human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

色即是空、お布施、命の重さ

江戸時代のお伊勢参りのマンガを読みながら考えたこと。

今でいうボランティアと、
お布施、またはお接待の感覚は、
違う。

「情けは人のためならず」
という言葉は、その誤用でない正しい意味の方を考えても、
力点があるのは「結局は自分にかえってくる」ことではなく、
その相手から誰から色々経由して自分に影響はあるかもしれないが、
とにかく、人にかけた情けは「ぐるぐる」すること、の方。

で、たぶん「ぐるぐる」自体に意味はないし、
結果として具体的に影響がどこにいくかも、あまり意味はない。

このことわざは、昔の感覚を想定すると、
ことわざによって意味(解釈)が生まれるというより、
意味を見出そうとする意識に対して「いや意味はないんだ」とたしなめる、
慣習以上の読み込みを慣習に引き戻す効果、
があったのかもしれない。
「無駄なこと考えるのなんておよしよ」という。
(これは加藤典洋のいう「日本人の無思想」と関係があるのかないのか)

「色即是空、空即是色」
も、この視点においては同じ言葉だと思う。

 × × ×

「現代の課題は「空即是色」の感覚(への対応)にある」
といったことが、見田宗介が昭和の終わりに書いた文章にありました(『白いお城と花咲く野原』)。

バーチャルなものごとが生活・経済・政治に大きな影響を与える現代は、
当時よりいっそう当てはまる認識といえます。

ところで、当然ながら空即是色は色即是空とセットです。
セットという意味は、表裏一体であり、置換可能であること。
しかし、では、現代社会の感覚として、
「色即是空」の方は、当たり前と言えるか。

そうではない。
明らかに、言葉の重み、実効性が、「空即是色」の方に偏っている。
生を言祝ぎ、誰もが生産し、死亡率100%と口で言いながら死を社会的に隠蔽する。

 × × ×

「ないものをあらしめることであるものをなからしめる」
という言葉が、去年の秋ごろからずっと念頭にあります。

何の著書だったか、内田樹が「安宅の関」という能の話の中で、
弁慶が敵方?の関所を通るために口舌を奮い立ち回る場面について表現した言葉です。

ないはずの手形(か許可証か)をあらしめる(あるように見せかける)ことで、
ある(起こる)はずだった関所での戦いをなからしめた。

以下、そのウチダ氏の文章の中にあったか記憶にありませんが、
この両者には、あるバランスが存在する。
何かを生み出せば何かが失われるが、
失うことなく生み出し続けることはできない。
 言葉の両義性も性質として似たものを感じますが、
 (たとえば、あることわざにはたいてい意味が反対のことわざがある)
 これは余談かもしれません。
これが公理のようなものだとすれば、
何かを失うことなく、どんどん生み出し続けることができている、
という思い込みは、いや実は失われているものがあることを気付かせない。

 × × ×

僕の関心は、
「みんな気付いていないが今どんどん失われ続けているもの」
にあります。

古本をセット売りすることでその現代的な価値を復活させる(創造する)ことは、
その「失われ続けているもの」には実は価値があるんだ、
と言いたいからやっているのかというと、
全面的にそう、というわけでもありません。

 普遍的な価値というものは、ない。
 現代社会でそう言い張るものは、文脈に関わらず、
 現代で「普遍的な価値」として機能している「お金」にリンクしてしまう。

僕は、
その人にとっての価値は、その人が見出すものだと思っています。
きっかけがどうあれ、どこかで必ずこのプロセスを通るべきだと。
そうでなければ、
もし、そうでないことを究極まで推し進めた場合、
その人がその人であることの意味は、なくなります。

そこまで極端な例は滅多にありませんが(しかし僅かにせよある)、
そういう方向性の肯定によって社会が回っている、と思います。

それは、危うい。
お金の比喩としての「自転車操業」とは比較にならない危うさがある。
精神のことだから。

そして、危うさから逃れる(リスクを避ける)ために真面目を軽蔑する、
ことが生存戦略になる状況は、不真面目を超えて、
頽廃だと思います。
(社会システム自動化の発展は、
 この頽廃への自覚を遠ざけてくれますが、
 これが「あるものをなからしめ」ているならば、
 その代償に何が生み出されているのか)

 × × ×

本を読むことを、
孤独な営みではなく、
対話だととらえること。
相手は著者に限らず、過去、現在、あるべき(あったはずの)未来。

単なる思い込みでない対話は、
参加者を変化させます。
一冊読むごとに変わっていきたいという意気。
また、相手も変化させ、新たな命を吹き込みたいという意志。

 × × ×

バランスをとることと、
身の丈感覚を養うこと。

バランスというのは、ここでいえば、
「色即是空」と「空即是色」の両者。

そのためのものさしとして、
自分の身体が用いられていること。

言葉を死なせないこと、
生きた言葉を身体に響かせること。
「居着き」という武術所作が参考になるでしょう。
もちろん、反面教師として。

教師半面、
学徒半面。
 
 
今年もよろしくお願いします。
(だいぶ文章のスタイル変わりましたけど)
 

「羊を持たない羊飼い」が最初にすること

 
自閉症的な社会では、それへの適応が自閉症的性質を亢進させる。
社会からの孤立(距離をおくこと)と全体性(ゲシュタルト性)の維持に相関がある、
という視点は、社会から一度も出ることがなければ、論理矛盾として斥ける以外にない。

 × × ×

引き続き、「島的思考」のコンセプトイメージに関する考察です。

われわれの心と事物との関係は、われわれが事物を考察し、それについて概念を造るというところに成立する。
厳密に言えば、我々は現実をすこしも所有することなく、それについての概念のみを所有する。
概念とは、世界を眺望するための望楼のようなものである。
あるいはゲーテの言うとおり、新しく得られた概念の一つ一つは新たに発達した器官に類するものである。


オルテガ『芸術の非人間化』, 1968

これは最近読み始めた本で、
このちょっと前から村上春樹の最新作も読み始めていて、
オルテガの文章の所々で「街」や「壁」のことを連想していて、
古典的な芸術論と現代小説がリンクする充実とか、
今回のハルキ小説は固有名詞が全然出てこないと思ったがそういうことか、
など思うところは沢山ありますがそれらは本題ではありません。

というわけで、さっそく本題へ。
 
上の引用部を読んでいる時に「島的思考」の新たなイメージが湧きました。
たしか前々回の記事に、分散的集団という言葉の分析で、
「みんなは同じところだけは見ていない」
という言い方をした記憶があります。
否定表現による、集団の共通する性質。

それはある意味その通りで、
けれどこの時、
僕はその分散的集団の「個々の立ち位置」について、
(座標軸プロットの話の中ではしてたのに)イメージしていませんでした。

つまり、
大陸から距離を置いた、浅瀬・近海に浮かぶ各々の小島からの視点、
という表現が既に「立ち位置が一人ひとり異なる」ことを含意している一方で、
分散的集団の「集団」という言葉に引っ張られて、
各々別のところを見ている彼らは「同じ場所に立っている」と、
明言はしていませんが、そうも読めるような書き方になっていました。

 一般名詞に色々な意味を含ませながら、
 それ自体はいいんですけど、
 場所によって同じ名詞に託そうとする意味が違ってくると、
 読む方は「?」となるし、
 そこには後々読み返す僕も含まれるわけです。
 (書く方は表現というより創造なので細かいことは気にしていなかったりする)

 だから前々回の記事と今回の記事とで、
 既に僕自身の立ち位置が少々変わっていたりする。
 (大げさにいえば。まあここは気にしない)

本題に戻ります。

分散的集団は、
この表現はちょっと保留にしましょう。
せっかく島のメタファーを使っているので、
「群島民」(archipelago islander)でいきましょうか。


 彼らは、一人ひとり立ち位置が異なる。
 もちろん、自分でつくった(か何かの縁で形成された)、
 ヒルギの島にいる。
 彼らは、でも実は「みんな同じところを見ている」。
 大陸のほうを眺めている。

 では、同じものが見えるのか?
 違う。
 対象が同じでも、視点が異なるから。

 大陸を見ているのは、彼らは社会の中で生活しているからです。
 けれど、大陸から距離を置いた島に、思考の軸足がある。

 距離を置かないと見えないものを見ている。

 何のため?
 その、距離を置いた社会のため、かもしれない。
 違うかもしれない。

 いずれにせよ、本質的にそれはニッチです。

それを活かす手法の探索は、群島民に限られるものではありませんが、
多様性を生産性に基づいた価値で測るのが経済至上主義社会の境界条件で、
多様性そのものの価値を最初に体現できるのは、
境界外部の当事者である、多様性そのものです。

羊を持たない羊飼いは、まず羊を創造せねばなりません。

 × × ×

最近、並行して、自閉症的能力を社会にどう活かせるかという本も読んでいて、
それで思考が絡まるんですがそれもいいと思っていて文章化には面倒ですが、
タイトルの話をしたいです。
(この「タイトル」は、推敲中に副題に格下げになったものを指しています。
 曰く、「形而上的ブリコラージュ 、読書の(非人間的)芸術化」)
 
「ブリコラージュ」というと、
その対象はやはり「なまもの」、現に身の回りにあるものを想像します。
その存在感やそれらの、それらとの関係性が、ブリコラージュをアフォードする。

のですが、この情報社会に必要とされる……
というか、本家ブリコラージュを現代でまっとうするためには、
その拡張版というか、異次元版というのか、
「形而上的ブリコラージュ」の能力をサブで要するのではないかとふと思いました。

これは、冒頭の概念の創造とも関係があります。


概念を「世界を眺望するための望楼」という時
たとえば『街とその不確かな壁』(村上春樹)の、
「壁」の門の上に設けられた望楼を想像する時、
そこから眺める「世界」とはどこか?
それは「ここ」ではない、
しかし「ここ」と全く関係がないわけではない、
むしろ僕らの「影」、
恐らくは河合隼雄を連想してもいい「影」と大いに関係がある。

また、概念を「新たに発達した器官」という時
たとえばそれを道具と考えることが正しいかどうか。
心臓は人間の(端的に自分の)道具か、肝臓は、膵臓は?
人間の、メタファーでない器官を思う時、
それは、僕らがそれを何かに利用するために持っているというより、
それによって僕らが生かされているものの何かだと言った方が近い。
(健康で頑丈な肝臓は酒飲みには嬉しいかもしれない、
 では肝臓は、酒を飲むためにあるのだろうか?
 言い方を変えれば、
 酒飲みでさえ、酒が飲めるなら肝臓なんていらないと思えるだろうか?
 ここでいう機能は、もともとあったものに僕らが後付けしたものだ)
 
メタファーについては、オルテガの上記の本に面白い記述がありました。

隠喩を用いるということは、人間に与えられた最も有効な能力の一つであろう。
効力の点でそれは魔法のそれに迫っている。
神が人を造るときに人体に置き忘れた道具ではないかと思いたいくらいである。
(…)
或ることの代わりに別のことを用いる思考能力──しかも後者に接近する手だてというよりも前者を排除する手だてとしてであるが──このような思考の働きが人にそなわっていることは、まことに奇妙であると言わねばならない。
隠喩は、ある物を何か別の物であるかのようにみせかけて、これを取り除くのである。

同上

これは「タブーと隠喩」という節の冒頭にあり、
現代のメタファーの機能というよりはその起源における使われ方が書かれています。
 
ある言葉の現代的な意味と起源における意味(語源)とは、
かけ離れていても何らかの繋がりを持つものです。
(それは全くないとは考えられないが、見つけようとしない者の姿勢次第ではある)

言語学用語で、表現(内容)をシニフィアン
表現対象をシニフィエといいますが(今調べた)、
引用で述べられているのは以下のようなことです。

 メタファー(=表現)の起源的機能は、
 シニフィエの修飾のためではなく、
 シニフィエの「排除」のために、そして
 シニフィアン自体の離陸のために使うことにある。

 図と地のペア表現を使えば、
 メタファーは、
 元は図であったはずのシニフィエを地に「墜とし」て、
 シニフィアン(=メタファー)自身が図となって浮き上がる


複雑で理解しにくい概念や論理をわかりやすくするために、
喩え話が使われることがあります。
ここでいう「喩え話=メタファー」はシニフィエの修飾のためにあり、
図であるシニフィエを明快にするための地に徹するべき存在です。
(これが比喩表現の現代的な機能の代表例でしょう)

一方で、オルテガのいう起源としてのメタファーは、
もとの概念を押し退けて(①)、独自の生命を獲得する(②)。
タブーに触れないという意味では①が本来の目的ですが、
実際の運用上、また慣例化によって②の機能が前景化し、発達する。

 × × ×

僕が「形而上的ブリコラージュ」という表現で言いたいことは、
もしかすると、
小説を書くように小説を読む、
というようなことかもしれません。
 
唐突ですが、「広告的論理」というものがあって、
これは指向的、誘導的、対象限定的なもので、
人をして何かをさせるための論理です。

特定の何かをさせないための広告、というものはない。
(そう見えるのは「別の何かをさせるため」が後ろに隠れている場合です)

内田樹の教育論をブログ等で長年読んできて、
また最近でいえば図書館で働いていて、
図書館での読書推進とか小中学校の読書教育事情などを見ていると、
広告的論理は本当に、消費活動の場に限らず、
社会生活のあらゆる現場を当然のように闊歩しているなと思います。
それはSNSにだって浸透するし、
日常の何気ない会話にだって現れている。
 
なにか、
広告的論理の日常への浸透は、
成果主義の日常生活への浸透と関係があるように思えます。

人にどれだけ影響を与えたか、その目に見える成果を見たいという欲望。
あるいは、
その成果が目に見えるものでないと社会は変わらないぞ、という信念

これらの大元には、
社会(の変化)は目に見えるものであり、把握可能である、
という固定観念があります。


ええと、話がぐるぐるしていますが、
僕自身の理解は進んでいて(勝手な発言もいいところですが)、

オルテガのいう「現実と概念の混同」、「無邪気な現実の理想化」、
脳化社会とはこれをこの形のままどんどん推進する社会であって、
僕が、そのような社会に生きつつも染まり切りたくはなくて、
ではそのために(個人は)どうすればよいか。

マングロブックストアはその手段の一つを体現するものとしたいですが、
それはオルテガが以下に述べることと大いに関係があるように思います。

しかし、もしこの自然の手続き[上述の「現実と概念の混同」「無邪気な現実の理想化」]を逆にしてみるなら、つまり、現実と断定したものに背を向け、概念──単なる主観的な模型──をそのまま採り上げ、やせて骨張っているけれども純粋で透明なその状態において生命を与えてみたなら、つまり故意に概念を「現実化」してみたなら、われわれは概念を非人間化──いわば非現実化したことにならないだろうか。
なぜなら、概念はそもそも現実ではないのであるし、それを現実とみなすことは一種の理想化、つまり悪意のない欺瞞なのであるから。
他方、概念をその非現実の状態で活躍させるのは──こういうふうに言わせてもらおう──非現実を実在化することなのである。

同上

対立する微妙な表現とその言い換えが多いので、
抜粋付近の用語を抜いて整理するとこうなります。

 現実と概念との混同、現実に対する執着、無邪気な現実の理想化(、人間の先天的素質)
    ↑
    ↓
 故意の概念の「現実化」、概念の非人間化、概念を非現実の状態で活躍させること、……
 
オルテガの文章を抜粋している章の主題は、リアリズムと袂を分かつ新芸術の分析です。
(新芸術の例として、表現主義キュービズムの名が挙げられています)
それがいいか悪いかとか、伝統的な芸術観との優劣を比較しているわけではありません。

僕はその分析をどう我田引水できるかをこの記事で考えているわけですが、

この新芸術の思想を、
芸術とは何かを表現するわけでこれは「何かをするための思想」になりますが、
僕はこれとは逆に、
何かをしないための思想」として活用できると思っています。
ズバリ言えば、
広告的論理の呪縛を解除(厳密には「解呪」)するために使えないか、と。
 
ものを買うとか、サービスを利用するとか、
消費者として振る舞う場面では、
損得勘定は有無を言わさぬ第一原理ですから、
広告的論理に通暁していた方が堅実でしょう。

ただ、その消費の場面以外に広告の論理を持ち込むこと、
(これを純粋に望むのは己が土俵の拡大を狙う商いの主体でしょう)
それを個人が本当に(あるいはどの程度)望んでいるか、
まずその視点はあった方がいいし(その視点がなくなることを僕は「呪縛」と表現しました)、
その視点に立って眺めた時に、必要とあらば、
消費活動で用いるのとは別の「ものさし」を扱えた方がよいでしょう。

その「ものさし」の説明には、
「これこれである」という限定表現よりも、
「これこれではない」という開放系の表現、
つまり解釈や価値判断が人によって分かれやすい表現の方が馴染むことでしょう。
(なので性質上、この説明をマスコミが担うことは困難です。
 「ニッチ指向」のマスコミ媒体は実際あると思いますが、
 「その対象とするニッチ集団に一意的に受け取られる論理」は、
 ここでいう開放系の表現とはまた別物です

 
場の論理に基づけば、
小説家が芸術家であることを否定する人は少数派でしょうが、
読者を芸術家であると肯定する人はいないでしょう。

けれど、僕がここで考えているのは、
読者は芸術家でありうるということ(森博嗣もそうだし、宮沢賢治もなんか言ってたな)、
芸術家でない小説家なんて掃いて捨てるほどいるということ、
それを確信できる思想とはどのようなものか、
です。

 × × ×

コンセプトイメージの話は、どこへ行ったのか……
 
ええと、改めて考え直しまして、
一つだけメモしておきます。

「概念とは、世界を眺望するための望楼のようなものである。」(オルテガ

一つの概念を手に入れることで、世界の見え方が変わることがある。
僕は、ヒルギ本も、この「概念」に仲間入りさせたいと思います。
 
ヒルギ本は、その内容によってというよりは、
(いや、その内容の質的な保証は僕自身の連想力に懸かっているわけですが)
その形式、メディアによって、世界の見え方に「選択肢を加える」


世界の見え方の選択肢。

言うのは簡単ですけど、
多分これは普段、
「そんなもん一つしかないに決まってる」
と、
敢えて聞かれた場合にはそう答えるしかないような事柄。

頭も一つ、
身体も一つ。
生まれる場所は選べず、
親も選べない。

「そんなもん一つしかない」と考える方が、簡単で、自然。
それが「人間の先天的素質」だと、オルテガも言ってます。
 
ここから先は各々の、
「人間の定義」と「人間への意志」次第です。

しかしそんな説明をしたところで、いったいどれほどを理解してもらえるだろう?
この動きを持たない、言葉少ない街で君は生まれて育った。
簡素で静謐で、そして完結した場所だ。
電気もなくガスもなく、時計台は針を持たず、図書館には一冊の書籍もない。
人々の口にする言葉は本来の意味しか持たず
ものごとはそれぞれ固有の場所に、
あるいはその目に見える周辺に揺るぎなく留まっている。
「あなたが住んでいたその街では、人々はどんな生活を送っているのかしら?」
私はその問いに上手く答えることができない。
さて、私たちはそこでどんな生活を送っていたのだろう?

村上春樹『街とその不確かな壁』,2023(改行、太字は引用者)

 × × ×

ふとたぬき、どうたぬき?

前記事のコンセプトイメージの話なんですけど、
(さっき風呂張って入りながら考えてました)
ふと、島の上に、人間じゃなくて動物だとしたら何がいいだろう?
という発想が浮かびました。
本当に動物でいいのかどうかは別にして、
ちょっと妄想してみましょう。

 × × ×

僕の好きな、
というかなりたい動物は猫ですが、
猫が本を読むのはかわいい。
独自解釈で読んでそう。
そして独立独歩。

理想的、というか、
なりたい動物には違いない。
んだけど、ちょっとイメージと違う。
どこが?

うーん、
なんというか、
協調性ゼロというのが。

一応言っておきますが、
僕は協調性はあります(基本的に集団には馴染めませんけど)。
相手が個人一人なら、
油断してたら協調性以外何もない、
ってくらい協調性バカというか流され体質です(同じなのか?)。
僕は昔から個性豊かな変人に見られてますけど(とっくに慣れました)、
それは普段から全く油断をしない体質だからです(どんな?)。

猫が理想と言ったのは、
どう踏ん張っても猫にはなれないからです。
実際にではなくて(そりゃ当然)、
メタファーとしても。
そもそも猫は、
踏ん張ってなるもんでなし、
猫っぽい人は勝手に猫っぽい、
そういうものだと思います。

で、現実的にイメージできる好きな動物は猫くらいで、
あとはもう物語で出会った動物から候補を挙げるしかありません。
では早速。
 

カラス。(村上春樹海辺のカフカ』)
ちょっとなあ。
絵面が……(ひどい)
 
犬。(「笑う犬の生活」)
青い。
 
牛。(「笑う犬の生活」)
……ミル姉さん(笑)
というか物語なのか?
 
ライオン。(「らい4ちゃんねる」)
……テレビから離れましょう。
 
ねずみ。(レオ=レオニ『フレデリック』)
かわいいですよね。
 
タチコマ。(士郎正宗攻殻機動隊』)
かわいいですよね。
なんかしらんけどフレデリックから連想した。
ああ、あれだ、
バトーさんから特別なオイルもらった一機が演説してる場面かな(笑)
動物……無機物の動物ですかね。
 
ツバメ。(ワイルド『幸福な王子』)
泣けますね。
翼でページめくれるのかな(ここでそれ?)。
 
アルパカ。(森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』)
……もういいでしょう。
 

答えはもう猫の次には出てたんですけど、
敢えて探してみるとホント、
動物のボキャブラリーないなあ自分。

いいんですけど。(とほ)
 
というわけで、
これだ! という動物は、

タヌキ、です!(森見登美彦有頂天家族』)
ああ、「平成狸合戦ぽんぽこ」でもいいんですけど、
僕のタヌキのイメージはモリミーの「阿呆大学生的」なそれですね。

登美彦氏の小説にはひとかたならぬ愛着があって、
というのも大学に入るまで読書が面白いとも何とも思ってなかった自分が、
初めて「面白い!」と思わせてくれたのが『太陽の塔』だったからです。
おかげ様でその本からはヒヨコ的インプリンティングを多々受けたはずで、
「妄想」というワードにポジティブなイメージしか抱けないとか(とんだ曲解ですが)、
黒髪の乙女は正義だとか(大学生の間はずっとそう思い込んでました)、
まあそんな散々な話はおいといて、

三郎タヌキは無鉄砲ながらも愛すべき阿呆であって、
情には厚く、美学(阿呆学か?)は譲れない。
彼が本を読めば、無茶な行動のいくらかを妄想に収めることもできるでしょう。

…いや、そういう話でなく。
もう1つタヌキポイントがあって、

これも昔話ですが、
高校の頃から時々、自分のあだ名を「ちひろ」と名乗るようになったんですが、
その由来は、「千と千尋の神隠し」のユバーバのセリフに、
「今日からお前は千だ!」
という、
それで、
「千だ、センダ、はいチヒロ☆」
という(笑)

この発祥の名付け親は高校吹奏楽部のサックスパート1コ上の先輩で、
まあその吹奏楽部の縁がまた今回も効いてたりするんですがそこはさておき、


「センダのタヌキはセンで千、はいチヒロ☆」

という、原点回帰なわけですね。
 
はい、おあとがよろしいようで。
 
 × × ×

群島思考 後編〜エコロジカル・ニッチのタネまき仕事

 
ビジョンが浮かんできました!
やはり待ってみるものですね……

別のことをしていても、他の本を読んでいても、
頭の中のどこかではいつもこのことを考えていたわけですが、
リースマン(『孤独な群衆』で有名な人)の本を今さっき読んでいて、
いちいちの記述がこのテーマへの連想を誘うので、
一文読んでは目を瞑り、みたいなことをしていました。

さて、本題へ。
文章としてうまくたどり着ければよいのですが。

 × × ×

キーワードは、前回も書いた「行間」そして「群島思考」。
後者から「的」を外しました。
比喩であることに変わりはありませんが、
そのイメージが明確になったためです。
 
ヒルギ本は、大陸のそばの浅瀬に蒔かれる「タネ」です。
タネは、日光と海の養分を吸って、おのずと成長していくかもしれない。
でも、そうしてできたマングローブの小島の、
その上から見える景色は、その島に立った人にしかわからない。
その島に立てばみんな同じものが見えるかといえば、そうでもない。
 
僕の古本屋は、ビジネスではない(ビジネスモデルとしては失格)という自覚があります。
でも、仕事だとは思っているし、便宜上ではあれ商品に金額も設定している。
額面通りの、では決してありませんが(そうであることを僕自身は望んでいない)、
一定のお金を払って購入する価値があると思って、ヒルギ本(鎖書)を作成しています。

ビジネスモデルとして失格だという意味の一つは、例えば
仕事量と売り上げの儲けとの釣り合いが(まったく)取れていないこと、
同じ古本を何冊も仕入れるわけではないから、セットは常に在庫が1つしかないこと、
などなど、他にもいくつかある気がしますが、
このビジネス失格性がじつは仕事のコンセプトとリンクしています。

売り上げを伸ばしたい店ならどんな店であっても、
お店の常連さん、ヘヴィユーザが増えてくれば嬉しいものです。
僕だって、自分がセットに込めた思いが通じているかは別としても、
お金を払う価値をその人なりに見出して購入してくれる人がいたら嬉しいに決まっているし、
何セットも買ってくれるのなら「たまたまのこと」ではない、
自分が見出した価値に同意してくれる人がいるのだという気持ちを抱かせてくれる。
常連さんの存在は、お金のやりとり以上に仕事のモチベーションを鼓舞してくれます。

という前段をおいたうえで、
マングロブックストア(←あ、いいなこれ)の運営コンセプトの理想的をいえば、
「一つのセットを、なるべく多くの人に買ってもらうこと」
になります。
今までもなんとなーくは思っていたことですが、
いい機会なのでここで明確に言葉にしておきたいと思います。

 × × ×

「的」を省いた、タイトルの「群島思考」。

この思考の主体は、一人の人間ではありません。
「島的思考」を持つ人がたくさんいること、
一箇所に集まるというよりは日本(でしょうね、まずは)の各地に点々といること、
その分散的集合体(なんじゃそら)が、「群島思考」の主体です。

分散的集合体
矛盾臭プンプンの造語ですが、
冒頭でちらりとふれた「孤独な群衆」とは、似て非なるものです。
 
……ここを突っ込み始めると本格的に話が逸れるんで、
まだマシな方の寄り道をしますが(おいおい)、

この用語がポロッと生まれた瞬間にはたらいた連想があって、
最近はじめて著書を読んだ青木真兵さんという人がいて、
奈良の山村で「ルチャ・リブロ」という私設図書館を夫婦でやっておられる方なんですが、
この人はキュレーターというのか、人と人をつなげるというか、
何かグラスルーツの行動を呼び起こす活動もしておられて、
うちの図書館長が海士町に来られた青木さんと喋った時に、文脈は忘れましたが
「一緒に闘いましょう」と言われたらしく(カッコいいですね)、
地域の土着性をその土地各々で培いながら感覚やビジョンを共有する
といった話ではないかと想像します。

僕は個人的な印象としては、土着性を都会に伝わる言葉で語ることの困難性を感じていて、
 『清貧の思想』で有名な中野孝次の小説をふと思い出したんですが、
 その小説は昭和後期のコミューンがテーマの一つで、
 都会育ちの若者が集団で田舎に移り住み手作りの家具やらを運営資金源にしようとするんですが、
 有名な百貨店が目をつけて特設売り場をつくったげるよってな話になった時に、
 コミューンの思想とは無関係に「カントリーライフを謳歌しよう」みたいな広告がついて、
 つまり自分たちの思想を込めたはずの商品が都会の論理に回収されてしまう、
 という場面があって、
 でも決してその都会の論理には流されないでいよう、と話は続くんですが、
簡単にいえば、
土着性の流行はグラスルーツが別物化していく流れでもある、ということでしょうか。
活動自体がもつ二律背反性を念頭から離さず、流れの変曲点で適切に振る舞う必要がある。
 
話を群島思考に戻します。

効率主義・数字がすべて・エビデンスベース等々の「都会の論理」とは別の価値観をもつこと、
この点については青木さんとおそらく同じことを考えています。
(僕も私淑ながら内田樹に傾倒した人間なので、青木さんには勝手に親近感が湧いています)
が、考え方というよりは仕事の立ち位置の違いによると思いますが、
僕は「都会とは別の論理を構築する」ことを、「武器」ではなく「防具」に使いたい。
(もっと言えば、RPGのパラメータ的にはSTRでもVITでもなくAGI(回避)に振る感じですね)

 父親が子どもに何か伝えたいことがある時、
 達者な言葉で打ち負かすのではなく、
 「背中で見せる」こと、
 言葉以前の「佇まい」で伝えることが効果的な場合があります。

 論理での説得ではないから正確ではないし、
 返事もないから伝わったかどうかも分からない。

 でもこれは見方を変えれば、
 そもそも言語運用が未熟な子どもの論理的納得にどれほどの正確性があるのか、
 また、子どもの経験吸収力がもっとも発揮されるのは自発的な気付きであること、
 これらの視点への配慮に基づいた手段であるともいえる。

都会的論理と「闘う」場合、必然的にその「土俵」に乗ることになります。

いや、たぶん青木さんが都会と地方の行き来という表現に込めているのは
「土俵に乗ったり降りたり」の中で、むしろ後者の時間を増やすべきだということで、
その行き来を身を以てやらないと仲間が増えないという認識があるかもしれません。
だから違いは比重の置き方の差でしかありませんが、
僕のほうは、いわば「都会的論理を避ける」ための価値観構築。
 
土着といっても、ネットを通じて都会的論理はどんな田舎にも遍在しています。

海士町でいえば、島留学・島体験といった形で都会の人々がかわるがわる滞在する、
彼らは都会的論理から逃れる(あるいは小休止の)ために来島したのかもしれませんが、
その彼らが所作として持ち込んでくるものはやはり都会の論理です。
良い悪いでなく、どこにいても都会的論理と接する機会に恵まれるのが現代日本です。

その「恵み」を、自分にとってポジティブな側面に留めるためには、
やはり、そのための日常生活上の努力を要します。
これはどちらかといえば、「闘う」のでなく「避ける」と言った方がよいでしょう。

「朱に交われば赤くなる」か、
いや、白は色を吸いやすいが、赤には染まるまい
という。

 × × ×

……話が戻ってこないので、強制リセットします。
えーと、群島思考の話。

その思考の主体とは分散的集合体である、という所でした。
うん、この用語の語感はとりあえず掘り下げないでおきましょう。

マングロブックストアでは、
ヒルギ本を、一人で何セットも買ってもらうよりは、
1セット買う人がたくさん増えてくれた方がいい。
それはあくまで僕の気持ち的に、ではなくストアコンセプトに添えば、
ということですが。
 
ヒルギ本は「タネ」だと言いました。
僕はセット作成を通じて、
そのタネが浅瀬で気根を伸ばし枝葉をつけて成る「島」、
その島に立ちました。
立って、大陸を眺める視点を得ました。
けれど、
その同じヒルギ本を誰かが購入して、
同じくその島に立った時、
見える景色は僕のそれと同じではありません。
でも、
「大陸から(少し)離れた小さな島からの眺め」
という経験は共有しています。

ヒルギ本を1セット購入し、
恣意性溢れるテーマを奇貨として行間あらたかな三冊を読み(霊験かよ)、
木の幹に片手を添え、右手は日除けにおでこの位置で、
マングローブ島から「官僚広告大陸」を見はるかす、
そんな人々がぽつぽつと現れた結果、
そこ(どこだ?)に「群島思考」が顕現する。
 
ああ、別に僕は、ヒルギ本の全てのセットに、
都会的論理とは別の論理を込めているわけではありません。
(そして見たまんま「ふつうのセット」には「ふつうの論理」が入っています)

が、見方をずらすこと、
本が「こう読んでくれ」と思っている読み方から外れて読むこと、
(その外し方が読者自身の縁とは別のところから出来していること)
この経験自体は、本のジャンル(内容)にかかわらず、
世の中の多数派的価値観から「外れる」きっかけになり得る
と考えています。

何度も言いますが、
僕個人発の(テーマ設定という)恣意性は、
僕の思考を追体験してもらうためではなく、
たった今書いた、
「外れる」ためのきっかけとして受け取ってもらいたいです。

 僕はただ、タネを蒔いているだけ。
 勝手に育った島に立つもよし。
 気根をベースに自分で島を形成するもよし。
 海流に乗って別の浅瀬に向かうもよし。
 「勝手にしやがれ」(@沢田研二
 
「行間」は、複雑系です。
その効果に作用する要素が多すぎて、定量的な分析が適わない。
けれど、定性的に分かることはあります。
その作用素を増やすこと、複雑系のカオス度を上げることによって、
「行間」という空間はさらに広がり、未知性を帯びていくことです。

読者自身の固有空間である「行間」、
その間口(というか「入口のドアの数」)を広げるために三冊が膝を突き合わせ、
その茫漠さを押し留める(「いくつかドアの鍵を準備しておく」)ためにテーマが存在する、

たとえば、そのようにお考えください。

 × × ×

タイトルの「エコロジカルニッチ」について。

このワードは内田樹の文章以外で見かけたことはなくて、
さらにそこから僕の解釈という歪みがもひとつ入りますが、

これは棲み分けに基づいた生物多様性のことだと理解しています。
 生息地が違う、活動時間が違う、主食が違う。
 生命活動の各側面において、他の動物種と性質がずらされていること。
 種の個体数と食物連鎖のピラミッドのバランスがとれていること。
動物の各個体が意識してやった、のではもちろんなくて、
結果としてのバランスが、ニッチという「スキマ志向」によって保たれている。
 
少品種大量生産から、多品種少量生産、そしてオーダーメイドへ。
生産技術や流通の発達によって個人消費の選択肢は飛躍的に増加しました。
では、それによって消費社会における個人の個性は際立つようになったか?

その答えはたぶん、
「もの」を見るか「精神」を見るかで違ってきます。

極端な見方な気もしますが、
僕は「消費活動」と「ニッチ」は本質的に食い合わせが悪いのではと思います。
いや、きっとこれも程度問題で、
双方の道を同時に極めることはできない、ということ。

僕はこの両者に生活の中で主従関係を立てるとしたら、
「ニッチ」を主に、「消費」を従にしたいと考えています。
その具体的な中身ではなく、思想として、振る舞いとして

そういう価値観においては、
「正しさ」もプラグマティズムの後景に退くことになります。
(補足しますが、実用主義の「実用」が既に「ニッチ」側に力点が置かれています)

常識や通念といったものも、「土着」という現場における身の丈に応じて測られます。
(常識や通念は、世間では手間を省くために「ものさし」として使われていますが、
 そのものさしを個人が「測り返す」ためには身の丈感覚を養う必要があります)

 「群島思考」を構成する各個は、
 その拠点が田舎であれ都会であれ、
 自身の、あるいは身近な人との「ニッチ」に基づいて、
 大陸を、その「思想的距離」を保ちながら悠々と眺めています。

 × × ×
 
というイメージでいかがでしょうか、あゆみさん!!
 
 × × ×

前回の記事に「コンセプトイメージ」のことをちらりと触れていました。
じつはこのたび、この「群島思考」の発想を閃いた時に、
勢いに任せて元高の某画伯女史に「絵を描いてください!」とお願いをしました。

一度電話?で話して内容を伝えたんですが、
そもそも抽象度の高い話で、
さらに僕自身「思いつきたて」で理解が未熟なところがあり、
こりゃなんとかせねばなーと、
そう思って書き始め、
ここに至ったのですが、

うーーーん、、、

まあ、結論が出るたぐいの話でもなし、
イメージの言語化がキリよく締められるわけでなし。

引き続き(というかこれまでもずっとそうだったし)、
アレコレ妄想を膨らませてみましょう。
 

p.s.
「分散的集合体」のワードを実は書きながらこねこね?していて、
集合? うん、習合? いや違うか……とかやってて、
分解して考えようと思って、

分散はまあ文字通りでいいとして、
何が集合なんだ? と思ったときに、

「みんなが同じ方を向いている」といえば学校朝礼の集合のイメージですが、
もちろんそうじゃなくて、
でもそういう感じで、
うーん、
「みんなが同じ方だけは向いていない
てのはどうだろう? と思いつきました。
 
「変人の集合はない」というのは僕の格言の一つですが、
たとえば二軸(x,y)の常識度座標を図示するときに、
原点を中心とした円内が常識人の集合だとすれば、
変人たちはその円内にはプロットされないわけですが、
じゃあその座標軸上の別のところに円を描いてそこに点が集まるか、
といえば、そんなこともないですね。

つまり、中心の円より外側にばらばらと変人点は散らばるわけです。

そんな彼らに共通するのは、上述したように、
肯定文「〜である」ではなく、否定文「〜でない」で表される性質です。

この「否定」という表現の字面が、
なんか悪いことのように見えてしまうのは日本語のせいか?

よくわかりませんが、これを言い換えれば、
オルタナティブ」ですね。
で、
否定表現としてのオルタナティブの勘所は、
「それは限定ではない」ということです。

 1から9まで数字があるとして、
 「1だ」と言えば1だけの限定ですが、
 「1ではない」は、2から9までを許容します。

 「1は1で、勝手にうまくやっていればいいさ。
  そして、
  僕は5だけど、2でも9でも、僕は応援するよ」

分散的集合体の「集合」の意味は、
「僕らは同じ人間だよ」という程度の限定なのかもしれません。


p.s.2
「官僚広告大陸」……?
もうこれ、なんだろうな。

また機会があれば掘り下げます。。

 × × ×

群島的思考 中編〜行間の推進と水深、古本の復活と賦活

前半からちょっと間があいてしまいました。
早速、本題に入りましょう。
 
前編で、アンディ・クラークの本の一節にある「マングローブ効果」の記述、
あれは「考えることについて考える」ことのメタファーでありました。

この部分を読んだ瞬間、
僕はこの比喩を、僕自身の古本屋のコンセプトに流用しようと思いました。

古本屋、旧称(と呼ぶには早いが)「鎖書店」は、
本を三冊セットで販売しています。
セットを組むテーマは色々ありますが、
基本的に成り立ちが「連想」であるという点、
これがすべてのセットに共通しています。

 × × ×

鎖書:chainbooks、という名前は自分の中で色々候補を挙げた中での造語で、
縁書、環書、…と色々あったんですが、
ゴツゴツした見かけながら語呂がよかったこと、
「チェーン」という重そうなイメージは僕の好むところではなかったのですが、
鎖という重量感のあるリンクで繋がった本たちはその一端の揺れが相方にも伝わり共振ともなる、
一冊を読みながらその一冊の読みと同時に残り二冊との関係性も変わっていく、
という相互・相乗作用の効果の大きさのイメージともなる(これは後々に思いついたことですが)。

僕が作成するセット本のイメージはこのようなもので、
セットごとに提示するテーマは各々が「きっかけ」であって、
どう読むかはその三冊を読む人次第であるという買い手任せで、
これは「非消費的読書」というコンセプトも関係してきますが、
買う(読む)前には商品の効果・効能は(詳しくは)わからない、
だから付けられた値段も機能効果に見合ったものではなくあくまで便宜であり、
購入者が自分の力でその(抽象的に提示された、潜在的な)価値を見出さねばならない。

まあ、こんな面倒くさい買い物を消費とは呼べませんね。

けれど、僕は読書の魅力というかリカーシブ(@池谷裕二)的中毒性はここにある、
つまり読む前から何が書いてあるかとか読んだらどう感じるかが分かってる本なんて面白くなくて、
読んでみないとわからないし、読んでから数年とか数十年経ってからじゃないとわからない、
そんなくらい謎だから、謎のモチベーションで再読したりする、
そういう本を読む(に出会える可能性を信じられる)ことこそが読書の醍醐味であると思っています。

こんなんだからコンセプト自体がマニアックで、
「普段本を読まない人からすると何言ってるのか全然わかんないんじゃない?」
という正直なコメントを何度かもらったことがありました。
 
まあ、そんなこんなで、
 いくら非消費的と言いながら、いちおうお店としてやってんだから、
 なにかお客さんにわかりやすい説明がいるよね?
 直接的な効果のことじゃなくても、お店の魅力を言葉で納得できるような、さ。

という知人から頂いたアドバイスに答えを出せないままほったらかしてたんですが、
塩漬けというか熟成というか、
待てばカイロの肉骨粉(?)、
上記の本に出会った瞬間閃いたことを奇貨として、
なんとか新しいイメージコンセプトをここで捻出できればと考えています。

三冊セット本の、各セットごとにはテーマがあるわけですが、
その全体としての(全部に共通する、とは言い切れませんが)魅力、
それを聞いて、テーマ自体に元は関心がなかったとしても、
「ちょっと1セット読んでみようかしら」と、
あまり本を読んだことがない人も思えるような(難しい!)コンセプトの記述、
そして後述しますがそのコンセプトイメージ(絵)のためのアイデア創出。

 × × ×

マングローブ効果」についてでした。

僕は、自分の作るセット本を、
 ”大陸の近くに浮かぶ1つのマングローブ島”
になぞらえたいと思います。

 本(book、インドネシア語buku)が形成するマングローブ(mangrove)、
 2つを合わせてマングロブック・マングロブクー(mangrobook, mangrobuku)、
 という言葉を造ってみましたが(2つ前の記事はそのメモでした)、
 ちょっと長いのでwikiなどで調べると、
 マングローブ(の1種のオヒルギ)は漢語で「紅樹」というらしいので、
 短く書くために暫定的に「紅樹森」(本当は『くおんの森』みたいに「本3つ」の森にしたいのだけど)に……
 えー、そうすると、読みは「こうじゅしん」かな? 
 語呂悪いな……

おとなしくヒルギ本」にします。
 
本記事の前編で、「大陸に居ること」と「島を形成すること」を対照させましたが、
ヒルギ本はズバリ、後者です。

 陸に近い浅瀬で、
 三冊の本が一緒に浮いている。
 それらは「気根」を持ち、
 海の養分を吸収し、
 根を増やし幹を伸ばして葉をつけ、
 「島」をつくる。

 ヒルギ本を読む人は、
 その島に立ち、
 距離をおいて陸を眺めることができる。

 いっぽう陸では、
 人々は自由に歩き回り、
 木々は森となって生い茂り、
 人々は木に成った「実」としての本を読む。

えーと、これらが全部メタファーで、一つひとつに解説をつけてもいいんですが、
重要なところだけにしないと「木を見て森を見ず」になりそうですね。
 

ブログのタイトルにつけた「群島的思考」、
これは、ヒルギ本の島から陸を眺める視点を表現したつもりだったんですが、
前編の末尾メモにある項目の話ですが、
ヒルギ本を読もうとする、一つの島に立つ人は「島的思考」で、
ヒルギ本を売る(読んでもらう)ためにいっぱい作ってる僕だけが「群島的思考」になる、
なっちゃうんですね、メタファーをシンプルに読み取ると。

もうひとつ、今僕は海士町に住んでいて、まあ離島なんですけど、
離島から世界を眺める、という意味で「島的思考」という言い方はなされていて、
まあ淡路島とか周防大島とかもあるんですけど、イメージとしては、
陸(本島)から距離を置いてこその「島的思考」であって、
これに対してヒルギの島は浅瀬、陸に近い(水深も干潮時とかほぼない)所にできる。
このイメージの差というか、対照をどう考えるか。
 
コンセプトの話をすると、
ヒルギ本のテーマの存在は、
大陸的思考・価値観から距離をおくためにある。
常識とか通念から離れてみる、ということではなく、
視点の仮構はそうなんですが、なんというか、
その本一冊では収まらない読み方をするための三冊セット。
(これは元の鎖書のテーマと一緒です)

読者と本(著者)との一対一の対話が、ある特定の本の読書ですが、
その対話にからむ(読みに影響を与える)外部要素として、
読者自身の関心、その本との出会いの文脈(場所とか紹介してくれた人とか)などがある。

ヒルギ本のテーマはこの外部要素の新たな候補の一つです。

固有名詞を使わずに言い換えると、
(三冊の)本同士の共鳴が、読者の読解に作用する
あるいは、テーマの内容によっては、その三冊に収まりきらないかもしれない。
うん、リンクする本の数は重要ではなく、「本と本のあいだで」が本質ですね。

一冊の本を読みながら、(テーマの先見的設定によって)別の本が念頭にあることは、
自分の読みに影響を与える未知の何かの存在をそばに感じながら読むことではないか。

……まずいな、話が抽象的になってきた。
 
ちょっと別の話をします。


僕は古本屋をやっていて、図書館でも働いていますが、
正直なところ、新刊本にあまり大きな価値をおいていません。
もちろん、習慣的にそうなった面は大きいのですが、
それだけではありません、というか、
その習慣・生活の必要性は、経験則だけでない、論理が存在します。
 
現代社会を知ること、今の日本や世界の情勢を知ること、
これは自分の今の生活を充実したものにすることとどこかで繋がりを持ちますが、
生活的動機に基づく読書は、
それが今を知りたい、今の仕事や生活に役立てたいという思いを含むとしても、
必ずしも今の本を読むことが最適だとか、近道であるとは思わない。

どう言えばいいのか、
いや脇道の寄り道がどんどん複雑になりそうですが、
なんとなくの印象ですが、今読まれて(売られて)いる本には行間が少ない。
(各種クレーマー、アメリカ発の訴訟社会、ポリティカリーコレクト等々、
 ありますよね色々と……)
それは読めばわかりやすい、誤解が少ないという意味でもあります。
だから長所にもなり得ますが、僕はそういう本にあまり魅力を感じない。

「考えるために本を読む」と思っているからかもしれません。
(たとえば、保坂和志はそういう読み方をするし、彼が書くエッセイもそうです)

誤解のない文章というのは、考える余地のない文章でもある。
文脈がすいすい追える文章は、違った解釈への誘引がない。

自分の伝えたい思いを言葉にできると確信した書き手にすれば、理想的な文章でしょう。
その書き手の思いを過たず受け取りたいと思う読み手にしても、理想的な文章でしょう。

それで僕はといえば、まあ程度問題ですが、あまりそういう読み手ではない。

そして、そんな僕が読書の魅力を広めたくてやっている古本屋のラインナップも当然、
そういう本を扱わない…というのは不可能で、
少なくともそういう読み方を推奨しない売り方をする。

橋本治は、
読者自身の「読み」は行間にこそある、とどこかで書いていました。
その本に文字としては書かれていないが、読者が図らずも読み取ってしまうもの。
その読者にしか顕現しないものとして、それ以上のものはありません。
(だから、行間を読むための読書はある意味でコミュニケーションではない。
 あるいは、コミュニケーションの成立はそこそこに、その齟齬をこそ楽しむといえる)
 
ああ、一つの考え方として、
僕は一冊の本に読み手の行間を増やすために
三冊セットを作り続けているのかもしれません。
それは、僕がセットを作成するプロセスを思えば明らかなことです。
連想で本と本を繋げるという言葉そのまま、
僕は始終、それらのリンク・関係性、
「本と本のあいだにあるなにか」のことばかりを考えているのだから。

そして、他に可能性がないという意味ではないですが、
「行間のある本」の量的な傾向の一つとして、
古い本、現代という時間、日本という空間から遠い本ほど、
読者が立ち止まり、考え込むことが多くなるのではないか。
自分の常識や価値観に近い本ほど、文章の一言一句が自分にとって明快であるなら、
古い(遠い)本は知らない言葉が出てきたり、
見たことのある単語にも自分の解釈を適用してよいのか迷う。
その本と自分とのあいだの距離があり過ぎれば、
とりつくしまがなくなり、読む意欲も起こらない。

だから、「行間」は必ずしも、ポジティブに作用するとは限らない。

でも、その古い本との「遠さ」を近づける方法はある。
ヒルギ本のテーマは、その一手段となる。

テーマがあることで、その本が読みやすくなることは(きっと)ほとんどないが、
その本が一冊だけ古本屋で眠っているのを目にした時よりも、
読み手が現代性を感じ、今読んでも何かを得ることができると思える。

そのテーマは、モチベーションの賦活として作用する。あるいは、
本の生命が読まれることにあるのなら、古本の復活としても作用する。
 

うーん、
大事なトピックではあるんですが、
「島的思考」というイメージには近づけませんでした。
いや、近づいているのか?

よくわかりません。
話がぜんぜん終わらなかったので、
本記事は「後編」ではなく「中編」になりました。

ん?
これだと次で終わらせないとマズいか……
いや、ひとつ中後編は挟めるか(ニヤリ)。
(次で終わらないフラグ)
 
 × × ×

お世話になりました音楽。
思考が静かに捗りました。

For Friends Lost - YouTube

群島的思考 前半

 島に木が生えているのを見たら、どちらが先にできたとあなたは思うだろうか。自然な(そして普通は正しい)のは、島が肥沃な土壌を提供し、幸運な種がそこに落ち着いたと考えることである。マングローブの森はしかし、この一般的な規則の示唆に富む例外となる。
 マングローブは水に浮いた種から生えてくる。種は浅い泥の干潟に根を張って、水中でとどまっている。苗木は水面を突き抜けてこんがらがった垂直の根を伸ばし、ついには、どこから見ても竹馬に乗った小さな木のようになる。しかし気根というこのこんがらがった組織はすぐに、浮遊する土、雑草、漂流物を捕まえる。しばらく経つと、捕まえたものが積み重なって小さな島を作る。もっと時間が経つと島はどんどん大きくなる。そのような島の数が増えていくと、ついにはくっつくことができる。それは事実上、海岸線を木々のところまで延ばすことになる。
 このプロセスを通して、われわれのさきほどの直観をよそに、土地のほうが木々によってだんだんと作られる。

 このマングローブ効果」のようなものは、人間のある種の思考にも作用しているのではないだろうか。

アンディ・クラーク『現れる存在』p.290

古本屋(鎖書店)のコンセプトイメージと相性の良い、というかそれを更新してくれるような本に最近出会いました。
それがこの本なのですが、とりあえず本書の文脈はそこそこに、僕がピンときた箇所を続けて抜粋します。

言葉は常にすでに存在する思考という肥沃な土壌に根づいていると考えるのは自然である。しかしときどき、逆向きの影響が少なくともあるように思える。簡単な例は詩だ。詩を作るとき、思考を表すために言葉を用いるだけではない。むしろ言葉の特性(その構造やリズム)が、その詩がどのような思考を表すものになるかをしばしば決定する。同じような部分的逆転は、複雑な文章や議論を構成するあいだにも起きているだろう。考えを書き留めることで、われわれは、新しい可能性を切り開いてくれるフォーマットで紙に跡をつけている。 同上 p.290

そのような観察から、私は次のように推測する。ひょっとして、公共の言語が原因で人間の思考にかなり独自の複合的特徴がある──すなわち、二次的認知ダイナミクスを示すことが可能なのではないかと。私が二次的認知ダイナミクスという言葉で意味しているのは、自己評価、自己批判、それに矯正に向けての研ぎ澄まされた応答が不可欠な、強力な能力の集合体のことである。
その例には次のようなものがあるだろう。自分の立てた計画や議論の不備を認識し、それを直そうとさらに認知的努力を続けること。ある種の状況においては、自分の初めの判断があてにならないことを思い起こし、その結果特別な注意をもって進もうとすること。
(…)
この「考えることについて考える」ことは、人間に独自の能力の有力候補であるこの能力は間違いなく、われわれと同じようにこの星に住んでいるが言語を使わない動物たちが、われわれと同じようにはできないことだ。したがって、言語がその生成において役割を果たしている種類の思考というのは、これに尽きるかもしれないと考えるのは自然である──言葉の使用に単に反映されている思考(あるいは言葉の使用によって拡張される思考)ではなく、存在そのものを言語に直接左右される種類の思考である。公共の言語とその内部での復唱とは、このモデルではマングローブの木の気根のようにふるまう──言葉は固定点となり、さらなる知的物質を引き寄せて定着させることができる。そしてホモ・サピエンスの認知的地形にとても特徴的な、二次的思考の島を作り上げる。 同上 p.291-292

抜粋が多いですが、下線部、太字部がピンときた箇所です。


人間は頭の中だけでものを考えるのではなく、自分の外部にも記憶装置(テンポラリーな、あるいは長期保存可能な)を構築し、それら外部記憶も思考に取り入れることができる。
それは、一度に把握し切れないからアウトプットして眺められるようにしておく、というに留まらず、思考が脳の外部を巻き込んで作用している、とさえ表現できる。

これが抜粋部の主要な論点です。

抜粋部のマングローブは比喩で、
人が何かを考える時の2つのパターンのうち、後者のイメージを担っています。

  • 人が何かを考える時、元手にある思いつきの言葉(=種)をきっかけに、常識や基盤的知識(=土壌・大陸)を参照しながら思考を進めることで、成果としての概念や思想(=草木・実?)を得る。
  • 考えよりも先に言葉(=種)が表れ、その言葉がさも自律的に発展して(=気根)、ある概念や思想(=)ができあがる。

「ややこしいな…」と書きながら考えていて、合ってるか怪しいんですが、
この2パターンで成果物のメタファー(「実」と「島」)が異なる点がおそらく注目に値します。
それは、前者が普段使いの「考える」に対して、後者が二次的認知と呼ばれる「考えることについて考える」であることと対応しています。

メタファーにおける「陸地」(大陸、島)は、「社会で通用し運用される言葉・思考の体系」というのか、僕らが言葉を使って思考しコミュニケーションするための基盤だと思うのですが、以下のような対照があるはずです。

  • 「大陸」に居る=基盤を利用・活用する
  • 「島」を形成する=基盤を自分でつくる(付加・更新する)

抜粋部は、その前段に「思考を頭の中で復唱する効果」の検討があって、つまり考えを紙に書く事と脳内で言語化する事とで同様に認められる効果について書かれているわけです。
 
さて。
ここまでが僕の抜粋部の読解で、
ここから僕がこのメタファーをどう応用したいかという本論に入るんですが、
頭のまわりを蚊がうろちょろし始めたので(首かまれた痒い…涼しくなったのはいいんですがこれがちょっと…)、一度筆をおきます。

p.s.後半に向けてのメモ(書くうちに多くなったけど)

  1. 島(群島)は頭の中か、外か?
  2. 大陸を眺める島の視点。大陸は頭の中か、外か?
  3. 価値観、考え方の併存。並行思考。
  4. 島(群島)は大陸に近い浅瀬に形成される。いずれ陸地の突端になる(かもしれない)。
  5. 群島はセット作成者のイメージか? 購入者の島は1つか、その1つをきっかけに増やせるか?
  6. コンセプトイメージ。説明なしでピンとくる絵は可能か? 構成要素の検討。

気根の島

bakau-buku kepulauan

mangrobooks archipelago

mangrobuku archipelago

──

マングローブ  mangrove(英)、bakau(インドネシア
本  book(英)、buku(インドネシア
島  island(英)、pulau(インドネシア
群島  archipelago(英)、kepulauan(インドネシア

──

引っ越し先で古本屋書架の設営を始めました

先月末…だったか、に引っ越して、
引っ越した翌日に帰省して、
散々登ったり歩いたりして、
その前から暑さがひどくて、
ぐったりしてましたが昨日、
ようやく引っ越し先で作業を始めました。

前の家は近所の騒音がひどかったのですが、
今回はとても静か(そして海の目の前)なので、
古本屋の蔵書を活かして、
店舗滞在型の古本屋(兼図書館)を開こうと思います。

あくまでボルジム図書館の前駆形態なので、
本で儲ける気はなく、
古本として買ってもらってもいいし、
図書館的に本を借りてもらってもいいことにしようかと。

都会でそんな煩雑なことはやってられませんが、
何しろ人が少ない離島なので、
それも宣伝ゼロ・口コミオンリーの知る人ぞ知る、
オープン日もまずは週一午後からでいいかな、
くらいのゆるーーいスタンスです。


という計画(的無計画)はさておき、
昨日今日でようやく、鎖書セットの収納が完了しました。

ネット販売は続けているため、
作成順に並べないと注文発送時の捜索に困るということがあり、
そうなると本の縦寸バラバラで並べることになるわけですが、
書架はそんな融通が利かない、ではどうするか。

→縦寸が入らないセットは横で入れる(その上にも続きを積む)。

ってのをやりまして、
うーん、
充填率が壮絶というか、
今風に言えば「圧がパねえ」書架になりました。
勤務先図書館の閉架書庫でもここまで酷い詰め込みはやってませんが、
ま、これ開架なんですけどね。

本を普段読まない人が、
近づこうと思える本棚になっているか、
否か。

否、か。


ま、田舎ですから(下げ)。



滞在スペースは開架棚に囲まれた八畳二間の予定。

飲みたい人にはコーヒー出したり、
めっちゃ寛いで読書もできる空間にしたいですね。

本の圧には…慣れてもらうしかありませんね(^-^)

島原半島滞在覚書(滞在三日目)

一昨日から、長崎県島原半島南島原市に滞在しています。

自分はどんな生活を求めているか。
シンプルに考えると、とてもはっきりしています。

どこでもいい、といえばいい。
その土地の情報とか、魅力とか、外聞とか、そんなことよりは、
本当に、そこに実際に居て、自分が感じることを基準に考えたい。

島原半島はとてもいい土地です。
あとは、そこに自分の願い、生活と仕事の要求を満たせる場所があるかどうか。

ライミング文化が、根付いてはいないが、これから盛り上げていきたい人間がいるというのは素晴らしい。
僕もその一員として活動できるから。
孤立無援で文化を立ちあげるよりはずっといい。

でも、それは副次的な要因ではある。

何より、自分の住まいに、そして店舗に、刺激の少ない場所を選べるかどうか。
これは本当に、その場に行って、あるかどうか、いいかどうか、判断するしかない。
それを滞在中に、見つけることができるかどうか。


今住んでいる所が、島全体としては、そのコンセプトが自分の生き方に合う所があるが、
今の家が凄まじく環境の悪い所で、そこからすぐに移るという選択肢がない。
この要素は大きいし、常識的な判断を最優先できない要素としての影響力も十分にある。


どうも、昔はあると思っていた適応力が、歳をとるに連れてか、縁に任せての結果か、なくなってきているらしい。
それを、悪くとらえるのではなく、
自分に向いた場所を見つける指針として、シビアではあれ働いていると考えれば、
居場所探しに頑張り甲斐があるとも言える。


とにかく、身体の感度を落とさずに生活できる場所を見つけること。
一緒に暮らす人とか、自分の感覚に同調できる人とか、は、見つかれば嬉しいが、
それは目的にはならない。
縁として大きく影響することはあるだろうけれど、それだからこそ、事前の考慮の範囲外のこと。

自分の感覚を信じて、今回の滞在を有意義に活用したい。
まだ始まったばかりで、抽象的ではあるけれども、
酔った勢いのおぼえがきとして、ここに記す。
 

論理の集合論の不条理について/正直は4チャンある

「意味を為すような一切の言葉の拒絶。声を出すことの拒絶。精神の荒廃、もしくは未然。廃人か、胎児───といったところでしょうか? しかし、どれも健康な青年には到達不可能だとすれば、その拒絶とは謂わば、拒絶できないことそのことが、拒絶すべきであることを保証し続けるような、そういう構造をもっているということになりますか」
「仰るとおり、実に幻想の構造であり続けるほかない拒絶、可能性に留まり続ける拒絶ではございますとも。しかし、それは正解の半分でございましょう。けっして実現されることのない拒絶という幻想の傍らには、実は一片の現実が現れ出ているのであって、棄てがたさ、逃れがたさという一片の現実に支えられて有る〈私〉の生が滲みだしているのでございます。そしてそれこそが、拒絶しつつ生きるという爪先立ちのような生存を末永さんに許していたというのが、残り半分の答えでございます。(…)拒絶し続ける、その表明が生の駆動力になるのでございますよ。言うなれば生命の、永遠のヒステリー状態。私は感覚的にはジャコメッティのあの、無理に細長く引き伸ばされた人物を思い浮かべるのでございますが」

高村薫『太陽を曳く馬』

イェルサレムアイヒマン』でハンナ・アーレントは、自分たちが行った恐るべき所業を肯定的に解釈するためにナチの処刑者たちが完成させたこの捩れについて、精確な記述を提供している。彼らの多くが分かり易い人非人だったわけではない。自分の所業が犠牲者に汚辱と苦しみと死をもたらすことを、彼らは知悉していた。この困難から抜け出す道は、殺害者たちが「〈自分は人々に対して何という恐ろしいことをしたことか!〉というかわりに、……自分は職務の遂行の過程で何という凄まじいことを見せられたことか、この任務は何と重く自分にのしかかって来ることか!」と言えればよいのである。このように彼らは、逆らう誘惑の論理を逆転させることができた。ここでの誘惑とは、人の苦しみを前に根本的な憐憫と同情の念に屈するという誘惑である。すなわち、彼らの「倫理的」努めは、殺害・拷問・陵辱の拒否というこの誘惑に抵抗する任務へ、方向づけられたのである。憐憫と同情の念という自発的な倫理的本能に対する自分の侵犯そのものが、こうして、自分の倫理的偉大の証となる。自分の務めを果たすために、私は他者に苦痛を課すという重荷を引き受ける覚悟を決めたのだ、と。

スラヴォイ・ジジェクロベスピエール毛沢東

 論理の便宜性は、論理の外部からの要請に因る。
 よって、当該便宜性の微調整の基準は、外部事情にある。

 論理の便宜性は、一つの実現形態として、
 全体論理内の論理性の偏頗をとる。
 自ら主張する論理に含んだ一部の非論理を「括弧に入れる」こと。
 これ自体はプラグマティズムから逸脱しない。
 
 己の論理に含まれる非論理を否定、あるいは忘却すること、
 或いは、部分論理の重要性を論理全体にまで拡張すること。
 これらは便宜性の基準が外部事情から離れ、
 論理に呑まれる事態である。

 その時、論理内部の非論理が、論理全体の非論理となる。
 確固とした、しかし非論理に無自覚な論理体系は、
 その破局が訪れるまで修正されることはない。

 破局の定義も、言葉の上で、また二つに分かれる。

 非論理の全体化を招いた部分論理の不成立、
 または、論理構築主体そのものの破局
 前者において、まだ論理は信じられている。
 後者は、便宜性によってもたらされる便宜性の死である。

 人は、自分の言葉によって死ぬことができる、
 また、他者の言葉によって殺すことができる。

 それほどまでに、一人称の死は、
 幻想であり、
 幻想以上に達することができない。
 
 またあるいは、言葉が魔法のようだというとき、
 それは比喩ですらなく、単に同様のものとして、
 同等に非現実なものであるというだけのことかもしれない。

なるほど、論理的であるということは、つねに楽にできる。が、極限まで論理的でありつづけるというのは、ほとんど不可能なことなのだ。こうして、みずからの手で死んでゆく人びとは、自分の感情の斜面にしたがって、その最後まですべり落ちてゆくのである。このように考えてくると、自殺についての考察は、ぼくの関心をそそる唯一の問題、死に至るまでつらぬかれた論理が存在するか、という問題を提出するきっかけをぼくにあたえてくれる。はたして、そういう論理が存在するのか、しないのか、それがぼくに解るのは、ぼくがここでその出発点を示そうとしている論証を、過度の情熱のとりことはならず、ひたすら明証の光のなかだけで辿ってゆくことによってしかない。それは、ぼくが不条理な論証と名づけるものだ。多くの人びとが、この論証をはじめた。だが、その人びとははたしてこの論証をきびしくつらぬいただろうか、ぼくはまだそれを知らない。

カミュ『シーシュポスの神話』

 × × ×

「僕は”軋轢”を墓碑銘としよう」

といった、保坂和志のエッセイにあった言葉を「また」思い出しました。
 考える人間が、
 ただ考えるだけで満足できる人間が、
 敢えて何かを書こうと思う時、
 その人間の前には軋轢がある。

…ここまで書いて、「墓碑銘」でブログ内検索をかけると、
過去に全く似たような状況で似たような文章を書いているのが見つかり、
相変わらずというか「業だなあ」と思いました。
(思えば、会社を辞める時から全部、回数でいえば4回ですか、
 引っ越す理由が「家がうるさいから」でしたね。すごいな自分)
スヌーピーの作者、シュルツの伝記タイトルを借りて、"Good Grief!" です、まさに。
 
都会の喧騒とノイズから逃れるために田舎へ移住したつもりだったんですが、
家の巡り合わせで(移住者が多い町は住宅事情がよろしくない、言われりゃ当然ですね)、
島で一番煩いんじゃないかという家に一年近く住み、
まあまあまあ、田舎は田舎で様々な生活音が地に響いているなあと体感し、
ま、住む場所をちゃんと決められればなんとかなるとも思えますが、
どうも、全般的な島内の家の分布からして、僕は田舎暮らしも向いていない。
もうあとは山篭りくらいしか思いつきませんね。

島内で家探しはずっと続けていますが、
今年に入って、創業したいジムの建屋を島外でも探し始めていて、
まあどうなるかわかりませんが、
また移住もありうるかもしれません。

 Iターンだったのが、
 Vターンになって。
 さらにもっぺんやれば、
 Zターンですね。
 その次は何だ。
 Wターンか。

うん、4回まではできるってことか(笑)


とりあえず、主目的は移住ではないんですが、
今月末から三週間ちょっと、長崎に滞在予定です。
そこで泊まるのが「移住お試し住宅」だという……
はは、どうなるかわかりませんね、本当に。


9年前の記事から、保坂和志の言葉を引いておきましょう。

 私はこれまでエッセイで「現代という時代を生きづらいと感じる人の方が、この時代にすっかり馴染んで楽しくやっている人よりもずっとちゃんと生きている。」とか「すっかり馴染んで楽しくやっている楽しさより、生きづらいと感じている方がずっと充実している。」というようなことを何度も書いた。
 どう進もうが私にはいつも軋轢があるのではないか。(…)
 世間の人は単純に、小説家は作品が残るとか名が残るとか考えているが、そんなものはすべて過去のものであり、書きつづけると感じている気持ちだけが信じられる。その源泉が私にとって軋轢だったと思うのだ。
(…)
 七〇年代前半、それを聴いた者たちの心を打った Confusion will be my epitaph. という、キング・クリムゾンの歌詞があるが、さしずめ私は
 Friction will be my epitaph. 「私は軋轢を墓碑銘としよう」
だ。
「私は軋轢を墓碑銘としよう」(保坂和志『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』)

保坂氏がストイックかどうかは微妙ですが、「逆境に強い」のだとは思います。
ハシモト氏はストイックを自称していますが、僕が両氏とも好きなのはこの点です。
生きていく中に障害や不都合が多々あったからこそ、乗り越えるために思考を磨いた。
境遇の強制を「行為の強制」ととらず、自分のやり方で道を切り開いてきたのです。
 
軋轢を「くるならこい」と構える姿勢は、それを望むマゾヒストとは異なるのです。
 
「私は軋轢を墓碑銘としよう」 - human in book bouquet

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久しぶりにブログに文章を書きたくなったのは、
もーほんとにお向かいの車検場が煩くて、
元気な時ならまだギリギリ平気なんですけど、
この春先から近くの田んぼの耕運機の音が耳タコになって、
発動機の重低音がぜんぶ頭でハウリングするようになって、
なんとか家の中でいちばん音がマシな所に居場所をかえて、
それで本を読もうとして「うーん、やっぱちょっとなあ」、
という前段があったからですが、
昔の自分のブログ記事を読んで、
気が楽になったというか、
変な話ですが「ほっこり」しました。

短期的な解決はないでしょうから、
またちょくちょくブログを書く習慣になるかもしれません。
本記事の内容は、
たまたま読んでる本が連想で繋がったというだけで、
別に僕の生活とシンクロしてるわけでもありません。


いつの間にか、連想の自由度が、
精神の健康の指標になったようですね。
「鎖書店」の仕事の賜物でしょうか。
被害妄想・知覚過敏の弊害もありますけど、
前者は意志の問題だし、
後者は……意志でなんとかするかな(笑)

うん、書くという行為は何とも能動的で、
その発端は相変わらず、何とも受動的ですね。
僕の場合は…というだけでなく、
保坂和志橋本治もそうだった、
と勝手に思っておきます。

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