human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Can one speak about unspeakable? (6)

 
沈黙を思う。


ひとりの沈黙。
共同的な沈黙。

ひとが誰かといる時、
その場に一緒にいることがコミュニケーションとなる。
何かを伝えあい、なにかが通じあう。
意図から外れて、意図をすり抜けて。
沈黙は二人のかたわらにつねにある。

雄弁の沈黙、無口の沈黙。
それは空白、余白とも呼ばれる。
余白のないコミュニケーションを想像してみればよい。
彼らは息つぎができず、息がつまり、息も絶えだえとなる。
沈黙は恐いか、しかし沈黙は空気だ。


空気の沈黙は内なる沈黙を囃したてるといわれる。
隙間があればそれを埋めようとする意思がはたらく。

だが隙間は埋めるべきものだろうか、
路肩ではアスファルトの継ぎ目に雑草が生える、
雑草の意思はその隙間を埋めることにはない、
隙間であろうがなかろうが彼らは所構わず繁茂する、
そこは空間であり空気のあるところすべてである。

彼らは沈黙しているだろうか、
彼らは沈黙なのだろうか。
草木とともにある人は彼らの声を聴く、
その声は沈黙の声か、沈黙を破る声か。
耳をすまさねば沈黙と関われないのだとすれば、
それはそのどちらだろうか。


鼓膜はつねに震えている、
空気はつねに振動し身体もつねに振動する。
耳が聞くのはすべての振動でありノイズであり、
沈黙が一切の音と無縁であるならば人の手には届かない。

しかし人は沈黙という言葉を生み出し感じるに至る、
その過程は絶対でなく相対というのでもなく、
たどり着けない星を仰ぎ見る彼方の理想というでもなく、
沈黙である者を見た誰かが、
自分との違いを明白に感じたからだ。

沈黙である彼と沈黙でない彼とがその場に居合わせたからだ。

沈黙はそこにある、ただ注意深くあらねば近づけない。
その近寄りがたさに驚いた彼がそう名付けたのだ。

繰り返すがそれは絶対でなく相対というのではない。

そして沈黙は普遍である、
感じる者が注意深くあれば沈黙はそこにある。
そして彼はそれに触れることはできない、
差し出す手をすり抜け近づく足音はそれをかき消す。


沈黙とともにあるとはそれを遠目にうかがうことである。
作業の手をおろし歩む足をとめ、それ以上近づかないことである。

では彼はその場でじっとしているしかないのか、
触れれば崩れる砂上の楼閣の前で呆然と佇むか、
進めば消える蜃気楼を座していつまでも拝むか。
それは博物学的対処である、
そして沈黙は保存も効かねば分類もままならぬ。

沈黙はなまものである。

その発祥が示すとおり、
沈黙とともにいる者から沈黙を感じることができる。
あるいはそれは伝播するのかもしれない、
もちろんニュートン力学には従わない、
測れば消えるそれは量子力学的ふるまいにも見える。

沈黙を統御できる法則が発見されるとしよう、
その法則はさっそく当のそれをすり抜ける、
沈黙を破るとはそういうことをいう。


沈黙はつねに人とともにある、
沈黙する人とともに。
それを語りつぐためにできることは、
彼じしんの内がわにしかない。
人がこの世からいなくなれば、
沈黙もまた消え去るのだから。