31日目:空気であること、余裕と無為、ご縁の磁場 2017.3.31
<31日目>40観自在寺→宿(よしもと民宿) 22km
終日雨(小雨ではない)
(1)一日中雨
今日の雨はけっこう強かった。
全身ほぼズブ濡れでTシャツをスーパー前のベンチで着替えた時にしぼれるくらいだった。
おかげで休憩なしでぶっ続け2時間歩いたり(集会所?の駐輪場屋根のスーパーフジ)、
峠を登る間だけ暑くてあとはずっと寒かったり、とにかく「雨との戦い」の一日だった。
自分との戦いなのかもしれないが。
「スーパー前のベンチ」は情景イメージを覚えています。
大きいスーパーで目の前の駐車場も大きくて、
スーパーの中も入り口前も人がたくさんいて、
ここで暮らす人たちの生活が当たり前に流れていて、
ベンチでぽつんと座る僕はその生活と全く関わりはなく、
それでいて「隔絶」とか「孤立」という感じでもなく、
通りがかる人は当たり前のように僕を見たり見なかったりして、
僕自身は風景として馴染んでいる。
「お接待」という言葉が指すものの多くは、
お遍路さんとそこで生活する人との具体的なやりとりですが、
場の空気をつくる、空気になるという意味では、
お遍路さんは四国のいろんな場所で、
その「お接待」の恩恵を受けている。
それを感じられてこそ、
町を通り過ぎるだけでも元気をもらえる。
(2)油断ゴケ
松尾峠の愛媛側終点に着く寸前に、油断と不運が重なって前のめりにコケて下駄が脱げ
さらに両手をべったり地面につけてしまった。
(鼻をかもうと思ってティッシュをとり出しながら看板を見ている時にゆるい土を踏んでしまい、
それが傾斜のきつい下り坂だったのがなお悪い)
教訓:鼻をかむのは落ち着ける足場で。
出ました、転倒談義。
歩くことに集中していると、コケた時に無意識の受け身が取れるのが、
意識からすれば神秘的な体験で、
それ自体の解明はその無意識の機能性に寄与しなさそうなのでしませんが、
意識がどういう状態の時に無意識の発揮が阻害されるか、
これを把握しておくことは大事なはずで(何より道中の身を守るために)、
受け身が取れずにヒドいコケ方をした時の分析はしっかりやっていました。
その大体、というかほとんど全てが以下のような経過でした。
歩行への集中があるきっかけで、ふと途切れた時に、
それに重なって何かを思いついたり思い出したりして意識が分裂して、
つまり歩行動作から遠ざかる二方向の意識が走り始めた、
ちょうどその瞬間にマズいものを踏んづけるという、
「不運の三重複」によって意識が意識自身に居着いてしまい、
無意識の回避動作が遅れる。
車の衝突事故が起こる条件が、
ドライバー両者の不注意と、見通しの悪い交差点という現場の三点、
であるようなものでしょうか。
まあ、こういう分析と反省を繰り返しても、
不運は不運であって、盛大にコケる時はやはり盛大にコケる。
それを願ってはいないものの、起きれば受け入れる心は持っておく。
そうしないと、「事故ゼロ、絶対!」に居着いて、意識も身体もこわばってしまう。
この心の余裕は、人生の責任放棄と紙一重というか、わりと近い所に居てしまいますが、
意味の次元ではなく、あくまで機能性への焦点を外さないことが肝要です。
口で言うのは簡単ですが、現実でこんな器用にできる場面はなかなかなく、
遍路というある意味「無為の生活」の中でこそ追求できるものでしょう。
(3)40にて
雨が強かったので、一本歯のままお勤めをしていると、
ご年配ペアのお遍路さんに話し掛けられる。
一本歯に驚かれたそうで、「パワーをもらう」といって握手した(そばにいた女性二人も巻き込まれた)。
「今日のことは必ず日記に書きます」と言っていた。
また40を出て歩いている時に[年配ペアの女性の方から]車から顔を出してアメをくれた。
仲間内ではやっぱりやさしいなと思ったのと(車のヨウシャのなさが身に染みていたので)、
自分の遍路歩きが直接人を元気付ける様を見るのもいいもんだと思った。
ここを読んで、40番・観自在寺の雰囲気が蘇りました。
わりと狭かったので本堂ではなく大師堂ではなかったかと思いますが、
建物を入ってすぐ正面に祈りの場があり、土足のまま立ってお勤めをするようで、
入口横にベンチがあって荷物を置けたんですが、
同時に部屋に何人もいたので、座ってゲタを脱いでスポーツサンダルを履くようなゴソゴソができず、
立姿勢では不安定なゲタのまま、多少ふらつきながら般若心経を唱えていたのでした。
そばにいた女性も巻き込まれた、とありますが、
おばあさんと握手をしたあとに、
「ほらほら、あなた達も折角なのだから」といった感じで、
その二人の女性とも握手を交わすことになったのではないかと思います。
なんというか、お遍路さん同士のやりとりというのは、
「ご縁パワー」がその場を支配するところがあって(経験上そうなるんですけど)、
大体の人は、何かが起こればその流れに身を任せるんですが、
強い意志を持って遍路に臨む方もやはり多くいて、
(お札に願掛けの文言を書いて、寺でお勤めをする毎に奉納するわけですが、
ご自身や家族の健康、亡くなられた方の供養、世界平和などを、
お札の一枚一枚に達筆で認めて「さんや袋」に持参されているわけです)
そういった方が「どんな状況になっても自分の思う通りに動く」人であれば、
その人の思う通りに場の空気も形成される。
無論そのことはいい方にもわるい方にも作用しますが、
いい、わるい、といった価値観はまた「ご縁パワー」が中和する。
話はぐるぐる回っていますが、
それはその通りで、
何せぐるぐる回っているのだから。
あと、「車の容赦のなさ」ですね。
四国遍路道はひっそりした生活道や山道・自然道も多いですが、
車通りの多い所、加えて歩道の心許ない道(白線引いただけ、とか)もあります。
そういう道で、気を遣って減速してくれる車もあり、
他方、エンジン吹かせのビュンと飛ばして通り過ぎる車もある。
後者が運転者全体のほんの一部でしかないにしても、
運転手の顔を見て一人ひとり判断するわけにもいかないし、
結局は安全側のリスク配慮をすることになり、
歩き遍路は、後者の存在を常に恐れながら歩き続ける。
また、ずーっと歩く生活をしていると、身体感度は鋭敏になっていきますが、
そういう人にとっては車の速度感や重量感が、
ルールや常識によって危険はないと分かっている距離を車が走っていても、
感覚的な恐怖を惹起します。
当たれば簡単に死ぬ(死なないまでも大怪我する)のだから、
本来は、というか動物的には、恐怖しない方がおかしい。
こんなことをぐちぐち考えながら歩いて、
遍路を終えて日常生活に戻っても車にあまり乗らずに歩き続けていれば、
そりゃあ車を嫌いにもなりますね。
車は必要悪です(今もたまに乗らざるをえないので)。
(4)雨対応
宿についてからいろんなものを乾かすのに時間のほとんどを費やした。
地図は大事なので新聞紙を一枚一枚重ねて[=ページに挟んで]丁寧に扱う。
ああこれはこれで、と思う。
作業をしているうちに勢いがついてくる。
所感:
今日は濡れネズミで本当に疲れた。
明日にどう響くか心配ではあるが、なるようになる。
明日は太陽を拝みたい。
こう、何事も、起こってしまえば、なんとかなる。
なるようにしかならない。
そこに、その現在時に心配はない。
「心の余裕」とは難しいもので、
未来の不安に苛まれるのは「心配する余裕」が、
心を配る余裕があるからこそ、という面もある。
未来に備える思考は、
いざその状況に立った時にしっかり振る舞えるための手段を提供するもので、
その準備が完了したと思えば、心配をスパッと止める。
心配は手段であって、
「心の余裕」は、
手段や目的を検討するための「前提」である。
似たものに見えて、その実、
両者は「位相が異なる」ものであることは、
折りに触れて思い出す価値があるだろうと思います。