言葉は「ないものをあらしめる」ために生まれた。
その場にあるもの、そばにいる人を名指す必要は、本来はない。
身振りで伝わるからだ。
時間的に、または空間的に、「ある」が「ない」に変わったもの。
あるはずがなくなったもの、あってほしいがないもの。
今その人が感じる「ない」を「ある」にするために、
即物的な工夫では叶えられない願いが生まれた時に、
言葉が生まれた。
それは、祈りとも呼ばれる。
原始古代から現代に至るまで、一方的に「ない」ものがなくなっていく過程であった。
「ない」ものが少なくなる、「ある」ものが消えなくなる。
そうしたプロセスにおいて、言葉は祈りではなくなっていった。
言葉はだんだん、「あるものを名指す」ために用いられていった。
祈りは、その対象をどんどん失っていった。
言葉が祈りである目で見れば、現代は沈黙の時代である。
誰もが「ある」ものにしか関心を寄せなくなった。
「ある」がなくならないのに、存在しない「ない」には関心の持ちようがない。
だが、それは本当だろうか?
「ない」がなくなることは、「祈り」がなくなることである。
祈りは、「ある」、かつてはあったものである。
なくなったものへの深い関心の表現が、「祈り」である。
なくなった「祈り」への言葉は、祈りとなる。
そしてそれは一例に過ぎない。
「ない」がなくなることで、失われてしまったものたちがある。
それら、名もなき余韻に言葉を手向けること。
そうして、沈黙を破ること。
そして、再び「沈黙」に至ること。
祈りには、役目がある。
「ない」ものに対する祈りには、作法がある。
粛々と手順に従い、「ない」ものは、鎮まる。
一つの祈りには、一つの終わりがある。
役目を終え、祈りは「沈黙」へ至る。
全ての祈りが、世界から消えることはない。
それは生態系のようなものである。
一つの祈りが消え、また一つの祈りが生まれる。
祈りという命の循環は、「沈黙」とともにある。
祈りなき沈黙から、祈りとともにある「沈黙」へ。
そして、
そのプロセスとしての雄弁を。
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cheechoff.hatenadiary.jp
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