再び、沼りました。
「無人島に一冊」はもうこの本で。
と、まだ読中(でももう終盤)の今なら思える。
「読中の今なら」というのは、
思考が滾(たぎ)るのは橋本治の本を読む間が最高潮であって、
自慢でもなく単純に経験則として言えるのですが、
こんな文章は橋本治の本を読んでいる間しか書けなくて、
未来の自分が読めば「へー!」と感心するであろうことは疑いないからです。
以下、本題。
× × ×
「自分ははっきりしている。しかし、他人は他人」というのが、本居宣長である。この「他人」は、彼に論難を仕掛けて来る他人[上田秋成]に留まらない。だから、門人にさえこう言ってしまう──《物まなばむと思はむ人あらば、たゞ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちて外には、さらにをしふべきふしはなきぞとよ》(『本居宣長』四十の「玉勝間」七の巻)
(…)
《おのれとり分て人につたふべきふしなき事》と、《小手前の安心と申すは無きことに候》とは、同じことである。
《人ノ好ミニ、マカスベシ》と言い、《さらにしふべきふしはなき》と言い、《無きことに候》と断じてしまう本居宣長は、一向に揺らいでいない。これを追っても無駄である。
「第十章 神と仏のいる国」p.374-375
橋本治『小林秀雄の恵み』
ここを読んでいて(僕が)思いついた、というだけで、
この文章の文脈はあまり関係ありません。
でも少し触れると、
「本居宣長は一向に揺らいでいない」、
「しかし小林秀雄はこれ(これらの発言の状況)を揺らいでいると考える」、
と書く橋本治は「一向に揺らいでいない」。
というように、
研究対象(=本居宣長)と主体(=小林秀雄)とが渾然一体となっている『本居宣長』という本を、
同様に渾然一体になって(同時に明確に分かたれて)読み込んでいるのが『小林秀雄の恵み』です。
さておき。
『本居宣長』の引用文は漢文の書き下し文(つまり古文調の感じとカナorひらがなの羅列)が多くて、
最初はうへえと思いながらゆっくり読んでいたのがだんだん慣れてきて、
終盤にたどりついた今はその「ごちゃごちゃして見える文」をむしろ楽しめるほどになったのですが、
これまで『小林秀雄の恵み』を読んできた内容と相まって、ふとした発想が湧きました。
『源氏物語』では、和歌がコミュニケーションとして登場人物のあいだでやりとりされます。
その和歌や短歌(どう違うのだろう…)を学校で古文として習う現代人の僕らは、
単語の一つひとつ、また助詞や助動詞の用法の多さに辟易します。
歌の文脈や背景を知り、また用法を理解すれば、「正解」である一つの意味や用法を導ける。
高校の古文の授業でそこまで割り切って教えるかどうかはわかりませんが(僕は記憶がない)、
マーク式のセンター試験で「正解を一つ選ぶ」という問題の出し方が成立している以上、
その試験の問題用紙に「最も適切と思われるものを選べ」という、
"ただ一つの正解"よりは若干ニュアンスの弱い表現が書かれているとしても、
問題を解く方(受験生)はそれを「ただ一つの正解」だと素直に受け取るほかはない。
何せ、そんな微妙なニュアンスにかかずらう余裕なんてないから。
さて、古代のコミュニケーションを現代人はそのように読解することになるのですが、
古代人(平安時代の人々)が、この現代人と同じように和歌を捉えていたはずはない。
では、古代人にとっての和歌とは、いかなるものであったのか?
それは連想として思い浮かぶ疑問の一つであって、
その答えが現代に活きるかどうかは連想の発生とは無関係なのですが、
それを僕は「活かせる」と直感したので、ちょっと書いてみようと思ったのでした。
僕は古文の文法もだいぶ忘れているし、
古典の素養もありません(受験科目としての古文は苦手でした)。
そういう人間が書くものとしてお読みください。
× × ×
和歌において「価値あり」とみなされている要素。
僕が思いつくのは、総括していえば「多義性をもつことば」です。
たとえば、
二つ以上の意味が同時に成立する助詞(名詞も?)の用法「掛詞」。
また、その掛詞を複数登場させて、さらに組合せの妙を生むもの。
ある単語や枕詞が、かつて読まれた先人の歌を連想させる「本歌取り」。
などなど。
これらの「多義性を賦活する技法」を駆使した歌が、名作とされる。
この名作は、コミュニケーションの手段としても「名作」なのかどうか?
全くの想像ですが、僕はこれを「イエス」だと考えます。
そういう前提で、(たとえば平安時代の)和歌のコミュニケーションを考えてみます。
よく知りませんけど、雅な人々は、
使者に文を持たせて意中の人に歌を送って寄越した。
その返事の手続きも同様。
電信電話が発明される以前の「郵便手紙のやりとり」より、さらにスローペース。
そのようにして届いた、一つ(複数?)の和歌。
(そこに文章が別についていたのかもしれませんが)
この和歌が「コミュニケーションとして良好に機能する」とは、どういうことか?
それはたぶん、現代のコミュニケーションが目指すところと、正反対のものです。
雅な古代の人は、和歌に接して、
「この掛詞が思わせる複数のうち、どの意味が正解か?」
などと悩むようなことを、おそらくしない。
そのような発想すら持たない。
彼の実感を代弁(現代語訳)すれば、こうなる。
「へえ、この歌はこうも読めるし、ああも読める。あ、こういうのもアリ? すげえなあ」
一つの歌から思いつく限りの可能性を、その各々を広げていって、
ではその中のどれが「最も確からしいか」という発想を、一切持たない。
ここにコミュニケーションの価値というものを登場させるなら、
それは「その一つの歌が、どれだけ多くの連想を起こさせるか」にある。
こういう言い方をすると、「意思のはっきり伝わらない言葉は曖昧で困る」と、
現代人はそれに価値があるとは思わないかもしれません。
でも、別の言い方もある。
「一つの歌が、受け手に多くの連想を呼び起こすこと」、
これの意味するところは、
「その連想が続く限り、受け手はその歌(つまり読み手)のことを想い続ける」
ということでもある。
ある一群の言葉が、コミュニケーションとして相手に伝えられる。
その言葉の意味が明確であるということは、
その言葉の意味の判断に、相手はさほど「時間」を要しないということでもある。
たとえば、「オッカムの剃刀」という概念は、
この「時間」は短ければ短いほどいい(その言葉に価値がある)という価値観を含んでいます。
「コミュニケーションはそれが継続することに価値がある」、
おそらく、この根本的な発想は、古代も現代も変わりません。
システムの生命はシステム内のコミュニケーションの継続だ、
とニクラス・ルーマンも言っている。
ただ、現代はその「継続」をどう実現するかという段になって、
「意味の明確な言葉を次々に(つまり大量に)投入する」という方法を採用する。
ちょっと誤解のある表現なので言い直すと、現代人は、
言葉のキャッチボールの「ボールの往復回数をどんどん増やす」ことでその継続を実現する。
一投のボールに含まれる言葉の量は、副次的なことで、
そのボールの「往復回数」が多ければ多いほど、コミュニケーションが充実していると判断する。
そして、古代人は「そういう考え方をしない」。
無論、手段がない(短時間に大量の言葉をやりとりできない)ということはあります。
でも、その手段がないことは、「そういう考え方をしない」ことの原因ではない。
むしろ話は逆で、
その手段が「ある(ようになった)」からこそ、現代人は「そういう考え方をする」ようになった。
さて、では古代人はどう考えるか。
古代人はおそらく、
コミュニケーションの継続状態を「その相手を想う時間(の長さ)」と捉える。
一つの和歌に接して、
「ああでもないこうでもない」と悩んでいる時間、
その時間が続くあいだはコミュニケーションが継続している。
そのように考える。
だからこそ、「ああでもないこうでもない」を読み手に続けさせてくれる、
掛詞や多義語を多く含んだ多義性の豊かな和歌が好まれ、名作とされる。
「コミュニケーションに用いられた言葉の意味が一つに定まらないこと」、
現代(の特にビジネスの場面)では「無作法」や「落ち度」とされるその特徴は、
古代の人々にとってはその真逆の価値、すなわち「美点」であり「福音」なのです。
いや、現代のすべてでそうだとは言いません。
恋人の手紙(メールよりはやはり紙でしょうね)のやりとり、文通を考えればいい。
「恋人のことを想う時間そのものが幸福だ」という感覚が、そこにはある。
また「恋人が好きなものは全部好き」という感覚だってありますが、
これなんてまさに、
「和歌から連想されることは全てその和歌の送り主の一部である」
てなもんでしょう。
ただ、その幸福と感じる「恋人を想う時間」に、
「恋人が何を言ってるかよく分からなくて悩む時間」を含められるかどうかは、
人によりけりだと思いますが。
とはいえ、恋人の文通は、
「コミュニケーションの古い考え方が抜けずに残っている」のではなく、
「コミュニケーションの本質が形骸化を免れて残っている」、
そう考えるべきだと思います。
というのも、
コミュニケーションは「相手のことを考えてなされる」のが基本中の基本で、
その基本はマニュアル化やデジタル化でどんどん忘れられつつありますが、
(マニュアル化の一面は「いかに労力を割かずに相手のことを考えるか」でもあって、
だからこそ敏感な人は顧客マニュアル一辺倒な対応に「コミュニケーションの抜け殻」を見る)
それを思い返すには、
「相手のことを全く考慮せずになされるコミュニケーション」がいかなるものか、
を想像するだけで足ります。
パッと思いつくのは、ネット上のHPに溢れる「ターゲティング広告」ですね。
文字や画像の情報の伝達によって意思が喚起されるので、
この広告だってコミュニケーションの一種ではある。
が、多くの人は、ネットサーフィン中にこの広告に遭遇して、不快感を味わう。
なぜか?
自分が欲しいかもしれない情報(商品)がその広告に含まれているとしても、
(ターゲティング広告の内容は、ネット使用者の検索履歴などをベースに選ばれています)
その広告の提示は、「自分のため」に為されているのではないからです。
もっと言えば、
受け手の欲求に沿うという面で「相手(自分)のため」という装いをしながら、
その唐突さ、タイミングの悪さ、閲覧中のページ内容への集中を乱すこと、などが示すように、
「相手(自分)のことを想って」という要素がそこには欠片も存在しない。
だから、
ページの閲覧に自分の内面を引き出している人ほど、それを気持ち悪いと感じる。
逆にいえば、
ターゲティング広告を何ら不快なく見過ごせる、あるいは利用できる人は、
それをコミュニケーションだと認識していない。
(単に鈍感、というのもあるのかもしれませんが。
話は逸れますが、読書中に「知らない単語を無意識に読み飛ばす」若者がいる、
という内田樹のブログの話をふと連想しました)
話を戻します。
もし、コミュニケーションの実質が、
「コミュニケーション相手のことを想像する時間」にあるとすれば、
そのコミュニケーションに要する情報量は二の次でも構わないはずです。
しかし、その「時間」は、それだけでは何も生まない。
情報の量こそが、あるいはその情報が引き出す行為の結果に価値がある。
「何も生まないなら意味がない、ただの時間の浪費じゃないか」、
だから恋愛は無為だとか(結果が伴わなければ)徒労だと言われることもある。
そして、この考え方が生産主義であって、
たとえば古代の人々には思いもしなかった発想でもある。
× × ×
なんだか最近、生産主義を批判する話ばかり書いている気がしますが、
橋本治を読んでいるとそうなるというところもあって、
つまり「あまり人が言わないこと」だからです。
あまり人が言わないことは、あまり人が考えないことでもあって、
それは自分自身で何かを考えようとする動機のある人にとって、格好のテーマとなる。
だから、言うまでもありませんが、
この論考はほぼ自分のために書いています。
(「学者としての本居宣長」もそのようであった、と橋本治は書いています)
あ、
あと一つ連想することがあって、
僕は日常的な「念頭の関心」の一つとして、
現代に蔓延する「それっぽさ」志向、「やってる感」志向が気になっているのですが、
この問題は「コミュニケーションの宛先」という観点でも読み解けます。
マスメディアの発達がそもそも「コミュニケーションの宛先」を不明確にしたのだと思いますが、
ネットツールの発達はそれに拍車をかけることになりました。
そして、受け手がそれを当たり前に享受して消費するようになったということは、
「コミュニケーションの宛先」に対する関心が低くなったということです。
あるいは、「プライベート」と「それ以外」という形で、
その関心の配分を明確に分けているのかもしれませんが、
テレビの普及が対面コミュニケーションの臨場性に影響を与えたように、
その明確な配分が「明確」になされているとは限らないだろう、と思います。
何より、「宛先」に対する無関心は、
身の丈レベルで自分の周辺で起こることに対する感度の低下と、
(直接といっていいほど)対応していることが僕は気になります。
都会にいるとそれをひしひしと感じて、
でも自分のその感覚は失いたくないと思うから、
人の少ないところで暮らすという生活願望が持続しているのですが、
人口密度が低ければ自分が感じる不快感が避けられるのかと言われれば、
本記事でこれまで書いてきたように、問題はそれほど単純ではありません。
「逆張り反デジタル主義」みたいな本が最近新聞広告に載っていますが、
タイトルだけ見れば僕も同意したくなります。
が、どこに行こうとも、
そこにいる人を、まずはしっかり見なければならないと思っています。