human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Can one speak about unspeakable? (3)

(1)
(2)

 × × ×

「『沈黙に至る雄弁』というものを考えてみたのです」
「ふむ。つい最近どこかで聞いたような表現じゃの」
「……」
「……」

「言うことがなくなって黙り込む、ということかな? もうおしまい?」
「いえ、ちょっと一人でデジャビュに浸っておりました」
デジャビュとな。あれは面白い現象じゃ。実はあれの親戚でベジャドゥというのがあってな……」
「その話はまたの機会にお伺いします」
「なんじゃ、つまらん。では早う進めんか」
「はい」

「キーワードがもう一つありまして、こちらから本筋に合流できそうな予感がしますので回り道をご容赦願いますが、『手がかりとしての否定』と、そう呼んでおきます」
「ふむ、そう来たか。斬って捨てるための否定、ではないということだろう?」
「その通りです。あらかじめ確立させたい論理があって、その論理を補強するというか、研ぎ澄ませる、夾雑物の排除としての否定ではない。その逆、という言い方もおかしいかもしれませんが、『手がかりとしての否定』は、何かを生み出すための否定なのです。そして、先走って言いますと、その何かとは『言葉では表現できないもの』なのです」
「話はわかる。が、一度具体例に落とし込んでみてはどうかね」

「うーん。その、何か微妙なものを言葉で表したい時に、それそのものではないが近いものを取り上げて、『Aと似ているが違う』『実質的にBと同じだがニュアンスが違う』と言ったりします。それらの言明は、目的のものを直接明示できていませんが、AやBという具体的な類似物を通じて、おぼろげながらそのイメージを浮かび上がらせる効果があります」
「…それが具体例かね?」
「えーと、論理の抽象度を一つ下げた例、ですかね。よくわかりませんが、もう少し具体的に言いますと…そうですね、SF小説なんかではよくありそうですが、実際には存在しないものがたくさん登場しますでしょう? ものにせよ現象にせよ、色や形で、即物的な描写もされますが、動的なイメージ喚起のために、現実に起きて実際に人が体験できる現象が比喩で用いられることもあるでしょう。タイムマシンで過去に移動する時に、宇宙空間のような、あるいは周囲が水中のようにぐにゃぐにゃと歪んだ空間を通過する、とか」
「小説は存在しないものを言葉であらしめるツールじゃからな。元を言えば、言葉そのものがそういうものでもあるが」
「でも、ちょっと話が違うような…もっとシンプルに、例えば、ある色を表現したいとします。ユーラシアの高地、人里離れ、木々に埋もれた秘境的な池の色。青、水色、群青色、エメラルドグリーン…細かい分類があるとはいえ色の名称だけでは到底不足で、清々しく晴れ渡り、風もなく凪いだアドリア海の色、みたいな、天候条件付きの具体的な場所を挙げて、そのアドリア海の色と沖縄のサンゴ礁が広がる浅瀬の色を足して二で割ったような、といった想像上の色の混交まで行われる。色を混ぜるイメージは、絵の具の赤と青を混ぜれば紫、とかコーヒーに牛乳を入れたらミルクコーヒーとか、そういう現実の体験が元になっている」
「ふむ。先の例と、何が違うのかな」
「…難しいですね。同じような違うような」

「君が言いたいのは、というか、今目指している状態はこうではないかね。言葉で表せないことをどうにかして、それそのものではないがどこかしら関連があるものを『此れに非ず』という形で次々に連ねていき、その例示が尽きる地点、手がかりのストックが全て動員済みとなって沈黙してしまう」
「はい、目指しているというか、その状態に至る直前直後についてのイメージから、何かを導こうとしているのだと思います」
「ほう。それで」
「…話を戻していただいたのに、また逸れそうですが、少し抽象的な議論に戻ります。言葉は何かを表現するためのツールである、という前提に立つと、『これはAである』という言明は、言葉の存在目的に適っているといえます。ある一つの単語に対して、一つのものや現象が辞書的に対応した時、その単語を発したり思い浮かべるたびに、対応したものや現象が喚起されることになります。ところが、『これはAではない』という言明は、これに対応するものや現象が一に定まっていません。原理的にいえば、Aではないと言われれば、Aではないあらゆるものが想定されることになります。実際は、否定はされつつも想定の手がかりがAにあるために、その言明によって人がイメージするのは、何がしかAと関係があるものとなります。それで、ここからが本題ですが…」
「聞いとるよ」
「ええと、この『これはAではない』という否定的言明は、見方を変えれば、対応するものや現象を探している動的状態を指してもいます。対照的に、『これはAである』は、静的状態といえます。この肯定的言明は、意思伝達としては確実に行えるが、言明そのものが新しい何かを生み出すことはない。逆に、動的状態の意味は、リンクの一端が開かれた状態、結合手が余って活性状態にある原子のようなものです」
「何かと結びつくために、エネルギィを多めに抱えた不安定な、状態じゃな」

「……その不安定な状態こそが、言葉が生きている状態、ひいては人が生きている状態、なのではないでしょうか」
「こらこら、逃げちゃいかん」