human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-10 存在と意味

 
「僕にも昔ね、気になる女の子がいたんだよ。小さいんだけど妙に落ち着いていた。女子には珍しく女子同士でグループを作らずにさ、男子たちのノリにたった一人で違和感なく混ざりながら、その表情には妙に惹きつけられる可愛さがあった。
 ふつうの女子にはないような両極端な性質があって、でもバランスが悪いというのでなく、極端な性格の一つひとつが彼女の存在感を補強するような、不思議な統一性があったな」
「へえ、そうですか!
 聞くだに、フェンネルさんの好きそうな人ですね」
「わかるかい」
「はい。だって、わかりやすい人に興味ないじゃないですか」
「そんなことはないよ。
 わかりやすさの裏に潜り込めれば、そこには未知の世界がある。誰にしても、その当人にとってもね」
「そうかもしれません。みんな生活上の付き合いばっかりで、深堀りしませんものね。
 それで、その女性とはどんな関わりがあったのですか?」
 
「うーん、それがねえ、あったようななかったような」
「む? あれですか、お得意の『純粋な観察対象』というやつ」
「失礼だな。やりとりはいろいろあったさ。
 在校中の半分くらいは一緒のクラスで、その間は取り立てて喋った記憶はないけれど、卒業してからの方がなぜか付き合いが増えて、何度か旅行に行ったこともある。グループでだけれど」
「はあ。それもまた不思議な展開ですね。どうしてそんなことに?」
「僕なりに、具体的な行動を起こそうとしたんだ。大学に入ればクラスの目は気にならなくなるし、一年ずれたけれど同じ大学にもなれた。それがきっかけだったかな。
 ああ、無闇に周りを意識するのは昔も今も変わっていない。今はその自意識過剰を制御できる理論というか、知性を組み上げているけどね」
 
「そうですか。では、フェンネルさんの青春はその頃ようやく花開いたと」
「いやほら、そこはだから複雑なところで。
 ディルウィード君に失礼だと言ったのは言葉の綾で、正直なのは君のよいところで、つまりは正解だということで…」
「ええと、つまり?」
「一緒にいる機会は増えたが、ただそれだけのことだった。いわば間近で観察してたわけだ。これは君としては純粋な観察とは言えないことになるのかな」
「いや、別にそれはどちらでも構いませんが。すると、フェンネルさんが起こした具体的な行動とは?」
「それでおしまい」
「えええ!」
「おしまい、さ」
「えー。もう少し参考になる話かと思ったのに…」
「いやいや。落胆するにはまだ早い。話はまだ始まってないんだから」
「??」
 
「君は同学科のアニス嬢が気になるという。それは好意かもしれない。はたまた愛情かもしれない。彼女が君をどう思っているかはわからないが、それは二の次。まずは君自身の気持ちを君の中で解明しておいた方がいい。そのために僕のなけなしの青春時代を掘り起こしているわけだけど」
「はい。でも別に、フェンネルさんとその人との間には、何もなかったのでしょう?」
「その通り。僕と彼女のあいだで、どちらも相手に踏み込む行動を起こさなかった。そして彼女が僕をどう思っていたかも、全くわからない。
 それでも確実に言えることが一つだけある。僕の彼女に対する関心は、クラスが一緒だった当時から現在まで消えずに残っていること。これは考えてみれば、すごいことじゃないかな?」
「ほへー。するともう十年以上の片思いなわけですか。
 ああまた、フェンネルさんそうやって『片思いがプロセス志向の最たる恋愛の王道だ』とかなんとか言うんでしょ。結局それって『若者よ悩め苦しめ』ってバジル爺のいつもの繰り言と同じじゃないですか」
 
「待て待て、早とちりはよくないぜ。こういう問題への実際的なアドバイスは世の中どこにでも転がっているから、そういうのを欲しければ拾いに行けばいいさ。でも君はそうせずに、僕という人間を知っていて、その僕に聞きにきたのだろう?
 なら話は早い。何事も『話は全然早くない』ところがスタートなんだから
「またそんな…」
「特に人と人との関係には時間をかけないと、必ず失敗する。というか、成功しても失敗しても得るものが何もない。それを『無時間モデル必敗則』という」
「言いません! ぷんすか」
 
「ごめん。真面目にいこう。話を戻すと、えーと何だったかな」
フェンネルさんの『若かりし何事もなかりし日々』についてのお話でした」
「まあまあ、怒るのもそのくらいにして。ちょっとコーヒー淹れようか」
「あ、自分がやります。フェンネルさんは座っててください」

────

「面倒な話になるのはいつものことだが、そこは我慢してくれ。
 僕がその彼女のことをいまだに考えているのは、僕が彼女のことをどう思っていたかが未だに呑み込めないからだ。当時はそれはシンプルに好意で、だから相手にそれを伝えられないことを片思いだと考えていた。でもね、進展しないまま付き合いが途絶えてから、あれは憧れだったんじゃないかと思うようにもなった」
「それは同じことなのでは?」
「違うんだ。異性としての憧れじゃなくて、人間としての憧れのほう。だから、憧憬の対象を具体的にいえば、僕が彼女のそばにいることではなくて、僕が彼女のような人間になるってこと」
「うむむ。そんなこと、あり得るんでしょうか?
 異性に憧れるというのはその人と、恋愛とか、あと結婚もなのかな、そういうプライベートな関係に至ることしかないように思いますが」
 
「それがねえ。だから僕もディルウィード君くらいの頃は同じことを考えてたさ。だけど長じてみると、そうだな、時間をおいて経験が客観化されるのと、本とかで知識を仕入れたりすると、話はいつもそう単純ではないとわかるようになるんだ。だから…」
「え、じゃあこの話って、自分にはフライングってことですか」
「いやいやいや。それは違うというか、知らないというか…まあそんなことはいいんだ。それも含めて話は単純じゃない」
「…もう何でもいいです」
「うんうん、話を戻そう。
 
 好意ではなく憧れなのか。しかもそれが異性を恋愛感情抜きで見る姿勢だという。この考えは、僕が当時二人の関係を積極的に進展させなかったことの言い訳にも思えた。僕が彼女みたいに明晰で冷静で透明な人間になりたいと思って、それを目指すのだとすれば、その僕の意志にとって、僕と彼女の関係に心を乱されることは邪魔になる、というわけさ。
 まあ確かにこれは、傍にいていろいろ想像するだけで充実だという片思い状態と見分けがつかない。うん、同じだ
「あれ、話が違ってきてませんか」
「ちょっと。もう少し待って。考えながら喋ってるから質問は最後にしてくれ」
「……」
 
「好意か憧れか。それはどちらが正しいかではない。どちらがもっともらしいか、でもない。過去の自分の心の状態を問うているわけだけれど、それは今の自分とつながっているんだ。だから歴史の同定とか過去の確定とかいう問題じゃない。
 そのどちらを取れば、現在の僕自身に資するか。意味があるか。発見があるか。関係そのものは一旦終わっているが、その関係がいまだに自分に問いかけてくること。これを正面から受け止めれば、回想はプラグマティックに行われなければならない。そして、そうやって腰を据えた今まさに生み出されたのが、第三の解答だ」
「第三ですか……いえ。邪魔はしません、続きをどうぞ」
「それがね、最近読んだ本で、非常に面白い小説論でさ、ページを繰るたびに思考が刺激されて疲れちゃって、読み終えるのにけっこう時間がかかった。いや、今君と喋ってて、その内容が天啓のように閃いてね。『主語が述語に根拠を与える』という…これだけ言っても意味わかんないんだけど」
「根拠、ですか? 文法の話でしょうか」
 
「違うんだ。たとえばね、『この物体は青い。』という一文があるとする。これが物体=青い、でないことはわかる。ひっくり返して『青いは物体である。』としても通じないからね。でもふつうは、英語でいうbe動詞で結ばれる主体と客体は、一方通行であれイコールのように使われている。
 でもそれだけじゃない、というか、文として全く別の機能をもつ種類のものがある。さっきの例でいうとそれはこういうものだ。『青い』は『この物体』によってその存在、手応えを保証されている。『この物体』がなければ『青い』の実体はなにもなく、空虚に過ぎない、と。ややこしいだろう」
「……」
 
「この例じゃわからないね。元の話題に即していえば、そうだな、『私はあなたが好きです!』という告白。
 これはふつうに考えても事実というよりは、未来を見すえての意志が含まれているよね。お互いもっと知り合いたいとか、将来あなたを幸せにしてみせますとか。こういうのは言語学的には、行為遂行的言明というらしい。これに対して天気予報なんかは事実認知的言明という。
 それはいいんだが、さっきの『主語が述語に根拠を与える』というやつね。この見方でみると、この告白は『私の「好き」という感情は、あなたの存在によってその根拠が与えられています』ということを意味する。どうだい」
「…なんだか、シンプルな告白の、意味がぶ厚くなったような感じですね。当たり前のような、そうでないような、不思議な感触の言葉ですね」
 
「うん、僕もよくわからないんだけど、まずここには時間が介在してるよね。私があなたを好きだという状態がポンとあるだけなら、それは瞬間でもありうる。そうではなく、私の「好き」という感情、これは言葉でもあるけれど、そういう抽象的でもありうる曖昧なものが、あなたという存在によって確たる手応えを得ていて、その手応えはあなたと私とがある関係をもつ限りにおいて維持し続ける、あるいは強まったりする、弱められることもありうる、という」
「この告白そのものが、力を持っているみたいですね。好きだと相手に言うことでその好意に気付く、とかもっと好きになる、とか」
 
「そうだね。そういう側面もある。でもね、僕が言いたいのはつまりこういうことなんだ。
 『存在が意味の実質を生む』。意味というのは、単語ごとにいくつか備わっていて、それを組み合わせて文章や発言にして相手に伝えたい内容を伝えるものだとふつうは考えるよね。これは言葉のツール的な、道具としての側面。でも、それは意味の発祥の形ではないし、辞書が整備されれば意味はもう生まれないのかといえばそんなわけもない。
 言葉になる以前のものを伝えるための言葉は、辞書的な意味だけでは力不足だ。定義された意味は社会の共通認識であるとともに、コミュニケーションの微妙なニュアンスの中でその定義から外れていくための土台でもある。その動機、つまり定義から外れて、個々の関係において独自のニュアンスを創造していくモチベーションはどこにあるか。それが『存在』なんだ。『存在が意味の実質を生む』の意味はここにある」
「うむむ。気の遠くなるような…では話を戻していただくと、どのようになりますか」
 
「恋は人間を成長させる、かな」
「いきなり俗に戻ってきましたね。今までの話はいったい…」
「うーん、まあそれはいいんだ。こういうのは断片だけ印象に残れば、のちのち必要な時に浮かび上がってくるから。ディルウィード君、話に整合性を求めすぎると禿げるよ」
「何をまた。フェンネルさんの方が…」
「み、皆まで言うな。墓穴でした。
 
 そうだね…君のアニス嬢に対する気持ちが何なのかは、あまり決めつけない方がいいんだが、アプローチを変えてみるのも一興だよ。
 つまりね、それを恋心だと仮定すれば、ディルウィード君のイメージする恋愛という言葉にひとつの実質が与えられるわけだ。すると、小説や哲学書なんかを読んだ時に、そこに書いてある出来事や論理と、君のイメージとを比較することができるようになる。その比較によって、君の恋愛という言葉が新しい意味を獲得して、君がアニス嬢を見る眼もそれに応じて変わっていく。
 大事なのは、彼女と君との関係が恋愛かどうかではなく、君と彼女との関係を通じて恋愛とは何かを知っていくという姿勢なんじゃないかな。関係は固定しようとするより、変えていこうとする方が面白い。恋愛はそう言えると思うよ、結婚はまた別かもしれないが」
 
「なるほど。
 自分は考え方が保守的になっていたような気がします。いや、でも積極的に行けばいいわけでもないですよね…そうか、彼女のことをちゃんと見た方がいいとおっしゃるんですよね。言葉に囚われ過ぎるのはよくないと」
「そう。言葉は媒体だから
「難しいですね。彼女と喋っていても、一言一句に敏感になっちゃうもんなあ。
 そういえば、話を蒸し返しますが、フェンネルさんの『第三の考え方』でしたっけ、結局あれは何だったんですか?」
「ん? なんだっけな。えーと、恋でも憧れでもなく?
 
 ああそうそう。つまりね、あれは僕にとっての宿題なんだ。『存在が意味の実質を生む』。僕にとってはもう十数年会ってすらいない彼女が、いまだに意味ではなく存在として僕の中にいる。それは端的には謎で、謎だという認識は昔から持っていたけれど、君と話していて気付けたのは、彼女が存在であり続けることによって、それが僕の現在と未来の経験に対して相互作用をすることで新たな意味の実質を生み出す可能性を持っているということ。だから第三というのは、『未確定』か、『募集中』でもいいな」
「ははあ、前向きですねえ。とすると、彼女に会ってみたいとは思わないんですか?」
 
「どうだろう。会えば何かが更新されるか、別の何かが生まれるか、あるいはデリケートな何かが脆くも崩れ去るか。起こりうることが想像できないから、どちらでもいいのだと思う。
 それは巡り合わせ次第だけれど、星が回るためにも、少なくとも生きていては欲しいね。その辺がちょっと危うい子だったから」
「えっ」
「彼女のことを透明だと言ったよね。そういうところにも当時は憧れたんだと思うけど。
 卒業文集か何かにさ、当時流行っていたアニメで、朽木ルキアに似てるって書いたんだよ。誰も同意してくれなかったけど、顔が似ていた。でも今思えば、本質的には黒崎一護の方が近い。教室とか何かの集まりでいつの間にかいなくなることが多かったのは別にしても、『ふっと消えてしまいそう』な感じが、時々あった」
 
「すみません、そのアニメ知らないです」
「そう。僕もそんなに詳しくはないけれどね。有名な海賊アニメでたとえれば、サイボーグの逆三兄ちゃんが仲間になったぐらいまでしかフォローしていない」
「すみません、そのアニメ知らないです」
「そう。……アニス嬢に嫌われちゃうかもよ」
「!!」