human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

鏡としての人工知能(森博嗣『血か、死か、無か?』を読んで)

『血か、死か、無か?』(森博嗣)を読了しました。
Wシリーズ第8作。

ここへ来て、森博嗣の過去のいくつかの著作との関連が一気に見えてきました。
それに応じて、その関連著作の続編的作品との関連があるかもしれないという予感が生まれました。
よくわかりませんが、『赤目姫の潮解*1』を再読してみたい気になっています。

それはさておき、久しぶりにやりたくなったので、以下に抜粋&思考。

「大学で教官をされていたときのことでしょうか?」
「そんな感じで、いろいろとね。どうして、彼女を、僕に質問するように仕向けたのかな?」
「教育的指導です」デボラは答えた。
「それは、誰に対する?」
「もちろん、キガタ・サリノに対してですが、博士の今の発想は素晴らしいと思います」
「僕に対する指導かと誤解したことが?」
「はい、そうです」
素晴らしくもなんともないね。人間っていうのは、うーん、まあ、全員ではないにしても、基本的に自分を責める、被害妄想的な指向性を持っているように思う
「それは、危機回避能力に結びつく重要な要因になります」
「そういう目的ではなくてもね」
 そうではない。まずは、自分の足許を見る。前進するにも、後退するにも、その場に踏みとどまるにしても、自分が立っている地面が確かな強度を持っているのかを最初に確かめる。それが知性というものの基本だろう

森博嗣『血か、死か、無か?』講談社タイガ

「知性というものの基本」、これは言語意識の機能のことだと思います。

自分が変われば世界が変わる、という認識の仕方があります。
自分がいなくても世界は何も変わらずそのまま存在するという、唯物観の対局に位置するもの、唯心論。
この観測の違いは「世界」とは何か、に因るのですが、知性あるいは言語意識とは、唯心論的な存在です。

その知性の「被害妄想的な指向性」、これは端的には「なんでも自分と結びつける発想の仕方」ですが、これが被害妄想、誇大妄想とされる判断の根拠は、客観の側にあります。
判断の可否とは別に、この傾向自体が知性の本来的な発揮である。


先に、知性と並べて言語意識などと書いたのは、言葉がそもそもそういう機能を持っているのではないかと考えたからです。

言葉は、あらゆる存在に名前をつける。
物に、状態に、形のあるもの、ないものを問わず、すべからく。
名前で呼ばれて、それは初めて身近なものになる。
名前を持ったものは、他の言葉たちと関係をもつようになる。

そして言葉は、言葉を発するものと関係をもっている。
まさに自分がそれを言った、というその理由によって。
だから本来は、本人の発言内容に依存せず、本人とその発言内容とは関係をもっている
言葉とは、そういうものだから。

そして社会のシステムは、言葉の本来性を抑制するように構築される。
システムにおいては、言葉はツールとして、集団生活の安定した運営という目的のために用いられるから。
だから、人間関係の構築が促進するほど、言葉の自由な関係構築機能が抑制される、というパラドクスに見えることが起こる。
いや、別にパラドクスでもなくて、単に「変化が落ち着けば安定である」と言っているだけかもしれない。


その、知性、あるいは言葉の問題が、ここ最近、念頭に留まり続けています。
知性の劣化、知性への信頼性の低下、言葉の形骸化、といったことについて。

本で生計を営もうとする人間にとって、これは避けて通れないテーマです。

 × × ×

「(…)メモリィの状態をはじめ、人工知能には、自己診断の機能が備わっている。自分の一部が、別の意思を持つことは許さないようにデザインされているはずだ。つまり、統合が基本だということ。統合することが、自律という意味でもある。意見を一つに絞ることが、演算の主たる目的なのだからね」

同上

人工知能の研究は、産業や社会の維持・発展に寄与するという実利的な目的をもつ一方、人間とはなにかという哲学的な問題を追求する一面もあります。
石黒浩・阪大教授の研究は後者の一面が強く出ている好例で、石黒氏はアンドロイドを扱っていますが、アンドロイドは人工知能以上に「鏡で自分を見ている」ようなものだと思います。

とふと思ったんですがそれは派生の話で、最初に抜粋して思ったのは、人間にもし身体がなければ「こう」なのではないかということ。

世界に人間が一人しか(残って)いない場合を想像したとき、彼の判断に他人の事情が介在する余地はないわけですが、それでも「自分の一部が別の意思を持つこと」はありうると思います。
腹が減ったが、獣を狩ろうか、木の実を探そうか、とか。

いや、そんな極限状態でなくとも、身体の状態、たとえば健康状態や運動状態などが、個人の意思や判断をダブらせることはあります。
あるいは、個人以外の身体との接触状態も、身体の状態に含まれるでしょう。
こういった、演算不可能に思える(モデル化・数値化はできても論理に移すと膨大な情報量が欠損する)ことを人工知能がどう扱うのか…いや、人間自身が扱うにしても、既に欠損があるのでしょう。

この小説の中では、身体(性)の有無は人間の定義に含まれていないようです。

 × × ×

「作戦や戦略について助言をしたことは?」
「ありません。そのような具体的な話をするには、状況を把握するデータが必要です。ここに来てから、その後の入力は一切ありません」
「宝の持ち腐れですね」僕は呟いた。日本語だった。
「ハギリ先生のおっしゃったことは理解できます」イマンはすぐに反応した。
「その境遇に対する、君の考えは?」僕は尋ねた。
境遇に対する評価は行いません。目的が設定されて初めて、それを実現するための環境を評価することができます

同上

「宝の持ち腐れ」とは、イマンと呼ばれた人工知能がオフライン化で長い間使用され、イマンが持つ機能が十分に発揮できる状態でなかったことを指しています。
この状態に置かれていたことに対する人工知能の自己評価が抜粋の最後の発言です。
これが僕には、とても人間的に思えました。
人工知能の発言として違和感のない表現でありながら、人間だってまさにそうじゃないか、と思ったのです。

確固とした目的がブレずに長期に渡って持続するものであれば、境遇に対する評価は、実際の変化に追随した、安定したものとなるでしょう。
逆に、目的がコロコロと不断に変わるようであれば、境遇自体に大きな変化がなくとも、それに対する評価が大きく変動することがあり得ます。


ところで、「目的の設定」と「境遇に対する評価」の関係について。

ふつう、時系列では前者が先に来ます。
が、その逆を考えると、”評価が目的を生む”というようなことになりますが、これは前回の記事に書いた「発明は必要の母である」という逆転した諺と同じ構造に見えます。
と気付いた瞬間に予感したことですが、この「評価が目的を生む」事態も、同じく現代でありふれて存在するようになったことです。

情報技術の発達、増殖を続ける無尽蔵のウェブリンク、クラウドコンピューティングによる身の丈を遥かに超えたデータベースの参照可能性、これはある視点をとれば「評価の坩堝」の巨大化でもあります。

ある目的に対して、なんらかの行動・実験・思考を行った結果として、一定の評価が定まる。
目的は前提であり、評価は、それを導く行動・実験・思考を含めればプロセスです。
ところが、データベースとして存在する「評価の坩堝」とは、それを参照する者にとってはプロセスではありません。
物語を読むように、プロセスの追体験として読み取ることもできますが、結論の既に定まったそれらの臨場感は、既に失われている。
いや、データベースを物語と解釈すればできないことはないが、それは情報技術の利用としては例外的な方法でしょう。
話を戻しますが、情報技術の発達は、「プロセスの前提化」といえる現象を促進しているのではないか、と書いていて思いつきました。
この現象は、技術の最先端や高度な利用状況においてよりも、情報技術を単純に利用する、技術の仕組みに触れずにただアウトプットを享受する環境、つまり一般人の日常生活においてより顕著に観察されるはずです。


「評価が目的を生む」、この事態が意味するのは、目的の流動化です
それは例えば、一人の人間に対して、立つべきと思えるスタート地点が無数にあるようなもの。
そしてスタートを切り、走っている間もずっと、自分が選ばなかった多くのスタート地点が視野に入り続けている。
スピードを緩めないために、頭が混乱しないために、目を瞑りたくなるのは自然なことです。
でも、目を瞑って全速力で走ることはまた、極めて不自然なことでもあります。

なんの話をしているのだと思われそうですが(僕も同感です)、人工化が、それ自体を自然と見做せるようになろうともある「不自然」を否応なく背負わせてくるものだとすれば、僕は、「不自然」に絡め取られて見失うのではなく、自ら「不自然」に光を当ててそれを直視しながら生きていきたいです。

きっとそうすることが、知性を信頼することだからです。

*1:googleでタイトルの検索一覧だけ見たんですが、どうやらコミック化されているようです。読んでいてかなりイメージしづらい作品だったので興味はあります。いずれまた巡り会えるでしょう。