human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「TRAVERSES/6」を読む (2) - 言葉は社会を動かせない

 
2021.1.16追記

タイトルで言いたかったことが本文に尽くされないまま途絶しているので、最初に要点だけ。

仮説ですが、六十年代後半からの世界的な若者の運動、それに呼応する現代思想の躍動がバネにしていたのは、「強い(鋭い)言葉は社会を動かすことができる」という認識ではなかったのかと考えています。

それがどこで反転したかは歴史に疎くて言えませんが、実質より論理重視、いや「先に言ったもの勝ち」で論理的に見えせすればそれでよいという、現在あらゆる場面で見られる言説傾向は、その「強い・鋭い言葉信仰」の反動ではないか。

そしてその反動がもたらしたのが、
メタファーとか類推とか、読み手の想像力の自由を前提にした「曖昧な」言葉の軽視。
言葉の道具的使用ともそれは合わない、
なぜなら明確な目的も明示できる内容も持たないから。
人によって解釈が分かれたり、いくつでも意味がとれるような言葉はコスパ概念でいうパフォーマンスがない、正しくない(これだけは正しい認識だが)ゆえに実質がない、などと思われている。

言葉に対するこのような姿勢には、言葉は社会どころか個人を動かすものでもない、そして言葉において重要なのは「それっぽさ」であって、言葉が自分に響く前提にその言葉の「それっぽさ」との照合がある、といったニヒリズムが感じられる。

敗戦が戦前の価値観を全否定したように、言葉による社会改革の失敗を、言葉の無力という確固たる認識に転化したことを真摯な反省だと思ってはいけない。

言葉の原点を忘れてはいけない。

言葉には個々の受け手があり、
一人が自分の中に言葉を浸透させた結果として初めて、
「言葉は個人を動かす」。
それは対面でも、紙面を通しても、ネットを介しても変わらない。
 
 
これ以下の文章はかなり雑然としています。
「いつもそうやんけ」と言われると…沈黙。

 × × ×
 
2021.1.上旬

だが人々が支配者を「もはや愛さない」ということ──権力者のイメージがもはや父の、庇護者の、長兄のイメージと結びついたり混同されたりしないということ──はまちがいなく現代の最も確実な、最も希望のもてる成果のひとつである。つまり民主主義とは根本的に無機的なものであり、またそうあらねばならないのだ。その長所のひとつは、制度的関係と人間関係の、政治的絆と感情的依存との、また同意とヒエラルキーへの愛との乖離を維持しうる点にまさしく存在する。だがこの乖離を維持することは一見したよりはるかにむずかしい。実際、個人の関係も政治的関係もひとしく、仲間うちで「有機的な」相互依存を形成するという危険な傾向をもっている。それは関係そのものへの執着にほかならない。

グザヴィエ・ルベルト・デ・ヴェントス「意志と表象としての政治」p.100

通念とは逆の価値判断がいくつも配置された、難しい一節です。
ただ、その「逆」の説明論理が進むうちに別の通念と結合すると。驚きを覚える。

慣例や常識は社会でそのつど起こる集合的経験が生み出すもので、
時を経れば、また制度や法律が変わればその各々が対立することがある。
社会の自浄能力とは、社会がその対立を解消する、つまり慣例や常識を更新できること。
…社会を擬人化してますが、つまりは「そういう社会システムが設計されているかどうか」。


引用の内容に戻ります。

「無機的な民主主義」とだけ書かれると、なにか「冷たい社会」を思わせますが、
民主主義であれ何であれ、それが制度であるなら無機的であるべきである。
これは妥当な一般論であり、引用した文章のベースにある認識かと思います。

筆者が挙げる「維持しうる乖離」の三組は、対応する順番は前後していますが、
どれもその次文にある「個人の関係」と「政治的関係」の対の例であると読めます。
この後者は、集団関係、匿名性に基づく関係、などと読み替えればわかりやすくなる。
「個人的関係」も「政治的関係」も、複数の人間のあいだにある関係に違いありませんが、
前者にあって後者にないもの、それは身体性、身の丈感覚といったものです。

引用後半で、「有機的な相互依存」が「危険な傾向」であると指摘されています。
それが危険なのは、それが「関係そのものへの執着」に転化しやすいからで、
その転化を抑制するのが、先に挙げた身体性や身の丈感覚であると僕は考えます。

 「人間味のある政治」と言えば温かみがありそうでポジティブに聞こえますが、
 政治家が政治の場で人間味を発揮することは、実は誰も望むべきではない。
 政治とカネの問題、汚職事件は制度や法律の抜け穴が利用されている面がありますが、
 当事者は誰しも「人間味を発揮」することで不正に手を染めるからです。
 …これは別の話でした、また戻ります。


いや、戻ると言いながら引用を離れるんですが、
この論文集を読み続けていて、全体的に感じるところがありました。

論理をギリギリと研ぎ澄ませる、あるいは詩的表現を爆発させる。
内容はわからないながら、そういう強い意志を文章に感じました。
そしてその勢いがどこを目指しているのか、を考えました。

それはたぶん、
「社会を動かすための言葉」
を、見つける、創る、発する、
といったところにあるのではないか。

吉本隆明谷川俊太郎か忘れましたが、
「世界が凍りつく一言」という言葉を見た覚えがあります。
言葉にはそういう力がある。
そう信じられた時代は、確かにあったのだと思います。
それを無垢に信じた者こそ、その言葉の担い手にふさわしくあった。


そして今は、
そういう時代ではなくなったのだと思います。
では当時が適していたのかといえばそういうわけでもなく、
「言葉が社会を動かす」ことのリスクが、
ローテクの当時よりも情報化社会である現代の方が圧倒的に高い
ということです。


原理的に考えると、
言葉が動かせるのは、
ある言葉がその内で響いて行動を起こさせるのは、
人ひとりだけです。
言葉がひとつの意味を持つのは一人の人間の頭の中だけのこと。
この原理に従うならば、
言葉が社会を動かすというのは、
その言葉に感銘を受けた一人が、
ただ一人だけでなく沢山いる場合を指します。
あくまで、その言葉を受け取る「個人」がそこには必要だ。

ただ、そう、
言葉へのこだわりは、「言葉そのもの」へのこだわりに転化する。


「やってる感」という表現が最近よく使われています。
ちゃんと仕事をやっている、役割を果たしている、ように見えることへの執着。
この「ように見える」ことの主体は誰でしょうか?
「やってる感」を判断しているのは誰でしょうか?

特定の個人ではない。
おそらく、そこに「社会」というものを擬制している。
仲正昌樹のいう「みんな」でもいい。

便利で無時間的な現代社会の随所に配された「落とし穴」の先に待ち受ける、
この「もとの目的を離れた手段への執着」
というのが、
どれも危険な傾向に思えます。
リーズナブルに見えて、実質がどんどん骨抜きになっていく。
便利さの追求が、ほどなく易きに流れていく。


話をタイトルに戻します。

人を動かす言葉。
現代は、それが特定の個人を想定しないで生み出されています。

たった一人の人間だけを動かしてもペイしない。商業主義。

そして、そういう言葉にも人は学び、順応します。
「人を動かす言葉」とは、個人そっちのけでいかに「それっぽい」かである、と。

そして「個人そっちのけの言葉」がその人のためを思って個人に向けられる。
それに違和感をおぼえる人のほうが「人間味がない」と言われる。
順応は連鎖します。
 

個人と集団とは、「志向」が違います。

個人が目指すものと、集団が目指すものは、だいたいが対立する。
集団の維持が個人維持の前提にもなるわけで、そこで妥協するのはほぼ個人です。

ただ、個人の志向が全て失われるともはや個人でなくなるわけなので、
個人は各々「ここから先は"集団"には入らせない」というプライベート領域を確保する。
物理的には家(部屋)がそうだし、意識でいえば好き嫌い、価値観、考え方、等々。
 
どうも、「鶏と卵」でどれが最初かというのはわかりませんが、
現代は過去のどの時代よりも、「集団の志向」が個人に入り込んでいるように思えます。

個人の人権、プライバシーの思想などは個人の志向の尊重の流れに見えます。
学校の制服廃止、一家で一人一部屋なども、子供を個人として尊重する方針に見える。

ただ、こう書いていて気づいたんですが、
個人の意識のほうに「集団の志向」がどんどん侵食しているのではないか。
衣食住をはじめとした、物理的な条件や制度法律が個人を尊重するようになった反面、
「個人の領域」を確保したはずの一人の人の頭の中が、知らず集団志向になっている。

言葉が道具化していく傾向と相関があるかもしれません。


…また飛びますが、

未開の文明を下に見る西欧中心主義を覆すきっかけはレヴィ=ストロースですが、
そうした文化人類学等の学問の進展が進歩史観を突き崩してきたことがまた時を経て、
思想の自由の実質を失うこと(これは「退歩」です)への無関心をも生み出した。
進歩がないなら退歩もない、というわけ。


話がごちゃごちゃし過ぎています。
僕自身が深い関心をもつテーマがいくつも混在しているので、
また改めて考え直す機会が、必ずあると思います。
 
 × × ×
 

若い女の子が大好きで、浮気ばっかりしてたのだってそう。根っこはひとつよ。そういうドラマみたいなことばっかり続けてないと、生活していかれないのよ。そんなふうにしてはしゃいでいないと、生きてる実感がしないのよ。
 石津さん、あたしね、小さい時には相当に父に可愛がられたの。チヤホヤちやほや、宝物みたいに扱ってもらった。だからあたし、父が大好きだったわ 。父にとっても、あたしは自慢の可愛い娘だった。すっごく美しい関係でしょ? 父はあたしという娘じゃなくて、そういう美しい関係を愛してた。だから、あたしが幼くて自分の意思を持たなくて、お父さんの可愛い人形でいるうちは山ほどの愛情をかけてくれたってわけ。(…)」

宮部みゆき『R.P.G.』集英社文庫,2001

 
 × × ×
 

Metaphorical Multiple Reflection

 

「共通する3つのモチーフ」

  • あらゆるものを見、体験する旅。

  (内面と事物の創造的対応、象徴が現実を生むこと)

  • 無関心でいられないこと、理解欲は生命力。
  • 不可視にいたる門は可視であらねばならないこと。
「新たな問い」

  • 旅の終わりは変化の兆し。

  (そして旅は終わらないこと)

  • 知がかたちを始め、かたちが知を終わらせる。
  • 希望はつねに身近にあらねばならないこと。

 
 × × ×
 

類推の山 (河出文庫)

類推の山 (河出文庫)

世界が個人になってきた

 この理論は、非蓋然的なコミュニケーションを三つの基本的諸問題の諸側面に関して蓋然的なコミュニケーションへと変換する際に必要とされる一連の媒介物を包みこむ一般概念を要請する。そのような媒介物を「メディア」と称することとしよう。
「第三章 コミュニケーションの非蓋然性」p.55-56
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

これは第三章の「メディアの概念」の節の冒頭文です。

こんな面倒な調子で文章は続くんですけど、
回りくどさと断定キッパリさが並存して訥々と続くと、
そこに奇妙な説得力があるように感じられてきて、
見限って読み飛ばさず、立ち止まって考える気にさせられます。

そうして4ページばかりにうんうん唸っているうちに、
面白い考えが浮かんできたので、私的読解を織り交ぜながら、
そこまでたどり着けるようになんとか書こうと思います。


この節でルーマンは「三つの異なった種類のメディアの意義および作動範囲」への言及を通して「メディア」の分析を試みています。
と、この括弧書きは抜粋なんですが、こうして三つと言いながらその三つは具体的に明示されておらず、不親切なんですが、この本の原著タイトルが「エッセイ」なのでまあ仕方ないか…と思う箇所だらけですが(だから「翻訳が悪い」という可能性はとりあえず考慮外)、それはさておき。
僕自身の考えが膨らんだから、というヨコシマな根拠による僕の読解によると、その三つとは以下のようです。

  1. 記録(=有形化、空間に対する固定)
  2. 保存(=不変化、時間に対する固定)
  3. 「第三の種類のメディア」

この三つが並列されるような同位相であるかは疑問なんですが、ルーマンのエッセイは「既存の単語を既存でない概念・意味で用いる」ことが常態化しているので、とりあえずそこは深くツッコまないことにします。
この言語運用法は、言語(発話)の限界に挑戦し言語の機能を拡張しようとする一方で、表現された文章の一般性(文法や論理に従えば誰もが一定の理解や結論を得られること)を著しく損なう側面もあるんですが、この話もまたエッセイの別の箇所のテーマであって面白いんですが今は深入りしない。

さて、「第三の種類のメディア」についてはこう書かれています(p.57-58)。

第三の種類のメディアは、シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアといえるであろう。というのは、それらだけが効果的にコミュニケーションの目的を達成するからである。社会システムに準拠して、[タルコット・]パーソンズは、この種のメディアの例示として、貨幣、権力、影響力、そして価値コミットメントに言及している。さらにこのリストに、科学の領域における真理を、親密な関係における愛を付け加えたいと思う。

[このメディアは、]普及技術によって対面的相互作用の諸境界が超越され、情報について正確な知識をもたず、またそこにいあわせない公衆のために、またいまだはっきりとは決定されていない諸状況のために貯えおかれることを可能にする場合にのみ成立する。換言すれば、それらは、一般的に利用可能な書き記すという形式の[持つ側面である]より重要なる発明に依拠しているのである。

[ ]内は引用者付加

先に並べた三つの種類のメディアは、この引用にある「第三」の例示と性質を対照の基準として僕が考えたものです。
…いや、違いますね、すみません。
「第三のメディアだけが効果的にコミュニケーションの目的を達成する」というルーマンの断言をスタートに、ルーマンのいう「コミュニケーションの目的」を思い起こし(それはエッセイのもっと前半に書かれていたはず)、三つのうち残り二つはこれとは対照的な性質を持つだろうと仮定して、それに見合うものとして残りの二つを本節の文章から抜き出したのが上の1〜3です。

つまり、「第三のメディア」は、記録と保存が持っていない性質(「時間・空間に対する固定」に抗する趨勢)を持つものとしてその機能を効果的たらしめている、と考える。
すると、パーソンズルーマンが「第三のメディア」として例示したものが、(個人目線からは隠れていた)両義的な機能をもっている視点が得られる。

たとえば、貨幣、権力、影響力といったものは、これを扱う(特に他者より多く所有する)個人にとっては確定(固定)させたい対象ですが、これらメディアそのものとしては、それが個人に滞留するとメディアとしての機能は減じていくことになる。
「価値コミットメント」は、コミットメントの意味を関与や言及とすると、批評活動や議論・意見交換などを指すと考えられます。
つまり、ある存在価値に対する関与・言及によってその存在価値を変化させるムーブメントのことで、これはそのまま変化することがメディアの機能になります。
「科学の領域における真理」、あらゆる科学的言説は仮説であって反証可能性がその存在根拠であることを思えば、真理が「不変の真理」として固着してしまえばそれはメディアとしては死ぬことになります。
「親密な関係における愛」、この愛を共有する人々の意思はその不変と永続を願うものですが、幸せと同じく愛とは加速度(傾き)であり、元の形を留めないことがその状態の持続条件です。

…こうして例を検討していくと、「第三のメディア」というのはすべて、メディアの志向とその所有者の志向が逆向きのベクトルであることがわかります。
考えてみれば当たり前のことで、特にお金については昔も今もうるさく言われ続けていること(たとえば「守銭奴」と「金は天下の回りもの」)です。
でも、現代社会のことを考えると、「第三のメディア」に対するバランス感覚が崩れてきて、両者のうちの「所有者の志向」を強調、重要視する流れがあるのだと思います。


ルーマンは、文明の発展に伴うこの「第三のメディア」の種類の増大(社会システムの分化)が、コミュニケーションの諸可能性が増大する程度と相関するといいます。
しかし、コミュニケーションの普及や到達の可能性が増大することは、その成功(相手の理解やその行動変容のきっかけとなること)の非蓋然性を増大させることでもある。

社会システムの分化とは、たとえば学問や職業の専門領域の細分化による増大のことですが、そうして増え続ける個別領域(これはまた恣意性の増大でもある)をシステム内に取り込むには、「恣意性を、たえずさらに広範に制度化していく必要が生じる(p.59)」。

このことを、僕は「恣意性の普遍化」と読み替えて、なんだか二頭の牛に両手を繋がれた人間が引き裂かれるようなムチャな話だと思ったのとは別に、「そもそもこれは人間の志向そのものじゃないのか」とも思いました。

僕自身は橋本治森博嗣の著作を多く読み込んで感じるようになったことですが、専門性とか、自分自身のことを深く深く掘り下げていって、その先に普遍的な思考や価値観を見出すことが人間にはできます。
この意味では「普遍性」は「一般性」とは違います。
…すごくテキトーな言い方をすれば、普遍性は「よく考えればあたりまえ」、一般性は「表面的にわかるあたりまえ」。
世の中が回るには表面的な理解に基づいたスピードが必要でもあって、必ずしも普遍性は世界の現実(プラグマティックな価値観)に対して妥当であるとは限らないんですが、知性と時間への信頼に基づいた思考が到達するのが普遍性。
んーー、でもこれ余計な脇道でした。忘れてください。


話を戻すと、
ルーマンの論理を僕の関心に引きつけて解釈すると面白いアナロジーが出てきたという話で、

社会システムはその運用過程で「分化・特殊化に向かう傾向=恣意性の増大」と「制度化による秩序形成=普遍性の増大」という逆向きの二つの傾向を持つ、それは文明が発達するほど顕著になるもので、今世界で言われる様々な「二極化現象」をその現れと見ることができますが、その二極化のベクトルは一個人が内に抱え込んでいるものでもあって、個人においては身体性がそのバランスを取り持っていて、だからこそ「現代社会で取り戻すべきは身の丈感覚である」という言説が説得力を持つんですが(これは僕も強く同意します)、

世界が、文明が、自らの二極化傾向を顕著にしてきた現代というのは、
この世界文明が「一人の人間」としての姿を現してきた時代なのではないか。

そういう視点をもったときに、
「世界の中に生きる自分(個人)」が、
昔と今とでその感覚が随分と変わってくるなあ、と。


個人の感覚が変わってくるというのは、
それに応じて集団内で個人を律する道徳や倫理も変わらざるをえない、
ことも意味します。

それは「一人の人間としての世界」の自己破綻や自殺を防ぐために、
必要不可欠なことなのかもしれません。
 

「TRAVERSES/6」を読む (1)

 
20世紀末のフランス思想誌(の翻訳)なるものを読了しました。
テーマは、冷戦とか、共産主義とか、ポストモダンとか、第三次世界大戦とか…

世紀末の政治 (TRAVERSES)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

  • メディア: 単行本

近現代の世界史(=本書を読む大前提の知識)に疎い人間が手を出す本ではなく、
ただ「今村仁司監修」という文字(と価格の安さ)につられて手に取ったのでした。

正直言って難し過ぎて、1割も理解はしておらず、
わかる文章だけ拾おうと思って読み始めたのが…だいぶ前です。


なんとか橋本治本(難解でもわりと前知識無用)に食らいつくように読むだけは読んで、
おかげでわからんなりにスゲー! と思える人(ルーマンとリオタール)にも出会えて、
頑張った甲斐はあるにはありました。

記録として寄稿者を列挙しておきます。
少なくとも名前は聞いたことが…という人は下線。

 アレクサンドル・ジノヴィエフ
 ジャン・ボードリヤール
 クロード・ジルベール
 マルク・ギヨーム
 セルジュ・ラトゥーシュ
 ジャック・ドンズロ
 フランソワ・リオタール
 マルク・ル・ボ
 グザヴィエ・ルベルト・デ・ヴェントス
 マリオ・ペルニオラ
 フィリップ・キューヴァル
 ミュニッツ・ソドレ
 マイケル・マッカンレス
 ルネ・シュレール & ガイ・ホッケンゲム
 レックス・バトラー
 ポール・ヴィリリオ
 ベネッタ・ジュール=ロゼット
 ダリュシュ・シャイェガン
 ニクラス・ルーマン
 ルイ・マラン
 ティモシー・シモン
 シルヴェール・ロトランジェ
 パオロ・ファブリ
 今村仁司(監修者あとがき) 

内容について批評や分析ができるはずもありませんが、
今村氏があとがきで言ってくれているように、
自分の「関心に応じた素材」、思考材料として利用させてもらおうと思います。

 とりあえず、核心になると思われる論点を指摘したにすぎないが、本書の諸論文は、現代が直面する主題・課題・様相を多面的に提示している。読者はそれぞれの関心に応じて自由にこれらの論文をさしあたっての素材として利用されることを希望する。

「監修者あとがき」p.317
文末の日付は、1991年10月20日

…あえて抜粋する文章でもありませんが、背中を押してくれるようでもあるので。
なんだか学生の気分ですね、久しぶりの感覚。

ついでのちなみに、僕は(自称文系の)工学部出身です。高校は理数科(へんなの)。
学部時代の三度の文転(経済・文・法)は軽重あれど全て未遂に終わった過去を持つ。
 
政治思想や歴史の内容云々にはとっつきようがないので、
「言葉」の使われ方や意味などに反応していくと思います。
 
 × × ×
 

権力とは、自らが、あるいは人々が設定するその対象がしばしば幻想であったとしても、また個々人の同意がたいていの場合形式的であったとしても、行使されうるのだ。端的にいえば、権力はこうした限界内でのみ、社会的政治的形式の一状態を保つという展望においてのみ行使されうるのであり、このことがおそらくは今日の劇的変化の特性なのである。

クロード・ジルベール「契約の終焉」p.34

権力志向は、「上を目指す」と言われるように変化を求める形態もあるはずですが、
このように言われると、本質的に保守的な姿勢なのかもしれないと思います。
持てるものを増やしたいというのは、今持っているものを失いたくないことでもある。

そして対象が「幻想」や「形式」でも行使されると言われれば、
会社や組織に限らずあらゆるところに権力(を行使できる場面)があり、
それは対他的でないところ(つまり自分一人の事情の内側)にもある。

そう考えると、権力志向の増進は社会生活に「不変のもの」が溢れてきたことと対応する。
傍目には劣化しない生活品だとか、電子信号、データだってそうですね。
その傾向が「本人の意思に関わらず」という面もある。

だからこそ、その自覚が重要だと思うのですが。
 

オーウェルは文学作品[『一九八四年』]を書くことを通して、理論は官僚主義支配に抵抗しうる様式ではないことを示唆する。理論と官僚主義支配との間には、むしろ類似性ないし共犯関係がある。両者は共に、自らが関わる領域を完全に管理しようとするからである。(…)ところで、ヴァルター・ベンヤミンが指摘していたことだが、語り手は自らが語る世界に常に巻き込まれていく。それにひきかえ、理論家はどんな場合も、自らの対象を概念的に練り上げる操作に巻き込まれることはないのである。

フランソワ・リオタール「抵抗線」p.75

科学は政治利用されやすい。
そうして科学の皮を身に纏った政治は「他人事」風情になりがちですが、
その因ってきたる性質が政治ではなく科学のものだ、と考えられます。

また、「科学主義」という思想を考えれば、組織だけでなく個人の問題でもあります。
理論と官僚主義の類似性は、科学主義信奉者が管理社会を望む傾向をも示唆する。
それは、管理する側だけでなく、管理される側の人間にも当てはまるように思います。
 

瞬間と個別性とに対するこの殺戮との対照として、ヴァルター・ベンヤミンの『一方通行路』と『ベルリンの幼年時代』を構成する短い散文を援用したい。テオドール・アドルノであれば、これらの散文を「ミクロロジー」と名づけたことであろう。(…)ある言葉との出会い、ある香りとの出会い、ある場所との出会い、ある本との出会い、ある顔との出会い、こうした出来事を作り上げているのは、他の「出来事」と比べた場合のその新しさなのではない。こうした出来事はそれ自体で密儀の価値をもつ。それが知られるのはもっと後になってからでしかない。出来事は感受性にひとつの傷口を開いた。それが知られるのは、ひそかでおそらくは気づかれることのない時間性を刻み取りながら、その傷口がその後に再び開いたからであり、これからも再び開くからである。この傷口が未知の世界へと入り込ませたのである。しかも全くそれと気づかせることなく。密儀は何の手ほどきもしない。それは始まりを告げるのみである。

同上 p.78

美しい文章だと思いました。

「密儀」の価値、それは無時間モデルでは表せず、他人と共有もできない。
その価値を得るには、時間への信頼、あるいは時間への諦念を前提とする。

この消費社会で、「密儀」の価値を教えてくれるものが、あるでしょうか。
また、それを肯定してくれるものが。
 

 少なくとも二世紀にわたって、近代性は我々に政治的自由、科学、芸術、技術の拡張を欲するよう教えてきた。近代性が我々にこの欲望を正当化するよう教え込んだのは、この進歩が人類を専制政治、無知、野蛮、悲惨から解放するはずだと言われていたからである。共和国、それは市民たる人類である。この進歩は今日では開発というさらに恥ずべき名のもとで追求されている。しかし、人類全体の解放という約束によって開発を正当化することは不可能になっている。この約束は守られなかった。約束の不履行は約束の忘却によるのではない。約束を守ることを禁じるのが開発そのものなのである。新たなる文盲、南と第三世界の人民の貧困化、失業、意見の独裁政治、したがってメディアに影響された偏見の独裁政治、性能の高いものが良いとする法則、こうした事柄は、開発の欠如に起因するのではなく開発に起因している。それゆえに、もはやそれは進歩とは呼びようもない。

同上 p.83

太字部を最初に読んで、その表現に衝撃を受けました。
それで印をつけていたのですが、今抜粋してみて、考え込んでいます。
構造主義的発想なのはわかりますが、一体どういう意味だろう?
レトリックに気をとられて、具体的な内容を考えていなかったのかな。

「約束は守られなかった」、ただ未来にそれを達成する努力を続けている、
という目標を掲げているのなら、その達成により約束は守られるのではないか?
いや、そもそも「約束を守ることを禁じる」という言い方が、
その目標の実現性(がゼロに近いのだとしても)とは別のところを指している。
 
…たぶん「開発の正当化」というのが、僕がよく使う言い回しであれですけど、
「発明は必要の母」という科学技術観を指しているのではないかと思います。
つまり、目的とか用途は、発明が生まれたその「後にくっつける」ものだという考え方。
名目の曖昧な予算があって、それを(次年度も欲しいから)使い切るために使うのと一緒。

発明の、つまり開発の本質が「出たとこ勝負」なら、約束もへったくれもない。
 約束が(主体の意思の問題や不手際等によって)守れないのではなく、
 約束が(「開発の正当化」という前提によって)禁止されている、
ということだろうか?

文脈からすれば唐突な解釈ですけど…

(つづく)
 

ドーマルとルーマン、〈山〉の掟とアナロジーの集中力

 

 「おしまいには、とくに〈類推の山〉の掟のひとつを書きこんでみたいんだ。頂上にたどりつくためには、山小屋から山小屋へと登っていかなければならない。ところが山小屋をひとつはなれる前に、あとからやってきてそのはなれた場所に入る人たちを用意しておく義務があるんだ。そして、その用意がおわってからでないと、もっと上に登ってゆくことはできない。だから、僕らは新しい山小屋にむけて突きすすむ前に、もういちど下に降りて、僕らがはじめに得た知識を、別の探索者に教えておかなければならない……」

「後記」p.192
ドーマル『類推の山』

 
 × × ×
 

 定義。──登山とは、最大の慎重さをもって最大の危険に立ちむかいつつ、山を歩きまわる技術である。
 ここで技術と呼ぶのは、ある行動を通じてある知識を遂行すること

「覚書」p.200
引用太字部は本文傍点部

 私よりもずっと経験ゆたかな仲間が言う。「足が言うことを聞かなくなったら、頭で歩け」と。その通りだ。なるほど物の道理にかなってはいないが、よくあるように足をつかって考えるよりも、頭をつかって歩くほうがましではないか?

同上 p.205

 ちょっと滑ったり落ちたりしたときは、一瞬でも休んだりせず、むしろすぐ起きあがって歩行のリズムをとりもどせ。転落の状況は記憶によくとどめておくが、体にその記憶の反芻を許してはならない。

同上 p.205

 あてずっぽうに進むときは、もとにもどってこられるように、通る道になにか跡を残しておけ。石を重ねておいたり、棒で草をなぎたおしておく。けれども先へ進めない場合や危険なところに着いたら、きみの残した跡を追ってきた人を迷わせるかもしれないと考えるべし。(…)たとえそうするつもりはなくても、人はいつも足跡を残してしまうものだ。同胞の前できみの足跡に責任をもて。

同上 p.207

 
 × × ×
 

 頂上への道をしっかりと見つめつづけ、だが足もとを注視することも忘れるな。最後の一歩は最初の一歩に左右される。頂上が見えたからといって到着したつもりになるな。足もとに気をくばり、つぎの一歩をしっかりと支え、だが、もっとも高い目標から目をそらすな。最初の一歩は最後の一歩に左右される。

同上 p.206
引用太字部は本文傍点部

 それゆえ、意味は要素の非安定性に基礎づけられなければならない。べつの言い方をするならば、意味は、動態的システムの資産であるということである。こうした基礎的な前提条件は、現実性の非安定性と呼ぶことができるもののなかに再現される。この現実性における意味ある経験の焦点というものは、それがあるところの場所にはとどまれず、移動しなければならない。意味の構造は、この問題に関わる現実性と潜在的可能性との差異にもとづいている。この二つの部分からなる構造の機能は、確定的ではあるが非安定的な現実性と、非確定的ではあるが安定的な潜在可能性という交互に生起する集中力を組織することとなる。事実、われわれは世界に対して、非安定性か非確定性をもって、接しなければならない。つまり、安定的な確定性をもつことはできないのだ。しかしながら、非安定的な確定性と安定的な非確定性という正反対の問題を関連づけることによって、状況を展開させることができる。この関連は、意味として生じ、好結果の意味のヴァリエーションと文化的淘汰によって進化するのである。意味のこの進化は、複雑性の増大に帰着するように思われる

「第二章 複雑性と意味」p.46-47
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

ドーマル、多和田葉子、橋本治と「メタファーの力」

 
ルネ・ドーマル『類推の山』を、その本編を読み終えました。

未完の遺稿というのが惜しいです。
何も知らずに、それからまだまだ続くはずの「……」で章が終えられた次の白紙のページに出会って、呆然となりました。
そして、
ただ、それはもう、そういうものなのだと。

ドーマルは詩人なのだそうです。
 
 × × ×
 
今の時期、新聞記事などを見ていても、心にいちばん響く言葉は、
詩人や文学者の言葉であることが多い。

それは彼らが、ふつうの人たちがこれまで考えてこなかったことをずっと考え続けてきた人々であり、
そして「ほんとうに必要なものをあらためて選び直す」絶妙のタイミングであるこの時期に、
彼らがその身を通じて考え続けてきたことが、
ようやく僕たちにも身に染みるようになった、
からなのだと思っています。


何日か前の毎日新聞の寄稿記事で、
ドイツ在住の作家である多和田葉子という人の文章が載っていました。
…記事の写真を撮っていたつもりが無かったので記憶で書きますが、

「メタファーとしてとらえればコロナウィルスは尊敬すべき存在である」

と。そしてそのこころは、
自らの性質を変えて(つまり変異種となって)、
宿主をとっかえひっかえして生き延びるウィルスは、
それほどまでに「したたか」であると。


いや、コロナウィルスを尊敬すべきだとか、コロナ禍はやれ好機である天罰であるとか、そういう言い方を不謹慎と告発することは簡単で、その告発が自分のためではなくコロナに苦しむ人々のためであるという使命感に酔う選択肢もありふれていて、それでとばっちりの炎上という迷惑を被る少数の人もいれば溜飲が下がって日常をなんとか生き延びる活力を得る多数の人もいる。

それはなぜか、なぜそんなことになっているのか、
その理由を問うことには、
いや、問題提起そのものはいつだって重要であるはずなのに、
ここではもはや意味をなさなくなってしまったその理由とは、
「ただそうなってしまっている」という、ただそれだけのこと。

通常言われる「生産性」と、
僕が重要だと思う「意味の生産性」はたぶん別物で、
その後者の観点からすると、
「ただそうなってしまっている」その場から抜け出るほかは、
そのことになんの意味もない。

”制度の中にいるもの”とは、すべてが”その制度”を作り上げた権力によって成立させられているものである。だからして、”そういう置かれ方をしてしまった自分”を自分に許してしまったものには、一切権力に対して文句を言う筋合いも権利なんかもない、ということである。たとえそれが”名もない庶民”であろうと”豪壮な邸宅に蠢く陰の黒幕”であろうとも。(…)権力によって成立させられた制度の中にいる人間達は、結局のところ、その制度が壊れないような、安全な文句ばっかり言っている。自己嫌悪で口がきけなくなるまで──。ここら辺は、親の悪口ばっかり言っている子供、夫の悪口ばっかり言っている専業主婦とおんなじである。

「その後の江戸──または、石川淳のいる制度」p.418-419
橋本治『江戸にフランス革命を!』青土社、1989


話を戻しますが、
詩人や文学者という人々は「メタファー」の力をものすごく認めていて、
それは「自分が変われば世界が変わる」というコペルニクス的転回の原動力であり、
それだからこそふつうの人々がふっと聞き流してしまうような一言に全身全霊をもって挑む気概を持てるのですが、

 多和田氏がコロナウィルスを「したたか」だと言った、
 でもそれは実は、
 「人間はそんなウィルスを尊敬さえできるほど”したたか”である」
 ということも言っている。

 というより、
 人間もそれほど「したたか」であると信じている、
 と言っている。

そういう風にメッセージを受け取った時、
日常生活で増えた些細な不都合に戸惑う思考の表面、
とは別のところから、
よくわからないが何やら力が湧いてくる。

「それ」にとりすがって、ご利益があるわけでもなく、
「それ」をそのまま実生活に応用できるかといえばそうでもない。

でも、ふっと心が、底のほうからふわっと軽くなる。

「ある言葉」と、
その言葉を身に受け入れ染み込ませた、
「ある知性」によって。

それが、メタファーの力
 
 × × ×
 

 ルネ・ドーマルは生涯のおわりに、まだその探究ははじめたばかりだったけれども、高く鳴りひびく音とうつろな音とをすでに聞きわけていた。その区別をさらによくわきまえて、たとえ中断されていようと、いや何よりも中断されているからこそ、その道の何たるかを知ることができたらいいのだが。
 もっともその道の標石は、簡明で正確なかたちですでに与えられている。私あての最後の手紙のなかの一通に、つぎのような言葉で表されているのだ──

「いまここで私とともに励んでいる人たちに理解してもらいたいことをこんなふうに要約した。
 
 ──私は死んでいる、なぜなら欲望がないから、
 私は欲望がない、なぜなら所有していると信じるから、
 私は所有していると信じる、なぜなら与えようとしないから。
 
 与えようとすると、何ももっていないことがわかる、
 何ももっていないことがわかると、手に入れようとする、
 手に入れようとすると、自分が何ものでもないことがわかる、
 何ものでもないことがわかると、何かになろうと欲する、
 何かになろうと欲すると、見えてくる。」


「後記」(ヴェラ・ドーマル)p.193-195
ドーマル『類推の山』巌谷國士訳、白水社、1978
引用下線部は本文傍点部

本のタイトルが示す通り、
冒険小説であるこの本にはメタファーが溢れています。

語り手とその師は現実にメタファーを看取し、
メタファーが新たな現実を拓く。
後者の「メタファーが現実に作用する」という点は、
僕らの日常で実感しにくいものです。

メタファーがいいスパイスになって魅力を放つ小説は数多ありますが、メタファーそのもの、その作用が物語の肝であり、冒険の進行の鍵を握る、というメカニズム(物語の原動力)は、展開に荒唐無稽な面があっても気にならない、すなわち表面的なリアリティを圧倒するほどのパワフルさがあります。

 それはまた、かつて初代[歌川]豊国に於いて、現実には”一人”しか存在しない女性像が”女方”という型枠を使って”それぞれに違う個性をもった女性像”を生み出したことに等しい。[歌川]国芳に於ける”大星由良之助”は、豊国に於ける”女方”という既定の対象に等しい。論ずべき実在の人物がいなければ、論ずる架空の人物を実在させる。論ずべき実在の人物がいないというような時代もあったのだ、女性が”理想の女性”というフィクションの中にしか存在しなかった時代があったように。リアリティーというのは、だから、”実在させてしまえる技術”のことを言う。

「安治と国芳──最初の詩人と最後の職人」p.406-407
同上

 
ここで再び、
メタファーの力とは何か。

それは「言葉が持つ力」ではあるが、
「言葉だけが持つ力」ではありません。
あるポテンシャルを秘めて目の前に差し出された言葉、
その言葉に実質を与える「受け手その人の力」も含まれます。

だから例えば、作家の提示したメタファーは、こうも言える。

その作家とある読者とのコミュニケーション(の成立)であり、また、
その作家とある読者とのコミュニケーション(のすれ違い)でもある。

メタファーを最終出力として、自分の言葉として差し出す表現者は、
その受け手の解釈の自由を尊重し、そして解釈の飛翔を信頼している。

だから、
きっとそのコミュニケーションが「成立」したか「すれ違った」か、
そんなことはどうでもよく、
ただコミュニケーションが「発生」したことを無上の喜びとする。


僕は一時期、「言論の尽くされたネット上のクラウドストレージ」というイメージを抱いていました。

 自分がなにか「新しい」と思ったことなど、
 どうせ誰かが既にどこかで言っている。
 検索して出てくるのと同じ言葉を、
 自分があらためて書き加える意味などない。

その頃はウェブ上に玉石混淆で無造作に増殖する情報に対して、
「人類知の蓄積」といった過剰に神格化した見方をしていたのでした。
大学生の時分だったかもしれません。

そして、その見方は本格的に読書に没頭するようになって、解消されました。

情報化された言葉は、情報としての力しか持たない。
その力は不変性にあり、別の見方をすればそれは「死んでいる」。
「死んだ言葉」が実際的な効力を持つ社会(現代)は存在するが、それは普遍ではない。

言葉には「生きた言葉」もあり、言葉は人のなかではじめて「生きる」。
「生きた言葉」が社会活動を担っていた社会はあったし、それは歴史に終わるものではない。
 
 × × ×
 
人と直接会うことにネガティブな印象が生まれた事態、

その機会を「直接会わないでも言葉を交わせる仕組みの構築」にだけ向けるのではなく、
「過去に受け取った言葉」と「いま身の回りにある言葉」を内にじっと馴染ませる時間に充てる、
道具としてではなく、効率や生産性とも無関係に、
自分を見つめ、また自分の思考や価値観の変化を導く、

そのように言葉と触れ合うきっかけとすることができれば、
世界はコロナ前より、静かに落ち着いた姿勢で、
地に足を着け直すことができるでしょう。
 
 × × ×

類推の山 (河出文庫)

類推の山 (河出文庫)

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

  • 作者:治, 橋本
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本

ゆくとしくるとし '20→'21 3 「図書館をつくろう」

 
正月は毎年テレビばかり見ていて、目が痛いです。
ただ普段全く見ないので発見はいろいろあります。

NHKの「100分de名著」だったか、
萩尾望都の特集を見ました。
銀の三角』と『11人いる!』は何度も読んでいて、
でも『ポーの一族』はちらりと読んでよくわからないまま放り出していました。
番組を見て、『バルバラ異界』を読んでみたくなりました。
(シュールコメディだという『イグアナの娘』は「イパネマの娘」のシャレですね)
その出演者の対談とインタビューで、著作者の肉声などを初めて知りました。
斎藤環夢枕獏は顔も初めて見ました。
斎藤氏は中沢新一に似てるな…と「誰に似てるか」という発想しか浮かびませんが。
ヤマザキマリは写真でしか知らなかったんですが、予想外に声がハスキーですね。

 × × ×

書き始めたところで「相棒」の再放送が始まりました。
昨日から全部見てるんで、これも見ちゃいます。

15:37

 × × ×

「天気の子」見ました。
青春ですね。

去年一年はどうだったか?
それは、しようと思えば一文で表現できます。

 ひたすら登り、ひたすら読む。

それだけ。

 × × ×

来年の抱負を言う前に、少し言い訳。

今年の暮れに、登っていて強傾斜で背中から落下して首を痛めました。
油断が3つくらい重なった末の事故で、同じ過ちはもう繰り返しません。
一本歯遍路でさんざん身に染みていたことだったんですが、

 身体性をフル稼働させるには考え事をしてはいけない。

それだけ。


一週間で治るかと思って医者にもかからなかったんですが、
二週間でなんとなく緩和したと思って登りに行ったら、
それから回復が止まり、なんとなく倦怠感が出るようになりました。

もっと軽い打ち身くらいに思っていたんですが、
頭を打った時の衝撃を正直に思い返すと、むち打ちだったようです。
過去に家族が交通事故で同じ症状によって身体不自由になったので、
そこから目を背けていたんですが、たぶんそれもここまで。

症状と治療法を調べて、
一度整形外科に行って診断してもらいつつ、
効くらしい漢方(桂枝茯苓丸)もあるので試してみます。
治さないと、次が始まらない。


今回の事故で身に染みたんですが、
身体主軸で生活をしていると、
その身体が不調を来すとその生活がガタガタになります。
身体の周波数に思考を同調させていると、
身体の波の乱調によって思考も不安定になる。

だからこれは代償でもある。
細かい事情に振り回されずに充実感が得られる状態があるのだとすれば、
その状態は前提が崩れれば、細かい事情では覆せない常時の低調に陥る。
脳化社会ではリスキーな(リスクヘッジの効かない)姿勢かもしれない。

まずは治す、まずはそこから。

 × × ×

上記の通りで、今は登りたいという気が全然起きない。
登らない期間が延びればそれだけ指も身体も弱くなりますが、それは仕方がない。
治ればまた以前のように「登らずにはいられない感覚」が戻ってくるかも分からない。
そんな状態で考えることではないかもしれませんが…

夢があります。

「実現にはほど遠い希望」という意味ではありません。

「やりたいことをやる」というよりは、
「やりたくないことをやらない」を重視し、
また、内容(結果)よりも状態(過程)を重視するという、
自分の生活思想に合致する生計を立てる方法、
その第一候補、という意味です。

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「私設図書館つきのボルダリングジム経営」、
店名は「晴登雨読」
略称BBCBouldering, Book and Coffee)。
以下はそのおおまかな方針。

図書館については、
ジムと共通の会員カード作成料を除けば無料で利用できます。
貸出資料は一人最大3冊、貸出期間は最大4週間で延長なし。
読書相談や選書など、本に関する相談はなんでもOK。
ただし読書感想文の代筆はしません(図書の推薦ならします)。
閲覧エリアは飲食持ち込み可、店内注文はコーヒーのみ。
コーヒーはブラックと週替わりのスパイスフレーバー数種。
(人を雇う余裕と需要如何によってこの点、充実の可能性あり)

ジムエリアについては、
初~中級者向けのレベルを中心とした課題(自分一人でセットするなら)。
「武道的ボルダリング」の実践となるような、全身・体幹系、バランス系を重視。
ラインセットではなく、長物を含めた課題数とバリエーションを優先させたセット。
そしてトレーニングをせずに、普段から登るだけで上のレベルを目指せる課題。
そしてそして、普段登っていれば、普段の生活の身体作法が変わっていく課題。

内装は建屋によりますが、
入り口近くor/and吹き抜けの2階に書架と閲覧&飲食テーブルを置いて、
ジムエリアの壁はスラブ(←必須!)も含めてひとつながりが理想です。

いちばん重要なのは立地で、
もちろん当てはまったくありませんが、
おおざっぱに言うとジムが乱立する都心部以外のどこか。
需要さえあれば、人の少ない地方であるほど個人的にはありがたい。
また読書や本に理解のある自治体だと、地域となにか協力ができるかもしれません。

イチから、たとえば土地の購入から始められるほど資金はないので、
元工場だとか、既存の建物を改装して利用するのが現実的だとは思います。
なんとなく、いやこれは非現実な妄想ですが、
瓦屋根に漆喰、そして線香の香りが漂う寺社ライクな建物が好みだったりします。
書架の本の活用方法次第ですが、寺子屋的な活動ができればやってみたい。

BBCのテーマも大切なことで、
本とクライミング有機的にリンクすることをちゃんと言葉にしておきたいんですが、
これはまた時を改めることにします。

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

じっさいのところ、僕のボルダリングの実力としては、
中級と上級のあいだ(の中級に近い方)くらいで、
大阪のジムのレベルでいえば3級がちょうどよいくらい。
なので、たとえばスラブや垂壁なら1級課題は作れてもそれ以外では無理。
そして指が強くないのでその課題の傾向もずいぶん偏ったものになる。
さらに今回のケガでブランクが延びるとそれだけまた弱くなっていく…

と、言い訳はいくらでもいえるんですが、
まあ大事なのは実力よりも意気込みの方であって、
ジムをいざ作るとなって、
そこに強い人が来るのであればゲストセッターを呼べばいいだけのこと。


実は去年の暮れから「立地探し」をちょくちょく始めてはいて、
熊野古道の旅もそのきっかけ作りで、そういう目で和歌山の新宮市街を散策しました)
自分でいい街を見つければそこで伝手を探すし、
あるいはどこかから話が舞い込んできたらまずは話を聞くつもりです。

とにかく縁は大事に、
志はしっかり奥に秘めて、
そして焦らずゆっくりと。

 × × ×

僕にできることは、まだあるかい?」

あるさ。
「まだ」なんて言わず、いつだってあるさ。

25:27

ゆくとしくるとし '20→'21 2

 
今年ははちまんさんへ登ってきました。

去年は面倒くさがって行かなかった気がするんですが、
それまで毎年行っていた元日の初詣を再開したという感じです。

年の変わり目に間に合わせる気もなく、
新年10分前に家を出たので道中で新年を迎えました。
近くのお寺なのか、付近の家のテレビの音なのか、
除夜の鐘らしき音を聞いた気がします。


本宮までの50分の道中、山道に入るまでは見かけた人は一組、
電灯なしで月明りと共に歩む山道では三組の人とすれ違い、
それぞれこちらから声をかけ、挨拶を交わしました。

何年か前は、挨拶をする雰囲気かどうかをすれ違う間際に察知する、
という器用な(というか神経過敏ですが)ことをしようとしていましたが、
雰囲気はもともとあるだけでなく当事者がつくりだすものでもあるわけで、
これまではその当たり前にあるはずの当事者意識が欠けていたようで、
というか今日はそんな面倒なことを考える発想もなく、
素直にこちらから(多生の縁の)雰囲気づくりをつくる姿勢になっていました。

それはたぶん、歩くことを身体が楽しんでいたからだと思います。


思えば去年の一年は自分の身体に正直になる生活を心がけていました。
頭が身体に従属するようになれば、頭は余計なことを考えなくなる。
それは日常的に歩く時間が多い生活の中で体得した感覚でした。

身体感覚が目覚めれば、すなわち身体が開放されていれば、
視界に入ってくる景色やものの見え方は変わってくるし、
その視覚に対して反応する脳の活動も意識的なものとは変わってきます。
そのなにが変わるかというのは、
考え事をしながら、たとえば俯きながら歩く時と、
歩くことに集中して、空を見上げながら歩く時とで、
ふと目に入ってくる(同じ)ものに対する見え方や考え方を比べればわかります。
身体感覚の云々は、当然ですが体得するのが唯一のアプローチ方法です。


今日は月が明るくて、歩きながら空ばかり見ていました。
ほんとうに、前を見るのは注意確認だけで、ほとんど見上げながら歩いていました。

加藤幸子の『ジーンとともに』という短編集は、鳥が主人公の短編がいくつかあります。
小説の中なので、彼らはもちろん言葉をしゃべるわけですが、
ある短編でその鳥たちは太陽を「光る輪」と言い、月を「死んだ光る輪」と呼ぶ。
もちろん月は太陽の明るさに比べれば死んでいるも同然の暗さなわけですが、
そうはいっても月明りだけで山道を歩けるほどのこの明るさを「死」と呼べるものか、
などと考えていました。
たぶんその鳥たちは基本的に夜はほとんど活動をしなくて、
たまたまアクシデントに遭遇するなりして夜に空を飛ぶことがあって、
あまりの暗さにそういう印象を持ったのかもしれない、などと。


そういえば、家を出る時にメガネは(ケースなしで胸に入れて)持って出たんですが、
財布を忘れました。
途中のコンビニや自販機で何か買う気は全くないのですが、
賽銭を納める気も同様に全くないことを、
意識したことはなかったんですが今回の忘却において改めて意識させられて、
うーんこれは初詣なのだろうか、
と思ってもよかったんですが、
まあそんなことは今書いただけで、考えはしませんでした。

ネットおみくじだとか、正月を外しての分散初詣だとか、
密を避けるための「なんでもあり」がもはや伝統そっちのけレベルで、
何を初詣と考えるかは個人の自由だ、などとテレビで専門家が言う始末で、
まあそれは別にどうでもよくて、
というのもこんなことになる何年も前から、
僕は「個人の自由」で無賽銭初詣になっていました。


本殿の人出は例年より少ない気もしましたが時間帯の違いかもしれず、
若者が多いような気もしましたが気のせいかもしれません。
ただ、高校生以下の若い人は家族連れでなければほぼ集団で来ていたのと、
その集団は「自分が集団の一員であること」に一生懸命で、
周囲への注意力が散漫になっているという印象を受けました。

それが不真面目だとか社会性に欠けると言いたいわけではありません。

彼らがその集団から外れた一瞬に見せる純朴さ、素朴さを垣間見る瞬間があって、
彼らは「一生懸命に周囲への感度を落としている」のではないかと思いました。

鈍感になることに集中するという、
矛盾なのか徒労なのか、何かやるせなさを感じてしまう努力なのですが、
それが彼らの日常生活の必要から出た生存戦略であるという点で、
複雑な時代になったものだと感じます。
(この機制については内田樹の『下流志向』に詳しい)


いや、そんなことを歩いている間は全く考えておらず、
頭からっぽで月を見、山道の闇を見、
国宝だという本殿の建屋を見、本殿裏で根を砂利地に這わせた古松の幹を見、
無心に薪をくべる焚火番のおじいさんの横顔を横目で見、
そうしてあたりでいちばんの生命力を放ち続ける焚火の中心部、赤々とした熾火を見、
火の粉の匂いをマスクを付けたり外したりを繰り返しながら嗅ぎ、
そうして焚火のそばにいながら例年していたような考え事はまったく起こらず、
わずかにジャック・ロンドンの『火を熾す』(まだ読んでいない)を連想しただけで、
この熾火が未来のなにかにつながる可能性だけをその場で感じ取っていました。

そんな2020年の終わりと、
そして2021年の始まりと。

 × × ×

みなさま、よいお年を。

そして、あけましておめでとうございます。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

chee-choff

ゆくとしくるとし '20→'21 1

 
一年を振り返るというとき、
今年は社会的にはコロナ問題で埋め尽くされていましたが、
僕自身はその影響を直接受けたというよりは、
そのニュースに触れて考えさせられることがとても多かった。
だから、書くならそういう話になる。

というより、今年書いてきたブログをタイトルだけ見返してみましたが、
基本的に自分の頭の中のことが書かれている。
なので、書くならそういう話になる、
か、もしくは「なぜそういう話になるか」という話になる。


僕が書く文章の宛先についてですが、
僕は具体的な名前を持った人へ向けて書いているわけではない。

「香辛寮の人々」という会話調の文章を書いた中のいくつかは、
その時深くコミュニケーションをとって何がしかの感慨を得たその人、
を会話の登場人物に想定することが同時に僕の文章の想定読者にもなって、
そういう文章はやけに具体的だったりメッセージを帯びていたりしました。

でも基本は想定読者はいません。
前はそれを「未来の自分が想定読者」と言ったりしていましたが、
今あらためて考えてみると、それもまた違う。

この文書をコミュニケーションととらえるなら、それは投げっぱなしのボールです。
ただ、相手キャッチャーのいない投手は、投げる一球に神経を張り詰め、
自分の投げた球筋から何かを得ようと必死に目を凝らしている。
次の一球は今のそれとは違うものになるはずだ、いや、なるべきだと思って。


なので、「この文章の宛先として自分は含まれているのか?」という判断を、
読者ご自身にしてもらうことになります。
それが不親切であると言われて別に否定はしませんが、
書き手の親切の有無とは別の問題として、
そもそも読み手としての意思の中にその判断が当然に含まれているはずです。

文章を読むとはそのように、目の前の言葉に対して自分の身体を曝露するものだと。
そうでないと、読むことで自分を変えることなどできないのだから。

 × × ×

前に鈴木大拙の『日本霊性論』を読んでいる時に、
現代日本平安時代の再来ではないかという想像を膨らませていたんですが、
この年の暮れから読み始めた橋本治の『江戸にフランス革命を!』の影響で今度は、
日本どころか世界中が「江戸化」しているという妄想を現在抱いています。

アレクサンドル・コジェーヴという人が「世界の日本化」を言った時に、
その日本とは平安時代の貴族文化を源流に見た形式至上主義を指していましたが、
こんどの「世界の江戸化」はそれとはまた違う…いや、根っこは一緒かもしれません。
詳しくはハシモト氏のその本を引用しながら書きたいんですがざっくり書くと、


江戸時代に平和と停滞が三百年の長期にわたってあったわけですが、
それは変化がないという意味ですが、つまり時間軸における「未来」がない。

で、「未来」が存在しない江戸町人の生活を象徴する歌舞伎の論理によると、
「未来」のない時間軸においては「過去」と「現在」がカオスに入り混じる。
そのカオス時間におけるリアリティは「過去」と「現在」の混濁そのものにあり、
その混濁は日常と非日常の境界を無効化してその両者の行き来も縦横無尽になる。

歌舞伎の論理とは「無意味の論理」ということらしいのですが、
上記のような「無意味の論理」を娯楽として当然に受け入れる江戸町人というのは、
そもそも彼らの生活における時間軸がそのようなものであるからであると。

で、「無意味の論理」というのは「意味を無効化する論理」でもあって、
"既定"の未来に向けて過去も現在も捏造してしまう時間感覚というのが、
未来の未知性を否定する面でまさに「未来」のない時間軸とイコールであって、

つまり極私的ネオリベラリズムの発現形態であるポストトゥルースを思想と呼ぶならば、
それがそのまま日本の江戸時代の歌舞伎論理に通じてしまう。


…と思って『江戸にフランス革命を!』を読むと本当に発見だらけで面白いですよ。

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

  • 作者:治, 橋本
  • 発売日: 2019/06/26
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 × × ×

いや、上の話を、どこかでコロナの話とつなげようとは思っていたのです。
今日、というかさっきの24時までNHKでやっていたコロナ特番、
世界中でコロナ禍を記録するために自撮りした映像の総集編、
を食い入るように見ていました。
それについて思うところが、なかったわけではないのですが…

明日続きを書く時に、その気になればその話をしましょう。

「権力を取らずに世界を変える」個人編

 
下記引用の太字と傍線の意味は、文脈上の種類の違いです。

 何十年もまえから、科学的研究は、もはや疑いのない正説という指針のもとに行われることはなくなった──とりわけ、認識理論および科学理論においてそうであった。一般に受け入れられた方策は、「プラグマティズム」である。すなわち、真理および知識の増大に関する唯一の基準は、結果だというのである。これは、あきらかに理論における循環性の拒否と、その実際上の容認にもとづく自己 - 言及的循環的論証である循環性を回避しようとすることが、ますます見込みのない立場をとることとなる。つまり、パラドクスである。それは、有罪を宣告された解決方法が、いまにも容認された理論になるという、パラドクスそのものを示しているように思える。

『自己言及性について』p.30

 
引用中の「プラグマティズム」は、すぐあとに説明がある通りの意味で、僕は狭義のそれと考えています。

僕がブログで書く「プラグマティズム」は、その都度というわけではないが新しい意味を見出すというか意味をどんどん広げたい意図があります。
結果主義、また実用主義と言い直される時の「結果」や「実用」とは、時代によって、文脈によって、また個人個人によってその意味するところが変わるものであるだろう、と。

狭義のそれは、「結果」とは誰も疑いのないもの、価値のはっきりした共通認識であって、その認識によって我々(活動する社会集団)は同じ目的(社会の発展、科学の進歩等々を共有でき、その目的に邁進できる、という効果があります。

現代社会でいえば、その「結果」の主要例はお金ですね。
その推進力に頼りきりで、価値観に対する反省(つまり「自己言及」)をしなかった、少なくとも重要視しなかったプロセスの進行が、価値観の多様性の喪失、そして統一(「拝金主義」)である。

この状態を、さらなる飛躍の真っ最中ととらえるか、社会の停滞期ととらえるか、価値観として両方があり得ますが、社会の趨勢が前者に傾いていることは明らかで、それは自己言及性の欠如が続いているということであり、「自己言及性の欠如」がポジティブフィードバックとして現状追認の推進力になっているという水準でみればこれは「自己言及システム」の駆動そのものである(ややこしいですね)。


引用部に話を戻すと、

「自己言及(性)」と「循環(性)」の違いにはあまり敏感でなくてよい気がしますが(たぶん同じ現象を各々別の視点からみた結果の表現の差だと思います)、狭義のプラグマティズムに対するルーマンの表現に「なるほどなあ」と思って、その感動から何か書いてみようと思ったのでした。
その部分を再掲します。

これは、あきらかに理論における循環性の拒否と、その実際上の容認にもとづく自己 - 言及的循環的論証である。

前者の「理論における循環性の拒否」とは、「結果とはなにか?」「実用とはなにか?」という、目的の価値そのものへの問いを封印(禁止)する、その問い自体は無価値であるとする、ということです。

いっぽう、後者の「自己 - 言及的循環的論証」は何を意味するのか。
こちらは解釈が入るというか、前者よりも理解のための補助線が多くなるんですが、一言でいいかえるとトートロジー(同語反復)のことだと思います。

「なんでお金が大事かって? んなもん、お金が大事だからに決まってんだろ」

という、問いと答えが互いの尻尾に噛み付いて身動きができなくなったような意味をなさない言葉なんですが、生活の実際の場面で、たとえば素朴に発した子どもの疑問に親がこのように真顔で答えれば、それなりの効果を発揮して子どもは黙り込むわけです。
この例は興味深いですがこれ以上掘り下げません(言葉と身体、といったテーマになると思います)。

面白いと思ったのは、この同語反復も、自己言及の一つの形式としてそれに含まれるという認識です。
その認識がさらに呼び込むのは、
狭義のプラグマティズムが、思想としての実効性確保のための、ルーマンのいう「循環性の拒否」を機能として取り込みながら、しかしよく見るとそれは循環性の位相(フェーズ)を変えたにすぎない、という気付きです。

つまり、システムは自己言及性から逃れることができない。


自己言及性は、オートポイエーシス・システムの生命力である。
システム内にコミュニケーションを生み出し、そのコミュニケーションは外部環境と相互作用することでシステム自身が維持され更新していく、そのために欠かせない機能として自己言及性は位置付けられる。
しかし、自己言及にはいくつかの形式があり、その中には生命力を賦活しないものも含まれる。
自己言及の擬制でしかなく実効的な機能を持たない形式の一つ、それが同語反復である。
(上の例では同語反復の実効性に触れていますが、それはそこに「身体」があるからです)

いや、今書いたことをルーマンが言ったわけではなく、また引用にある、循環性を回避する姿勢がもたらす「ますます見込みのない立場」が意味するところもはっきりとは想像できません。
言葉だけでいえば「システムが自己廃棄へ向かうこと」なのでしょうけれど。


で、この「ますます見込みのない立場」を脱する方法について、引用部のすぐ後から章末まで書かれています。
その内容のところどころにやはり面白いことが書いてあって、しかしこれまでの文脈とつながるかどうか怪しいんですが、ちょっと続けてみます。

 この曖昧な状況をうまく処理するひとつの方法は、つぎの〔科学〕革命を生き抜く能力があるかどうかという視点から、もろもろの方法論を吟味することである。機能的分析は、そのひとつといえる。(…)機能的分析は、構成的なパラドクスを「解決された問題」として(それは問題であり、また問題でない)再定式化し、問題解決の比較へと向かうのである。

同上 p.30

次の科学革命を生き抜く能力、というすごいことを言っています(角括弧はたぶん翻訳者註)。

科学革命、それを価値観の大転換だと考えると、その革命が起こる前から変化後の価値観などわかるはずはなく、しかし「そこをなんとかがんばる」のであって、続く引用部も表現自体がパラドックスなんですが(問題であり、問題でない?)、なんとなく言いたいことはわかります。

ある価値観を仮決めして問いを設定しその答えを出す、この答えは出発点が曖昧だと「解決された」なんて言えないわけですが、そういえば科学の発展の原理は仮説とその反証であるとポパー(だったかな?)が言うように科学的言説はすべて仮説であって、これがその一例になっているわけですが、パラドクスを見出しそれを解決したという擬制は、その前提である価値観(論理)をこれとは別の価値観(論理)と比較(「問題解決の比較」)することで「再定式化」される。

のちに覆される可能性を前提とした「解決」だから、「解決された問題」は、別の文脈との問題提起〜解決までのプロセス全体の比較(「問題解決の比較」)においては別途新たに問われるべき存在であり(「それは問題であり」)、しかしそこに至るまでの仮決めした文脈の内側においては暫定的ではあれ最終的に導出された成果として価値がある(「また問題でない」)……。


自己言及の論理が面倒なのは、端的にキリがないことで、ルーマンの本を読んでいると翻訳者が不親切だとか不徹底だとか思える箇所がいくつもあるんですが、自分でこのテーマについて文章を書いていると同情的になってきます。

自己言及の論理は、「バッサリ」言ってしまう、オッカムの剃刀でじょりじょり簡潔な表現に徹するとその真意(意味の厄介さ、複雑さ)が伝わらない。
だからといって、「ネチネチ」書きつらねる、思考のプロセスの全体(それに終わりがないことが面目躍如たるところなんですが)を余すところなく再現しようとすると、これまた伝わらない。
だから訳者はどこかで割り切って、前者を採用せざるを得ない。

後者のネチネチ式が伝わらない理由は、以前は読み手の理解力不足とか根気のなさとかが原因かなと、つまり読み手側に問題があると単純に思い込んでいましたが、いくつか前の記事で「システムの主観」という表現を見出してから、それだけではないなと思うようになりました。

自己言及のプロセスを要素部分に分解して手順を追う、どこまでも長いがそれをつなげて理解すればそれがプロセス全体の理解になる、こういう考え方は「生活論理」、日常的な言葉の使い方に基づいた価値観であって、それは科学の要素還元主義が行き着いた限界(袋小路)と似たものです。
言葉を尽くせばいずれは理解に至る、あるいは表現を研ぎ澄ませて絞り切れば理解できる、この両者はある同じ論理的価値尺度における両極の表現であって、これとは別の価値尺度による「理解」もある。

僕が「システムの主観」と言ったのは、そこにこのような意味を込めたのかもしれません。


えーと、話それほどズレてはいないんですが戻します。

自己言及の終わりのなさ、というテーマは、哲学的にも有名です。
 「私とは誰か?」
 「私とは誰か、と問う"私"とは誰か?」
という問いをいったん始めると、終わりが見えなくなる。
あるいは、ゲーデルの不確定性定理だったか、ある理論の根拠をその理論の内部で証明することはできない、というのもあります。

こういった、自己言及性のわりと日常的な側面からは、ポストモダン思想が連想されます。
あらゆる論理や価値には究極的な根拠はない、人間的営為の基盤は恣意性にある。
だから人間は浮き草のように漂うしかない。
いや、人間はだから完全に自由なのだ。

大雑把に書いてますが、まあいいとして、
最近読んでいる竹田青嗣の『人間性の未来』という本には、ポストモダンは批判理論としては正当だが解決案を生み出す推進力にはなっていない、それは哲学的にはイロニー(アイロニー)だ、と書かれています。
批判がメインになっている、という意味ではそうなのだと思います。
ただ、それは重要な気付きであって、もしポストモダンがそれを行動に活かせないのであれば、別の思想がその気付きを引き継いで新たな価値観の構築に向かわねばならない。

……あれ?
いや、ポストモダンがどこかでつながると思ったんですが、
ひとまずこれもおいときます。
もう少し戻る。


社会システム内に新たなコミュニケーションを生み出すような、
生命力の発露を伴う自己言及機能の賦活。
あるいは、そのような自己言及性の利用。

そのためのヒントが、上記引用のあと、章末に書かれています。

もろもろの普遍理論──論理学はそのひとつであろう──は、同タイプに属する他の諸対象とそれら自身を理解し、また比較するという重要な利点を示している。論理学の場合、多様に価値づけられる構造と相応する抽象化が要求されよう。古典的論理学は、自己言及を除去したのではなく、それを反省する余地がなかった。「(…)論理学は、反省に関する有用な理論となるために、自己自身に加えて他のサブシステムを取り込まなくてはならない。」こうした条件のもとでのみ、機能的分析は、普遍理論の自己開発のテクニックとして、有用なものとなる。

同上 p.31-32
「」内は著者によるGotthard Gunther,"Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations"からの引用

森博嗣の愛読者は「抽象(化)」という言葉にまずポジティブな印象を抱くものですが、それはさておき。
この引用部、とくに太字部を読んで、前から自分で思っていたことをある表現に落とし込むことができました。

 抽象化(とその対になる具体化)が、
 「他の諸対象」との橋渡しになる。

抽象化と具体化のセット(または往還)、これは連想と言ってもよいのですが、
正確には「ひとつの形式を前提として見た連想の機能」ですね。

引用の「抽象化」を含む一文が、僕にとっては内容(というかここから連想されるもの)が濃すぎて、今何を書こうか、いや何が書けるのかと呆然としているのですが……
「これだけが全てではない」という強い認識とともに、思いついたことを書くしかありませんね。


オートポイエティック・システムの一般理論、これがルーマンの本(の第一章)の主要テーマでした。
引用中の「普遍理論」はおそらくこれとイコールで、とすると論理学はそのシステムの一例である、と。

僕は「抽象化」という言葉からすぐに「連想」という言葉を引き出したわけですが、ここからの連想として、「脳と身体をもつ一人の人間の連想(思考)システム」もまた、オートポイエティック・システムとして捉えることができるだろうと。

すると、引用のその一文が、今の僕自身にとってまさに身近な(生活レベルの)テーマとして引き寄せられてきます。

さらに(というか別の)飛躍すれば、先の引用にあった「次の科学革命」、これは一人の人間の中で「起こりうる」ことでもあると。
(僕自身の認識でいえばそれは「もう起こっている」


まだまだ連想されることがあります。

見田宗介の『超高層のバベル』をたしか先月くらいに読み終えて、その後味は僕の中でまだ新鮮に残っています。

見田氏は誰かとの対談の中で(加藤典洋だった気がします)、
資本主義・消費至上主義社会に対して、
そうマイナスばかりあげつらうのでなくプラスの面もちゃんと見ようよ、
という文脈で、氏の過去の著作に対する解説として、
現状の価値観の維持推進の先にありうる充実した未来社会を描いていました。

たとえば、
消費の主要目的が生活のための物的必要性から離れてイメージになったこと、それは「環境資源の浪費を抑えながらの経済成長」が可能であることを意味する。
サービスや情報を元手にして経済活動が生まれるなら、経済成長の主力をそちらに担わせて、物的消費を必要最低限(たとえば身の丈)に減らすことも可能である。

現状はみなの「他者の欲望に対する欲望」、これが同じ対象に向かってパイの奪い合い、「ゼロサムゲーム」を呈しているが、社会が豊かになったこと、産業と科学技術が発達して生活水準が底上げされたことの意味を原理的にとらえれば、非物的消費の推進と多様化(ニッチの開拓、創出)によって現状の問題(環境問題、所得格差問題など)は解決できる。

また、現在の生活水準を維持するためだけの労働量を考えれば、週三日・一日5時間(?)(⇦時間の数字は記憶あいまい)の労働で賄える、というアンドレ・ゴルツの理論がある。

そんなことが書かれていたと思います。
産業構造の根本的な転換を要するという面で、社会レベルの実現性にはかなりの困難が伴います。
でも、これを読んだ時にも思ったことで今改めて思い出したことでもありますが、

この「未来社会の実現」は個人レベルでも可能なことなのです。


生活環境の要請、仕事の要請、習慣や常識の要請、企業広告の要請。
社会で生きるうえではさまざまな要請が否応なく個人に降りかかる。

それは紛れもない事実ですが、
その事実に対しては正確に認識をすべきです。

つまり「否応ない」のは「降りかかってくる」ことだけであって、
その要請にどの程度従うかには、「個人の裁量」が存在する。

その「個人の裁量」が、どれほどの(革命的な)力を持つのか、
上に並べたいくつもの要請のうちで、
その可能性について教えてくれるものは一つもありません。

そしてその可能性は、
ただ教えてもらうだけで感じることはできず、
きっかけとして与えられてからは、
自分自身で(あるいはその仲間とともに)形にしていくしかない。

そしてたとえば、
そのきっかけはここ(見田氏の構想)にあったのだ、
といったことなど。

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