せ再読だから)わかっていて、
橋本治のことだから読み出せば連想が多々働いて頁を繰る手も止まるとわかっていて、
だからこそ二度目の今回は速読を心がけて読み始めたのですが、
(もともと書き込んであるので、追加の書き込みは商品であれ辞すまいという意識はあったにせよ、)
かつて自分が線を引いた箇所を「なるほど」と思ったり「そうなの?」と思ったり、
しつつも読み飛ばしていたのが、次第に追加の線引きが増えてきて、
話が佳境に(といってまだ2/3過ぎですが)入ったところで、
リアルタイムな出来事との連想が色々繋がってしまい、
腰も痛いので(え?)「これは書かねばなるまい」と思いました。

 × × ×

昨日はいつも行っているジム(僕の知る他のどのジムより独自に本棚が充実している)で、
はじめてその本棚の本を少しのあいだ読むことがありました。
降らないと思っていたのに帰り間際、にわか雨がしばらく降ったからです。

内田樹(『憲法の空語を満たすために』)、高村薫(『土の記』)など、
僕自身なかなか親和性の高い種類の本がいくつもある中で、
たしか『あわいの力』は読んだことのある、安田登の本を手に取りました。
「珈琲と本」というテーマだったかのセレクションの一冊で、『イナンナの冥界下り』。

短時間だったのでシュメール語の世界最古(だったかな)のその物語の、
現代語訳を読んだところで本棚になおして昨日は家に帰ったのですが、
記憶に残ったのはその物語ではなくまえがき(か帯文?)の中にあった、
「心の時代」の”次の時代”を探る、といった感じの文言でした。

人間は(シュメールの時代に)心を発見したことで同時に不安も発見してしまった。
心の発見は人間をより豊かにするものでありながら、
不安の増幅は、かつての人間にはなかった負の作用をもたらすものであった。
人の「意識の歴史」は、そのバランスをとろうとぐらぐら揺れ進む時間であったが、
現代は不安の負の作用が極端に増大した時代となってしまった。
そのバランスを取り戻すためには、「心」に代わる新しい「なにか」の探求が必要だ。

まえがきの一節は、たしかそのような内容だった、はず(昨日のことなのにこの曖昧さ)。


所変わって、橋本治の『小林秀雄の恵み』です。
この本は僕にとっては凄すぎて、
今再読すると、かつて自分に大きな影響を与えたであろう箇所が多々あって、
その一つひとつを掘り下げるだけで各々膨大な労力を要するだろう、
ゆえにこの一冊の総括というか全体的な評価なぞできるはずもない、
と読みながら思っていたのでしばらくは何も書くまいと心に固めていたんですが、
つながりが一挙にいくつか生まれて、
それをその瞬間の快感に留めておくことに飽き足らず、
というのは「そのいくつか」を具体的に言葉にしていく作業が、
新たに何かを生むだろうという確信がそばにあったからこそ、
こうして書き始めることになったんですが、
その意志がさっきこれを書く前に、
ブラウザを立ち上げた段階(の表示エラーを解決するという横道作業)で若干挫けました。
しかし、ええ、挫けませんとも。

というわけで、本題。

 × × ×

 近世という時代は、「神という非合理」などとは言わない。それを言ってしまえば、もう近代である。近世という時代は、非合理かもしれない神を一方に存在させて、その残りを合理性で仕切るという時代なのだ。神という非合理の支配下にあれば中世だが、近世という時代は、かつて支配的だった神をそのままの位置に安置し、距離を置いて隔離する──だから、支配はされないのである。それが近世で、だからこそ近世を登場させるルネサンスの中に、ちゃんと神はいる。神という非合理と、合理性を求める人とが調和的であるのは、神と人とが距離を保ちえた近世の特徴なのである。一方には神という非合理があり、しかし人の思考は、それとは裏腹に、いたって合理的なのである。
(…)
「神という根本的な問題を棚上げにしたまま、平気で現実的であり合理的である」というのは、別に日本にだけ特殊なあり方ではなくて、それは当たり前の「近世的あり方」なのである。だからそれは、現在の世界中に当たり前にある。

「第八章 日本人の神」 p.289
太字部は引用者による

この一節だけで、世界史の意義というか、世界史とは何かがストンと腑に落ちる。
というぐらいの衝撃を僕は感じるのですが、それは別の話なのでさておき。

上の引用の先からさらに引きます。

 近世というのは、そういう時代なのである。だから、「本居宣長にとって神とはいかなるものか?」という問いには、意味がない──本居宣長が『古事記』という神が実在する世界を扱っているにもかかわらず、この問いには意味がない。そう考えれば話は明快になって、『本居宣長』の後半だってもっと整理されるし、小林秀雄だって、実はその手前にまで行っているのである。しかし近代人には、そういう放擲が出来ない
(…)
存在していて関係ない神を放擲してしまうのは、簡単なことなのである。ある意味で、驚嘆すべき時代である。人はそのように、大問題から自由であった──ということになると、「なんで日本の近世にはそんな時代が実現してしまったのか?」ということになる。かつて人は、宗教に束縛されていたにもかかわらず。

同上 p.290
斜字は引用元の傍点部

この『小林秀雄の恵み』という本は、
本居宣長を自分(=小林秀雄)に引きつけて探求した『本居宣長』という本を書いた小林秀雄を、
自分(=橋本治)に徹底的に引きつけながら同時に突き放して探求した橋本治の著書です。

「徹底的に引きつけながら同時に突き放して」の探求を、かつ自信満々に行えること、
小林秀雄という「じいちゃん」から様々な「恵み」を得ながら、
同時にある場所ではきっぱりと否定(無論、本居宣長もその対象に入る)すること、
そんな大それたことができるのは「自分の身体は頭がいい」と確信している彼ならではのこと。

ですが、それもさておき、
引用部を読んでいて、僕はつい最近読み込んだマリオンの『存在なき神』を連想しました。


「存在していて関係ない神」、ではなくてマリオンにとって神は「存在しない神」で、
つまり彼からすれば、存在はしていないが自分には大いに関係している神、のはずで、
それはどうあれ、マリオンも近代人であり、「神を放擲してしまう」ことができない。
神に関することを、人生の、あるいは人類にとっての大問題だと捉えずにはいられない。

だからこそ『存在なき神」のような難解な論理を延々と展開する必然が彼の中にあるのですが、
この本を読んでいるあいだ、僕は別の場所で鈴木大拙の『無心ということ』も併読していて、
そのあいだに、
 マリオン(西洋の宗教者)と大拙(東洋の宗教者)の目指すところは一緒なのではないか、
 それを論理で示すのは難しくとも、実践のうえで何がしかの共通項を見出すことは可能だろう、
 というのは大拙が『無心ということ』で言ってることなんだけどね、
といったことを考えていました。

 (異国語から母語への)翻訳というのは難しくて、その完全性なるものは不可能で、
 でもそれは異文化理解が不可能であることと必ずしも直結するわけではなく、
 「実践のレベルでは異文化理解があり得る」という可能性を、
 翻訳作業そのものにこだわると見えなくなる。

という話はまた脇道ですが、
無心にせよ宗教心にせよ、個人が内で体得する難しさは、
それを複数の他者に理解(追体験)させるための表現の難しさと比べると、
どちらも大概だろうけれどその質は異なるとおもいます。

 大拙の『無心ということ』は講演録なので文章は口頭調で、
 頭で理解というよりは身体とか体感、体験に訴えるもので分かりやすいのですが、
 それでも言葉でもって「言葉の外」を伝えようとするのだから当然わかりにくい。
 「それを難解と断ずるは有心の証左」などと言われると、ほなどないすんねん、
 と放り出したくもなるというものです。

 論理を放擲できない者は、無心を放擲せざるを得ない。

 そも、元あった無心が放擲されたのは、人が意識という論理を得たからである。
 自分(という意識)が生まれたその最初から何かを得てしまった人というものは、
 「何かを放擲せずにはいられない生き物」という点で動物と分かたれる。

 大拙によれば、論理を放擲して無心(無分別)を得たあとに、
 そのまま分別の世界に戻って来なければ木石や動物と変わらぬのであって、
 分別→無分別→分別という経過ののち、俗世における無心の境地に相成る。

 従って、悟りの境地とは、論理の放擲に続き、無分別も放擲せねばならぬ。
 そうして、「全て見ながら何も見ず」、「全て聞きながら何も聞かない」、
 などと表される無心の挙措においては、絶えず放擲が成されており、
 決してこれは岩上に瞑想する行者が如く静的なプロセスではあり得ない。

  一竹葉、堦を掃いて塵動かず、
  月、潭底を穿ちて水に痕なし。

などと、また思いつくまま書いたのも脇道ですが、
今ちょっと調べると、「一竹葉」は「一竹影」なのですね。
『無心ということ』の表記は前者なんですが、意味としては後者で通る。
講演録の書き取り違いかもしれませんが、まあそうは考えないでおきます。

 竹の葉の影が、地面に在る事物を薙ぎ払うようでありながら、
 実際はその場の塵一つとして微動だにしない。
 それは驚きでもあるし、認識の混濁でもありますが、
 その驚き、あるいは混乱とはなにかといえば、
 「影」は「竹の葉」ではないということ、ではないからです。

…すみません、思いつきが面白くて本題に戻れませんが、
『無心ということ』はここ最近に読んで、
そこから連続しての(付箋箇所の)再読もしているので、
いちど思いつくと書きたくなることが溜まっているようです。


鈴木大拙とJ・L・マリオンの話をしていたところでした。
…違うな、橋本治とマリオンですね。
まだ本記事のタイトルの話までたどり着いていませんので、続きます。


二つ目の引用の要点を並べます。

「存在していて関係ない神を放擲してしまう」
「ある意味で驚嘆すべき時代である」
「なんで日本の近代にはそのような時代が実現してしまったのか?」

小林秀雄の恵み』の、この引用の先に、その理由が書いてあるのかもしれませんが、
(その先に書いてあることを今の僕は全く覚えていません)それはさておきます。

もしかすると、その実現の理由につながるかもしれませんが、そうでなくとも、
そのような近世という時代がいかなるものであったか、
渡辺京二の『逝きし世の面影』はそれを知る格好の書だと思いますが、
それもさておき、

「それ」を知ることは、単なる知識として得るだけでなく、
(ようやく安田登氏の『イナンナの冥界下り』のまえがきに戻ります)
「"心の時代"のその次の時代」を構想するために重要な手続きとなるだろう、

というのが、
小林秀雄の恵み』の再読中に何かを書きたくなってしまった思いつき、
つまり本記事を書くことになった動機(を文章にしてみたもの)です。


話を順にして文章に展開していって、へえというか「ふーん」という感じなんですが、
この記事を書く前にキーワードとして思いついていたのが、タイトルです。

「近世→近代→現代(今)→現世(未来)」

現世(未来)と書いたのは、詳しくは「現世(あるべき未来)」です。
誰が「あるべき」と思うかといえば、もちろん、僕がです。

小林秀雄の恵み』からの一つ目の引用を、下に一部再掲します。

近世という時代は、非合理かもしれない神を一方に存在させて、その残りを合理性で仕切るという時代なのだ。神という非合理の支配下にあれば中世だが、近世という時代は、かつて支配的だった神をそのままの位置に安置し、距離を置いて隔離する──だから、支配はされないのである。(…)神という非合理と、合理性を求める人とが調和的であるのは、神と人とが距離を保ちえた近世の特徴なのである。一方には神という非合理があり、しかし人の思考は、それとは裏腹に、いたって合理的なのである。

僕が考えているのは、懐古的なものではありません。
アーミッシュ的な暮らしが、現代社会において都市や街の規模で、
(あるいはそれが可能な規模でコミュニティごとに分散して、)
実現できればそれに越したことはありませんが、まあまず無理です。

ただ、過去のある時期の生活を歴史から参照することに意味があるとすれば、
それは「思想として」、その過去を現代に活かす、あるいは蘇らせることです。


ちょうど今読んでいる…違うな、
だいぶ前に鎖書として組んだセットをいくつか最近見直した中の一冊である、
『臨床とことば』(河合隼雄鷲田清一)にあったんですが、
河合隼雄氏が心理療法で患者を治療する姿勢についての表現で(目次にもある)、
「便宜的合理性に賭ける」というものがありましたが、
たとえば、まさにこれです。

 河合隼雄は、治療者として患者に対して受け身になります。

 (まずは)余計な口を挟まず、相手の言うことを聴くに徹する。
 誇大妄想に苦しむ患者の話にも、その人自身が基準の合理性がある。
 また、その合理性には、論理の辻褄とはまた別の、切迫度も存在する。
 治療者が患者に相槌を打つか、やんわり翻意を促すか、無下に否定するか、
 その選択の判断基準は合理性の度合いではなく切迫度であり、
 それは治療者が患者と膝突き合わせて相対せずには計れないものである。
 治療者は、とにかく患者には治ってほしい。
 どうして治ったか、どのような経過をたどって治療できたか、
 そんなことは二の次どころか、現の治療の中ではどうでもよい。
 が、それは合理性を軽視する、疑うのも、無視するのも違う。
 患者の治療に徹するためのツール(機能)としての合理性、
 それが「便宜的合理性」であり、
 患者が同じくそうであるように、
 治療者はその便宜的合理性に己の身を賭す。
 「身を賭す」ことの意味の一つは、
 患者に寄り添い過ぎると、治療者も同じ状況に堕ちることである。
 それは、治療する時間に限らず、治療者の生活全体に影響を及ぼす。

 あるいは、患者が治療した後のことを考える。
 治療が終わるとは、患者が自分の意思で通院を止めることである。
 まず、その治療の終わりまでに要した時間に、意味はない。
 三日で鬱が治ったと自己判断した患者が、
 その後何年もの間、自覚を欠いた鬱症状に悩まされることもある。
 また、治療が終わっても、かさぶたが取れて元通り、とは限らない。
 鬱に悩んだ学生が、その治療の過程で、将来の進路を変えたとする。
 治療によって手にした別の未来が、その学生にとって良かったかどうか。
 自分の意志を不屈に貫けるようになって、戦いと挫折の続く人生と、
 鬱を抱えたまま、消極的ながら小さな平和を守り続ける人生と、 
 どちらが彼にとって幸福な人生であったか。
 そんなことは彼にも分からないし、もちろん治療者にも分からない。

 つまり、便宜的合理性に賭けた治療そのものが便宜的ということです*1

合理性の機能とは、そもそもが便宜です。
合理の便宜性は便宜にある、といってもいい。
便宜を放擲しての合理性の追求は、悪しき手段の目的化なのです。
思い切って飛躍すれば、「心の時代」における不安の蔓延はその結果ともいえる。


神は、神的なものは、
決して人間の手に届かない対象としての神は、
必要である。
とマリオンは『存在なき神』に書いていました。

神は非合理である。
たしかに。
しかし「神は非合理である」と言うのは、合理性であり、近代的知性である。
無論、現代的知性も同じ。

心の時代の「次」は、これを超えなければならない。
それは同時に、思想的な意味で、近世を呼び醒ますものでもある。

だから、(単に字面の上でということですが、)
「現代」の次に来るべきは「現世」である、
というのが、タイトルの意味です。


この「現世」は、あるいは神のようなものでもある。
何せ、決して届かないもの、決して到達しない時代だからです。

けれど、それを目指すことが無意味ということにはならない。
それを無意味と言うのは、
近世を生きた人々の人生がことごとく無意味であったと言うようなものです。
というか、
それを「無意味であった」と断じて疑わないのが、現代の合理性なのです。
しかも、(論理的に辿れば真なのに、それに目を向けないことで)自覚なく。


これはいつも書いている話ですが、
現代人がその合理性を乗り越えるためには、
合理性から距離をおいて無関心でいるのは間違いで、
その合理性に一度、徹底的に全身を浸さねばなりません。

「西洋人には武士道はわからない」と豪語する現代の日本人が、
それをよく学べるのはオイゲン・ヘリゲル(『弓と禅』)からである。
このことはもう何世代も前から認識されていたことですが、
たとえば、そのようなことです。


一言で抽象化すればそれは「自己言及を掘り下げる」ことで、
だとすると、あるいは、
ニコラス・ルーマンも「現世」へ向かうキーマンの一人かもしれませんが、
現代人が得意とするのは、
その真逆の機能を発揮するものとしての「自己参照」ですね。


自己言及、自省、自覚、といったものは、
個人では行えるが集団としてまとまりを持って遂行するのは難しい、
とは自分が本を読むようになってだんだんと気付いてきたことですが、
それと、
かの「自己参照」つまりは、
個人や部族内の自画自賛と外部への無関心(感受性の低下)の相乗、
といったものが個人に留まらず集団(集団内、集団間)に感染しやすいこととは、

不幸の内実には多様性があるが幸福のそれは単調にして凡庸である、

という観察と対照を成すのではないか、
と今ふと思いつきました。


「幸福」も「不幸」も観察的定義であって、
「自分が幸福か不幸かを問わないでいられる状況を幸福と呼ぶ」
という自己言及的定義を真とするなら、
まあそうなのでしょう。

 × × ×

*1:話が逸れ続けるのもアレかと思ったので、註で逸脱を続けますが、ブリコラジール=サンタナ鎖書店をかれこれ二年くらい続けてみて、それは鎖書という三冊セット本を作り続ける(そしてごくたまに売れる)ということなんですが、ちょうど一年経ったくらいから河合隼雄の本をよく読み込むようになって思ったことは、鎖書という本の形態が有する機能は心理療法に通ずるところが多い、ということです。目の前にあるもの(患者、またはセット本)の独自の文脈を見つける・信じる・価値を与える、ということが一つと、今書いてきて気付いた二つ目が、この一つ目とも関連しますが、「便宜的合理性に賭けること」です。鎖書の便宜的合理性における「便宜」とは、本の世界をより豊かにすること、です。いろんな種類の本があるし、本の読み方にはいろいろある。ここには本の数だけ、また人の数だけの多様性がある。でも、それだけじゃない。読書は、一冊の本と一人の読者の、膝突き合わせた対話である。が、その「一冊」は(直接的には内容の言及や引用などによって)また別のいくつかの本と繋がっている。そして、その繋がりには、その一冊が内容として含んでいる直接的なリンクのほかに、「間接的なリンク」というのものがある。その「間接リンク」には、その一冊を読むだけでは到達できない。その一冊の横に、別の(二冊の)本が並んでおり、その一冊とその別の本とが何らかの関連をもつという「便宜的合理性」がそこに存在することによって、その「間接リンク」は活性化される。「本の世界」という言葉から想像されるのは、一冊の本が描きうる領域世界、あるいは読者がその一冊の本を読んで描きうる領域世界です。が、鎖書という便宜的合理性は、「本の世界」を、それが一冊であれば酸素原子(において原子核の周囲を漂う電子)の領域だったものを、水分子(同前)の領域へと拡張する機能を持ちます。比喩的にいえば、これが「本の世界をより豊かにすること」です。では、鎖書の意味とは何か? それに対する答えは、「意味などない」、あるいは「便宜がそれに答える」です。何の広告文にもならない答え。これが、比喩ですが、「非消費者的読書」の性質の一つといえます。

「井桁崩し」のクライミングへの応用

まえおき

今住んでいるアパートの部屋にはロフトがあって、
ロフトに上がるハシゴをバーにひっかけて登りますが、
そのバーが手を伸ばせばぎりぎり届く距離にあって、
ちょっと体を伸ばしたい時に日常的に掴むことがあります。

この部屋には二、三年は住んでいて、
その最初の頃から上記の習慣があったのですが、
初期は片足立ち背伸びで、
・左手はぎりぎり指が上向きの4本中3本(小指除く)掛かり、
・右手は掌が若干バーから浮くけどまあ握れるかな、
という届き具合だったのですが、
それが今になると、ちょうどさっきバーに手を伸ばしてみて、
右手も左手も、バーをしっかり握れるようになりました。

「背が伸びた」という可能性もないことはないですが、
年齢から考えてあまりないでしょう。
「腕が伸びた」という可能性も同様に考えられます。

というわけで身体の使い方が変わったのだとすると、
(1)つま先立ちがよりシビアにできるようになった
(2)肩関節がゆるくなって腕の(長さ方向の)可動域が広がった
(3)胴体部分の骨(肋骨ー鎖骨)が「井桁崩し」然に動けるようになった
といったあたりが思いつきます。

実際にありそうなのは2と3で、
このうち掘り下げると面白そうなのは3です。
用語解説も要りますね。

本題

「井桁崩し」は古武術研究家・甲野善紀氏の術理用語です。
四角形の各頂点が(位置可変の)ヒンジ運動の支点となれば、
その四角形は「ひしゃげる」変形により平行四辺形になれる。
剣術・棒術・手裏剣術などの身体運用において、
「肩や肘や手首など各関節のヒンジ運動」といった部分分解ではなく、
身体全体の(「鰯の群泳」のような)同時協調的な動きの表現のために、
身体のある範囲において「井桁崩し」的動作が行われていると仮定する。

その「ある範囲」というのは確かいろいろありうると想定されていて、
その「いろいろ」の具体的なところは覚えていませんが、
一つだけ印象的で記憶に残っているのが「肋骨ー鎖骨」部分です。

ここが本記事の要点なんですが、
胴体を、左右を短辺とした縦長の長方形と見立てた時に、
その「長方形がひしゃげる運動」において決定的に重要なのが、
胴体の全体を貫いて張り巡らされている「肋骨ー鎖骨系」だということです。

冒頭に書いた、ロフト梯子のバーに背伸びして掴むという話に戻って解説すると、
「片足つま先立ち」とは右手でバーを掴む時には左足が接地(右足は浮き)で、
つまりその時の両手両足(先端)の配置は平行四辺形の各頂点に擬せるわけで、
その体勢における身体全体の「リーチ」は平行四辺形の(長い方の)対角線で、
その対角線に従う(沿う)ような左足ー右手間の身体各部の配置が望ましく、
「リーチ」の中間部にある胴体は、
それが長方形であるより平行四辺形である方が(リーチが伸びる意味で)望ましく、
その平行四辺形が大きくひしゃげるほど、身体全体のリーチも長くなる。

本題の本題

いや、そもそもその「長方形がひしゃげる運動」とは何なのか?
と言われると、武術的にはいろいろあるのでしょうが、
ここでやっとボルダリングの話になります。

「ダイアゴナル」と呼ばれる基本的なムーブがあります。
右手で取りに行く時は、右足を高い位置で踏み、
(取ったあとの)右手と左足が平行四辺形の対角軸となるように動くこと。
ここにもう、「平行四辺形」が出てきています。

が、僕自身が「肋骨の井桁崩し」を実感しやすいと思うのは、
ダイアゴナルよりはむしろ、「逆足」で取りに行くムーブです。


右手で右上にあるホールドを取りに行きたい、
しかし踏める足ホールドが左下にしかない場合、
右足で踏んでダイアゴナルで出ようとすると身体が大きく傾いてしまう。
安定性は変わらず高いのですが足が踏みにくくなる。
この場合、右足ではなく左足で踏むことで、
身体を壁に対して正面に向けたまま出ることができます。
ただ、左足と左手を支点として右手を出す(右足は壁か浮いた状態)ので、
身体の左端を支点とした(左右方向が軸の)ヒンジ運動が発生します。
この、右半身から壁から離れていく運動を抑えるためには、
浮いた右足を右側で壁と摩擦させる(スメアリング)、
もしくは左に流す(フラッギング)といったムーブがあり、
これらは「逆足」の場合に身体を安定させるうえで必須です。

さて、この逆足ムーブにおいては、
身体が大きく(上の例では、右に)傾きます。
…と、
ここまで書いてやっと気づいたんですが、
身体が傾くこと自体はダイアゴナルも逆足も同じですね。
…ややこしくなってすみません。

それでも僕自身の「井桁崩しの実感しやすさ」の差は両者にはあって、
それはなぜだろう…
と今あらためて考えてみると、
逆足のほうがムーブにおいて胴体部が動員されやすい、
あるいは少なくとも意識されやすいからではないかと思います。


変なたとえですけど、
トランポリンでハイジャンプをやるとして、
ひと跳びの長い滞空時間のあいだは、
手や足(の特に先端)にはほとんど意識が向かないはずです。
宙に浮いている間は手も足も「空を切る」わけで、
逆にその「わたわた」した動作をすると姿勢が乱れてしまう。
そう、滞空時の喫緊の課題は姿勢制御にあって、
その制御のために顕在意識が動員されるのは体幹のはずです。
(また、徒手空拳での綱渡りを思い浮かべると、
 腕振りでバランスを取るのは「奥の手」とするのがコツな気がします)

ハイジャンプと(この話のなかで)全く逆の場合を考えると、
たとえば今まさに僕がやっている、パソコンの打鍵操作です。
こまごまとボタンが並んだキーボードの表面において、
その一つひとつを指先が瞬間的に「ちまちま」と選び取っている。
手の先端部の細かい動作に意識を集中させることができるのは、
身体の姿勢がどっしりと安定しているからです。
この場合、体幹はもちろん使われているが、意識はされない。
注意力のリソースが末端に多く割かれるだけ、中枢は感知されない。
だから首や肩が凝ったり、背中がバキバキになったりする。

結論

これらのたとえを先ほどのムーブの話に引き寄せてみます。

ダイアゴナルより逆足ムーブの方が安定性が低いために、
ムーブ進行中の姿勢制御に身体操作のリソースが多く割かれる。
ところでその姿勢制御とは、身体の中枢部に対する意識的動員である。

それはたとえば、鎖骨や肋骨を意識することであったり、
それら胴体骨を全体として平行四辺形にへしゃげることであったりする。

そういうことではないか。

そういうことも、あるのではないか。

あったら面白いな。

という仮説ですが。

翻って、逆足ムーブで井桁崩しができるようになれば、
それはダイアゴナルにも返ってきます。
身体(胴体)が斜めになるのは同じなので、
安定した取りの一手においても肋骨の変形を動員できるようになる。
結果的に、スタティックムーブのリーチが伸びる。

といいな☆

 × × ×

「武道的ボルダリング」というテーマがいつも念頭にあって、
それは武道だけでなくヨガや太極拳といった身体操法も対象です。
といって武道は本の知識(とそこからの個人的実地)でしかないし、
ヨガと太極拳にいたっては単なるイメージの域を過ぎませんが、

おそらく共通して言えることは、
「身体全体をいかに使うか」、

その例としては上でも触れた、
「身体全体の協調的動作」や、
「身体の各部をいかに繊細に意識できるか」、
「日常生活では使わない身体部分をどれだけ使えるようになるか」、
など、いろいろ言い方はあります。


甲野氏はそのいくつもの著書で、
武術的な身体運用は日常生活のそれとは全く違っていて、
完全に習慣づいて意識されなくなった「普段の身体の使い方」を、
いかに(顕在意識化し、バラバラにすることで)解除できるか

それが大事だ、というか、
それによってようやくスタート地点に立てる
といったことを書いていたと記憶しています。

甲野氏の術理がバスケやラグビーや楽器奏法に応用されたり、
氏が主宰する研究会の出身者が「古武術介護」を立ち上げられたりしたのは、
武術的身体運用が現代社会の実利に結びついた一例ですが、
その現代的な実利の起点には「現代習慣(常識)の解除」があったことは重要です。
(別の話ですが、少子高齢化・経済成長鈍化の後退戦を迎える現代日本では、
 これを思想として多分野に活かしてゆくことは有効な生存戦略に思われます)

その可能性はあらゆる分野において潜在しますが、
僕自身はクライミングボルダリング)の中にそれがあり、
その認識と敷衍によって生計を立てることができるだろう、
と考えています。

出来立て過ぎるフルーツサンド

料理投稿が続きます。
またしてもアボカド。

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記事タイトルと写真とで、
言わんとすることは伝わると思います。

ちなみに「できたて過ぎる〜」は(今風の)通称で、
料理の正式名はちょっと長いですが、

「イゴだけどイゼン、なのでナカとってイチュウのフルーツサンドイッチ」

です。


漢字を当ててみましょう。

 イゴ  =以後(完成前に食べちゃってる)
 イゼン =胃前(つまり完成するのは口の中)
 イチュウ=意中(つまり思い込みのサンドイッチ)

という漢字。


以下、料理のポイントです。

・具とパンとドレッシングを口に入れてから、
 目を瞑って「サンドイッチ」だと思い込むと、
 あまりの新鮮さに具がとろけます。
(パンが硬めのフランスパンなのもポイント)

・通常のサンドイッチと違い、
 どちらかといえば具がパンを「サンド」するため、
 ご飯一口にふんだんなカレールーを同伴できるような贅沢感があります。


最近はアボカドとキウイが安いですね。
 

今、日々在りて

ここ最近、併読書のなかで、長々と読み続けてきた本の読了がいくつかありました。

『意識と本質』(井筒俊彦)、『存在なき神』(ジャン=リュック・マリオン)と、それから先ほど読み終えたのがイヴァン・イリイチの『脱病院化社会』。

それぞれ、最終頁を閉じたあと、
背表紙から表紙へと視線を移して、しばし感慨にふける、
ということがありました。

古本屋の仕事をするうちに、昔は精読しかできなかったのが速読というか拾い読み(正確には「拾い精読」)ができるようになり、どの本をちゃんと読むか飛ばして読むかの判断もわりと最初から判断がつくようになったんですが(といっても選書が感性的である以上、それはスキルというより感性への順応といったものですが)、ちゃんと読む本として認定した本の精読のほうは以前よりも腰の入り方が深くなったような気がします。

というわけで、精読了した本を前にすると、何かを得たというよりは自分の何かが変わったと思うことがあり、しかしイリイチの本(これまでにはあと『オルタナティブ』、『シャドウワーク』、それから渡辺京二訳の『コンヴィヴィアリティのための道具』を読みました)はどれも、得たものは新しい知識というよりは新しい言葉、いや言葉の遣い方、むしろ言葉を通じて生き方を表す方法のようなもので、読了して自分の何かが変わったということを言い換えると、外から何かがつけ加わったというよりは内にあったものが活性化されたという感覚です。


新しさと懐かしさを同時におぼえるような。

自分が(言葉の外で)求めていたものを言葉にするとこうなるのか、という。

いや、
自分がいろいろと言葉を探りながら求めていたもの、
その言葉は、「求めるものを表現するための言葉」の遣い方であったのだけど、
それとは全く別の仕方で表現されたものとして、
「求めるものを実現するための言葉」として表れている、という驚き。


 × × ×


今まで何度もこのブログで、
自分の生活方針について、
「何をするか」よりも「どういう状態であるか」を重視する、
また、それを状態の志向という表現で書いてきました。

その状態を、イリイチから贈られた言葉でいえば、
 「コンヴィヴィアリティ」
(「自立共生(的な生き方)」)

となります。

僕自身はこの状態の実現を理想とし、
(その実現は、安定不変の幸福を意味しません)
それに向けて、自分がすることとしないことを選び、
自分自身の価値観を形成し続けていきます。

また、「共生」という言葉は第一に自分と関係する具体的な人々を連想させますが、
僕自身は周囲環境や本といったものも対象だと考えていて、
というのも現在の生活は後者の比重が大きいからですが、
来年はじめから新しい生活の準備(拠点の決定と生業の構築)を始めるにおいて、
前者の意味での「共生」も視野に入ってくることになります。

 つまり、自分と関わる人を選び、
 またその関わりの深さを選び、
(それらを選ぶということはまた、
 自分がそれらを選ばれることでもある)
 そのことでお互いの選択が、
 お互いのコンヴィヴィアリティを活性化するように、
 選び、また選ばれる。

イリイチが多数の著作で指摘し続けていたように、
産業社会的価値観はコンヴィヴィアリティの基盤に馴染みません。
けれど、現代社会の基盤がそこにある以上は、
それと適度な距離をおいて付き合っていくしかありません。
具体的には、
プラグマティックな現状認識としては肯定も否定もしないまま、
生活思想としては生産主義・効率主義に対して常に留保を怠らない(鵜呑みにしない)、
といったことです。

そのような生活方針を貫いた結果として、
将来的に、産業社会的価値観からすれば失敗となるようなことになっても、
それに囚われないためには、
それを自分の身体性を担保にして否定し続ける姿勢も必要となるでしょう。


難しいことかもしれません。
でも、簡単というか、
ことはシンプルであるかもしれません。


脳化社会で、人は無垢ではいられません(でないと呑まれる)。
一方で、素朴であり続けることはできる。
けれど、そのためには一生涯の努力を要する。

「素朴であり続けるための努力」というのは矛盾して見えます。
でもこれは、身体という基礎に築かれた脳化社会の矛盾と対応しています。

 古代の呪いを解くのは、宗教という呪術です。
 現代の呪いを解くのは、言葉という呪術です。

「言葉による身体性の賦活」という迂回路は、
 グラスルーツにしか存在しません。

そういう生き方を、
周囲とともにしていけるように、
動いてみようと思います。


今日々在りて、
コンヴィヴィアリティ。

お粗末でした。