human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

世界が個人になってきた

 この理論は、非蓋然的なコミュニケーションを三つの基本的諸問題の諸側面に関して蓋然的なコミュニケーションへと変換する際に必要とされる一連の媒介物を包みこむ一般概念を要請する。そのような媒介物を「メディア」と称することとしよう。
「第三章 コミュニケーションの非蓋然性」p.55-56
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

これは第三章の「メディアの概念」の節の冒頭文です。

こんな面倒な調子で文章は続くんですけど、
回りくどさと断定キッパリさが並存して訥々と続くと、
そこに奇妙な説得力があるように感じられてきて、
見限って読み飛ばさず、立ち止まって考える気にさせられます。

そうして4ページばかりにうんうん唸っているうちに、
面白い考えが浮かんできたので、私的読解を織り交ぜながら、
そこまでたどり着けるようになんとか書こうと思います。


この節でルーマンは「三つの異なった種類のメディアの意義および作動範囲」への言及を通して「メディア」の分析を試みています。
と、この括弧書きは抜粋なんですが、こうして三つと言いながらその三つは具体的に明示されておらず、不親切なんですが、この本の原著タイトルが「エッセイ」なのでまあ仕方ないか…と思う箇所だらけですが(だから「翻訳が悪い」という可能性はとりあえず考慮外)、それはさておき。
僕自身の考えが膨らんだから、というヨコシマな根拠による僕の読解によると、その三つとは以下のようです。

  1. 記録(=有形化、空間に対する固定)
  2. 保存(=不変化、時間に対する固定)
  3. 「第三の種類のメディア」

この三つが並列されるような同位相であるかは疑問なんですが、ルーマンのエッセイは「既存の単語を既存でない概念・意味で用いる」ことが常態化しているので、とりあえずそこは深くツッコまないことにします。
この言語運用法は、言語(発話)の限界に挑戦し言語の機能を拡張しようとする一方で、表現された文章の一般性(文法や論理に従えば誰もが一定の理解や結論を得られること)を著しく損なう側面もあるんですが、この話もまたエッセイの別の箇所のテーマであって面白いんですが今は深入りしない。

さて、「第三の種類のメディア」についてはこう書かれています(p.57-58)。

第三の種類のメディアは、シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアといえるであろう。というのは、それらだけが効果的にコミュニケーションの目的を達成するからである。社会システムに準拠して、[タルコット・]パーソンズは、この種のメディアの例示として、貨幣、権力、影響力、そして価値コミットメントに言及している。さらにこのリストに、科学の領域における真理を、親密な関係における愛を付け加えたいと思う。

[このメディアは、]普及技術によって対面的相互作用の諸境界が超越され、情報について正確な知識をもたず、またそこにいあわせない公衆のために、またいまだはっきりとは決定されていない諸状況のために貯えおかれることを可能にする場合にのみ成立する。換言すれば、それらは、一般的に利用可能な書き記すという形式の[持つ側面である]より重要なる発明に依拠しているのである。

[ ]内は引用者付加

先に並べた三つの種類のメディアは、この引用にある「第三」の例示と性質を対照の基準として僕が考えたものです。
…いや、違いますね、すみません。
「第三のメディアだけが効果的にコミュニケーションの目的を達成する」というルーマンの断言をスタートに、ルーマンのいう「コミュニケーションの目的」を思い起こし(それはエッセイのもっと前半に書かれていたはず)、三つのうち残り二つはこれとは対照的な性質を持つだろうと仮定して、それに見合うものとして残りの二つを本節の文章から抜き出したのが上の1〜3です。

つまり、「第三のメディア」は、記録と保存が持っていない性質(「時間・空間に対する固定」に抗する趨勢)を持つものとしてその機能を効果的たらしめている、と考える。
すると、パーソンズルーマンが「第三のメディア」として例示したものが、(個人目線からは隠れていた)両義的な機能をもっている視点が得られる。

たとえば、貨幣、権力、影響力といったものは、これを扱う(特に他者より多く所有する)個人にとっては確定(固定)させたい対象ですが、これらメディアそのものとしては、それが個人に滞留するとメディアとしての機能は減じていくことになる。
「価値コミットメント」は、コミットメントの意味を関与や言及とすると、批評活動や議論・意見交換などを指すと考えられます。
つまり、ある存在価値に対する関与・言及によってその存在価値を変化させるムーブメントのことで、これはそのまま変化することがメディアの機能になります。
「科学の領域における真理」、あらゆる科学的言説は仮説であって反証可能性がその存在根拠であることを思えば、真理が「不変の真理」として固着してしまえばそれはメディアとしては死ぬことになります。
「親密な関係における愛」、この愛を共有する人々の意思はその不変と永続を願うものですが、幸せと同じく愛とは加速度(傾き)であり、元の形を留めないことがその状態の持続条件です。

…こうして例を検討していくと、「第三のメディア」というのはすべて、メディアの志向とその所有者の志向が逆向きのベクトルであることがわかります。
考えてみれば当たり前のことで、特にお金については昔も今もうるさく言われ続けていること(たとえば「守銭奴」と「金は天下の回りもの」)です。
でも、現代社会のことを考えると、「第三のメディア」に対するバランス感覚が崩れてきて、両者のうちの「所有者の志向」を強調、重要視する流れがあるのだと思います。


ルーマンは、文明の発展に伴うこの「第三のメディア」の種類の増大(社会システムの分化)が、コミュニケーションの諸可能性が増大する程度と相関するといいます。
しかし、コミュニケーションの普及や到達の可能性が増大することは、その成功(相手の理解やその行動変容のきっかけとなること)の非蓋然性を増大させることでもある。

社会システムの分化とは、たとえば学問や職業の専門領域の細分化による増大のことですが、そうして増え続ける個別領域(これはまた恣意性の増大でもある)をシステム内に取り込むには、「恣意性を、たえずさらに広範に制度化していく必要が生じる(p.59)」。

このことを、僕は「恣意性の普遍化」と読み替えて、なんだか二頭の牛に両手を繋がれた人間が引き裂かれるようなムチャな話だと思ったのとは別に、「そもそもこれは人間の志向そのものじゃないのか」とも思いました。

僕自身は橋本治森博嗣の著作を多く読み込んで感じるようになったことですが、専門性とか、自分自身のことを深く深く掘り下げていって、その先に普遍的な思考や価値観を見出すことが人間にはできます。
この意味では「普遍性」は「一般性」とは違います。
…すごくテキトーな言い方をすれば、普遍性は「よく考えればあたりまえ」、一般性は「表面的にわかるあたりまえ」。
世の中が回るには表面的な理解に基づいたスピードが必要でもあって、必ずしも普遍性は世界の現実(プラグマティックな価値観)に対して妥当であるとは限らないんですが、知性と時間への信頼に基づいた思考が到達するのが普遍性。
んーー、でもこれ余計な脇道でした。忘れてください。


話を戻すと、
ルーマンの論理を僕の関心に引きつけて解釈すると面白いアナロジーが出てきたという話で、

社会システムはその運用過程で「分化・特殊化に向かう傾向=恣意性の増大」と「制度化による秩序形成=普遍性の増大」という逆向きの二つの傾向を持つ、それは文明が発達するほど顕著になるもので、今世界で言われる様々な「二極化現象」をその現れと見ることができますが、その二極化のベクトルは一個人が内に抱え込んでいるものでもあって、個人においては身体性がそのバランスを取り持っていて、だからこそ「現代社会で取り戻すべきは身の丈感覚である」という言説が説得力を持つんですが(これは僕も強く同意します)、

世界が、文明が、自らの二極化傾向を顕著にしてきた現代というのは、
この世界文明が「一人の人間」としての姿を現してきた時代なのではないか。

そういう視点をもったときに、
「世界の中に生きる自分(個人)」が、
昔と今とでその感覚が随分と変わってくるなあ、と。


個人の感覚が変わってくるというのは、
それに応じて集団内で個人を律する道徳や倫理も変わらざるをえない、
ことも意味します。

それは「一人の人間としての世界」の自己破綻や自殺を防ぐために、
必要不可欠なことなのかもしれません。