human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

システムの主観、遺伝子の語り

なにかが述べられなければならない。つまり、他者が存在すれば、すくなくとも善良で平和的な(あるいは邪悪で攻撃的な)意図が示されなければならないのである。

「第一章 社会システムのオートポイエーシス」p.14
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』土方透+大澤善信訳、国文社、1996

 
「着実な隔日本」として、つまり長期にわたる、ちょっとでもいいから数日に一度は読み進める本として先日シュッツの『生活世界の構造』を読了した、と書きました。
これの前はアイン・ランドの『水源』で(半年くらい読んでた)、その前は忘れてしまいましたが、最近は「重め」を選ぶ傾向があり、では次はと一昨日手に取ったのがルーマンの本でした。

これもまた厄介そうで、長期のお付き合い必至ですが、テーマは興味があるので腰を据えて対峙するとします。
 

 社会システムは、オートポイエティックな再生産の特別の様式としてコミュニケーションを用いる。(…)コミュニケーションは、「生命体」に関する単位ではなく、「意識」でもなく、また「行為」でもない。このコミュニケーションの統一は、三つの選択、すなわち情報、伝達、そして理解(誤解を含む)の総合(ジンテーゼ)を要求する。(…)情報、伝達そして理解、それらはシステムの──システムにとって独立して存在することのできない──局面であり、それらは、コミュニケーションの過程の範囲内で、同時に造られる。

同上 p.11

 
ここを読むだけで、ルーマンのいう「コミュニケーション」が、僕らが日常的に人と交わすそれとは別の水準のものを指していることがわかります。

でももちろん、違うというだけで、関係がないわけではない。
その関係は目に見えず、幾重ものバッファを介して茫漠としている。
 

G・ギュンターによって提唱された術語を使えば、コミュニケーションの過程は、あるがままのものがあるといった意味での単純な自己自身に対する言及(auto-referential)ではないということができよう。それは自己自身の構造によって、他者言及性と自己言及性との分離、また再結合を強いられるのである。それ自身に言及することで、過程は情報と伝達を区別しなければならず、また区別のどちら側がさらなるコミュニケーションの基礎として供されると考えられるか、示されなければならない。

同上 p.12

 
文章に用いられる用語はそれほど専門的ではないが、日常語のようなそれらの意味が日常的な文脈から離れて使われているため、時間を要さない一読は可能であるものの、まず理解には届かないし、前後の文章の対応関係がちぐはぐになるため、その都度立ち止まってゆっくり考えるか、用語の定義的な文章に戻って照合する作業が求められる。

でもたぶんそれは、この本の読み始めに最も苦労させられる点でありながら、あるポイントを過ぎればルーマンの用語感覚に慣れて、一文ごとに考えさせられはするものの(それは僕自身はむしろ歓迎するが)、ページを行きつ戻りつする回数は減るのではないかという気もする。
 
まだ読み始めたばかりで言うのも何だけれど、ルーマンの文章は衒学的ではないし、支離滅裂でもない。
扱うテーマが日常言語から遠いこと、そしてルーマン自身がその「遠く離れたところの言葉」を我がものとして操れることが、そう思わせるにすぎない。


「システム」については、このブログの主要な関心ごとであって、言葉の定義も使い方もふらふら揺れながらであれ、何度も書いてきました。
それは僕自身が「システム」を理解するためですが、その目的のために、僕が書いてきた言葉は日常言語の論理が使われています。

ルーマンの文章はしかし、そういう頭の使い方で近づけるものではない。

だから、単純に文章の論理を理解するのとは異なる水準の手間がかかるのですが、そしてその作業を始めたばかりではあるのですが、この本は自分にとって重要だということは、既にわかっているような気がします。

 × × ×

システムは人が構築したもので、人が維持するものです。

単純なものから始まり、どんどん複雑にしていき、ひとりの人間ではその全てを把握できない規模にまで大きくしてきたのも、人です。
だから、人がシステムを理解できないはずはないし、扱えないはずもありません。

量が質に転化すること、構成が単純な部分の組み合わせが予測不能な「複雑系」を生み出すこと。
そういうことは事実としてある。
専門分化の長く続いた科学の発展が、分析の深まりを統合に生かすことを可能にしたとき、その事実に科学が追いつくための一歩を踏み出しました。

しかし、「発明は必要の母」となった現代では、工学は理学に先行し、産業は工学に先行する、つまり「実用」が理念に先行する。
科学の分析力の向上は、科学が扱う分野をさらに広げ、また従来は手を出せなかったその分野を科学的価値観に染め上げることもする。

「わかるとはわからないことが増えることである」、学問の基本姿勢は学問の現場では建前として生きながら、その実際(政治・社会・生活)的な利用においては「わかるとはわからないことをゼロにしていくことである」というモットーに成り替わる。
僕はプラグマティズムを「あらゆる主体の生きる方針」と理解していますが、そう考えたとき、「実用」とは何か、それはそれを問う主体の価値観によって様々に異なる、ということになる。
 
…散漫な話を戻します。

システムをつくる人、維持する人、集団の統治に利用する人、構成要素としてその中にいる人。
今並べたこれらの人のなかで、「システムの主観」にいちばん近いのは、最初の人です。

「システムの主観」とはなにか。
それは、システムが人の言葉を借りた時に、システム自身について語られるものです。

それはシステムの自己観察、作動についての語りかもしれない。
でも、一人の人間の主観ではない。

上で「複雑系」の話をしました。
人が作り上げたものだが、複雑化によって、独自の言語で語らねば理解できなくなったもの。
システムはおそらくそのようなものの一つです。
というより、いくつもあるそのようなものの上位概念をそう呼んでいる。

だから、システムの設計者が「システムの主観」を理解しているとは限らないし、おそらくはしていない。
母親が我が子の思考回路を理解することはないことを思えば、当たり前のことではあります。
 
システム運用者は、その全容把握を曖昧にしながらもなんとかやりくりをしています。
極端にいえば、出たとこ勝負、あるいは自転車操業、的な側面もある。

致命的なリスクへの対策は準備しておきながら、個々の障害はそれが発生してからデバッグにかかる対処療法。
これ自体は人間の生活的ふるまいとして普遍性があるといえます。
知識がどれだけ増えても、即時的な活動はルーティンや慣用知がメインとなるし、わからないことに対しては姿勢で備えるしかない。

システムの複雑化は、「致命的なリスク」の重篤化と、その予測不可能性をもたらしました。
それによって、システムの運用には、際限のない精緻化要求と、埋めようのない不安が伴う。


……ここまでのシステムに関する記述は、すべて日常言語によるものです。
つまり、システムに当事者として組み込まれた人間の価値観が表れたもの。

そして「システムの主観」は、これらとは異なる論理と価値観をもっています。
 
だから、「システムの主観」を人間が、たとえばシステム運用者が理解したからといって、その運用技術が向上するとか、リスク管理がより適切になる、といったことはない。
でも、もっと大事なことがわかるようになる。

 「僕たちはなにをつくりあげたのか」

母子のたとえをもう一度使えば、それは「親は我が子のことなんて理解できないのだ」という涼しい達観と似ているかもしれません。
その達観は冷静な知性の活動を呼び込み、今考えるべきことに対峙する勇気と必然をもたらします。

 「AIが人の仕事を奪うようになる」という。
 ではそのAIとは何か?
 AIが姿形不明の影でなくなれば、
 それが奪うといわれる仕事の意味もわかる。
 AIが労働をして給料をもらうのだろうか?
 いや、そうではない。
 そもそも労働とその対価とは何であったのか?
 それは歴史上ずっと変わらないものなのか?
 それとも、今ここで大きく変わろうとしているのか?

バタフライ効果」という言葉があります。
南アフリカの一匹の蝶の舞いが、アメリカ大陸に大型ハリケーンをもたらす。
この表現は卓抜ではあれ、何かについて理解をもたらすわけでもないし、不安を解消してくれるわけでもない。
どちらかといえば、「理解なんてできないよね」「不安は抱えてかなくちゃしょうがないよね」という諦念の表現です。

それを一種の「知性の居着き」の状態ととらえるならば。

それとは別の道があり、
ここにその一つが示されている、
ではちょっと、その道を歩き始めてみようか。

そう思ってルーマンの本を読み進めてみることにします。


(引用の内容に触れるの忘れてました…

ので、少しだけ触れておきます。
「システムの主観」の言葉が僕らに与えてくれる認識は、
「ぼくらはシステムを通じてなにをしているのか」です。

システムの運用事情とは別に、
ぼくらは日常生活の必要に引きつけてシステムを利用します。
けれど時々、自分がシステムに利用されている気分になる。
それは、どちらとも考えられる気持ちの問題かもしれない。

でも、もしかすると、両者の認識には境界があるかもしれない。
その境界を明らかにしてくれる論理が存在するのかもしれない。

たとえば引用後者の下線部、
「過程は情報と伝達を区別(しなければ…)」というその、

情報と伝達を区別しているのは誰か?
情報と伝達は同じ主体が担っているのか?
その区別の評価(「区別のどちら側がさらなるコミュニケーションの基礎として供されると考えられるか」)をしているのは誰か?
評価主体は情報と伝達を担う主体と同一であるべきか?
あるいはその各々が異なる主体となることで、どのような事態が生じているのか?

生活感覚から離れて設計されたシステムを利用するのが生活の場であっても、そのシステムの理解を生活言語のみで行ってスムーズに事が済むとは限らない、そこで生まれる違和感が必然のそれとは限らない。

それを試し、確かめる機会を、生活の場に設けることは可能です。)
 
 × × ×
 

「殻を破りなさい」と。その声に従ってはならない理由は何一つなかったので、私はふにゃふにゃの首を懸命にたて直し、そこだけは幾らか固まっていたくちばしでやみくもに部屋の壁をたたき始めた。
(…)
 とうとう殻に細い割れ目が走った。私はそこにくちばしを入れて、ぐりぐりとこじ開けた。ぐしゃりと音がして、私の頭は卵の外に出ていた。初めて対面する楕円形ではない世界に、体内時計の針が時を刻みはじめたのはその瞬間からだった。どうして、と問われても答につまる。私は生まれつき時計をもっていたのだし、そのとき動くように予じめ決められていたのだ。
 ふたたびあの声が聞こえた。
「時間は容赦なく進みます。一刻も早く”地上”に出ましょう。今はそれがいちばん大切なこと。もうむだなことをする余裕はないのです」
 声の響きはやわらかく優しかったが、同時に疑問を放ったり、抗ったりすることができない力強さがあった。私は素直に声の指図に従った。

ジーンとともに」(加藤幸子ジーンとともに』新潮社、1999)

 
ルーマンのことを書こうと思って、「システムの主観」という言葉を思いついたときに、同時に読んでいるこの本のことを連想しました。
(この本を読むきっかけは梨木香歩の『ぐるりのこと』に書いてあったからです)

そして、短編タイトルの「ジーン」について、これは登場主体の鳥の名前だろうという先入観から読み始めていたのですが(ちょっと前に読んでいたオノ・ナツメの『ACCA 13区監察課』の主人公の名前がオータス・ジーンだったというのもある)、この認識は短編を数ページ読むうちに修正されました。

それはさておき、
いや、この本を子ども(たち、図書館なら)に読み聞かせなんかしたら面白いだろうと思うんですが、
それもさておき。


「感情移入」というのは人に限りませんが感情をもつと想定される生物に気持ちとしてなりきろうとすることで、いや生物に限らずヤオヨロズ・イマジネーションで何でもかんでも憑依して表現することを「擬人化」といいます。

僕の頭の中でつながった上記の二冊は、安直にも「システムの擬人化」と「遺伝子の擬人化」として括ることは可能なんですが、いや、それは違う。
両者とも、そう言い表されるような姿勢から程遠いところにいます。
その説明はとても難しいのですが…


今思ったのは、"彼ら"が自らの言葉をもって語ることについて、
「人間っぽさ」よりも「人間でないっぽさ」に注目したい
そこに驚きたい、という思いがあります。
だから、人の言葉を借りているとはいえ、
彼らは感情を持たず、人から遠く隔たるように感じられる、
でもそれを人は言葉を通じて感じることができる。

 「人間っぽさ」とはそれだけ相対的であり、もっと言えば「狭い」。

そしてそれが同時に意味するところは、

 「人間っぽさ」の範囲は可動であり、「広がる」余地がある。


「人間以外」を人に近づけるのではなくて、
「人間以外」をそのままに、人がそちらに近づいていく。
そうして人が「人間以外」のほうへ拡張していく。

言葉にはそういう力があり、
それは主に文学の力だと思っていたのですが、
ルーマン加藤幸子氏の出会いをここに見て、
学問にもそういう力があると改めて思いました。
 
f:id:cheechoff:20201220155537j:plain

 × × ×

ジーンとともに

ジーンとともに

ぐるりのこと(新潮文庫)

ぐるりのこと(新潮文庫)