human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「真実はいつも一つ」どころか無限に増殖しているとすれば

 
毎日新聞書評欄の、ちと古い2020.12.19号を読んでいて、「ん?」と思いました。
 
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 × × ×
 
原発事故後に福島の支局で取材をしていた朝日新聞記者が書いたというルポルタージュ『白い土地』(三浦英之)の書評で、評者は国際政治学の岩間陽子という人。

様々な理由から報道されなかった「不都合な事実」を本書で知り、評者はこう書く。

一体いつから私たちは、瓶詰のベビーフードのような情報にならされてしまったのか。刈り込まれた盆栽のような、行儀よく整った報道を、当たり前と思うようになってしまったのか。
 報道はそれ自体が「他人を傷つける」という行為を内包している、と著者はいう。私たちは、いつの間にか、真実が人を傷つけることを忘れてしまっていた。風評被害を避ける」ため、地元を傷つけないためと称して、事実が覆い隠され、オブラートに包まれ、捻じ曲げられていく。「白い土地」に広がる闇は、都会に住む私たちに届けられることはない。

毎日新聞2020.12.19(土) 第11面「今週の本棚」

単語の連なりから評者の言いたいことはわかるのでさらさらと読み進め、
でも一度「あれ?」と思って止まったのが下線部の一文。
とりあえず最後まで読んで、もう一度戻って、でも「あれ?」はそのまま。

 「不都合な事実」が報道されないのは、
 「真実が人を傷つける」ことを念頭に置いてというか、
 過剰に意識しているからではないのか?

ではこの一文は述語が間違っているのか、それとも別のことを表現しているのか。
…という評者の意図詮索はそこそこに、僕の中ではまた違う思考(以下参照)が動き出しました。
 
 × × ×
 
評者がここでいう「真実」は、事件や事実というフェーズではなく、一つ繰り上げた、それらに対するメディアの姿勢であるところの「不都合な事実を覆い隠して報道しないこと」を指している(としよう)。

その「真実」が明るみに出ない(出さない)ことを前提にメディアは手前勝手な忖度、上っ面の気遣いを大義名分に報道を捻じ曲げるが、その姿勢には、「真実」が知られてしまうと、つまり隠していた内容がその隠蔽姿勢とともに暴露されてしまうと最初からその内容を事実として報道するよりもずっと当事者を傷つけてしまうという認識が欠けている。

それはそれで事実ではあり、でも「真実」という言い方はちょっとズレるような…
という違和感がまた新たな思考の端緒となる。


普段使いの「真実」が指すもの、それはメディアの文脈では「中立的な報道」であり、今やそんなものはないのですが、つまりこの「真実」とはイデア的な何かである、と。

 実際にそんなものはない、
 でもそういうものがありうるとして目指すことに意味がある、
 ようなもの。

それはまあよくて、
ではその普段使いの方ではなく、書評から僕が勝手に読み取った方の「真実」とはなにかといえば。
それは、その逆を考えればよくて、イデア的でないもの全て、生情報、養老孟司氏が解剖対象の死体を指していう「なまもの」である。


情報というのは「なまもの」を記号化したもので、言葉だって同じ側面がありますが、そこではイデアならではの真実性(真か偽か)の判断ができます。
たとえばそれは純粋な論理の問題でもあるし、歴史事件を情報化した歴史事実との照合性の問題でもある。
言い換えると、というかほぼ繰り返しですが、
情報は「なまもの」ではない(なぜなら情報は「なまもの」を記号化したものだから)。

しかし、情報を扱う者は、本人もその行為もすべて「なまもの」である。
「扱う」とは、それを客体として用いる主体がいるということで、これを逆から見れば、記号化とは脱主体化でもある


工藤新一が「真実はいつも一つ!」などと言うわけです(@名探偵コナン)。

その発言はもちろん、容疑者に紛れた犯人が言うウソは真実ではないという認識に基づくのですが、
犯人がウソを言った、という行為そのものは「真実」です。


このような考え方で世の中を見ると、
人が何かをするたびに、「真実」が一つ増える。
本人がどんなウソを信じて、そのウソを広めたり、「いやホンマやねん信じてえな」と強弁したとしても、そのことで彼は「真実」を一つ増やす。

だから、人類社会の規模を考えると「真実」は無限増殖しているに等しい(と近似できる)。
この「無限」のスケールは、人間の認知能力に対する相対的なものです。
だからAIの処理能力がどんどん発展していけばこれが「有限」になり、計算処理が可能になるかもしれない…のですが、それはまた別の話で、統計処理はまたスケールを殺す記号化です。

話を戻して…いや、逸れてないのか。


「真実」の膨大な増殖、実はこの認識はきわめて人間的なのではないか、
とふと思います。

ただ、情報社会ではこの膨大さが尋常でなくなり(逆から考えれば、遠距離通信が手紙とか伝書鳩の時代を想像すれば、ある人間にとって、身の回りの人々の行為がもたらす「真実」の増加は、身の丈に留まるものだったのではないか)、それを「真実」であると認識することに疲弊し(事実そんなことしてたら「発狂もの」だと思います)、記号化による「なまもの認識の外部委託(アウトソーシング)」をどんどん推し進める過程にある。

その弊害として、
ポストトゥルースだの、
歴史修正主義(言語論的転回がその前段だそうですね)だの、
やってる感(それっぽさ)至上主義だの、
その全部を「脳化社会」(@養老孟司)の必然過程として語れるような現状がある。
 
 × × ×
 
僕自身はつねに「身体性の賦活」を念頭に生活し思考していますが、
「なまものとしての真実認識」というコンセプトは新しいなと、
書きながら考えながら自分で感心してしまいました。

 百聞は一見に如かず、
 この「一見」こそが自分にとっての「真実」である、
 という気概。

このコンセプトはプラグマティックでもあって、
では現代社会で「外部委託」をしないで済む生活方法とはどのようなものか、
を考える入り口を与えてくれるからです。


勝手に「塞翁が馬」だと思ってますが、
昨年末に首をケガしてからボルダリングを長期で休んでいて、
(これはかなり良くなってきて、来週には再開できそうですが)
その代わりに読書熱が倍増して頭の回転も前とは違ってきて、
いやこれは『自己言及性について』(ルーマン)の影響が多々ありそうですが、
なんにせよ、コトはどう転ぶかわからんものです。

 …読み返してて思いついちゃったんですが、
 上で書いた「人が何かをするたびに「真実」が一つ増える」という、
 この認識はルーマンのコミュニケーション論的には、
 彼のいう失望に対する「希望」ではないかと思います。
 というのも、
 「真実」の発生とは、コミュニケーションの成功のことなのだから。


ああ、首のケガについては、完治する前に経過を文章化しておくつもりです。
また登り始めると前のことなんてどうでもよくなりそうなので、予告的メモ。
ボルダリングと漢方」というタイトルになると思います。