human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

出生率改善の劇薬、野党「ババ抜き」必敗則

『老いてゆく未来 GRAY DAWN』(ピーター・G・ピーターソン)を読了しました。

2001年出版、原著は1999年でデータは当時のものですが、
少子高齢化問題について包括的な考察がなされています。
未来予測というより問題提起に力点があるので、
統計データが古くなっても、読む価値があります。

何より、当時よりも当の問題が身に迫ってきていることは、価値をむしろ上げている。

というわけで、本を考えるために読む僕にとっては格好の素材本で、
読中に考えていたことが多くまた広く、とても整理仕切れませんが、
なかでも印象に残ったことだけ書いておきます。
付箋貼りすぎて引用箇所を探すのも面倒なので、
本書の内容もつい今しがた読み終えた自分の記憶からの参照です。

 × × ×

ひとつめ。

少子高齢化と切っても離せない出生率の低下ですが、
その原因について言及された本は何冊も読みました。
その中で世界的傾向として正しかろうという論はエマニュエル・トッドのもので、
女性の識字率の向上(教育機会の増大)と、…あれ、もひとつ忘れました。

ほかには、家族単位の縮小(核家族化)、個人主義、現在主義、晩婚化、
中流家庭の収入減少と養育費の増加、…
原因というか、次元の違うのがいろいろ混ざってますが、
まあいいとして、
本書には僕が今まで聞いたことのない項目が原因として挙げられていました。


それは「年金」だそうです。

本書は世界のデータを取り上げていますが、著者在住のアメリカの事情が多くて、
そういう前提で書きますが、

年金とはもともと戦後の傷病者などの、
社会的事情に起因する困窮者を対象とした制度が発祥で、
それがだんだんと全国民(の高齢者)に対象が広げられていった。
そこには、若い世代が親世代を養う経済的負担を軽減する意図もあったらしい。

 賦課方式の年金というのは、経済成長を前提としていて、
 年金を積み立てた世代とそれを受け取る世代が異なる。
 積み立てる方の人間が増え、またその額も増えるという前提があって、
 若い頃に積み立てた人間は、自分が払った額よりも多くを老後に受け取れる……

いや、賦課方式にしろ積立方式にしろ、年金の役目は、
高齢化して仕事効率が下がり、収入が減ったり無収入になった時の保険にある。

このことが意味するのは、
親の自活能力が低下した際には子が支えるという家単位で閉じていた扶助活動に対して、
年金という公的な金銭的補助はその代替手段となる
、ということ。

だから、年金があるなら親の面倒みなくてもいいじゃない、
という考え方は当然生まれる(というかもともとあった)。

これを親の視点に切り替えれば、
年金がなければ老後の世話は自分の子供に頼らざるを得ないが、
年金があれば、選択肢はひとつではなくなる。

自分の子供に(将来)頼らなくてよい、という選択は、
自分に子供が(生涯)いなくてもよい、という選択と、
ものすごく近いところにある。

もちろんここには、子育ての喜びみたいな、非金銭的価値が存在する余地はない。
拝金主義と合理的思考の正義があって、初めて身に迫る考えなのでしょう。
個人主義や現在主義とどちらが先なのか、とりたま(鶏と卵)ですが。


よって、たとえば、
本当のホントに出生率を上げることが至上命題なら、
年金制度をやめちゃえばいいのでしょう。

「子どもを産みたいから産む」よりも、
「子どもを産まないとどうしようもなくなるから産む」方が、
圧倒的にインセンティブ高いですからね。

という発想は今まで見聞したことがなかったように思います。
…このこと(発想が初耳だという)自体にも興味が湧いてきます、
年金制度を疑う発想が出現しないほどその存在が当然になっている、とか。

あ、該当箇所あったんで抜粋しておきます。

世界中の国の人々に、自分の子供を将来の財政的支援の供給源と見なすかどうか尋ねると、肯定的な回答の比率は、当の国の貧困や出生率と正比例して増加する。それに加え、国が豊かであるか貧しいかにかかわらず、公的年金制度の給付額もまた、多ければ親は子に経済的に依存しなくてすむから、子供を産む産まないの選択に影響を及ぼす。東欧と旧ソ連のほぼすべての国には巨額な年金制度があり、出生率は低い。一方、一人当たりのGDPがほぼ等しいイスラム国家(たとえばモロッコチュニジア、トルコ、イランなど)の裕福な階層の年金制度は不十分だが、出生率は高い。 p.171-172

 
 × × ×
 
ふたつめ。

…やっぱり抜粋しないと話が始まらないので抜粋します。

両派〔右派と左派〕が一致しているのは、ここ数十年もの間、大人の時間と努力、子供に注ぎ込む公的財源、私的財源が明らかに減少しているという点である。アメリカ上院議員ダニエル・モイニハンは、われわれが「子供の育て方を忘れた初めての種」となるのではないかと思っている。(…)
 この傾向の社会的影響が広がれば、経済への影響は明らかである。次世代の人的資本は危機的状態にある。その危機はあまりに深刻なため、専門家の多くは、今後の労働者賃金の伸び率見通しにおいて、加速が現実的な目標なのかどうか疑問視している。次世代の労働者が、現代の世代が押し上げた生産性のレベルまで高められるかどうかでさえ、疑っている人は多い。これが、今日の長期的な財政見通しのベースにある重要な仮定なのであるが。 p.175

正規雇用の開放政策とその結果としての非正規雇用の増加を考えると、
これは現代日本にもそのまま当てはまる指摘です。

で、引用最後の一文を見て「あれ?」と思う。

太字部を読み替えると、
労働者の賃金の伸び率や生産性の向上が長期的な財政見通しを明るくする、
ということが財政戦略上の王道であるといったことのはずですが、
今の日本はその真逆を、しかも財政戦略の要として進めている。

非正規労働者の増加が国民間の収入格差を広げると言われ、
日本政府はそれを推進する政策をとっているわけですが、
これを「財政を悪化させたい」という自爆的な動機に基づいているとは考えない。

やはり財政を健全化したいと思ってやっているわけで、
そうするとその元というか裏にはなにがしかの戦略があるはずで、
その戦略は上述の「王道」とは違う戦略であるはずで。


たぶん、
「二極化」と言われている両極の「上の極」に頑張ってもらおう、
ということなのだなと、引用文を読んでいて思いつきました。
代表的には大企業、グローバル企業、ですね。
彼らがより儲けるには、「下の極」、下流の非正規雇用からより多く搾り取る。

そうして搾り取られた世代は「再生産」、家族を養う余力を失うわけで、
この財政戦略は一世代を消費し尽くしてその命脈が尽きることになりますが、
短期利益しか頭にない株式会社ライクな政府はそれを欠点だとは考えない。


…あ、別のところを読んでいて思いついたことなんですが、
野党の政権奪取というのは全部「ババ」ではないかと思いました。

欧米の二大政党制というのは、
主義主張の違う二派がつねに理念と政策を闘わせて、
一方が過度に突出しないように、時に応じて与党が入れ替わる、
二派の勢力は拮抗しているのが理想であるもの(のはず)。

日本の与野党はその二大政党制をモデルにしようとしたのか、
その辺は全く詳しくありませんが、まあ似ても似つかないのは確かで、
「野党は批判オンリー政党で政権担当能力を持たない」などと言われ、
東日本大震災の際の民主党が結果的にその典型例だと見なされていますが、
それが野党に能力がないのではなく、野党の機能そのものだったとすれば。

つまり、政府与党が政治的危機に陥った時に、
では我々がと野党が矢面に出てくるわけですが、

そうして実現する政権交代は、
「失敗した自民党よりもまともな政治を行うこと」
 ではなく、
「失敗した自民党よりさらに失敗して『やっぱり自民党だな』と思わせること」
 が、
目的であるというか、成功であると。

政治の実質も何もありませんが(これを劇場型政治と呼ぶのだったか)、
役割が明確でバランスが良いといえば、そうなのかもしれません。
まあ、スキル的には役者ですね、大根でもいいが胆力だけが要求される。
下手に正義感や責任感に駆られると命を落とす、メンタルな綱渡りに耐える胆力。

「末は博士か大臣か」とかつての日本で言われていたようですが、
大臣が憧憬の対象だった時代というのは、
なにもかもが本当に素朴だったのだと思います。

その素朴な時代の価値観で育てられた現在の世襲政治家や、
彼らが牛耳る政治の世界で立身出世を遂げた他の政治家が、
政治理念を持つことは…

考えても仕方のないことですね。
なんでこんな話に。。

 × × ×

余力がなくなってしまいましたが、
「高齢化」というのは現代のあらゆる社会問題とつながっている、
という印象を読後に強く持ちました。

最後にひとつ引用しておきます。

現在主義と消費主義がつながり、
また消費至上主義と相性が良い現在の若者が「老いた幼児」に見える、
その若者の青春が投資的冒険ではなくひたすら現状維持の消費に向かう、
そういったことを連想させる単刀直入な指摘です。

市場原理主義的な言葉遣いには馴染めませんが、
ある面では鋭く本質を突ける利点もあり、
現代日本には相当浸透した表現でもあるのでしょう。

労働者にとって、自分以外の誰かに使う収入というのは、その支出が自分の子供に対する任意の犠牲であろうと、税金から年金となって見知らぬ退職者に支払われるものであろうと、負担という点では変わりがない。とりわけ本質的には、私的支出において投資か消費かは区別されない。高齢者に支払われる年金は、本質的には消費であり、子供に使われる金は投資である。 p.130

 
 × × ×