human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ポスト・トゥルースの意味

 
ルーマンの文章はことさら、その文章だけ読んで何を言っているかがさっぱり分からない。
だからその文章に補助線をいくつもいくつも、たくさん足すことになる。
すると当然その理解は自分(の文脈)だけのものになるが、同時にもう一つ気付く。
補助線を描き入れて何らかの形を見出したルーマンの文章こそが、思考の補助線であったことを。

 × × ×

オートポイエティックな閉鎖性という考え方は、二分的選択が強制されるという機能の理解を可能にする。システムはそのオートポイエーシスを継続でき、また停止できる。システムの活動は、意識の状態の生産を、ただ終了するだけという選択肢とコミュケートすることを、継続できる^{*33}オートポイエーシスの観点では、第三の状態はない。これはパワフルな技術的単純化である。(…)社会システムができることは、ただコミュニケートするだけである。生命システムは、生存できるだけである。(…)オートポイエーシスを継続するかしないかということは、諸可能性の全体という内部的代理表象として役立つ。起こりうるすべてのことが、システムに対して、これら二つの状態の一方へと縮減される。世界は、それがなんであれ、この問題に対し無関心であろう。システムは、この選択をつくりだすことによって現れる。

社会のオートポイエーシスは、理解不足やあからさまな拒否反応にもかかわらず、その継続を保証する強力なメカニズムをつくりだしてきた。それは、相互行為上のコンテクストの変更や、再帰的コミュニケーションによって、継続する。コミュニケーションの過程は、コミュニケーションそれ自身へともどり、みずからの困難さをコミュニケートすることとなる。(…)このテクニックを用いるシステムは、みずからのオートポイエーシスを終了させることはなく、また終わりがくることもない。

*33 : それゆえ、この理論[=オートポイエティック・システムの一般理論:引用者註]の「最終目標」は、完全な状態という意味での「目的(テロス)」ではなく、まさに逆である。すなわち、再生産されゆく不完全で非蓋然的な状態によって回避されなければならないゼロ状態である。もっとも基本的な方法において、この理論は、反 - アリストテレス的傾向を有している。

「第一章 社会システムのオートポイエーシス」p.26-28,37-38
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

まず自分の読み込みの話ですが、

註33について、文章をそのまま読んでよくわからなかったので(註のついた一文のもってまわった言い方を僕は「システム主観」と呼びたい)、ここにある「最終目標」とは、文末を少し言い換えて”ゼロ状態を回避すること"だと理解しました。
そして「アリストテレス的傾向」とは、たとえばイデア的観念論、本質のイデア化、のようなことだと思います。
イデアが理想だとして論理が終わると、コミュニケーションも終わってしまうので。

また、これはただ連想だけを放り出すんですが、「パワフルな技術的単純化」について、たとえばウィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙せねばならない」という言葉がそれなのかな、と。
それは意味のオートポイエーシス・システムにおける閉鎖性の機能を表す言葉である、と。
オートポイエーシス・システムの構成要素が開放性と閉鎖性をもつことが、そのシステムの維持の前提だということです)
では開放性の方はなにかといえば、たとえば詩の活動や、辞書の改訂など。

あともう一つ、「再帰的コミュニケーション」、「みずからの困難さをコミュニケートすること」、これらは僕らの身近なコミュニケーションの例でいえば、メッセージに対するメタ・メッセージに注力することですね。

 × × ×

ここからは、記事タイトルに寄せての自分の連想と思考が主体の話です。


オートポイエティック・システムというのはあくまで一つの見方、観察方法なのですが(以下、システムと呼びます)、

いちどシステムとして生まれたものは、機能を持ち、システム維持という目的を持つ。
システムは維持するか廃棄するか、のどちらかの選択を常に行っており、その中間はない。
己を廃棄するという選択をし続けることも可能であるが、そういう事態を回避するための高度な機能も有している。
システムの(構成)要素の選択(たぶんルーマンが「出来事」と呼ぶもの)が、システムの維持か廃棄のいずれに寄与するかは、自己維持というシステムの目的とは関係がない。

いや、「関係がない」というか、システムの要素とは社会システムであれば僕らのことですが、僕らはシステムの維持(人類の滅亡を避けるとか、SDGsとか)にもちろん関心はあり、その関心に沿った活動がシステム維持に寄与することもあるわけですが、システム理解のためにはまず「それはまた別の問題である」と考える。

ルーマンはシステムの機能である自己言及性について、その構造レベルの自己言及性と、内部要素における自己言及性を分けて考えろというのですが、僕らのこの関心や活動とは、後者を指すのかもしれません。


それで本題ですが、

アメリカのトランプがその流れを決定づけたといわれるポスト・トゥルース社会、「真実のあと」、たとえばそこでは事件や現象、その歴史的事実や科学的正当性の「それそのものの力」が減殺されている。
事実や正当性の内容よりも、それを誰が言ったか、どう伝わったか、といった形式に重きが置かれる。
「誰が言ったか」、その回答として重きがおかれるのは、二極化が進むといわれる格差社会における上位の人々です。

別の側面からすればそれは論理の軽視、反知性主義のあらわれでもある。
そして言説のすり合わせ、論理の吟味、それらの機会が失われることは、ある面におけるコミュニケーションの減少である。
というのは、そこでは「再帰的コミュニケーション」がはたらかないから。

前にルーマンの「情報」「伝達」「理解」という三要素を取り上げました。
システム内のコミュニケーションの継続のために、これらは適切に相互作用をし、また継続のために適宜重み付けがなされる。
この要素を身近に引き寄せて使いますが、今の社会状況は、「伝達」のみがクローズアップされ、残りの2つが置き去りにされているように見える。
「伝達」だけでは、新しいものを何も生み出さない。
システム内のコミュニケーションは停滞する。

 × × ×

閑話休題

話が全然まとまりませんが、結論らしきものへ向かいます。

システムの作動という観点でみると、現代社会の極端にみえる動きは、どれもシステムのもつ(自己維持の、あるいは自己廃棄の)機能によるまっとうなふるまいであるかもしれない……という印象をルーマンの本を読みながら持ちました。

事態を説明できることと、その解決に一歩を進めることの間には、千里の径庭がある。

そりゃそうなんですが、

システムを維持しようとするつもりがその廃棄に向かっているのだとして、
自覚というのは自分(あるいは社会)の行動の意味の理解のことですが、
その自覚によって進む道を修正する入り口に立てるのがまず一つ、
それは修正する気があるならという前提ですが、
もう一つはそれほど違和感なく現状維持に邁進できるようになること、
これはつまり「自分たちは破滅に向かっているけどまあいいや」という開き直り。


何をどうしたいのであれ、
やりたいと思う内容とその行動がズレたままそれを放っておくと、
現状は悪化しかしないし、
その悪化への対処が「現状と論理にどんどん鈍感になること」しかなくなります。
自分が望んでいる状態があって、
そこに至ったのに喜べないというのも悲しいことです。


自分は自分で、正しいと思うこと、世の中のためになると思うことを、
しようと思うのであれば、する。
そのうえで、でも周りの人々がそうしない、
また社会が自分(のような心持ちの人)を評価しない、
という嘆きが自分のしたい行動に水を差すようなことがあるならば、
わだかまりなく信念を行動に移すための、
その「わだかまりをほどくための理解」には、
プラグマティックな価値があります。

グラスルーツの活動には行動だけでなく思考も必要だというのは、
こういう理路によります(いきなり話飛んでますが)。


…タイトルに触れていないような。
付言します。

端的にいえば、
ポスト・トゥルースは、
意味の創造という側面のコミュニケーションの減少を招く。

別の言い方をすれば、
他者とのコミュニケーションにおいて、意味の創造が減少する。
物語や論理の捏造は、それを押し通すためのコミュニケーションに利用されるだけで、そのコミュニケーションが再帰的にはたらいて意味を創造することはない

ではこの流れ自体は社会システムの廃棄に向かうものなのか?
それはわかりません。
一面だけを取り出して総論の方向付けはできない。

でも、仮にそういう向きの流れがあるとして、
自分はそれに棹さすのは御免だと思うならば、
自分の地道な生活において言葉に対する姿勢もおのずと決まります。