human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

アボカドとトマトのサラダ

コロナが流行って外食はほとんどしなくなったのですが、
それでも唯一行っているお店で知ったアボカドとトマトのサラダが、
シンプルなわりに美味しくて自分でも作れそうだと思って、
何度かつくるうちにアレンジするようになりました。

画像は最近のそのバリエーションのいくつか。

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1. アボカドとりんごとキウイのサラダ。
トマトが高かった時にそばで安かったフルーツに変えたもの。
アボカドはなんでも合う。
ドレッシングは溶き卵+オリーブオイル+ワインビネガーetc.

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2.アボカドとトマトと長芋のサラダ・燻製卵のせ
長芋はカットしてグリルで10分。
一緒に生卵も横に置いてみたら、燻製っぽいゆで卵になりました。
時間次第で半熟卵に…なる気はしないけど今後実験予定。

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3.上の2の卵を割った。ゆで卵ライク。

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4.違うのが混ざりましたが、ゴロゴロ野菜とトマトの炒めもの。
トマトと乾燥ガーリックとは別にトマト&ガーリックソースも入れて、
(敢えて素材を被らせて)味に厚みが出たような気がしました。
 
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5.アボカドとトマトのパワーサラダ
お肉はたしか鶏モモカットだったかな?
オリーブオイルを敷いてグリル皿で12分、
焼いた後に皿に残った油に卵とか入れてドレッシングに。
写真の生卵は別用途(納豆用)。
 
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6.上の5の完成時。
炭水化物がいらなくなるボリューム。
いつ頃からか肉乗せサラダを「パワーサラダ」と呼ぶようになったのですが、
スーパーの惣菜では大体が肉がちょこんとしかない。
ので、これぐらいあれば満足。
 

普段から時々料理の写真を撮ってるんですが、
使い所がないのでブログに投稿してみました。

気が向けばまた。
 

「ゲシュタルトクライミング」 〜アフォーダンスがクライミングを進化させる〜

 
最近造語ばかりしてますね。
まあ、それが文章を書きながら考えてみようという動機の発端になってはいます。

 × × ×

先日出品したセットの作成過程で、佐々木正人氏の本を少し読み直しました。

3tana.thebase.in

前に読んだのは学生の頃なので10年以上前で、
その時はいろいろと衝撃を受けたんですが、
今読み返しても面白いし、発見も着想も多々あります。
そのうちのひとつ。


アフォーダンスとは、本書によれば「周囲環境に含まれる意味」のことで、
この概念のキーポイントは、環境が人の行為を発動させることにあります。
環境と言うと漠然とするので言い換えると、
人が動くにつれて、連続的に変化する環境情報。

アフォーダンス創始者ギブソンの用語には「包囲光」というものがあって、
人を取り囲む空間や物を客観的な静止物と見るのではなく、
視覚はそれらが反射する光の連続的な変化をとらえるのであり、
その光には連続面、境界、肌理(の細かさ・粗さ)などの分別が含まれます。

…という理論解説は用語が怪しいのでさておいて、
ライミングボルダリング)にアフォーダンスはどう応用できるか
という観点で、自分はあらためて読み直してみたのでした。
以下は、思いつき(というか、これから思いつくであろうこと)です。

 × × ×

ライミングに限らず、スポーツ全般において、
身体をどう動かすか、という観点で語られることが多い。
ライミングなら、指をどう使う、腕だけでなく肩や背中を使う、云々。
これらは全て、考察が人体の内部で閉じている。

ボルダリングでは、ホールドをいかに有効に使う(効かせる)かも重要です。
形状や表面粗さから、持ちやすい持ち方や効かせやすい方向を知ることができる。
これは、人体と対象物(ホールドや壁)の相互作用という観点です。
ただ、理論としては、力学(物理学)ですべてを語ることができる。


ここで、アフォーダンスを登場させます。
壁にあるホールドは、「クライミングアフォーダンス」を持っている。
真下に引きたくなる、横に押したくなる、踵を引っ掛けたくなる「佇まい」をしている。
個々のホールドだけでなく、周囲のホールドや壁(の形状、傾斜)との関係込みで。

自分がアフォーダンスについて考える時にいつも出てくる例を挙げるんですが、
地上の街を歩いていて、地下鉄の入り口の階段にさしかかった時、
それまで一定だった歩幅が、階段を降りる直前の数歩、狭まったり広がったりする。
むろん階段の降り始めで踏み外さないためですが、それはだいたいが無意識になされる。

行為において、人は周囲環境のアフォーダンスを無意識に(時には意識的に)活用している。
言い方を変えると、アフォーダンスの無意識的活用は「自然な動作」である。
これを逆に言えば、考え込んで解読を要する周囲環境は(その始めは)不自然な動作に帰結する。
自然と不自然の差は、一連の動作の持続が長時間にわたるほど、顕著となる。


ホールド一つの効かせ方と、ムーブ全体におけるアフォーダンスの把握は、恐らく次元が異なります。
ムーブに含まれる個々のホールドの有効活用の総和が、そのアフォーダンスとなるわけではない。
この観点からして、ライミングにおけるアフォーダンスは「ゲシュタルト的」であるとも言えます。
ゲシュタルトを簡単にいえば「還元的・部分分析的姿勢の正反対に位置するもの」でしょうか。

課題の個々のムーブをバラして登れても、通すと上手くいかないことはよくあります。
その原因が体力不足にだけあるのではないことと、今している話とは関係があります。
「ムーブの流れの良さ」と言えば、これは身体動作からの視点による表現となります。
同じことに見えそうですが、これを「アフォーダンスの有効活用」と言えば、違う意味が生まれます。

自然な動作は、アフォーダンスの無意識的理解が導くものだと先に言いました。
トライする課題に対して、こう登るのが自然だ、違和感がない、気持ちいい、という感覚。
それは、慣れないムーブを繰り返して習熟することと、完全にイコールではありません。
「ホールドがこう持てと身体に囁いている」、あの「ゴーストがそう囁くのよ(@攻殻機動隊)」というやつ。

…かどうかは知りませんが、身体と課題(=ホールドと壁)の心地よい協調に意思が従うということ。
もちろん、無理やりとか力づくで登る課題だってあります。
それは言い換えれば、特定部位(腕とか指)を激しく動員する必要のある課題です。
そのような課題でも、無駄な動きや、ホールドの活用ミスがあれば、さらなる違和感として表れます。


話を少し変えますが、佐々木正人氏の先の本の中に、J・ピアジェの理論の話が出てきます。
赤ん坊のリーチング(ものに手を伸ばす行為)の研究を通して、人間の動作の習得のことを、
「見ている世界」と「自分の運動について知っている世界」の、安定した幸福な結合と表現しています。
これを読んで僕は、ボルダリングの醍醐味が的確に表現されているなあと思いました。

リーチングにおいては、「見ている世界」とは周りの大人の動作を指します。
一方、それを真似しようとして手足をバタバタさせたり、頭が左右に揺れたりする、
思い通りかどうかに関係なく、赤ん坊の動きそのものが「自分の運動について知っている世界」です。
この前者と後者が一致する、目の前にあるおもちゃを掴む瞬間が「幸福」として体験される。

ボルダリングとは、この赤ん坊の「幸福な体験」をひたすら繰り返す営みだと言うこともできます。
スタッフさんや他の人の手本ムーブを見ることは、クライミング行為における「見ている世界」です。
その中には、どうやって登ろうかと頭の中で色々と想像するオブザベーションも含まれます。
そして、その通りに登れた時に、「自分の運動について知っている世界」がそれと一致する。


話はまた逸れますが、僕はこの点からすると、クライマーと観客は両立するのかと疑問を感じます。
両立と言うと変ですが、要は他人のムーブばかり見ていると「幸福な体験」から離れていかないか、と。
自分より上手な(強い)人の動きは参考になりますが、それが今の自分に明らかに再現不可能な場合、
「見ている世界」が肥大して「自分の運動について知っている世界」からどんどん遠ざかっていく

僕自身は、これからトライする課題の正解を自分で見つけようとするのが好きで、
最終的に知らないまま終わってもよく、従って(特に強い)人が登るのをあまり見ないタチなのですが、
これを「自分の感覚が狂うから」とだけ思っていたのですが、今こうして考えていてなるほどと思います。
自分はボルダリングの面白さを、多くの課題をこなせるようになるだけでなく、

赤ん坊が身体動作を習得するのと似た充実にも感じるのだ、と。


話をアフォーダンスに戻します。

ボルダリングアフォーダンスの概念を取り入れると、「良い課題」の考え方も変わってきます。
例えば、こう動けば自然だろうな、とオブザベで思わせ、実際そう登れば気持ち良く落とせる課題。
アフォーダンス的には、このような課題を「良い」(少なくとも「自然な」)課題と見なせます。
もちろん、見てすぐわかってしまう課題は、打ち込み甲斐がない意味ではマイナスでもあり得ます。

だとすれば、オブザベで散々悩ませ、いろんなムーブを試させるトライを重ねていくうちに、
ふと流れが繋がって、最初から最後まで(あまり力まずに)気持ち良く登れた。
そのような課題は、身体の自然な動きや身体とホールドの自然な相互作用を新たに発見させる、
クライマーのアフォーダンス把握能力を向上させてくれる「良い課題」だということになります。

この見方によれば、課題におけるホールドの使い方にも新たな意味を見出せます。
見た目からは想像もつかないホールドの使わせ方をする課題は、パズル解読としては魅力的です。
が、その使わせ方があまりに不自然であれば、アフォーダンス読み取りの違和感にもつながります。
身体動作の流れ(ムーブ)が自然であっても、その動作を課題に適用する段階で不自然な場合がある

…こともあるかなあと頭で考えてはみましたが、これも一概に言える話でもありません。
動作の実現においていっけん不自然に見える周囲環境を、着眼点を変えるなどして、
身体に自然に作用する環境に読み替えることを、アフォーダンス把握能力と考えることもできるからです。
ゲシュタルトライミングの探求には、力学だけでなく、生理学や心理学にも通じる必要があります。

 × × ×

思いつくまま脈絡なくバリバリ書いてしまいましたが、
ゲシュタルトライミング」という考え方は、掘り下げていけばとても面白そうです。
甲野善紀氏の著書に触発されて武道をクライミングに活かせないかと思いつき、
その時キーワードにした「武道的ボルダリング」ともリンクというか、相性の良さを感じます。

イワシの群れが方向転換するような身体運用」という比喩を甲野氏(や内田樹氏)はよく使います。
中枢(脳)からの命令ではなく、身体全体が同時瞬間に協調的に(一方向あるいは多方向に)動く。
これも、手や足や胴体の動きを足し合わせれば全身の動きになる、という単純総和とは異なる観点で、
つまりはゲシュタルト的な身体運用であると言えます。


今後は、古武術だけでなく、アフォーダンスも意識しながら登っていこうと思います。
 
 × × ×

サブリミナルチャージについて

 
草履で歩きながら思いついたこと。

 × × ×

「足指健康ぞうり」という、指がひっかかる突起(スペーサー)が土台についた草履をここ二年ほどずっと履いてきたんですが、数ヶ月前か半年か前に買った2足目の足裏の減りが激しくて(歩き過ぎもあり、歩き方の変化もあり)踵付近の土台に穴が開くほどで、それほど安くない草履なので消耗早いし次は安めのを、と思ってAmazonで適当に買ったやつがスポンジ底で、やたらフワフワして足が変に力んで気持ち悪くて二回ほど履いてこれは失敗でいいやと思って(でも丸ノコでスポンジを大方削ってなんとかならないかなとか考えてる)、¥2,000は勉強代と割り切ったんですが、一方でこのフワフワ草履のおかげで思いついたこともあって。

いつもはオフィスから家まで(途中の買い物も合わせれば)1時間以上歩いても、足は疲れるだけで平気で(ボルダリングで一日中登った後もいっしょ)、でも件のフワフワ草履はちょっと近所のスーパーまで往復(20分くらいかな)しただけで膝が痛んで、靴全般の「ショック吸収」の機能について改めて考えさせられました。


自分の感覚でいうと、地面を歩く時に足裏(足裏と地面のあいだ、一般的には靴底ですね)がフワフワしてると、身体に「軸」が出ません。

身体の中心に軸があると想定して、とか想像して、とかスポーツなぞで言いますが、そしてその想像にも一定の効果はあるんですが、それとは違ってもっと実際に「ある」もので、元は時代小説家・多田容子氏(内田樹合気道の師匠が父親だったはずです)の古武術に関する新書で読んだ、身体の中心だけでなく、その両側、左右各々の脚から肩甲骨を貫く2本の軸と合わせた「3本軸」の理論なんですが、自分がいまナンバ歩き的な歩き方ではそのうちの左右2本が、歩いているとはっきり出てきます。

前に「肩甲骨で歩く」という話を書いた気がするのですが、それは気持ちとしては歩く時に、足裏ではなく肩甲骨が接地するというイメージで、それが実際に足裏が地面の衝撃を感じるように肩甲骨が感じられたとすれば、頭部より下の上下半身の全体で歩き動作における地面からの反発力を吸収(分散)できていることになります。

で、「軸が出る」時はそういう歩き方ができていると、まあ理想的ですが考えたとして、では一方でそうではない場合、これが先ほどのフワフワ草履のことなんですが、軸が出ない、また膝が痛む、といった観察から、地面を踏む衝撃が脚の特定箇所に集中してかかっていることが推定できます。

「膝が痛む」と言ってるのだから、その「脚の特定箇所」はとりあえず膝ということになるんですが、どうしてだろうと歩きながらつらつら考えていると、ふと液晶ディスプレイが目に与える負担(疲労)のことを連想しました。


というのも最近、小学校の同級生が近くに住んでいることをちょっと前に知って、その友人のバイト先で開かれた流しそうめんパーティに参加させてもらって、そこで何人かと喋った中で自分の過去の仕事のことを説明した時にその話をしたから記憶に新しくて連想が繋がったのだと思いますが(以上脱線でした)、サブリミナルという言葉は、映画館で本編前だか後だかに挟まれるCMに、そのCMの内容とは関係ないがとある欲求を惹起する広告画像を人間が認識できないほどの瞬間だけ連続的に挿入すると、観客はもちろんその広告画像のことを知らないが、映画を見終わった後にその欲求惹起効果が現れる(たとえばその広告画像がコカ・コーラの瓶の蓋を開けた瞬間泡がシュワっと出てる、みたいなやつで、上映後の館内の売店でコーラの売り上げが有意に上昇する)という実験で有名な「サブリミナル効果」として人口に膾炙していますが、この言葉(subliminal)自体は「意識にのぼらない、潜在意識の」という意味です(weblio英和辞典より)。

いっぽう、液晶に限らないんですが、光学ディスプレイ全般を長時間眺めていて目が疲れるのは、自発光物体を見ている(つまり眩しい)からというのもあるかもしれませんが、でも焚き火をじっと眺めていて目が疲れるかといえば、そんなことはあまりないはずで(僕自身の経験では初詣の時に神社の一画でしていた焚き火を長時間見つめたことが何度かありますが、目が疲れたという記憶はありません)、なぜ今ここで焚き火と比較したのかというと、焚き火の発光強度が持続的(直流電源的、平滑波…というか波ではない?)であるのと違い、ディスプレイの発光は間歇的(矩形波、厳密には減衰矩形波)だからです。

画像が静止画であれ動画であれ、ディスプレイを構成する(膨大な数の)極小の光源(=画素)は、人間が認識できない速度で点滅(点灯と消灯)を繰り返しています。その一回の点灯ごとに明るさや色が違えば動画になり、どの画素も各々が(時間経過において)同じ明るさと色で点滅すれば静止画になる。

昔、朝に放映していたポケモンのアニメが子供に悪影響(その内容は忘れましたが…タミフル的な?違うか)を与えたとかで放映禁止になるニュースがありましたが、あれはたしか極彩色の点滅映像の場面が問題になったかと記憶していますが、極端な明滅を直視するのは目(や場合によっては精神)に負担がかかるというのは、頭で考えずとも体感できることです(当時の事件は間近で一心に画面を凝視する子どもの視聴姿勢も問題視されていたと思います。
「画面から離れて明るい場所で見てね」というテロップが各アニメの冒頭に表示されるようになったのはそれからのことだった、のかな?)。

が、「目にも明らか」なはずの光源の連続的な明滅による目の負担は、その明滅の周波数(単位時間毎の明滅回数)が高くなり、視覚の認識の閾値を超えることで、負担そのものが自覚できなくなります。

…やっとタイトルの説明にたどり着いたんですが、このディスプレイ視聴における疲労の原因である「識域下の負荷」のことを、僕が勝手にサブリミナルチャージ(subliminal charge)命名しました。
たった今。


で、本題に戻りますが、
フワフワ草履で膝を痛めたのはこのサブリミナルチャージにそっくりだ(というか同じ?)と、当のフワフワ草履で気持ち悪いなと感じながら歩きながら思いついたのでした。

靴底がスポンジ等でフワフワしていると、地面の凹凸の情報が(身体の)足の裏に達するまでに曖昧にされてしまいます。
なので、ちょっとした変化(砂利の一粒を踏むとか)なら曖昧化、分散平均化で吸収しますが、大きな変化(大きな石ころとか、急に現れた斜面とか)に対してはその曖昧化が伝達の遅れを引き起こして、身体の瞬間的な対応動作を遅らせることになります。

…ということも考えられますが本題はそこではなくて、
地面の凹凸情報が足裏に達するまでに曖昧にされるとどうなるか、という話です。

歩行における姿勢制御は、おそらく意識レベルと無意識レベルがあります。
平地を歩いていて、これから坂道に差し掛かる、となれば、前傾姿勢になって足は踏ん張り気味になる、これは意識レベルの姿勢制御です。
いっぽうの無意識レベルはといえば、たとえばバランス制御ですね。
障害物のない平滑な平地を歩いていて、一歩一歩着実に前進できるのは、地面を蹴る、足を前に踏み出す(これも無意識になることもある)だけでなく、一歩を踏みしめる時に全身がバランスを崩さないように微妙に調整をするからです。
この後者、安定歩行におけるバランス制御はほぼ無意識領域の動作と見て間違いないと思います。

で、これが無意識になされているということは、このバランス制御においてどの身体部位がどれだけ使われているか(一箇所なのか、また複数箇所ならその力の配分など)についても無自覚であると推論できます。
この無自覚的な負荷が、身体全体に散らせればさほど問題ないが、身体の一箇所に集中してしまうと、知らないうちに負荷が蓄積して、痛みや故障が起きる。

さて、地面の凹凸情報の曖昧化の話でした。
地面の凹凸が、足が地面を踏みしめる際に効いてくる面とは、踏みしめる(三次元的な)方向の微妙な変化です。
平地でも、砂利道の砂利の分布によっては地面を斜めに踏まないと安定しない一歩がある場合もある。
その微妙な調整を、意識してやれれば、身体のどこを使うかを選ぶこともできます。
それができない場合は、どこがその調整を負担するのか。

身体構造からいえば、それは足裏から距離の近い「関節」のはずです。
ヒンジ構造は、その一箇所をもって、三次元的な力の方向を変えることができます。
そして、足裏から近いといえば……足首、それから膝ですね。


歩行の負担が、全身に散らされずに、足に集中する(腰をひねり腕の振りをバランス制御に使う「西洋歩き」ではこの傾向が出やすい)。
その中で特に、地面の凹凸情報が曖昧になると、微妙な凹凸変化が感覚刺激の識域下となり、足首や膝に集中する。

そういうことも、あるかもしれない。

 × × ×

衝撃を吸収する靴は足腰の負担を和らげる、と靴やサンダルの宣伝によくあるんですが、もともとあれはどういう原理でそう言っているのだろう、と改めて疑問に思いました。

動きの激しいスポーツでなら、衝撃吸収は必須なのかもしれませんが(小学校の時にバスケットボールをやっていましたが、あのごついバッシュではなく、体育館シューズでやれと言われると、足首痛めそうで怖いですね)、日常生活で歩くというだけで、果たして衝撃吸収にどれほどの意味があるのか。

足裏感覚の鋭敏な草履に完全に慣れてしまった今の自分には、大方の靴も含め、フワフワした履物は感覚を鈍磨させる違和感の塊に思えてしまいます。

クロップスといったか、やたらと軽くて甲に穴の開いた、なんだか丸々としてゴムゴムしたサンダルが一時期から流行るようになって、あれで自転車に乗ったり、電車の中で見かけたりもするんですが、他人事ながら心配になります(畑仕事に明け暮れた農家の方の中には高齢になって腰から上の半身が90度に前傾している人がいるんですが、そういう「長年の習慣の蓄積」が現代人に表れてくることがあるとすれば、何十年後のことでしょうね)。
あと、ボルダリングジムで初心者へのお手本をやる時に、そのクロップスで(得々と)登るスタッフさんが時々いますが、うーん、あれに気持ち的な意味以上のものがあるのか、よくわかりません。


結論:普段履きの草履はちゃんと選ぼう。

ボルダリングシューズは当然なんですけど(と言いながら時々ネットで安く売られてるのを見て衝動買いしたくなる)、履物選びに試し履きは必須ですね。
明日近所の商店街の履物屋さんに行ってみましょう。
 
 * * *

9/8追記
天神橋筋商店街を端から端まで歩いて、
まともに草履を置いている店が1件だけ(和装屋はいくつかあったけど)、
ウレタン底や皮底の相場感はネットと同様でした(そりゃそうか)。

冒頭に書いた、今履いているのは正式名は「足ゆび運動ぞうり」で、
過去には映画とタイアップした真っ黒な「禅バージョン」があったようです。
むちゃくちゃほしい…
最近では改良バージョンに鼻緒ブラックタイプが出ていて、
これも魅力的なんですがちょっと高い…

というわけで、オフィスでしばし考えたのち、
ホッチキスで皮生地を留める怪しげな延命措置を施しました。
ホッチキスの針が尻がね的に作用して案外長持ちする…可能性は低そうです。
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やっぱり次はネットで買うかなー
タイヤ底↓が気になっています。

草履あさぶら - 裏に自転車のタイヤを使った通称“あさぶら”と呼ばれる草履

生きた言葉と公案(まえおき)

「公安」ではなく「公案」です。

『無心ということ』(鈴木大拙)をルカラガーム(月パスで通っている京都のジム)で読んでいる時に、
「活句と死句」という表現を見つけ、
この「活句」こそが僕がブログで何度も考えてきた「生きた言葉」のことだと思い、
嬉しくなって、
その記述の少し前の(というか本の全般にわたってある)公案が、
禅・仏教の中で言葉を活句として維持するための工夫だと分かって、
個々の公案自体はなかなか理解が届かないんですが、
それはそれでもよいというかそういうものだということで、
そうして家で『春風夏雨』(岡潔)を読んでいて、
これも仏教の話がよく出てきて呼応箇所も多いのですが、
この活句の話と「法界」の話とが繋がって、
そのことを書こうとしてブログを立ち上げたのが2時間以上前で、
じゃあその間何をしていたんだというと、
過去記事を見て面白いなと思ったり(ある時期の自分の文章はなかなか飽きが来ません)、
書評に使えそうなのを見つけて追記して書評サイトに投稿したりしていて、
目が疲れてしまいました(結論)。

というわけでその書評サイトのリンクだけ貼っておきます。

「活句」の話は、
言葉以前のものを言葉によっていかに賦活する(し続ける)かというもので、
そのようなことを言葉で考えられるのかという途方もなさというか、
言ったらおしまいじゃないのかといった予感もありますが、
その予感は正しいながら抗うべきものである、
というのが「祖師方のお情け」であるようなので、
興味をもって取り組む予定です。

以下、後半に続きます。


・『「歴史」の体制』(フランソワ・アルトーグ)
 https://shimirubon.jp/reviews/1705748

・『民衆という幻像』(渡辺京二
 https://shimirubon.jp/columns/1705747

着脱式鰓呼吸器の詩

最近、仏教や禅の本を並行していくつか読んでいて、
おそらくそのせいで文章があまり書けません。

何度か動機が湧いて書き始めたことがあって、
でもだんだんと内容が書きたいことからずれていって、
それ自体はいつものことですが、
その収拾のつかなさを放置できずに、
そのまま書き続けることが今持っている感覚を損なうようで、
筆を措くということを繰り返しています。

この傾向自体は新鮮なので別に構わないのですが、
そして違うのですがスランプのようにも思えて、
この状態から脱してみたいという興味もあり、
しかしこれは本記事のテーマではありません。

どちらでもよいのですが、
この記事が(タイトル通りの)投稿にたどり着けば、
それもまた吉。

 × × ×

古めの本ですが、加藤典洋『この時代の生き方』をちびちび読んでいます。
そのちびちびが、最近の長雨が手伝って、今日は勢いが増しました。

の、増したはずなのですが、思いの外思索に誘う節があり、
その勢いがまたすぐに止まってしまいました。

加藤氏の本はいくつも読んでいて、
論理のすべてに納得したり、賛同するわけではないのですが、
なにか妙に身体に響くものがあり、好きです。
なぜだろうとは今日まで思わなかったのですが、
今日読んでいて、ふと保坂和志のエッセイを連想して、
なるほどなあと一人合点がいきました。

程度としては加藤氏のほうが「重い」とは思うのですが、
両氏とも「言葉に生かされている」という気がします。
それほど、言葉に自分を賭けている。
言葉を、明確な目的をもった道具ではなく、手足のように、
あるいはもっと中枢的な臓器のように、扱っている。
だから、嘘を、社会や常識に対してではなく、
自分に対して嘘をつくと手ひどい傷を負う。
だから、滅多に嘘はつかないし、
嘘をついた時には取り繕わず、すぐ外聞にさらす。
それは傷に消毒液を塗るよりは、砂土をこすりつける行為に近い。
傷の治りが遅いことよりも、傷の記憶の風化を恐れている。
後者こそが、奥深く、臓器としての言葉に濁りを与えるから。

それはさておき。
加藤氏の、上述した一節というのは、このようなタイトルです。

 " 「元気がない」ということの元気のなさ "

氏が評論の仕事を請け負った時(いつもかどうかは知りません)、
まずいろいろ調べ、算段も立てる。
しかし締め切り直前まで、ぐずぐする。
締め切り二日前の半日を、ベッドでの輾転反側に浪費したりする。
頭の中では評論を罵倒したり、この関心も今だけだと思ったりする。
そのような「元気のない」時間の滞留、
非生産的な行為と観念のただ中にあって、
それでも「自分にとって書かずにはいられないもの」、
そのようなものがじわじわと湧き出てくるのを待つ。

 そう、それは、部屋の真ん中にパン屑をおいて、部屋の四隅からネズミ、ゴキブリ、ミミズ、ヘビ等マイナスなものが出てくるのを待つのに似ている。部屋に人がいてガヤガヤ元気よく騒いでいる間、この「不元気」は息をひそめている。連中が部屋から去り、誰もいなくなり、しんとしている、その状態が半日も続くと、カサ、コソ、音がして四隅の穴の暗がりに眼が光り、小さな鼻先が現れ、やがてマイナスのもの達がそろそろとパン屑のほうに歩み出、近づいてくる……。
(…)
──この「不元気」状態は、この「それでもやはり書きたい」ひとカケを得るための、つまりは、わたしのイニシエーション(通過儀礼)なのである。

p.173-174

喩えがやけに視覚的に面白いので長々と引用しました。

さて、それから、森田療法中原中也の(強度の神経衰弱時の)詩、
ハイデガーを比してのレヴィナスの思想のなどを氏は連想して書く。

その後半の、というか最後の部分を引用します。
氏の連想に、僕の連想が連なった部分です。

 こういうことを書いていると、また一つのことが思い浮かんでくる。わたしは最近若い友人を一人亡くした。そのことでわたしは、自分が長らく忘れていたある感覚を呼び覚まされた。それを垂直性の感覚といっておいていい。落雷のように、真上から何かが降ってくる。それを感じる垂直性の感覚。でも、わたしはその友人に、元気のないということが十分に密度の濃い生の状態であること、元気のある状態より、時には濃密な生がそこにあること、そういうことを一度、話したかったハイデッガーはその哲学の中心に死への不安をおいたが、レヴィナスはその思惟の中心に生きることのカッたるさ、無為、怠惰、疲労をおいた。彼は朝起きてベッドからぬけだせないけだるさの感覚を、生の感覚と呼んでいる。元気のない時の自画像、さえない自分の自画像を一つ、お守りのように、もっていることは、死なないためにでなく、より道しながらぐずぐず生きるために、必要なことである。(「思想の科学」一九九五年二月号)

p.176-177

「死なないためにでなく」

ここを読んで僕は、この加藤氏の若い友人は、
自分で命を絶ったのだと思いました。
そして僕は、若い友人の自殺、といった言葉から毎度必ずといっていいほど浮かぶ、
大学時代のサークルの友人のことを連想しました。
僕のその友人は、加藤氏がここに書くようにまさに、

「垂直性の感覚」

に従って、それを軸にして生を深々と味わう人物でした。
だから、加藤氏が言ってあげたかったこと、この同じ言葉を彼女が聞けば、
救われたかもしれないし、
やはり彼女自身のその「垂直性の感覚」に従って、耳を貸さなかったかもしれない。

と、ここまで書いて注釈をすべきだと思ったのは、
僕の友人、いくつか同じバンドを組んだこともあるその彼女の死を、
大学院を出て、就職して二、三年経った頃に、その知らせを受けたこと、
そしてその衝撃に一週間ほど自分の身辺のすべてが色あせ、
自分のそばで笑うすべての人間が憎いと思い、
詳細を知ることの恐怖から、仕事を理由に葬儀への出席を辞退したこと、
その結果、彼女がどのようにこの世を去ったのかを、
未だに僕自身は知らないということです。

そして、あるいは彼女の友人などは気を悪くするかもしれないが、
大学時代に密度の濃い時間を一緒に過ごした一人の人間として言わせてもらえば、
彼女は状況が状況なら、強い意志で生を放棄することも十分あり得る、
それほどに激しく、振れ幅の大きく、ゆえに庇い、守りたくなる人だった。

…思い出話はこのくらいにして。

「詳細を知ることの恐怖」と先に書きました。
彼女のことを思い出すたび、何とも言えぬ虚無的な思いが去来していたのですが、
その感覚も時とともに変わってゆきました。
そこには経験的実感の風化、記憶の風化だけでなく、
死生観や縁起(因縁)感覚が変わってきたことも作用しています。

その詳細は別の機会に譲るとして、
ここでは記事タイトルの話をしたいと思います。


いや、一言だけ書いておけば、
こうして彼女が僕の頭の中を何度も訪れ、
そのつど考えずにはおれない思いにさせる。

「彼女は生き続けている」

僕がそう言うには、それは十分なことです。

 × × ×

冒頭に書いた「仏教・禅の本」の一つで、
あくまで「系」ということですが、
岡潔のエッセイ(『春風夏雨』)をここ数日読み始めました。

そこに「無明」や「唯物観」のことがよく出てきて、
というかそれらに染まった戦後日本社会を憂うのが本テーマですが、
岡氏はそのような戦後社会を「ダム湖に沈んだ町」に喩えています。

いきなり話が大雑把に飛んでわかりにくいのですが、
本記事のタイトルはこのメタファを踏まえたものです。


先の加藤氏のエッセイから引いた「垂直性の感覚」、
これは必ずしも個人的な気質に因るというのでなく、
時代によっては、それが主流として前面にでてくる、
そして僕は連想からですが、現代はそうなりつつある、
という考えを持ちました。

「キレやすい若者」という雑誌記事タイトルのようなテーマ、
また感覚的、無時間(短期)的な価値を煽る商品社会の消費主義、
といったものを思い浮かべれば、
現代社会と「垂直性の感覚」とは相性が良いと思えてきます。

そしてこれは、生理学的にはすべて脳のこと、
抽象的にいえば言葉のこと、だといえます。

規則もシステムも言葉が組み上げるものだし、
お金が価値尺度を支配するのも共同的な合意がもとだし、
物質的な欲求が身の丈を遥かに越えるのは脳の主体性に因るからです。


話がまた大きく変わりますが、
加藤氏の引用した先のエッセイの一つ前に、
本、読書についての話がありました。
この話も関連してくるので、飛び飛びに引用します。

 孤独だったから本を読んだのではなくて、本を読んだから孤独になったのでは、なかっただろうか。
 そう思うと、実に多くのことが合点いく形で思い浮かんでくる。
 (…)
 ぼく達が人に本をすすめる時、ぼく達はときどきそのことを忘れている。そのことというのは、本を読むことのはじまりにあるのが、引き抜く力だということ、人を共同性に加える力ではなくて、人を共同性から引き剥がす力、話の輪に加える力ではなくて、話を通じさせなくする力だということだ。
 (…)
 近頃の読書のキャッチフレーズは、これを読まないと、あなたは「時代」に遅れますよ、と囁く。もちろん、これは別に「時代」でなくとも構わない。「学校の授業」でも「時代を超越した永遠の真実」でもよいし、また、「人間らしい生活」でも「暮らしをまもる生活者の声」でも、さらにいうなら、「人類の知的遺産」でも構わない。
 それは、ぼく達を孤独にしない読書、なんらかの意味で、ぼく達を話の輪に加える読書である。
 (…)
 本を読むことで作られている話の輪、社会の輪から、もう一度自分を引き抜く、そのためには本を捨てなければならないだろうか。というより、むしろ、本の本来の引き抜く力こそが、この管理社会からもう一度自分を引き抜く、その源泉になりうるだろうか。
 ぼくは一つの答えを持っている。しかしそれは経験的な答えに過ぎない。

「引き抜く力」p.169-171

僕が常々考えていることをそのまま言い当てているような箇所で、
けれどそれはきっと、僕が加藤氏の本を読んできたからこそだと思う。

「ぼくは一つの答えを持っている」

その内容が気になるようで、でも気にならない気もする。
僕も「一つの答え」を、同じ「経験的な答え」を持っている気がするからだ。
それはいい。

とても正直な文章だ。
たとえば高校の図書通信などには、こんな文章はとても載せられないだろう。
でも、本当のことなのだ。
「本を読むことのはじまり」は、そうなのだ。
このことを学校は、主体的には教えてくれない。
でも、それも道理なのかもしれない。

話を戻します。
いや、話は戻っていきます。

 × × ×

「むしろ、本の本来の引き抜く力こそが、
 この管理社会からもう一度自分を引き抜く、
 その源泉になりうるだろうか」

加藤氏のこの言葉が、
「脳化社会」(@養老孟司)である現代社会、
そのメタファーである上述の岡潔氏のいう「水底の町」、
と反応したのでした。

 × × ×

 町は湖に沈み、水底にある。
 言葉の湖、その水は見えないが、たしかに呼吸に作用する。
 息が浅くなる。
 なにも対策せずにはいられない。

 皆は道具を拵える。
 酸素ボンベとその吸入口。
 呼吸器の機能そのままに、空気を別系統で用意するわけだ。
 でも、なんだか重そうだ。

 ちょっと考えてみる。
 手段は一つではない。

 水の中で暮らす生き物を見よう。
 彼らは鰓をもっている。
 原理はよくわからないが、苦しくはなさそうだ。
 何しろスイスイ泳いでいる。

 彼らの鰓は体の一部としてある。
 目的があって造られたものではない。
 結果として、そう見えるに過ぎない。
 そのような鰓を、僕らも持てるだろうか。

 言葉の海で、自然に呼吸するための鰓。
 それは外的なものでありながら、人の中心に作用する。
 人の中心、それは意識だ。
 意識の内圧を、水中都市の外圧と一致させるんだ。

 それは、頭の中を情報で満たすことではない。
 言葉の湖は均質ではない。
 でも、そこに法則はある。
 量は凄まじいが、量に惑わされないことだ。

 また、変化の激しさにも。

 物質の四季と次元を異にする、情報の四季。
 早く進みたければ、泳げばいい。
 じっとしたければ、漂えばいい。
 どちらにせよ、自然体でそうするための鰓。

 鰓とは本のことだ。
 
 寺山修司はかつてこう言った。
 「書を捨てて、町へ出よう」
 それを僕は、こう言い直そう。
 「書を拾って、町へ出よう」

 君を救う一冊の本は、どこかに必ずある。
 けれど大事なことがもう一つある。
 その本を見つけることは、君にしかできない。
 言い方を変えればこうだ。

 その本は君だけしか救わないかもしれない。

 本が君を見つけてくれることも、まれにある。
 どちらにせよ、最初の一歩を踏み出すのは君だ。
 それを忘れないように。
 グッドラック。

 本の海で、いつか会おう。
 

香辛寮の人々 2-11 微々と縷々

 
前記事からの続きです。
いや、インタールードかな。
久しぶりに、フェンネル氏登場。
対するは、直接は初登場のアニス嬢。

 × × ×

香辛寮「G&S&B(ジーエスビー)」のリビングにて。
テーブルには一組のコーヒーと、各々その傍らに男女。

時は夕暮れ。
建物は静寂。
男は縷々と説き。
女は微々と笑み。

裸電球が黒い2つの水面に映える。


「僕の思考は入り口が沢山あって出口が一つもないのが特徴で、そんな話に付き合わせて非常に恐縮なのだけれど」
「構いませんよ。ディルウィード君から聞いていた通りだわ。困った顔で面白そうにお話しされるのね」
「え、そんな風に見える? まずいな。思ったことはほとんど口に出さないんだけど、その代わりに顔に出るんだよ」
「正直ですね」
「それだけが僕の長所なんだ。嘘を取り繕う自分は嫌いで見たくもないし、それも顔に出るから、やれば必ず拝むことになる」
「対話相手は鏡のようなもの」
「そうです。相手の目には必ず、幾らか自分の目が映る」

「でも、そればかり気にしていては、相手を出汁にして自分だけを興味対象に見ていることになるのではないかしら?」
「…その通り、そこがよく誤解される。というか相手に理解されようという心掛けが足りない、といつも指摘される。ぐうの音も出ない」
「誤解を訂正する気がなければ、相手の中でその誤解は正解になってしまうわ」
「うん。だから僕の方が誤解を言挙げするのは不適切だね」
フェンネルさんは思考が好きで、対話も好きだと伺っています。でも貴方の対話は独白とそれほど変わりませんね。私はそのつもりで対面しておりますので、特に気になさることはありません」
「手厳しいな。どうも僕は他人への興味の持ち方を忘れてしまったらしい。アニスさんと話していると、あなたはマジックミラーどころか、純粋な鏡のように思えてくる」
「それがお好みなのでは?」

「そうかもしれない。でも、まだ違うと断言しておきたい。…いや、そういうことではないんだ。僕は常に新しさを求めている。会話の新鮮さ、出会いが起こす互いへの変化。それが先鋭過ぎて、相手の期待にそのまま応えることに躊躇してしまう」
「先回りして考え過ぎてしまうのですね。状況とか、流れに身を任せる姿勢があってもよいのではないかしら」
「それは自覚している。自分から何かを切り出すことがないのは、その一つの表れだと、自分では思っている」
「先手を相手に任せて、相手の思惑に乗ったふりをして、実際は無関心ということ? そんな矛盾した態度に喜ぶ人はあまり多くないでしょうね」
「いや、そこはちゃんとした誤解だ。変な言い方だけど。…僕は基本的に他人に興味がある。そして予定調和が嫌いというほどでもない。ただ、他人に対する明確な意志がない。命令だとか、権力志向だとか、広い意味では誰もが他者に対して持つものに対する魅力がことごとく希薄なんだ」
「そうですか。簡潔にいえば、貴方は孤独好きなのですね。私はここに居ていいのかしら?」

 フェンネルは言葉に詰まり、俯向く。
 アニスは一貫して微笑み続けている。
 その目はフェンネルから殆ど外れない。
 (ディルウィード君も妙な男だ)
 (こんな「鋼の女」に惚れるのは最早才能の域だろう)
 (彼は一体どこまで買い出しに行ってるんだか…)


「話を戻すけれど、鎖書というセット本の魅力は市場主義向きではないんだ。『非消費者的な読書の提案』と銘打っている通り、コスパの両者、つまりコストとパフォーマンスの評価が読み手に委ねられている。『身銭を切る』という言葉があるけれど、この場合は二重の意味で適用される。つまり、お金を使うことと、そのお金の意味を考えること、の二つ。普通の消費者なら無視するか、介入の意思があるとすれば、怒り出す」
「では貴方は、鎖書店というコンセプトを、ビジネスとして捉えてはいないということね?」
「正直に言えば、そうだ。思いつきのコンセプトを繰り返し形にしていく経験を重ねながら、ビジネスに敵う形式に発展する可能性もうっすら期待していたけれど、そちら方面の道筋は全く現れていない」
「それは分かりますわ。古書店と同じ一品目の在庫が単品でありながら、出品にかかる単位時間の異常な長さ。そういう目で見れば、誰もが趣味でやっていると考えますわ」
「だろうね」

「だとすると、貴方のお店の運営目的は営利ではない。目的も趣味的なのかしら。知的好奇心を満たすため?」
「いや、大事な要素だけれど、そこに限定されるものではない。まず、鎖書をセットする選書の過程が非常に興味深いんだ。それを個人の自己満足で留めておくには勿体無い、というくらいに」
「その選書と呼ばれる作業は、私には『ある特殊な趣向をもった読書』と表現しても差し支えなく思えますが」
「うん、普通はそう考える。面白い趣向だと思っても、それを抽象化するというか、一般的な価値をそこに持たせようとはあまり思わない。例えば、作家の片岡義男も、三冊を独自の趣向で組み合わせるという発想を面白いと感じたとエッセイに書いていたが、彼のその発想は個人ライブラリの範疇にある」

「そう仰るということは、つまり、フェンネルさんは鎖書に一般的な価値を見出す試行錯誤をなさっているのね。鎖書の選書を通じて。それなら、販売はもののついで、本筋ではないがモチベーション維持のためにやっている、と」
「そうかもしれない。自分で言葉にしたことはなかったけれど、言われればそうに違いないと思えるくらい、それは自然な発想だね。けれど、そこは断言しないで、可能性を開いたままにしておきたいところ」

「わかりました。今の話の中で私の興味を引くのは、貴方が探索しておられる『一般的な価値』の形ですね。個人の連想基準で本を組み合わせる鎖書。この『連想』という形式に重要な意味を担わせて、鎖書の魅力に関してそれ以上の詳細な説明をなさらないのは、『言葉にならない部分がキモなのだ』という言外の意思表示と受け取れますが、『一般的な価値』を見出すとはつまり、この『言葉にならない部分』を言葉にすることなのではないかしら?」
「! そう……そうか。自分はそこのところを、読み手の独自性に任せて有耶無耶にしていたかもしれない。事前に価値が分かったものを、同じく価値が明確な対価を払って手に入れる、という消費活動にはない『価値の個々なる創造』のような形態を理想だと考えていた。ただ、その具体的な発現はそれぞれの、一つの鎖書と一人の読み手ごとに違うのだとしても、そこに、その出会いと創造に至るまでの道筋の入り口のところで、つまり鎖書を販売する書店という窓口において、やはり鎖書のコンセプトが言葉として提示されている必要がある。それがなければ、鎖書が人々の手に渡ったからといって、その人々それぞれの満足があったとしても、それが鎖書の『一般的な価値』の認識には繋がらない。いや、購入した人にだけわかるというのでなく、鎖書というものがあると知った段階でそのコンセプトが伝われば、それこそが『一般的な価値』といえる」
「そう。それをぜひ、お聞きしたいわ」

「いや、今君に気付かされた通りで、言葉には全くなってないんだけど…」
「無論、今ここでお考え下さればいいのよ」
「うーん。誠に申し訳ないことをした」
「貴方がなさりたいのなら遠慮はいりません」
「ええと、そうではなくて、今考えたいのは事実だけど、さっき君のことを鏡だとかなんとか…」
「あらあら。そんなの構いませんわ、お互い様ですもの。全く以って、厳然たる事実」
「…………」


 (あああ、やっぱりこうなるんだよなあ)
 (先輩もアニスさんも気配り上手だけど、根っこが自分本位だから)
 (話が落ち着くまでどこか行っておこう)
 日は暮れ、いっとき廊下にディルウィードの気配。
 しかしドアは開かれず、細長い影は弱々しくリビングから遠ざかる。
 長くもあり、短くもある、夜はこれから。
 

「鎖書」概念考その1 ~ 心理療法との共通点

ここひと月ほどブログを更新していませんでした。
別の場所で文章を書いていて、そちらの方で「文章を書く意欲」が満足されていたようでした。
それはいいのですが、まあ、たまにはこちらでも。

司書の仕事の話を書きます(もちろん「考えながら」)。


オンラインのセット古書店を始めて、あと3ヶ月で二年になります(今確認しました)。
新しいことを思いつきで始めて、やり方はやりながら考えようと思い、
「三冊セット」という根本はそのままに、細かい部分は色々変わってきました。

セットを組む三冊のテーマの傾向(範疇)も、ずいぶん幅が広がったように思います。
「連想に従って」という、その連想の自由度が増したような、固定観念が減ったような。


また、インスタグラムでのセット紹介を始めたことで(最近書いている文章はここです)、
三冊の並びだけで各セットの魅力を提示するという当初のコンセプトも変わりました。

本記事では、この紹介文をベースに、鎖書の仕事について考えていきます。

(インスタのプロフィールページを以下に貼っておきます。
 ブログパーツの調子がイマイチのようですが、調整がよくわかりません。
 ユーザーでない方は見られないかもしれません)
 https://www.instagram.com/bricolasile_chainbookstore/?hl=ja

 × × ×

インスタの鎖書紹介文とは、上のリンクの各投稿にあるような文章なんですが、
その原型のようなものが、個人事業用HPのブログにあります。

bricolasile.mystrikingly.com

簡単にいえば、
三冊のそれぞれから本文を抜粋して、
鎖書のタイトル(即ちテーマ)に沿ったコメントを付記する、というもの。

上記ブログに「種明かし」と書いている意味ですが、
当初はこれ(このリンク)を読者自身に発見してもらうというコンセプトでした。
つながりをあらかじめ知ってから読むよりは、
自分自身で見つけた方がその時の快感は大きいだろうと。

いや、このコンセプト自体は変わっていないとも言えて、
つまりインスタグラムでは種明かしされているけれど、
それを知らないで鎖書店のラインナップを見る人には関係がない。

僕が紹介文をインスタにアップしようと考えた時は、このことは念頭にありました。

それはさておき。


ここ最近読んでいるいくつかの本に、
鎖書店運営に対して大きな刺激を受けているものがいくつかあります。

先に貼り付けておきましょう。

ひとつめは、河合隼雄谷川俊太郎の対談集。
谷川氏の方が聴き手という、レアというか、とても刺激的な対談です。

河合隼雄氏の本は少し前から何冊も続けて読んでいて、
氏の言葉の一つひとつが自分に染み込み思考を賦活するようで、
今の自分が読むべき本だという確信があります。
(主に電車の中で読むんですが、時々感動して涙が出たりします)

前にはスヌーピーの本だとか、あと…忘れましたが、
河合氏のこの本は特に、ブックアソシエータの糧になることが書かれている。
僕のために書いてくれてるんじゃないか、という錯覚を何度も起こしました。
その錯覚ついでにオーブロシキ発言をすれば、

鎖書の選書はまさに心理療法とイコールじゃないか、という。

その認識に符合する箇所にいくつも付箋をつけていて、
これはいずれちゃんと引用して思考を整理せねばと思うんですが、
今は(勢いで書いていて面倒なので)しません。
内容的に思い出せることをちらりと書いておこうかな…


とにかく、「意味を見出してナンボの世界」なのです。

心理療法家は患者と一緒に無意識の世界に降りていき、
無自覚だが患者自身を苦しめる心の奥底の「なにか」を探索する。
患者に(睡眠時の)夢の内容を覚えてきてもらって、一緒に分析する。
というよりは、夢を語ってもらって、そこから連想するものを挙げてもらう。

心理療法家はそれに意味付けをするというよりは、
患者が自分の夢やその連想に対する意味付けを促し、またひたすら聴くに徹する。
心理療法家は患者の積極性を引き出すために基本的には受け身の姿勢だが、
無論大事なのはバランス感覚で「引いてダメなら押してみろ」ということもある。

結果的に患者の症状が良くなれば、それが治療の成果となる。
治療の、分析のどの要素が効いたか、というような考えにあまり意味はない。
ただ、そのようなプラグマティズムで単純に割り切れる話でもない。
「症状が良くなる」ことが何を指すかが、そもそも明白ではない。

よくわからない何かに囚われていた患者が、そこから解放されたとする。
それ以前の患者はひたすら解放を願っているかもしれないが、
その彼が、解放された彼自身の状態(心境)を想像できるとは限らない。
重荷としか感じていなかった束縛が、現実に繋ぎ止める碇であることもある。


…話を戻しますが、ある面で単純化すれば心理療法とは「無意識への探索」です。
それを(対面という前提で)言葉のやりとりによって行う。
僕が言いたいのは、心理療法の現場における言葉は「意味が浮遊する」ということです。
辞書的で四角四面な言葉遣いでは、心の深みに潜ることはできない。

上の「意味を見出してナンボ」とは、そういう意味で言ったのです。
患者と対話していて、論理が通じない、訳のわからないことを言っているように思える。
それを、非論理的だと決めつけるのでなく、患者自身の「論理」があるのだと考える。
その「論理」を、国語辞典に依拠して解明することは不可能です。


もう少し話を手前に(というか本題に)戻します。
鎖書の選書も、心理療法と同じく「意味を見出してナンボ」です。
それはこじつけかもしれず、牽強付会かもしれず、あるいは誤読かもしれない。
しかしそもそも、ひとりの人が本を手に取ることで起きる、当たり前のことです。

なので、その点はまず大して重要ではない、本質ではない。

誰もが同じ内容を汲み取り、同じ理解に至る本は、マニュアルと呼ばれます。
人によるかもですが、少なくとも僕は、マニュアルを読むことを読書とは考えない。
同じ一冊の本を、読む人ひとりひとりが別様に解釈し、我が物とする。
その「別様の解釈」こそが、個人の営みである読書の本質です。


さて、この話の流れからすると、ある一つの「別様の解釈」が組み合わせた三冊、
これを「鎖書」と銘打って並べられているのが、僕のオンライン古書店だということ。
そこに普遍性はない。いや、あるかもしれない。
いや、あるというよりは、それは「見つけることができる」という状態で存在する。


…なんだか話がぐるぐるしています。
鎖書の「概念」について考えると、いつも同じところにたどり着いてしまう。
それは「具体的でしかないもの」と取り組んでいるからかもしれませんが、
まあそう早々と諦めるものでもないでしょう。

上に挙げた残り二冊を媒介として、次回続きを考えるとします。

 × × ×

p.s.
いや、ここでピーエスと書くのも変なのですが、
以上を書き終えてプレビューで読み直してみて、
自分が途中で挙げていたキーワードがその後からはすっぽかされていました。
うーん、整理しないで書くとよくあることですが、読み手には嬉しくないですね。

すみません。

キーワードは、先に太字にしておりました「意味が浮遊する」です。
上では辞書的だとか四角四面とか、やたらと意味の固定性に敵対心を抱いています。
別の言い方をすれば、固定された意味とは「言葉の純粋な道具的利用」でもあります。
ブックアソシエータの使命は、それを破壊することです。

もとい、意味の創造的機能を(グラスルーツに)膾炙させることです。

辞書的意味は、便宜のためにあります。
コミュニケーションのためには、その使用法に関して共通認識のあるツールを使う必要がある。
でないと話が通じない。当然です。
が、それは基本的な、というか表面的な状況においてのみ成立すること。

「コミュニケーション」、「便宜」、今使ったこれらの言葉。
どちらも、自己言及的な性質を持っています。
たとえばこれらが自分を定義するためには、自分自身を挙げねばなりません。
その実際的な効果は、「その運用において、次元とともに意味が反転すること」です。


…ちょっと勢いで書くには論理的に難解になってきました。
言いたかったことをさらりと書いて今回は幕引きとしたいです。
辞書的な意味とは、イコール固定化された意味のことですが、
活性化された「意味」は、つねにあらゆる場所で生まれ続けています。

その「意味」が辞書の意味と同じかどうかはあまり問題ではありません。
「意味」が、言葉以前の(リアルタイムな)「なにか」とリンクしていること。
そして、その「意味」を担った言葉を口にすれば、その「なにか」が再び賦活されること。
道具的側面だけではない、言葉の創造的側面とは、このようなものです。

その意味では、ブックアソシエートは詩作に近い
 

「現実が意識を規定する」とはどういうことか

 
一例を挙げると、

夕方に古本屋に行こうかと思い立ち、
近くのスーパーにも寄れるなと思い、

外出する準備をしていて、
リュックとポーチのどちらを持つか、
という判断において、

欲しい本がどれだけあるか、
夕食のためやその他買いたいもの、
を行く前から想像するのではなくて、

ポーチを持っていけば、
多くあるはずの候補が厳しく絞られ、
急に必要ではない日用品は考慮外となるだろう、

というようなことです。

続・透明感について

 コトバは、元来、意味的側面においては、存在分節をその第一義的機能とするものであって、この点だけは分節(I)でも分節(II)でも変らない。しかし、既に詳しく述べたように、分節(I)は有「本質」的分節。ここでは、分節とはいろいろ違う事物を「本質」的に分別することである。「本質」によって金縛りにされて動きのとれない事物は、他の侵入を絶対に許さない。他の一切を拒否し、排除することによってのみ、それらの事物は自らを主張する。「本質」は事物を固定し、結晶させるものだ。この事態を、存在者の存在不透明性という言葉で、私は言い表そうとする。
 これに反して分節(II)の次元では、あらゆる存在者が互いに透明であるここでは、花が花でありながら──あるいは、花として現象しながら──しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。「……のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。

「意識と本質 Ⅶ」p.169
井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店,1983

透明、あるいは透明感という言葉に対して、ずっと関心を持ち続けています。
このブログ内でキーワード検索してもらえればそれはわかりますが、
中でも直接テーマとして取り上げた記事はこれ↓です。
cheechoff.hatenadiary.jp
この記事を最近シミルボンに書評として投稿した時に再読の機会がありました。
そうして関心が活性化された時に上の引用部を読んで、「おお!」と思いました。

透明であることに対する新たなイメージを得た、ということです。


引用中の分節(I)と分節(II)について簡単に触れておくと、
これは禅の悟りを開く修行の過程の文脈で、
言葉や意識によって事物を分節する(あるものを他とは異なる特定のものだと認識する)、
そのあり方が悟りを開く前後で違っていて、
前が(I)、後が(II)ということです。

これは本記事の主旨とは関係がないのでさておきますが、

ふつう僕らがものを認識するのは、そのものの本質をとらえることによってなされる。
「そのものを端的にいえば」
とか、
「まず浮かぶイメージは」
といった形で。
この「ものごとの本質をとらえる」ことを、僕らは非常に重要だと考えています。

本質を見逃すばかりに、勘違いが起き、思い通りに事が運ばず、不利益を被る。
逆に、本質を見つけさえすれば、目の前にある問題は解決する(少なくとも解決に向かう)。

つまり、本質という言葉には通例、肯定的なイメージしか与えれらていません。
この認識を、ひとつの固定観念であるとして開放することが、引用部を読む入り口です。


さて、やっと言いたい話に入れます。

引用部では、つまり禅道において悟りを開くうえで、
本質的な事物の把握、「本質的分節」はネガティブな意識状態として捉えられています。

「「本質」は事物を固定し、結晶させる」

あらゆる存在をあるがまま受け入れるうえで、この意識作用は取っ払わねばならない。
このような(通常まったく常識的な)意識状態を、井筒氏は
「存在者の存在不透明性」
と表現します。

そして、これの対照として、
悟りを開き、かつ俗世を離れたままでいるのではなく、
悟りを得たまま還俗した人の意識状態について、
「あらゆる存在者が互いに透明である」
「本質によって固定されず、花が「花のごとく」ある」
「存在的に透明で、他の一切にたいして自らを開いた花」
といった言い方がなされています。

ここで言われている「透明(感)」について、
僕が持った印象が、書きたかったことです。
(この印象自体は、悟り云々との整合性を考えてはいません)

 × × × 

あるものが、またはある人が「透明である」(ようにこちらに感じられる)とは、

 それが(その人が)それそのものでありながら違うもの(人)にも見える

ということもあるのではないか。


前の(冒頭にリンクを貼った)記事では、
透明度に対して「薄っぺらさ」と「奥行きの深さ」の両方のイメージが浮かぶ、
といったことを書きました。

自分が見ている対象物が薄いと、光がその物を透過するために、その奥にあるものが見える。
一方、自分と自分が見る遥か遠くの対象物のあいだにある空間についての透明度を考えれば、
その対象物がはっきりと見えることが、空間の透明度の高さと奥行きと結びつく。

透明さは、物象世界における存在感の薄さ、また即物的な希少性の表れです。
つまり、五感(とくに視覚)の把握に対して、リアリティの減少として作用する。
その逆の側面では、幻想を駆動源とする意識活動に対する特徴としての強度を持つ。


何が言いたいのか…

これまで僕は、「透明さ」はポジティブであれネガティブであれ、
この性質をもつ物(者)それ自体の特徴としてしか考えていませんでした。

しかし、禅と本質に関する井筒氏の考察文章を読んで気づいたことに、

透明な物(者)は、自身の透明性を媒介として他と繋げる能力を持つものでもある。

自分が透明であることは個性の乏しさではなく、
他者と自在に繋がりうる透明さこそがその個性の表れである、
という見方がありうる。


僕が持っていた(今も持っている?)透明感(を感じる人)に対する憧れ、
それについて、今まで色々と言い換えてきました。
 何を考えているかわからないこと、
 意識の底が見えないこと、
 どこまでも未知を抱えていそうなこと、
 今にも消えそうな(ので僕が関わらなきゃと思わせる)こと、
などなど。

で、これらの特徴と、今回の新たな発見である「媒介性」という特徴とは、
そう遠くない関係であるなと思います。

その人を見ていて、
その人でないものが(なんとなく、でもたくさん)見えること、
このことが僕自身の視野や連想の問題ではなく、
その人が内に秘めた性質のように思えること。

未知性。
媒介性。
可能性。
関係性。

これらと繋がり、もしかすると包摂するかもしれない、
透明性。

あるいは、
飛躍が過ぎるかもしれませんが、


「透明」とは意識の別名なのかもしれません。
 

マクラナマクラマクナマラ

(22)ロバート・マクナマラ──Robert McNamara
 ケネディ=ジョンソン政権におけるエリート高級官僚、いわゆる「ベスト・アンド・ブライテストアメリカ最高・最良の人材)」、の中でもとりわけスーパー・クールな才人として知られた。
(…)
 マクナマラの国防長官としての究極の目的は国防総省におけるシビリアン・コントロール文民統制)を確立することにあった。そして軍人たちの反対を抑えこんで、軍拡競争に終止符を打つことにあった。もしそれがうまくいけば、彼はおそらく歴史に名を残したことだろう。しかしヴェトナムという不確定要素が彼の夢を無残にうち壊した。マクナマラの貴重な時間と精力は、その無意味な戦争によってもたらされる泥沼のごとき混乱のつじつまあわせのために完全に消耗させられてしまった。そして彼の名は結局「高度に技術化された非人間的戦略」のシンボルとして歴史にきざみこまれることになった。

訳注(村上春樹
ティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』文春文庫,1994
太字は引用者

『ニュークリア・エイジ』を読了しました。

村上春樹のエッセイ、どの本だったか忘れてしまいましたが(『遠い太鼓』かな?)、
の中で氏が非常に強く推していた本だったので、市の図書館で借りました。
古い本にしては珍しく、予約が2件あって、予約してからしばらく待ちました。
そのエッセイの中で「非常に哀しい物語」であると書かれていた気がします。


本書の訳者あとがきに書かれていたこと

「この作品の登場人物には全的に感情移入できる人が一人もいないのだが、
 不思議なことに、それでも強く心を揺さぶられた」

こう言われてみて、そうかもしれない、と最初に思い、
それは不思議には違いないがありうることだ、と思い、
それこそが「強く心を揺さぶられた」理由ではないか、と思いました。

そして、それが「正常なこと」なのだと。

想像力の使い方として。


多様性の意味について思ったこと

 みんな違って、みんないい。
 自分と異なる価値観の尊重。
 不快な隣人と共生すること。

それは確かに大事なことだ、
誰もが生活の中で実践するかはさておき、
敢えてそれを否定しようと考える人間はそういまい。

「誰もそれを否定しない」
でもそれは、
「誰もがそれを肯定する」
のとは違う。

ちょっとどころか、
言葉の綾どころか。

 千里の径庭。

多様性の強制は、多様性の実現ではない。
しかし、個々に主体的な多様性の尊重の集積などというものは夢だ。


多様性とは、理想でしかないのか?

追い求めることに意味があり、その実現は望めないもの。
この認識はリアリズムかもしれない。
でも少し、寂しくはないか。

だったら、こう考えてみてはどうか。

 「多様性とは、想像力の賜物である」

いったい、これは何を意味するのか?


それは君が考えるんだ。
それは君がこれから生き延びるうえで、
一考に値するテーマだ。

健闘を祈る。

 × × ×

書評サイト「シミルボン」に登録してから、
本ブログの過去記事ばかり投稿していましたが、
今回は珍しく時系列が逆となりました。

というわけで記事初出がこちら。

https://shimirubon.jp/reviews/1704901
 

本記事よりも書評ライクな部分がわずかにみられます。