human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ストイックの倫理

アイン・ランドリバタリアニズムに通ずる記述を見つけました。

現代的な個人主義の理解は、この引用に寄せて書けば、
「倫理的最高価値としての自由」が、
「自己以外の存在の変改や抹消を意味」する、
ということになりますが、ほんとうの(発祥としての)個人主義はそうではない。

そしてこれが、利他主義ではない別の論理から導かれる、
その論理がこの引用には書かれています。


資源の限られた社会における共同体の維持にとって、この倫理は役に立つでしょう。
しかしこの倫理が少数派でしか成り立ち得ないのは、経済原理が先に立つからです。

ただそれは、近代から今に至るまでのことで、
これからどうなるかは(コロナ以前よりさらに)わかりません。

と言いつつ、ニッチの倫理が多数派となることもまた悲劇を呼び込む気もします。
いずれにせよ、価値観の変化は現代社会にとっての希望の一つです。

 ストイックやエピキュリアンが目ざした倫理的最高価値としての自由とは、もちろん、権威、 他人、現実などの、自己以外の存在に自己を犯さしめぬということにあった。しかし、そのことは、ただちに、自己以外の存在の変改や抹消を意味しはしなかった。かれらは現実を現実として認めた。もしかれらに現代流の皮肉をもって報いるならば、かれらは、自己につごうのわるい現実を、むしろ自己の自由を保証し、その昂揚感をうながすための梃子として利用したとさえいえる。倫理の領域においては、つごうのわるいものが、かえって都合よくなるのだ。
 理由ははなはだ物理的である。自己の力量は自己を抑圧するものの力によって測られる。ストイックやエピキュリアンたちの拠った原理は、ただそれだけのことである。外界はできうるかぎり、混乱していたほうがいい。現実はできうるかぎり、ままならぬほうがいい。自己の外にある現実がそういう状態にありながら、しかもそれにすこしも煩されない精神の自律性、かれらはそれを自由と呼んだ。それは逃避の自由ではない。渦中に坐して逃避しない自由である。あらゆる理由づけ、口実、弁解を卻(しりぞ)け、黙して語らぬ自由である。自分が自由であることを、すなわち外界の強力な現実が自己の精神になんらかの痕跡もとどめえぬ自由を、なによりも誇りとし、しかも自分がそれほど自由であることの証左をどこにも示しえぬことに、すこしも不安をおぼえぬ自由である。
 したがって、かれらはつねに現実のなかにあった。今日の自由人は現実に捉えられぬ用心を怠らぬが、かれらは平気で現実のわなのなかにあった。捉えられぬことに心を使うよりは、捉われぬことに心を用いたのである。ふたたび皮肉をいえば、それは「負けるが勝ち」の処世術に道を通じている。ストイシズムは、文化に疎外された田舎者ないしは奴隷の哲学であり、エピキュリアニズムは、力に負けた都会的文化人の哲学である。

福田恆存『人間・この劇的なるもの』中公文庫,1975 p.80-81
下線・太字部は引用者

ちなみに、福田恆存という名前を見てこの古めかしい本を購入したのですが、
前に翻訳者として目にした記憶があります。
もちろん調べればすぐ分かりますが、
たしかコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』ではなかったかな…

だとすれば、この思想は「そこ」にも通じているわけです。
 
 
もうひとつちなみに、
「皮肉」という言葉はものすごく多様な場面で使われるので、
その意味を問われると(辞書的な暗記をしていない人なら)詰まるものですが、

この引用を読んで、「皮肉」には多重反射のイメージがあることに気付きました。
つまり、皮肉的視点によって人は状況の外に立つ、ある客観性を獲得できるのですが、
その視点の「皮肉さの質」によっては視点が反転し、
獲得したと思われた客観性が偽りの(少なくとも擬似的な)ものであったことを暴く。
簡単にいえば、皮肉という言葉は常に話者の皮肉性を照射し返す。
だから、皮肉的言辞によって「言い切る」ことがまた皮肉になるわけです。

そう考えると、「科学の反証可能性」とも繋がってきます。
 

そうか、科学は言葉ですね。