「前兆」の保存とその変容
もっとも興味深い帰結のひとつは、十七世紀の信仰運動である。そこでは、救済の成就のための試みが私事化されたのであった。(…)
[こんにち]すくなくとも、この信仰運動の二つの効果は心のうちに保たれているに相違ない。その第一は、自分自身の救済に必要なものとしての義援および慈善をべつとして、他者の経験に向けられていた諸個人の指向性は著しくその価値を減じた。(…)
もしあなたが他者の役割を取得し、その献身を賛美するとすれば、あなたはすでに誤った轍に入り込んでしまったことになる。すなわち、献身は、すくなくとも意図的にはコミュニケートされえないのである。このことは第二の認識にいたる。真実のそして虚偽の献身は区別されえないものとなる。誠実さおよび真性さはコミュニケートされえない。しかし、もし他者が彼の誠実さを知りえないとすれば、個人は彼自身を信頼しえないものと感じることとなろう。同じ問題が恋愛関係にも生じる。恋の片われを確信しようとするものはだれでも、そのように試みることによって不誠実となる。唯一の逃げ道は、不誠実さの告白とならざるをえないであろう。
「第五章 個人的なるものの個的存在性」p.87-88
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』
コミュニケーションの手段の変化・多様化は、コミュニケーションの質を変える。
その質の変化は、コミュニケーションの定義さえも変えうるが、
コミュニケーションを駆動するものが原初的なモチベーションである限り、
「コミュニケーションの成功」の内実とそのモチベーションは乖離を拡げていく。
ルーマンのいう「成功」とは、そのコミュニケーションが相手の行動に変化を与えることだ。
コミュニケーションの形式や内容が、痕跡を残すこと、保存されることは、「成功」とは関係がない。
そして、「成功」が記録され再現されることが「成功」の再生産につながる確たる証拠もない。
文字媒体の保存技術の発達はしかし、これにより「成功」が飛躍的に増加すると信じて進められた。
本来の「成功」は、生まれた途端に消えてしまう前兆のようなものである。
行動を、また行動の変化を軸に考える者は、「成功の保存」を前に頭を悩ませることになる。
形のないものに、形を与える。
与えられた形は、外形を不変のものとし、時間に対する耐圧を獲得する。
しかしその形はかりそめの、擬制であらざるを得ない。
残余を、行間の存在を前提とした実体化には、その前提を遵守する謙虚さが伴う。
これが、技術革新に伴う跳躍を自らに許した、発祥の者達の認識である。
× × ×
「真実の献身」と「虚偽の献身」は、区別されえない。
「誠実さ」および「真性さ」は、コミュニケートされえない。
しかし「個人」は「彼」を信頼しうる。
「彼の誠実さ」はコミュニケートされずとも、それと知れうるからである。
ルーマンはこのように言う。
では同じく、こうも言えるだろう。
「献身」の「真実と虚偽」は、区別されえないが、そうと知れうるものである。
(偽善という発想は、「誠実さ」がコミュニケートされうるという誤解に基づく)
コミュニケーションには乗らないものがある。
たとえばそれは個人の内面であり、彼の内面である。
それらは、互いに内に閉ざされ、各々の身体という二重の壁に阻まれて見える。
しかし実際は、その二重の壁をすり抜けて、内面同士が照応し合う。
このことは、コミュニケーションの結果なのか、前提なのか。
内面の明示化、などと言われることがある。
それは記号であり、方便であり、端的に嘘だ。
それは、コミュニケーションに乗らないものを無理に乗せることである。
そうして、コミュニケーションの内実は重層化し、理解は表層化する。
「成功」の確約は、「成功」の質を落とさずには叶わない。
同時に、その質を落とさない唯一の方法は、それと知らずにいることだ。
そうして、存在を認識に従属させる方便が、さらなる内面の変容を導く。
「唯一の逃げ道」は、轍の消えた、かつて通りし獣道である。
「ここですね、ここにサインをお願いします」
「何の書類ですか?」彼はきいた。
「誓約書ですね、子供を引き取ったということに対する」
「いや、引き取ったのではない。自分の子供です」
「うん、でも、引き取ったことにした方が、結局は、処理が簡単になると思います。どうします?」
「なんでもいいですが」
「じゃあ、とりあえず、サインを」
これまでに何枚の書類にサインをしたか、と思いながら、彼はそこに名前を書いた。世の中、肝心なことにはサインをする暇はない。どうでも良いことになるほど、サインが必要なのだ。
「はい、どうも......、これで、来月から、たぶん、手当もつくと思います」
片手を軽く上げて、部屋を出る。外でまだ二人が立ち話をしていた。
「誰が墜ちたんです?」一人が彼に尋ねた。
「さあ......」彼は知らない振りをした。
死んだら、誰が自分のための書類にサインをするのだろう。それとも、死んだときのための書類は、もうサイン済みだったか。そうだ、とっくにサインをしたような気もする。
森博嗣『スカイ・イクリプス』中公文庫