論理を整理したいというわけではないのですが…
こんにち個人主義を再構築することは、主体なるものの再肯定を意味するものではありえない。われわれは主体に、そのふさわしい継承者、この諸問題に関し、また現代社会の社会構造との関連においても適切な継承者を見つけることによて敬意を払うべきである。
具体的な提案をなすことは、もちろん、危険かつ困難なことである。にもかかわらず、われわれは、近年ブームとなっているわれわれが「自己言及システム」と呼ぶようになってきたものの研究に関する、単純だが広範囲に及ぶ所見をもって開始することができよう。
「第五章 個人的なるものの個的存在性」p.95
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』
引用以下同
この引用部に続く項目はぜんぶで7つあります。
1つずつ取り上げて、関連部分とともに抜粋してみようと思い立ちました。
(が、1の話は次の投稿になりそうです)
1 自己言及諸システムは経験的であり、超越論的地位をなんらもつものではない。(p.95)
われわれは、オートポイエティックな諸システムのエコロジーにおいて、たとえ最高位でないにしてもとにかくも固有な地位──ちょうどゴットハルト・ギュンターが人間の自己意識性に関して述べていた、あらゆる自己内省の諸構造のなかで「もっとも高度にして豊かなもの」のような──を欲してはならない。(p.99)
人間であろうと欲することには、なんらの科学的基礎も存せず、そう欲することはまったくもって衒学的なことである。(p.100)
自己言及性は、あまりにあらゆることを含んでいます。
「地球には植物と動物がいる」
「人間とは動物の一種である」
というレベルの、範囲が広すぎて、言ったところでどうなる、というような。
自己言及システムについての説明論理は、それ自体が自己言及となります。
自己言及についての言及、それはなにかを確定させるための説明ではない。
言及一般が実はそうで、その中でも、自己言及への言及は尚更そうである。
言及自体がその生命性であり、創造循環し続けることがその躍動性である。
「語るに落ちる」という言葉をふと連想しましたが、
これは「問うに落ちずに語るに落ちる」という諺の前半を略したものだそうです。
この型を借りれば、自己言及性とは、
「問うて落ち、語りて落ちて、」
という感じです。そして、
「句点落ちずに読点落ちる」、
ここに終わりはない。
終わりがなければ、始まりしかないのか?
あるいは、
終わりがなければ、始まりもないのか?
そうかもしれない。
(SRS = Self-Referential System)