human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Can one speak about unspeakable? (2)

 
(1)

 × × ×

「『沈黙に至る雄弁』というものを考えてみたのです」
「ほう。どこかで聞いたことのある表現だな。それは具体的には、どういうものかね?」

「前に話していたように、言葉がそこには存在していないはずの沈黙という状態を言葉で表現したい、いや、沈黙を言葉によって導きたいというか、両者を介在させたいというか。ええと、とにかく、情報という形で言葉が溢れかえっている現代において沈黙が存在感をもって現れるためには、言葉から逃げるのではなく、言葉と真正面から向き合う必要があると考えています」
「ふむ。君は身体性を賦活する筋道を念頭に置いているようだな。意識を持ち、言葉失くして生きられぬ人間は自然状態に戻れない。自意識の届かぬほど言葉に束縛された我々が動物のような自然な身体性を獲得するためには、何も考えずに無意識状態を目指すのではなく、意識の桎梏を解くための思考操作を通じて自然状態に漸近する。言葉が与える身体運用への影響を理解することが、そのスタートになるわけじゃな。おお、すると君は、沈黙を一種の動物的状態と考えているのかね?」
「……いえ、そのような発想は全く持っておらず…興味深いお考えです。あるいは、沈黙とは自然状態であるという結論が導かれるのかもしれませんが、とにかく今は私の考えを進めてみたいと思います」

「すまんの。ちと先走り過ぎたな。スタート前の脱線は、元の道に戻れる可能性を著しく損なうゆえ、注意せねばならん。もとい、わしは脱線してナンボと思うておるが」
「同感です。とはいえ、元の道が開拓すらされていない場合においては脱線という概念も成立しません。変化をもたらすために進むべきは獣道で、その自覚がある限り、私たちが日々歩む道はすべて獣道なのではないでしょうか」
「いらん所で調子を合わせんでよい。先へ進まんか」

「ああ、はい。何の話でしたか…そう、『沈黙に至る雄弁』でした。イリイチの過去の短文を集めた本を最近読みまして、その中に「沈黙の雄弁」というタイトルの一節がありました。プエルトリコから移民が大勢流入した時期のニューヨーク州で、彼が移民問題に取り組む聖職者の長として、宣教師たちと勉強会を開いた時の講演録だそうです。アメリカは移民の国であって、立国の初期からずっと、様々な国から人々が移民としてかの国で暮らすためにやってきたわけですが、国に定着して長い”旧移民”たるアメリカ人は、それぞれ文化も宗教も生活習慣も異なるはずの多様な”新移民”に対して、自分たちがかつて移民たちを受け入れた経験をもとにした強固な固定観念をもって接するのだそうです。その固定観念は、プエルトリコからの移民を実際とは全く異なる移民像に仕立ててしまう。移民は貧困街に集められがちなのですが、善意によって彼らを救おうとする政策や個々のアメリカ人の行動は、移民たちにとっては、自分たちを理解しない善意の押し売りに思えて、反発してしまう。宣教師としては、彼らを真に理解するためには、単にスペイン語を学んで彼らと会話ができるようになるだけではなく、文法的に整合な意思疎通を超える必要があり、その真の理解へ到達するためにはいくつか段階があるのですが、そのそれぞれが「沈黙の段階」であって、こちらは沈黙して相手の言葉を真摯に聴くという姿勢がベースにあるというのです」

「相手の言葉を聴くために沈黙する、か。現代ではネガティブに捉えられがちな姿勢じゃのう。それで、イリイチのいう「沈黙の段階」というのが面白そうだが、それは一体何かね?」
「うーん、どうも、とにかく相手の言葉をまずは聴くという実際的な姿勢の沈黙から始まって、最終的にはユダに裏切られたキリストの受難を思って祈るマリアの沈黙に到達する、という話で…つまりは行雲流水か、と私は思ってしまいましたが。うん、こんな説明じゃ訳がわかりませんね。ええと、私がこの本から示唆を受けましたのは、その「沈黙の段階」の説明の中で、キリスト教が絡んでくる段階以前の、沈黙の分類と例示の部分なのです」
「君はいつも本題にたどり着くまでが長いのう」
「自覚しております。それで、その肝心の説明部分は漠然としか…いや、正直ちゃんと覚えていないのですが…」
「かまわんよ。本の紹介が目的でないのなら、君とその本から生まれたことを言えばよい」

「沈黙というのは、言葉が口から出てくる前の状態なわけですが、沈黙の段階とは、その「口から出てくる前の言葉」が、どんどん自分の内側へ落ちていくことだというのです。例えば、目の前にいる人の話を聞いていて、最初はその話に対するアドバイスが頭に浮かんで、意見を聞かれたらこう答えよう、などと思っていたのが、話を聞き続けるうちに、その自分の思いが頭の奥底へ沈んでいって、何か返事をしようという気も消えて、黙って相手の目に魅入ってただ頷いている、というような」
「なるほど。相手が話しているのが、自分に意見を求めているからではなくて、ただ耳を傾けて話を聞いてほしいから、と聞き手がだんだん分かってきた、ということかな」
「ああ、それはすっきりした理解ですね」
「ん? 嫌味に聞こえるぞい、それ」
「いやー、そんなことはない…と思うんですが」
「で、そうではなくて?」

「そのー、話がまた脱線しそうなんですけど、以心伝心と言うでしょう。言わずして、自分の思いが相手に伝わる。長年連れ添った夫婦なら、身振り手振り、いや目線や佇まいだけでも相手の考えが手に取るように分かる。まあ、言葉が意思に従属するとは限りませんし、それは言葉以前も同じなわけで、ええとつまり、一方の言葉を介さない理解が誤解であっても他方がそれに合わせてしまえば、しかもそれが無意識なら以心伝心が成立したことになるわけで、フロイトが出てきてからコミュニケーション論は実に複雑になったわけですけど…ああこりゃダメな脱線だ。うーんと、以心伝心ってあるじゃないですか」
「魚心あれば水心、か」
「あ、その諺って、そういう意味なんですか? 僕はてっきりアニミズムのことかと」
「……」

「えーと。以心伝心という現象は、そのさっき触れた、「口から出る前の言葉」が内側に降り積もっていくということと、関係があると思うんです。熟年夫婦の例だと、なんだか言葉無用の以心伝心になっちゃうんですけど、それは現象の全容を表してはいない、いやむしろ悪例ですらある。その場で言わずに堪えた言葉、呑み込んだり、自分で噛み締めているうちに消化しちゃったり、虚空へそっと吐き出したり、そうして本来は誰かに伝えるために生まれた言葉が、目的を遂げずに失われる。でも、実はそうした言葉たちは完全に消えたわけではない。言葉が発される直前に込められたエネルギィが、その媒体から脱け出たというだけで残留している。どこに? もちろん、何かを言おうとした、その人の中に、です。それで、話たぶん戻るんですけど、沈黙して相手の話をただ聴くという場には、相手の言葉がもつエネルギィの移動だけでなく、その言葉が聴き手に届いた後に生まれるエネルギィも存在しているのです」

「うーむ。すると君は、本来の以心伝心という現象を成立させる入力エネルギィがそこにある、と言いたいのかね」
「えーっ、と…?」
「違うようだね。もっと話を戻そうかの。以心伝心、あるいは「口から出る前の言葉」かもしれんが、君のいうそれらが、「沈黙に至る雄弁」とどう関わるのかね? ふむ、「口から出る前の言葉」の集積が指しているのが「雄弁」ということかね?」
「……なるほど!」
「目が点になっとるぞ」

「目が、め…メガンテ!」
「ぎゃー、目が、めがあああ」
「先生、ノリノリですね。それ違うアニメですけど」
「……」