human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

お盆に姪甥と遊ぶ

先週末、タイに住んでいる兄一家が実家に帰ってきました。
それに合わせて僕も帰省して、午後いっぱいを一緒に過ごしました。

9歳になった姪と、3つ下の甥と会うのは2年ぶりでした。
おてんばで多動症的だった姪(「あーちゃん」)は少し落ち着いた反面、「いっくんさん」と両親からもさん付けで呼ばれるほど落ち着いて無口だった甥が口達者になっていました。
二人とも性格が違う向きに極端で、見ていて「大丈夫かな」と思うこともありますが、子どもとはそういうものかもしれません。
いったん角がとれて丸くなってしまうと、そうして失われたものは永遠に戻らない。
そう思えば、彼らの危なっかしさも愛らしく思えるのかもしれません。


二人が実家の中でエネルギーを持て余していたので、夕食を食べに行く前の1時間ほど、近所の公園へ散歩に連れて行きました。

レヴィ=ストロースの「親族の構造」の話が頭に入っていて、曰く、子供に教育的に機能する親族(叔父・叔母)は両親とは異なる価値観を持って接するべきである、らしいので、妙なことを吹き込もうなどという邪な好奇心ではなく、もともと自分は兄とは全く性質が異なるので、あまり余計なことは考えずに赴くまま接することにしよう…と、その時何も考えていなかったということはこんな風に解釈できるだろう、というこれはあと付けの話です(ややこしい)。

こちらから何か話しかけることはなく、何か思いつけばその行動が先に立って、「じゃ、やってみよう」という補足としてだけ言葉を使いました(そんな方針があったわけではありませんが)。
てくてく歩いて公園に着き、藤棚の上から垂れ下がる蔓を引っ張ってみて「ぶら下がれる?」とか、登れそうな木があったら「これはいけそうだな」と言ってまずはやらせて、その後自分で登る、とか。
そういう遊びはほとんど姪の方が積極的に取り組み、甥はなにかと理由をつけて動きませんでしたが、今思えば甥の方はまだやんちゃに動けるほど身体が発達していないのでした(3歳差ともなると相当な違いがあるのでしょう。僕は兄とは年子で、なぜか彼らも同じく1歳差だという思い込みがありました)。
僕が普段からボルダリングをしているので、公園を歩きながら周りを見て「これはどう登るかな」という思考が自然に進んでしまって、結果的に姪にはいろいろ登らせてしまいました。
とはいえ、彼女はとにかく身体を動かすのが好きなことは承知していたし、彼女も実際楽しそう…というか、登っている間は無心に見えました。

子どもが「わー楽しい」とか「すごーい」とか言うのは要するにママゴトというか大人の真似であって、嫌なことははっきりと「やだ」と拒絶するので、何も言わずに集中して取り組むというのは、少なくとも子ども自身の身体が求めていることではあるのだろうと思います。

わりと低いところから枝分かれした木、地面からすぐ二股に分かれた枝の多い木(こっちは登りやすくて、僕も見本で(本気で)登ったんですが6,7mはいけました)、すべり台(階段を使わず、柱をよじ登ってお立ち台に上がる遊び)、スラブ壁…というかアミダ状に溝の入った緩傾斜の壁、その壁の横の垂壁に取り付けられた鉄の梯子、等々。
すべり台をよじ登る時の姪の動きにはヒヤリと同時に感心もしたんですが、どうも自分の身体の動きを脳がちゃんとは理解していないように見える、危なっかしい動きと無意識に理に適った動き(こちらは、ボルダリングでは「レスト」と呼ばれる、トライ中に指や手が疲れた時に手を振る動作)とを観察することができました。

この「子どもの無心の身体動作」については思うところがあって、最近「立甲」の本を読んでるんですが、子どもは肩甲骨を自在に動かせるが学校や家庭での動作規律(机に向かって勉強する、とか)に従ううち身体動作の自由度が失われて肩甲骨も動かせなくなる、とその本には書いてありました。
この本を買ったのは、立ち読みした時に「優れた武道家は立甲ができる人が多い」、そしてこの「人はみな小さい頃は肩甲骨を自由に動かせた」という記述が目に入ったからでした。
僕自身はボルダリングをスポーツではない捉え方をしたい、できれば武道的に取り組みたいとはずっと思っていて、そして当のボルダリングは子どもが圧倒的に上手である(プロ的な意味ではなく、無理がなくしなやかである)という事実があります。
この本には「肩甲骨が立てばあらゆるスポーツのパフォーマンスが上がる」と書いてありますが、僕はボルダリングこそ立甲の効果が期待できると思っています。
僕はなぜか昔から左だけ肩甲骨を楽に上下させることができるのですが、この本にあるトレーニング(「鍛える」のではなく「緩める」トレーニングです)を始めて1週間くらい経って、右の肩甲骨も少しずつ動かせるようになってきています。
立甲ができているかは不明ですが、肩周りのこわばりが少なくなってきた実感はあります。

話を戻せば、スポーツにせよ音楽にせよ、小さい頃から始めた方が上達が早く身につき方も違うとよく言いますが、ボルダリングにおいては、上に書いたような規律動作によって子供の身体動作の自由度が失われる前に始めれば、上達云々というか、たとえば白石阿島のような、大人から始めたクライマーとは根本的に違う動きができるようになるのだろうな、と思うのです。
まあ、簡単にいえばそれは「よりサルに近い動き」ですけども。

兄夫婦には「あーちゃんはクライミングの素質あるよ」とだけ言っておきました。
タイの住んでるマンションのすぐそばにある総合スポーツセンターみたいな所にボルダリングエリアがあるそうですが、そこが子供も登れるところなら絶好の環境だなあとか思ったり…
教えてくれと言われたら、大喜びで教えるんですけどね(リーチ差は埋め難いにしても、きっと1年もすれば技術的に追い越されることでしょう)。


話をもう少し戻せば、いろいろ登る以外に、公園の中のピラミッド(1段が1mで6段くらいある)があるエリアで犬を連れたおじいさんと話をしました。
子どもを連れていると、こういう場面で他人に話しかけやすくて、そうして相手も愛想よく答えてくれると、ほっとすると同時によい気分になります。
それはきっと、「子どもは地域で育てるものだ」という常識に触れられるから。
これが逆に、話しかけた相手に迷惑顔をされたりすると(都会ではまま起こるのでしょう)、まあ現実の世知辛さに触れるという意味で教育的なのかもしれませんが、親はそういう経験を重ねて擦り切れていって(子どもを連れて混雑した電車に乗るのは本当につらそうです)、そもそも子どもを他人に近づけさせないようになる。
…今思い出せば、ピラミッドに座ってラジオを聴いているおじいさんに近づいて話しかけたのは僕で、子どもの好奇心をくすぐるはずのトイプードルがそばにいるのに、二人は遠巻きに見ていて、僕が手招きするまで近寄りませんでした。
もちろん、こういう気楽な行動をする僕自身は父親気取りであるはずもありません。
が、もし自分に子どもがいて、あの時自分の子どもを連れていたとしても、同じように気軽に他人とコミュニケーションができればいいな、と思います。
リスク回避という意味では当世の常識に従うのが正解ですが、あまりの潔癖が子どものアレルギー体質を招くように、リスクを負う経験を過度に避けることが子どもにとって非教育的である、という認識が、認識倒れにはさせたくない。

どんどん話が逸れますが、僕はプラグマティストを自認していますが、ある種の(というか当世の…?)プラグマティズムには知性の軽視が含まれていて、それは最早思想ではない、と考えます。
実用主義という姿勢があって、それに知性の裏付けを与える、それが思想としてのプラグマティズムです。
実益や実効に阿って知性を軽んじるのは、現実主義、日和見主義、など場合に応じて色々名前は変わるでしょうが、どれも思想とはいえない。

話を戻しまして。

子どもらとの散歩のなかで、僕は基本的に、進路を決めるのと、遊びのきっかけを与えることだけをして、あとは彼らの自由にさせました。
そうして彼らを見ていて、子どもらは何にでも興味を示し、また突飛な発想をいくつも繰り広げるわけですが、僕ら大人にはできないことをする彼らは、なにかが「ある」のではなく…いや、「ある」のは「ない」からなのだと改めて思いました。

束縛が「ない」からこそ、自由が「ある」。

自由は、手に入れようとするものではない、のでしょうね。
大人であっても。