human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Can one speak about unspeakable? (4)


言葉は「ないものをあらしめる」ために生まれた。
その場にあるもの、そばにいる人を名指す必要は、本来はない。
身振りで伝わるからだ。

時間的に、または空間的に、「ある」が「ない」に変わったもの。
あるはずがなくなったもの、あってほしいがないもの。
今その人が感じる「ない」を「ある」にするために、
即物的な工夫では叶えられない願いが生まれた時に、
言葉が生まれた。

それは、祈りとも呼ばれる。

原始古代から現代に至るまで、一方的に「ない」ものがなくなっていく過程であった。
「ない」ものが少なくなる、「ある」ものが消えなくなる。
そうしたプロセスにおいて、言葉は祈りではなくなっていった。
言葉はだんだん、「あるものを名指す」ために用いられていった。
祈りは、その対象をどんどん失っていった。

言葉が祈りである目で見れば、現代は沈黙の時代である。
誰もが「ある」ものにしか関心を寄せなくなった。
「ある」がなくならないのに、存在しない「ない」には関心の持ちようがない。
だが、それは本当だろうか?


「ない」がなくなることは、「祈り」がなくなることである。
祈りは、「ある」、かつてはあったものである。
なくなったものへの深い関心の表現が、「祈り」である

なくなった「祈り」への言葉は、祈りとなる

そしてそれは一例に過ぎない。
「ない」がなくなることで、失われてしまったものたちがある。
それら、名もなき余韻に言葉を手向けること。
そうして、沈黙を破ること。

そして、再び「沈黙」に至ること。

祈りには、役目がある。
「ない」ものに対する祈りには、作法がある。
粛々と手順に従い、「ない」ものは、鎮まる。
一つの祈りには、一つの終わりがある。
役目を終え、祈りは「沈黙」へ至る。

全ての祈りが、世界から消えることはない。
それは生態系のようなものである。
一つの祈りが消え、また一つの祈りが生まれる。
祈りという命の循環は、「沈黙」とともにある。

祈りなき沈黙から、祈りとともにある「沈黙」へ
そして、
そのプロセスとしての雄弁を。

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cheechoff.hatenadiary.jp
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