human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-11 微々と縷々

 
前記事からの続きです。
いや、インタールードかな。
久しぶりに、フェンネル氏登場。
対するは、直接は初登場のアニス嬢。

 × × ×

香辛寮「G&S&B(ジーエスビー)」のリビングにて。
テーブルには一組のコーヒーと、各々その傍らに男女。

時は夕暮れ。
建物は静寂。
男は縷々と説き。
女は微々と笑み。

裸電球が黒い2つの水面に映える。


「僕の思考は入り口が沢山あって出口が一つもないのが特徴で、そんな話に付き合わせて非常に恐縮なのだけれど」
「構いませんよ。ディルウィード君から聞いていた通りだわ。困った顔で面白そうにお話しされるのね」
「え、そんな風に見える? まずいな。思ったことはほとんど口に出さないんだけど、その代わりに顔に出るんだよ」
「正直ですね」
「それだけが僕の長所なんだ。嘘を取り繕う自分は嫌いで見たくもないし、それも顔に出るから、やれば必ず拝むことになる」
「対話相手は鏡のようなもの」
「そうです。相手の目には必ず、幾らか自分の目が映る」

「でも、そればかり気にしていては、相手を出汁にして自分だけを興味対象に見ていることになるのではないかしら?」
「…その通り、そこがよく誤解される。というか相手に理解されようという心掛けが足りない、といつも指摘される。ぐうの音も出ない」
「誤解を訂正する気がなければ、相手の中でその誤解は正解になってしまうわ」
「うん。だから僕の方が誤解を言挙げするのは不適切だね」
フェンネルさんは思考が好きで、対話も好きだと伺っています。でも貴方の対話は独白とそれほど変わりませんね。私はそのつもりで対面しておりますので、特に気になさることはありません」
「手厳しいな。どうも僕は他人への興味の持ち方を忘れてしまったらしい。アニスさんと話していると、あなたはマジックミラーどころか、純粋な鏡のように思えてくる」
「それがお好みなのでは?」

「そうかもしれない。でも、まだ違うと断言しておきたい。…いや、そういうことではないんだ。僕は常に新しさを求めている。会話の新鮮さ、出会いが起こす互いへの変化。それが先鋭過ぎて、相手の期待にそのまま応えることに躊躇してしまう」
「先回りして考え過ぎてしまうのですね。状況とか、流れに身を任せる姿勢があってもよいのではないかしら」
「それは自覚している。自分から何かを切り出すことがないのは、その一つの表れだと、自分では思っている」
「先手を相手に任せて、相手の思惑に乗ったふりをして、実際は無関心ということ? そんな矛盾した態度に喜ぶ人はあまり多くないでしょうね」
「いや、そこはちゃんとした誤解だ。変な言い方だけど。…僕は基本的に他人に興味がある。そして予定調和が嫌いというほどでもない。ただ、他人に対する明確な意志がない。命令だとか、権力志向だとか、広い意味では誰もが他者に対して持つものに対する魅力がことごとく希薄なんだ」
「そうですか。簡潔にいえば、貴方は孤独好きなのですね。私はここに居ていいのかしら?」

 フェンネルは言葉に詰まり、俯向く。
 アニスは一貫して微笑み続けている。
 その目はフェンネルから殆ど外れない。
 (ディルウィード君も妙な男だ)
 (こんな「鋼の女」に惚れるのは最早才能の域だろう)
 (彼は一体どこまで買い出しに行ってるんだか…)


「話を戻すけれど、鎖書というセット本の魅力は市場主義向きではないんだ。『非消費者的な読書の提案』と銘打っている通り、コスパの両者、つまりコストとパフォーマンスの評価が読み手に委ねられている。『身銭を切る』という言葉があるけれど、この場合は二重の意味で適用される。つまり、お金を使うことと、そのお金の意味を考えること、の二つ。普通の消費者なら無視するか、介入の意思があるとすれば、怒り出す」
「では貴方は、鎖書店というコンセプトを、ビジネスとして捉えてはいないということね?」
「正直に言えば、そうだ。思いつきのコンセプトを繰り返し形にしていく経験を重ねながら、ビジネスに敵う形式に発展する可能性もうっすら期待していたけれど、そちら方面の道筋は全く現れていない」
「それは分かりますわ。古書店と同じ一品目の在庫が単品でありながら、出品にかかる単位時間の異常な長さ。そういう目で見れば、誰もが趣味でやっていると考えますわ」
「だろうね」

「だとすると、貴方のお店の運営目的は営利ではない。目的も趣味的なのかしら。知的好奇心を満たすため?」
「いや、大事な要素だけれど、そこに限定されるものではない。まず、鎖書をセットする選書の過程が非常に興味深いんだ。それを個人の自己満足で留めておくには勿体無い、というくらいに」
「その選書と呼ばれる作業は、私には『ある特殊な趣向をもった読書』と表現しても差し支えなく思えますが」
「うん、普通はそう考える。面白い趣向だと思っても、それを抽象化するというか、一般的な価値をそこに持たせようとはあまり思わない。例えば、作家の片岡義男も、三冊を独自の趣向で組み合わせるという発想を面白いと感じたとエッセイに書いていたが、彼のその発想は個人ライブラリの範疇にある」

「そう仰るということは、つまり、フェンネルさんは鎖書に一般的な価値を見出す試行錯誤をなさっているのね。鎖書の選書を通じて。それなら、販売はもののついで、本筋ではないがモチベーション維持のためにやっている、と」
「そうかもしれない。自分で言葉にしたことはなかったけれど、言われればそうに違いないと思えるくらい、それは自然な発想だね。けれど、そこは断言しないで、可能性を開いたままにしておきたいところ」

「わかりました。今の話の中で私の興味を引くのは、貴方が探索しておられる『一般的な価値』の形ですね。個人の連想基準で本を組み合わせる鎖書。この『連想』という形式に重要な意味を担わせて、鎖書の魅力に関してそれ以上の詳細な説明をなさらないのは、『言葉にならない部分がキモなのだ』という言外の意思表示と受け取れますが、『一般的な価値』を見出すとはつまり、この『言葉にならない部分』を言葉にすることなのではないかしら?」
「! そう……そうか。自分はそこのところを、読み手の独自性に任せて有耶無耶にしていたかもしれない。事前に価値が分かったものを、同じく価値が明確な対価を払って手に入れる、という消費活動にはない『価値の個々なる創造』のような形態を理想だと考えていた。ただ、その具体的な発現はそれぞれの、一つの鎖書と一人の読み手ごとに違うのだとしても、そこに、その出会いと創造に至るまでの道筋の入り口のところで、つまり鎖書を販売する書店という窓口において、やはり鎖書のコンセプトが言葉として提示されている必要がある。それがなければ、鎖書が人々の手に渡ったからといって、その人々それぞれの満足があったとしても、それが鎖書の『一般的な価値』の認識には繋がらない。いや、購入した人にだけわかるというのでなく、鎖書というものがあると知った段階でそのコンセプトが伝われば、それこそが『一般的な価値』といえる」
「そう。それをぜひ、お聞きしたいわ」

「いや、今君に気付かされた通りで、言葉には全くなってないんだけど…」
「無論、今ここでお考え下さればいいのよ」
「うーん。誠に申し訳ないことをした」
「貴方がなさりたいのなら遠慮はいりません」
「ええと、そうではなくて、今考えたいのは事実だけど、さっき君のことを鏡だとかなんとか…」
「あらあら。そんなの構いませんわ、お互い様ですもの。全く以って、厳然たる事実」
「…………」


 (あああ、やっぱりこうなるんだよなあ)
 (先輩もアニスさんも気配り上手だけど、根っこが自分本位だから)
 (話が落ち着くまでどこか行っておこう)
 日は暮れ、いっとき廊下にディルウィードの気配。
 しかしドアは開かれず、細長い影は弱々しくリビングから遠ざかる。
 長くもあり、短くもある、夜はこれから。
 

「鎖書」概念考その1 ~ 心理療法との共通点

ここひと月ほどブログを更新していませんでした。
別の場所で文章を書いていて、そちらの方で「文章を書く意欲」が満足されていたようでした。
それはいいのですが、まあ、たまにはこちらでも。

司書の仕事の話を書きます(もちろん「考えながら」)。


オンラインのセット古書店を始めて、あと3ヶ月で二年になります(今確認しました)。
新しいことを思いつきで始めて、やり方はやりながら考えようと思い、
「三冊セット」という根本はそのままに、細かい部分は色々変わってきました。

セットを組む三冊のテーマの傾向(範疇)も、ずいぶん幅が広がったように思います。
「連想に従って」という、その連想の自由度が増したような、固定観念が減ったような。


また、インスタグラムでのセット紹介を始めたことで(最近書いている文章はここです)、
三冊の並びだけで各セットの魅力を提示するという当初のコンセプトも変わりました。

本記事では、この紹介文をベースに、鎖書の仕事について考えていきます。

(インスタのプロフィールページを以下に貼っておきます。
 ブログパーツの調子がイマイチのようですが、調整がよくわかりません。
 ユーザーでない方は見られないかもしれません)
 https://www.instagram.com/bricolasile_chainbookstore/?hl=ja

 × × ×

インスタの鎖書紹介文とは、上のリンクの各投稿にあるような文章なんですが、
その原型のようなものが、個人事業用HPのブログにあります。

bricolasile.mystrikingly.com

簡単にいえば、
三冊のそれぞれから本文を抜粋して、
鎖書のタイトル(即ちテーマ)に沿ったコメントを付記する、というもの。

上記ブログに「種明かし」と書いている意味ですが、
当初はこれ(このリンク)を読者自身に発見してもらうというコンセプトでした。
つながりをあらかじめ知ってから読むよりは、
自分自身で見つけた方がその時の快感は大きいだろうと。

いや、このコンセプト自体は変わっていないとも言えて、
つまりインスタグラムでは種明かしされているけれど、
それを知らないで鎖書店のラインナップを見る人には関係がない。

僕が紹介文をインスタにアップしようと考えた時は、このことは念頭にありました。

それはさておき。


ここ最近読んでいるいくつかの本に、
鎖書店運営に対して大きな刺激を受けているものがいくつかあります。

先に貼り付けておきましょう。

ひとつめは、河合隼雄谷川俊太郎の対談集。
谷川氏の方が聴き手という、レアというか、とても刺激的な対談です。

河合隼雄氏の本は少し前から何冊も続けて読んでいて、
氏の言葉の一つひとつが自分に染み込み思考を賦活するようで、
今の自分が読むべき本だという確信があります。
(主に電車の中で読むんですが、時々感動して涙が出たりします)

前にはスヌーピーの本だとか、あと…忘れましたが、
河合氏のこの本は特に、ブックアソシエータの糧になることが書かれている。
僕のために書いてくれてるんじゃないか、という錯覚を何度も起こしました。
その錯覚ついでにオーブロシキ発言をすれば、

鎖書の選書はまさに心理療法とイコールじゃないか、という。

その認識に符合する箇所にいくつも付箋をつけていて、
これはいずれちゃんと引用して思考を整理せねばと思うんですが、
今は(勢いで書いていて面倒なので)しません。
内容的に思い出せることをちらりと書いておこうかな…


とにかく、「意味を見出してナンボの世界」なのです。

心理療法家は患者と一緒に無意識の世界に降りていき、
無自覚だが患者自身を苦しめる心の奥底の「なにか」を探索する。
患者に(睡眠時の)夢の内容を覚えてきてもらって、一緒に分析する。
というよりは、夢を語ってもらって、そこから連想するものを挙げてもらう。

心理療法家はそれに意味付けをするというよりは、
患者が自分の夢やその連想に対する意味付けを促し、またひたすら聴くに徹する。
心理療法家は患者の積極性を引き出すために基本的には受け身の姿勢だが、
無論大事なのはバランス感覚で「引いてダメなら押してみろ」ということもある。

結果的に患者の症状が良くなれば、それが治療の成果となる。
治療の、分析のどの要素が効いたか、というような考えにあまり意味はない。
ただ、そのようなプラグマティズムで単純に割り切れる話でもない。
「症状が良くなる」ことが何を指すかが、そもそも明白ではない。

よくわからない何かに囚われていた患者が、そこから解放されたとする。
それ以前の患者はひたすら解放を願っているかもしれないが、
その彼が、解放された彼自身の状態(心境)を想像できるとは限らない。
重荷としか感じていなかった束縛が、現実に繋ぎ止める碇であることもある。


…話を戻しますが、ある面で単純化すれば心理療法とは「無意識への探索」です。
それを(対面という前提で)言葉のやりとりによって行う。
僕が言いたいのは、心理療法の現場における言葉は「意味が浮遊する」ということです。
辞書的で四角四面な言葉遣いでは、心の深みに潜ることはできない。

上の「意味を見出してナンボ」とは、そういう意味で言ったのです。
患者と対話していて、論理が通じない、訳のわからないことを言っているように思える。
それを、非論理的だと決めつけるのでなく、患者自身の「論理」があるのだと考える。
その「論理」を、国語辞典に依拠して解明することは不可能です。


もう少し話を手前に(というか本題に)戻します。
鎖書の選書も、心理療法と同じく「意味を見出してナンボ」です。
それはこじつけかもしれず、牽強付会かもしれず、あるいは誤読かもしれない。
しかしそもそも、ひとりの人が本を手に取ることで起きる、当たり前のことです。

なので、その点はまず大して重要ではない、本質ではない。

誰もが同じ内容を汲み取り、同じ理解に至る本は、マニュアルと呼ばれます。
人によるかもですが、少なくとも僕は、マニュアルを読むことを読書とは考えない。
同じ一冊の本を、読む人ひとりひとりが別様に解釈し、我が物とする。
その「別様の解釈」こそが、個人の営みである読書の本質です。


さて、この話の流れからすると、ある一つの「別様の解釈」が組み合わせた三冊、
これを「鎖書」と銘打って並べられているのが、僕のオンライン古書店だということ。
そこに普遍性はない。いや、あるかもしれない。
いや、あるというよりは、それは「見つけることができる」という状態で存在する。


…なんだか話がぐるぐるしています。
鎖書の「概念」について考えると、いつも同じところにたどり着いてしまう。
それは「具体的でしかないもの」と取り組んでいるからかもしれませんが、
まあそう早々と諦めるものでもないでしょう。

上に挙げた残り二冊を媒介として、次回続きを考えるとします。

 × × ×

p.s.
いや、ここでピーエスと書くのも変なのですが、
以上を書き終えてプレビューで読み直してみて、
自分が途中で挙げていたキーワードがその後からはすっぽかされていました。
うーん、整理しないで書くとよくあることですが、読み手には嬉しくないですね。

すみません。

キーワードは、先に太字にしておりました「意味が浮遊する」です。
上では辞書的だとか四角四面とか、やたらと意味の固定性に敵対心を抱いています。
別の言い方をすれば、固定された意味とは「言葉の純粋な道具的利用」でもあります。
ブックアソシエータの使命は、それを破壊することです。

もとい、意味の創造的機能を(グラスルーツに)膾炙させることです。

辞書的意味は、便宜のためにあります。
コミュニケーションのためには、その使用法に関して共通認識のあるツールを使う必要がある。
でないと話が通じない。当然です。
が、それは基本的な、というか表面的な状況においてのみ成立すること。

「コミュニケーション」、「便宜」、今使ったこれらの言葉。
どちらも、自己言及的な性質を持っています。
たとえばこれらが自分を定義するためには、自分自身を挙げねばなりません。
その実際的な効果は、「その運用において、次元とともに意味が反転すること」です。


…ちょっと勢いで書くには論理的に難解になってきました。
言いたかったことをさらりと書いて今回は幕引きとしたいです。
辞書的な意味とは、イコール固定化された意味のことですが、
活性化された「意味」は、つねにあらゆる場所で生まれ続けています。

その「意味」が辞書の意味と同じかどうかはあまり問題ではありません。
「意味」が、言葉以前の(リアルタイムな)「なにか」とリンクしていること。
そして、その「意味」を担った言葉を口にすれば、その「なにか」が再び賦活されること。
道具的側面だけではない、言葉の創造的側面とは、このようなものです。

その意味では、ブックアソシエートは詩作に近い
 

「現実が意識を規定する」とはどういうことか

 
一例を挙げると、

夕方に古本屋に行こうかと思い立ち、
近くのスーパーにも寄れるなと思い、

外出する準備をしていて、
リュックとポーチのどちらを持つか、
という判断において、

欲しい本がどれだけあるか、
夕食のためやその他買いたいもの、
を行く前から想像するのではなくて、

ポーチを持っていけば、
多くあるはずの候補が厳しく絞られ、
急に必要ではない日用品は考慮外となるだろう、

というようなことです。

続・透明感について

 コトバは、元来、意味的側面においては、存在分節をその第一義的機能とするものであって、この点だけは分節(I)でも分節(II)でも変らない。しかし、既に詳しく述べたように、分節(I)は有「本質」的分節。ここでは、分節とはいろいろ違う事物を「本質」的に分別することである。「本質」によって金縛りにされて動きのとれない事物は、他の侵入を絶対に許さない。他の一切を拒否し、排除することによってのみ、それらの事物は自らを主張する。「本質」は事物を固定し、結晶させるものだ。この事態を、存在者の存在不透明性という言葉で、私は言い表そうとする。
 これに反して分節(II)の次元では、あらゆる存在者が互いに透明であるここでは、花が花でありながら──あるいは、花として現象しながら──しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。「……のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。

「意識と本質 Ⅶ」p.169
井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店,1983

透明、あるいは透明感という言葉に対して、ずっと関心を持ち続けています。
このブログ内でキーワード検索してもらえればそれはわかりますが、
中でも直接テーマとして取り上げた記事はこれ↓です。
cheechoff.hatenadiary.jp
この記事を最近シミルボンに書評として投稿した時に再読の機会がありました。
そうして関心が活性化された時に上の引用部を読んで、「おお!」と思いました。

透明であることに対する新たなイメージを得た、ということです。


引用中の分節(I)と分節(II)について簡単に触れておくと、
これは禅の悟りを開く修行の過程の文脈で、
言葉や意識によって事物を分節する(あるものを他とは異なる特定のものだと認識する)、
そのあり方が悟りを開く前後で違っていて、
前が(I)、後が(II)ということです。

これは本記事の主旨とは関係がないのでさておきますが、

ふつう僕らがものを認識するのは、そのものの本質をとらえることによってなされる。
「そのものを端的にいえば」
とか、
「まず浮かぶイメージは」
といった形で。
この「ものごとの本質をとらえる」ことを、僕らは非常に重要だと考えています。

本質を見逃すばかりに、勘違いが起き、思い通りに事が運ばず、不利益を被る。
逆に、本質を見つけさえすれば、目の前にある問題は解決する(少なくとも解決に向かう)。

つまり、本質という言葉には通例、肯定的なイメージしか与えれらていません。
この認識を、ひとつの固定観念であるとして開放することが、引用部を読む入り口です。


さて、やっと言いたい話に入れます。

引用部では、つまり禅道において悟りを開くうえで、
本質的な事物の把握、「本質的分節」はネガティブな意識状態として捉えられています。

「「本質」は事物を固定し、結晶させる」

あらゆる存在をあるがまま受け入れるうえで、この意識作用は取っ払わねばならない。
このような(通常まったく常識的な)意識状態を、井筒氏は
「存在者の存在不透明性」
と表現します。

そして、これの対照として、
悟りを開き、かつ俗世を離れたままでいるのではなく、
悟りを得たまま還俗した人の意識状態について、
「あらゆる存在者が互いに透明である」
「本質によって固定されず、花が「花のごとく」ある」
「存在的に透明で、他の一切にたいして自らを開いた花」
といった言い方がなされています。

ここで言われている「透明(感)」について、
僕が持った印象が、書きたかったことです。
(この印象自体は、悟り云々との整合性を考えてはいません)

 × × × 

あるものが、またはある人が「透明である」(ようにこちらに感じられる)とは、

 それが(その人が)それそのものでありながら違うもの(人)にも見える

ということもあるのではないか。


前の(冒頭にリンクを貼った)記事では、
透明度に対して「薄っぺらさ」と「奥行きの深さ」の両方のイメージが浮かぶ、
といったことを書きました。

自分が見ている対象物が薄いと、光がその物を透過するために、その奥にあるものが見える。
一方、自分と自分が見る遥か遠くの対象物のあいだにある空間についての透明度を考えれば、
その対象物がはっきりと見えることが、空間の透明度の高さと奥行きと結びつく。

透明さは、物象世界における存在感の薄さ、また即物的な希少性の表れです。
つまり、五感(とくに視覚)の把握に対して、リアリティの減少として作用する。
その逆の側面では、幻想を駆動源とする意識活動に対する特徴としての強度を持つ。


何が言いたいのか…

これまで僕は、「透明さ」はポジティブであれネガティブであれ、
この性質をもつ物(者)それ自体の特徴としてしか考えていませんでした。

しかし、禅と本質に関する井筒氏の考察文章を読んで気づいたことに、

透明な物(者)は、自身の透明性を媒介として他と繋げる能力を持つものでもある。

自分が透明であることは個性の乏しさではなく、
他者と自在に繋がりうる透明さこそがその個性の表れである、
という見方がありうる。


僕が持っていた(今も持っている?)透明感(を感じる人)に対する憧れ、
それについて、今まで色々と言い換えてきました。
 何を考えているかわからないこと、
 意識の底が見えないこと、
 どこまでも未知を抱えていそうなこと、
 今にも消えそうな(ので僕が関わらなきゃと思わせる)こと、
などなど。

で、これらの特徴と、今回の新たな発見である「媒介性」という特徴とは、
そう遠くない関係であるなと思います。

その人を見ていて、
その人でないものが(なんとなく、でもたくさん)見えること、
このことが僕自身の視野や連想の問題ではなく、
その人が内に秘めた性質のように思えること。

未知性。
媒介性。
可能性。
関係性。

これらと繋がり、もしかすると包摂するかもしれない、
透明性。

あるいは、
飛躍が過ぎるかもしれませんが、


「透明」とは意識の別名なのかもしれません。
 

マクラナマクラマクナマラ

(22)ロバート・マクナマラ──Robert McNamara
 ケネディ=ジョンソン政権におけるエリート高級官僚、いわゆる「ベスト・アンド・ブライテストアメリカ最高・最良の人材)」、の中でもとりわけスーパー・クールな才人として知られた。
(…)
 マクナマラの国防長官としての究極の目的は国防総省におけるシビリアン・コントロール文民統制)を確立することにあった。そして軍人たちの反対を抑えこんで、軍拡競争に終止符を打つことにあった。もしそれがうまくいけば、彼はおそらく歴史に名を残したことだろう。しかしヴェトナムという不確定要素が彼の夢を無残にうち壊した。マクナマラの貴重な時間と精力は、その無意味な戦争によってもたらされる泥沼のごとき混乱のつじつまあわせのために完全に消耗させられてしまった。そして彼の名は結局「高度に技術化された非人間的戦略」のシンボルとして歴史にきざみこまれることになった。

訳注(村上春樹
ティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』文春文庫,1994
太字は引用者

『ニュークリア・エイジ』を読了しました。

村上春樹のエッセイ、どの本だったか忘れてしまいましたが(『遠い太鼓』かな?)、
の中で氏が非常に強く推していた本だったので、市の図書館で借りました。
古い本にしては珍しく、予約が2件あって、予約してからしばらく待ちました。
そのエッセイの中で「非常に哀しい物語」であると書かれていた気がします。


本書の訳者あとがきに書かれていたこと

「この作品の登場人物には全的に感情移入できる人が一人もいないのだが、
 不思議なことに、それでも強く心を揺さぶられた」

こう言われてみて、そうかもしれない、と最初に思い、
それは不思議には違いないがありうることだ、と思い、
それこそが「強く心を揺さぶられた」理由ではないか、と思いました。

そして、それが「正常なこと」なのだと。

想像力の使い方として。


多様性の意味について思ったこと

 みんな違って、みんないい。
 自分と異なる価値観の尊重。
 不快な隣人と共生すること。

それは確かに大事なことだ、
誰もが生活の中で実践するかはさておき、
敢えてそれを否定しようと考える人間はそういまい。

「誰もそれを否定しない」
でもそれは、
「誰もがそれを肯定する」
のとは違う。

ちょっとどころか、
言葉の綾どころか。

 千里の径庭。

多様性の強制は、多様性の実現ではない。
しかし、個々に主体的な多様性の尊重の集積などというものは夢だ。


多様性とは、理想でしかないのか?

追い求めることに意味があり、その実現は望めないもの。
この認識はリアリズムかもしれない。
でも少し、寂しくはないか。

だったら、こう考えてみてはどうか。

 「多様性とは、想像力の賜物である」

いったい、これは何を意味するのか?


それは君が考えるんだ。
それは君がこれから生き延びるうえで、
一考に値するテーマだ。

健闘を祈る。

 × × ×

書評サイト「シミルボン」に登録してから、
本ブログの過去記事ばかり投稿していましたが、
今回は珍しく時系列が逆となりました。

というわけで記事初出がこちら。

https://shimirubon.jp/reviews/1704901
 

本記事よりも書評ライクな部分がわずかにみられます。
 

モジュール化と「無知の無知」(後)

前回の続きです。
残りは結論だけ。

cheechoff.hatenadiary.jp

ルーマンの引用箇所を何度も読み返しながら考えたのは、

 社会進化における機能的分化(つまり専門分化)=モジュール化

ということでした。

つまり、専門分野に特化して生計を立てる専門家とは、
車の製造工程におけるモジュール(部品群)のようなものである。

そして、これは前半に書いた内容ですが、
「拒否」だけでなく「適合」もが「分化の強化となる」こと、
に何か意味がありそうだと立ち止まった自分が得た認識は、
 上記の「専門家=モジュール」という等式が、
 生易しい良い所取りのメタファーではなく、
 システム論的視点でみれば全きイコールである、
ということでした。


何が言いたいかというと…
前回、モジュールについてこう書きました。

 モジュールの役割は、モジュール自体の価値の追求ではなく、
 そのモジュールを含んだ全体であるシステムへの貢献にある。

モジュールを専門家に置き換えてみます。

「専門家が自分の専門性を追求する目的は、社会全体への貢献にある」

何か理想論に聞こえますが、まっとうな表現です。

そしてしかし、専門家の目的は自身が生活していくことにあります。
その自身の生活を顧みないプロのことを「専門バカ」と呼んだりします。
いや、違うな、自分の専門以外の事柄を知らない、無頓着な人のことですね。

僕は大学院時代、この「専門バカ」のバカっぷりに高濃度かつ単独で曝露して、
つまり研究生活の他を圧倒するネガティブ面に嫌気がさして見切りを付けたのですが、
モジュールの役割として考えれば、「専門バカ」こそが正しく理想的なのです。

言い方を換えれば、
システムがモジュール的な人間を要求するし、
人間はその要求に応える(適応する)ことができる。

その要求が人間性(つまり統合性)の毀損をも求めるのだとしても。

 × × ×

というここまでは、言葉を変えてこれまで何度も書いてきましたが、
このトピックについて「無知の無知」というキーワードを閃いたのが本記事の収穫です。

ソクラテスの言葉で有名な「無知の知」は、
「自分は何を知らないのかを知っている」
ということです。

未知に対する探求、知的活動がここから始まるという意味で、
また、自分の知識量に関わらず謙虚でいられるという意味で、
(「わかることが増えるほどわからないことも増える」ことが分かるから)
無知の知」は知性を賦活するうえでベースの姿勢となります。


これと真逆の立場が「無知の無知」です。

「自分は何を知らないのかを知らない(し興味もない)」

この態度は(義務教育に限らず)何かを学ぶ人間としては致命的です。
そして、機能的分化を推進し続ける社会はこのような人間を要求します。
(つまり、現代社会では「無知の無知」実践者のほうが居心地良く生きやすい)
ここに「教育の段階有無に関わらず」という但し書きが付くのですが、
高度消費社会で生後の人間が消費主体になるタイミングを考えればいい。


人間が動物と違うのは「本能に抗うことのできる意識」を持つ点で、
自殺は究極の反本能的活動という意味では、意識の尊厳を追求する極北でもある。

意識は動物的本能に抗えるし、従うこともできる。
僕は、人間性とは「本能との調和」のことだと考えています。


上で「専門バカ」について触れましたが、
本来は常識や異分野の知識の欠如を意味するわけですが、
「本能との調和」がシステムの要求によって崩され続けていく将来、
自身の生活や生命維持に無関心な人間もそこに含まれてくるでしょう。
自分が関心を持たずとも、システムが配慮し手配してくれるからです。


伊藤計劃SF小説『<harmony/>』にあった、
「思考のアウトソーシングという印象的な表現をふと思い出しました。


また、今読んでいる『ニュークリア・エイジ』(ティム・オブライエン)には、

「想像したことはすべて実現するんだ」

という妄想癖の主人公ウィリアムの意志が書かれていましたが、
それは将来の夢の実現や先端科学技術の発展などのポジティブな面だけでなく、
ディストピアの到来という誰も望まない未来すら引き寄せうる。

 意識の自己破壊性は崇高ですらあるという矛盾も人間性の一部である、
 そしてこのことを忘れた人間の元に、それとは別の形で回帰してくる。

なんだかフロイトのような話になりました。

 × × ×

www.instagram.com

モジュール化と「無知の無知」(前)

 

進化は、同時に他のシステムにとっての環境世界でもあるような変動するシステムによって、他のシステムに適合あるいは拒否を強いながら、展開していくのである。このことは変化する環境世界の内側における、変動する構造と変動せずに維持される構造ということになろう──どちらも、分化の強化となるのである。社会進化のこうした圧力のもと、構造的分化は、機能的特定化を強化し、伸張する。そして、その結果が、社会全体の機能的分化であり、われわれがよく知っている社会の近代のタイプということである。

「第七章 社会、意味、宗教」
太字は引用傍点部

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

当たり前のことを小難しく言い回しているような部分。
でも、敢えてその言い方をする意味があるような気がして立ち止まる。

一文目と二文目の対応関係はたぶんこうです。

 「適合」─「変動する構造」
 「拒否」─「変動せずに維持される構造」

この両者が「どちらも分化の強化となる」という、
この一点に最初は「うん?」と思いました。

冒頭の「進化」の主語はたぶん社会で、
社会の進化における諸システム同士の変化の様態が記述されている部分です。

例えば、科学技術システムが進歩すれば教育システムも変わらざるをえない。
 学習設備は(教科書→タブレット端末)変えよう(=「適合」)、
 でも義務教育の階層制度(小中高)は据え置きで(=「拒否」)、
というような。

言葉の見かけとして、分化に寄与するのは「拒否」だけではないか?
と思い、だがそうではないのなら、「分化」の意味を改めて考える必要がある。

「分化」は、独立化とか、自立(自律)化とは違う。
社会における「分化」の好例として(学問等の)専門分化がすぐ思いつきますが、
学問分野が細分化するにつれ個々の分野が独立していく、ことは意味しない。

オートポイエーシスシステムの要諦は、システム内部と外部環境の関係にある。
 システム内部で新陳代謝が完結していること、及び、
 システムには情報をやりとりする外部環境が必ず存在すること。
言葉の使い方が若干怪しいですが、システムは存立基盤に矛盾があることは確か。


話を戻すと、「分化」を言い直せば「モジュール化」ではないかと思いました。
システム内の要素配置における、機動性や連携の有機性を考慮した部品群のこと。
これまた記憶が曖昧ですが、大学で最適設計工学を学んだ時に覚えた用語です。

モジュールの役割は、モジュール自体の価値の追求ではなく、
そのモジュールを含んだ全体であるシステムへの貢献にある。

モジュール設計は、例えば車の製造工程を考えると、
どの部品をひとまとめに(例えば工場の一ラインで)組み立てれば効率的か、
という価値基準(これを目的関数と呼ぶ)をまず設定し、
目的関数(たとえば製造コストと工程日数)が最小化するように部品群を決定する。
あるいは、組み立て順序や工場内のライン配置を決定する。

ある部品(やその組み合わせ)は変えた方がいい場合もあるし、
他を変更してもこの組み立て工程は最初から固定した方がいい場合もある。

話を戻せば、この前者が「適合」、後者が「拒否」にあたるわけですが、
この両者を駆使して達成されるのが、工程システムにおける「モジュール化」です。


「無知の無知」の話にたどり着きませんでした。
後半に続きます。
 

21日目:岩不動の「役者住職」 2017.3.21

 

<21日目> 仏坂不動尊→宿(一福旅館) 16km

(1)チャリおじさん
「なずな」を出て近くの海沿いを少し離れた〇〇〇〇[判読不能]の前で杖を2本チャリにのせたおじいさんと話をする。「チャンバラ貝」が須崎の珍味だとか(今日街で聞くの忘れた…)。

海というか、湾が見渡せる開けた道から少し内陸に入り、アップダウンのある森のこんもりした道で出会ったのを覚えています。

(2)彫り師のおじさん
 海沿いの山道の分岐過ぎで後ろからきたおじさんとしばらく同道する。10年サラリーマンやって、26の時に両親が死んで「人っていつか死ぬんだ」と思って(「こんなことやってる場合じゃない」?)、会社を辞めて[彫り師に]弟子入りしたそうな。[彫り師の仕事は]暇が作れるので時々長期で出られる。寝袋・テントをかついで野宿スタイル(宿を決めないで自由に歩きたい)。おにぎりをくれ、お札交換をした。一本歯の歯の木を見て「これはホオ[朴]ですね」と。さすが彫り士[ママ]。道路は基本かまぼこ型なので、靴の減りを偏らさないよう両側に均等に分けて歩く、と教えてくれた。ちょうど少し前に歯の減りと「徳島カーブ」「高知カーブ」の方向[←道路の曲がる方向の偏りのことと思われる]と相関を思いついたところだったので、この話と合わせて問題解決(謎の解決&対処法アリ)。短い間にしろ非常にお世話になりました。

頭にバンダナを巻いた、野性味あふれる人でした。
一本歯の「歯の減り」は死活問題で、この翌日(22日目)になかなか衝撃的な写真を撮っています。
次の記事をお楽しみに。

(3)岩不動にて
 本尊の不動明王にお参りして道を下ると、休憩所っぽいところにいたおじいさんが手招きしているので中へ。近所の百姓だというが茶飲み話に付合ううち、だんだん説法になる。後の方で「実は[私は]ここの住職」と明かされるまで全く気付かず(やけに目がランラン[爛々]としていると思ったが、こんな「近所の人」がいても面白いと思ったか。「住職が京都へ行くのにもついていった」という話が、今考えると妙だなと分るのだが…)、有難い話を延々3時間強[聞かされる]。パワースポット岩不動の話、インドへ修業に行った若い女性へんろさんの話、空海の生い立ちの話(修業に最初は失敗したとか、開眼してからもスゴイ格好で民衆に石を投げられたとか)、神に仕える生き方の話、ここでの修業とここにくる色々な人々の話、霊感ではない神通力の話、等々。もし修業したくなったらまたここに来ようと思う。一泊はとめてくれるらしいし、滞在するなら須崎市に逗留すればよい。「仏になる方法」を教えてくれるらしい…! 自分が何をすればよいか分からなくなったら、あるいは「引き寄せられるもの」を感じたら。普通に働いていて、月一で東京から来る人もいるそう。

この住職のインパクトは強烈でした。

四国遍路という旅は日常生活から振り返れば非日常に感じられますが、遍路の、特に通しの歩き遍路は期間が長く(平均40日間)、歩みの遅い一本歯での歩き遍路はまたさらに長期にわたり(実績58日間)、旅の過程ではそれ自体が日常と化すわけですが、そのような「非日常の日常」の中にあって、コンロ・やかんのある台所や茶器のしまわれた棚など生活感漂う休憩所(造りを別にすれば「草庵」と呼んでもよいでしょう)での住職とのやりとりは、どこか別の時代か、過去にどこかで分岐した平行世界の現代日本のような、「非日常の非日常」を感じさせるものでした(それはどこまでも異次元の感覚だったか、あるいは、「マイナスのマイナスはプラス」の如く、こちらの構えをことごとく解きほぐすほどしっくりし過ぎたひとときであったか)。

帰ってから復元できると思って、日記にはトピックだけ羅列してありますが、時間が経ってしまった今となってはその詳細は思い出せません(そもそも、一日中歩き通して宿に着いて夕食をたらふく食べてお風呂or温泉でまったり(ぐったり)してから寝るまでの間のひとときに日記を書くので、詳細を書く体力が残っていませんでした。執筆が翌日の朝や道中に繰り越されることも度々ありました)。
それでも、住職を通して仏教のもつパワーをありありと感じたのは覚えています。
幸か不幸か、ここから四年後の今まで「自分が何をすればよいか分からなくなった」りはせず、むしろ生活の中に修業を見出す方向性が見えたりして、当時生まれた縁が、復縁とはならずとも新たな縁のきっかけとなったようでもあります。

人間には人知で測れない(つまり未だ科学の未解明な)潜在能力があって、「宗教は信じたもの勝ち」でもあって、このどちらも認識自体はまっとうなものであって、けれど縁の力は偉大ではあれ、宗教への目覚めはやはり本人次第であるのだと思います。

所感:
 今日はとても濃かった。いろんな人に会えるのが興味深い。「とにかく沢山縁を結ぶこと」という住職のことばは大切にしよう。人混みはイヤ。だから帰ってからのことはまた別として(それくらい[←僕くらい? 当時は31でした]の年になると「自分がどういう生き方をすべきか」は自分の中に確立している、と言っていた)、この遍路歩きでは生まれた縁は大事にしよう。そのために時間の制限がないのだから。

「人混みはイヤ」、昔も今も変わらぬ本音ですね。
この遍路旅に出る前は精神的に弱っていたこともあり、日記の中でも時々ぽろりとネガティブな発言が出てきます。

「歩きたいから歩き遍路に行くんだ」と、何かしら願掛けをする多くのお遍路さんとは一線を画す意識を当時の僕は持っていたのですが、振り返ってみれば、というか他人事として見れば、あれは「心の回復の旅」でもあったように思います。
 

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」

 価値の領域で、時間地平の「状況の定義」への還元が、包括的な価値変化として観察されたもの──ある部分では、非常に誤解を引き起こしやすい「ポスト唯物論者」というような用語──と一致する。(…)とりわけ、他者あるいはすべてのひとに対する怖れや関心という形式のなかで、不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった。たとえば、この時代は「仮面を剥がれた不安の時代」とさえ性格づけられたのである。

「第六章 現代社会の自己記述におけるトートロジーとパラドクス」p.128-129
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

いきなりなんだ、と思われそうですが、続けて抜粋します。

公共の問題として、不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する。すなわち、不安は議論されず、論破されず、また矯正されることもない。つねに、コミュニケーションのなかに確かなるものとして現れるのである。心配を表明しているひとに、「まちがっているのは君だ」と応答することは不可能である。それゆえ、不安は、そのように扱われるにたるものであり、また敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす。これは、コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、「新しい価値」に的を絞っていくこととして役立つ。

同上 p.129

本書は日々牛歩の如くちびちび読み、
反芻ライクに進みつ戻りつの悪戦苦闘中なのですが、
そうして日をあけて二度三度読むと何らかの意味が浮かんでくる、
正しいとは限らないがそのような経験が刺激になって更に遅々となる。

和訳に問題がある、とこれまで数え切れないくらい思って、
でもそれを悪態ではなく前提として想像力を駆使するわけです。
訳された単語(群)から原文を想像し、さらにその原文の訳出可能性を探る、
なんてことはせず、要するに文脈を意識して訳語から連想する。

と言いつつそもそもちゃんと読解できているかすら怪しいために、
その文脈というのは端的に僕がこれまで読んできて抱いたイメージです。
はなから正しい読解なんざ目指しちゃいません。
以上、言い訳と愚痴のアモルファスでした。

この1週間で抜粋箇所を三度読み直し、何かが見えてきたのでした。
何か、とても恐ろしいものが。

以下、抜粋部分には「」をつけて書きます。

 × × ×

「価値の領域」における「時間地平の『状況の定義』への還元」

これは本ブログで何度も書いてきた、無時間モデルの主流化のことだと思います。
株式会社的・四半期決算的な時間幅が未来思考のベースになっていること。
時が経てば解決すると思うのは怠慢であり、
未来のゴールまでの道筋を現時点で描き切ることを良しとすること。
様々な価値観の変化には、この無時間モデルへの信奉(服従)が伏流している、と。

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」
「不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する」

もはや、不安はア・プリオリな存在となった、と言うに等しい。
これは科学、とくに心理学や精神分析学の発達に関係していると思われます。
個人の頭の中や心の中、極私的で非客観的なものに科学の光が当てられた。
それは個人を救うという意味で革命的であったと同時に、
公共の普遍性を破壊する意味でも革命的であった(のではないか?)。

「不安は…敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす」

比喩でいえば、不安が市民権を得たというようなものです。
各種モンスターのクレームが、その内容を問われずに正当性を得る。

「コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、」
(このすぐ後の「新しい価値」というのは、まだ全く想像ついていません)

これが、立ち止まってうんうん唸りながら考えても意味不明だったんですが、
今日三度目に読んだ時に、ふと着想が湧いたのでした(これが本記事の執筆動機)。
この部分を言い換えるとメタ・コミュニケーションの成立不能状態ではないか。
あるいは、論理(知性・言葉)への信頼の毀損といってもよい。

同じ言葉を使っていてもコミュニケーションが成立しないことは、よくあることである。
前提が違う、言葉の意味を取り違えている、話を聞いていない、相手に興味がない等々。
両者とも言いっ放しで会話が進んでも、それは言葉の次元ではコミュニケーションではない。
けれど一方がその不成立の原因を探り、その原因について相手に理解を求めることができる。
コミュニケーションの成立・不成立に関わらず、その可否への問いは共通の土台となる。
私の話がわかりますかとこちらが聞けば、イエスなりノーなり、相手は答えるだろう。
言葉が、いやもっと広く記号(ボディランゲージなど)がお互いの間で意味を持てば、
次数を繰り上げたコミュニケーション、即ちメタ・コミュニケーションは必ず成立する。

と、思っていた、当のそれが、「不安のア・プリオリ化」によって、なにやら怪しい。
その理路を、どう考えようかと迷っていますが…
優先度の問題にすると単純化のし過ぎになるでしょうか。
不安すなわち個人の主観が、コミュニケーションにおける言葉の意味よりも優先される。
言葉が、主観に応じて意味が捻じ曲げられて読み取られ、また発せられる。
言葉の持つ意味は人々の共通理解であるという前提がそこにはない。
むしろその前提を多数の人が無邪気に信じていることを悪用できるという発想が生まれる。
こう書くと、ポストトゥルースやいけしゃあ虚言癖政治家問題とも繋がっていきそうです。
オオカミ少年が多数派を占める社会が想像できなければ、その実現を避ける術はありません。


そして、序盤の二つ目の抜粋のあとに続く部分を以下に引用しておきます。
予言ととらえるには抽象的すぎるのですが、
やはり僕には恐ろしいことが書いてあると思わずにはいられません。

イデオロギーは、素朴な価値推奨以上のものを差しだすことが、いつも求められてきた。それらは、認知上の構成要素、すなわち社会条件と社会問題の記述を備えていた。ことによると、いまや認知上の構成要素は、記述、「シナリオ」、世界モデル、一般的な招集などの選択を指示する不安の普遍的定式へと還元されえよう。この定式は、独自の任意性を見つけるまえに、社会の自己記述を終結させるであろう。

同上 p.129-130

意味不明な箇所ばかりなのですが、「不安の普遍的定式」という一語にウッときました。

哲学にはかつて、普遍的な正義の形を探求した時代がありました。
ポストモダンがその営為の不可能性をさんざんあげつらいましたが、
それでも正義を探求する姿勢・プロセスそのものの価値は損なわれていません。
人も資源も環境も有限と知れた国際社会において、異文化間の利害は当然対立します。
利害関係が完全に調停することがなければ、末長い調整プロセスそのものが誠意となります。

普遍的な正義、それは実現すべき未来ではなく、
よりよき未来へ向けて歩むための導きの星として、
色褪せぬ輝きをいまだ放っている。

これに対置する形で突如認識させられたのが、
普遍的な不安という当の概念。

どうもこの字面が不吉に思えて仕方ないのは、ここに続く抜粋の文章のせいかもしれません。

というのも、
オートポイエーシス・システムにとって「自己記述の終結」が、
よいものであるはずがないからです。
 

(SRSその2)境界の盾、浸透の矛

 2 自己言及システムには、その基礎的作動に応じて異なるいくつかの類型がある。それは生命(…)、意識、コミュニケーションでありうる。そのような作動を混ぜ合わせることは不可能である。なぜならば、諸作動は閉じたシステムを仮定しているからである。(…)相異なった諸領域はもちろん、因果的に相互連結を内部接続している。とはいえ、それはたんに諸事実間の関係なのではなくて、つねにシステムとその環境世界との関係として組織されているものである。 (p.95-96)

相互連関として、諸システムは内在的、自然的、ないしは宇宙論的統一を有することはない。相互連関はただエコロジカルな諸関係なのである。エコロジカル・システムといったものは存在しない。(p.99)

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

 
システムとその環境世界。
図と地。
その相互変換性。
主客関係の倒立とその解消。

車窓から見える風景。
近くの電柱に目を留めると、後景のビルが動く。
遠くの山並みを見つめれば、平地の街並みが回転する。
図と地は交代可能であり、しかしイコールではないことを知っている。

自己言及システムは、閉鎖かつ開放されている。
細胞壁は境界を設定しながら物質を浸透させる。
矛盾の確立がシステムの作動と自己指示を担保する。
矛盾の起源は、無矛盾の擬制システムによる諸システムの規定にある。

矛盾は存在ではなく、定義である。