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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「TRAVERSES/6」を読む (2) - 言葉は社会を動かせない

 
2021.1.16追記

タイトルで言いたかったことが本文に尽くされないまま途絶しているので、最初に要点だけ。

仮説ですが、六十年代後半からの世界的な若者の運動、それに呼応する現代思想の躍動がバネにしていたのは、「強い(鋭い)言葉は社会を動かすことができる」という認識ではなかったのかと考えています。

それがどこで反転したかは歴史に疎くて言えませんが、実質より論理重視、いや「先に言ったもの勝ち」で論理的に見えせすればそれでよいという、現在あらゆる場面で見られる言説傾向は、その「強い・鋭い言葉信仰」の反動ではないか。

そしてその反動がもたらしたのが、
メタファーとか類推とか、読み手の想像力の自由を前提にした「曖昧な」言葉の軽視。
言葉の道具的使用ともそれは合わない、
なぜなら明確な目的も明示できる内容も持たないから。
人によって解釈が分かれたり、いくつでも意味がとれるような言葉はコスパ概念でいうパフォーマンスがない、正しくない(これだけは正しい認識だが)ゆえに実質がない、などと思われている。

言葉に対するこのような姿勢には、言葉は社会どころか個人を動かすものでもない、そして言葉において重要なのは「それっぽさ」であって、言葉が自分に響く前提にその言葉の「それっぽさ」との照合がある、といったニヒリズムが感じられる。

敗戦が戦前の価値観を全否定したように、言葉による社会改革の失敗を、言葉の無力という確固たる認識に転化したことを真摯な反省だと思ってはいけない。

言葉の原点を忘れてはいけない。

言葉には個々の受け手があり、
一人が自分の中に言葉を浸透させた結果として初めて、
「言葉は個人を動かす」。
それは対面でも、紙面を通しても、ネットを介しても変わらない。
 
 
これ以下の文章はかなり雑然としています。
「いつもそうやんけ」と言われると…沈黙。

 × × ×
 
2021.1.上旬

だが人々が支配者を「もはや愛さない」ということ──権力者のイメージがもはや父の、庇護者の、長兄のイメージと結びついたり混同されたりしないということ──はまちがいなく現代の最も確実な、最も希望のもてる成果のひとつである。つまり民主主義とは根本的に無機的なものであり、またそうあらねばならないのだ。その長所のひとつは、制度的関係と人間関係の、政治的絆と感情的依存との、また同意とヒエラルキーへの愛との乖離を維持しうる点にまさしく存在する。だがこの乖離を維持することは一見したよりはるかにむずかしい。実際、個人の関係も政治的関係もひとしく、仲間うちで「有機的な」相互依存を形成するという危険な傾向をもっている。それは関係そのものへの執着にほかならない。

グザヴィエ・ルベルト・デ・ヴェントス「意志と表象としての政治」p.100

通念とは逆の価値判断がいくつも配置された、難しい一節です。
ただ、その「逆」の説明論理が進むうちに別の通念と結合すると。驚きを覚える。

慣例や常識は社会でそのつど起こる集合的経験が生み出すもので、
時を経れば、また制度や法律が変わればその各々が対立することがある。
社会の自浄能力とは、社会がその対立を解消する、つまり慣例や常識を更新できること。
…社会を擬人化してますが、つまりは「そういう社会システムが設計されているかどうか」。


引用の内容に戻ります。

「無機的な民主主義」とだけ書かれると、なにか「冷たい社会」を思わせますが、
民主主義であれ何であれ、それが制度であるなら無機的であるべきである。
これは妥当な一般論であり、引用した文章のベースにある認識かと思います。

筆者が挙げる「維持しうる乖離」の三組は、対応する順番は前後していますが、
どれもその次文にある「個人の関係」と「政治的関係」の対の例であると読めます。
この後者は、集団関係、匿名性に基づく関係、などと読み替えればわかりやすくなる。
「個人的関係」も「政治的関係」も、複数の人間のあいだにある関係に違いありませんが、
前者にあって後者にないもの、それは身体性、身の丈感覚といったものです。

引用後半で、「有機的な相互依存」が「危険な傾向」であると指摘されています。
それが危険なのは、それが「関係そのものへの執着」に転化しやすいからで、
その転化を抑制するのが、先に挙げた身体性や身の丈感覚であると僕は考えます。

 「人間味のある政治」と言えば温かみがありそうでポジティブに聞こえますが、
 政治家が政治の場で人間味を発揮することは、実は誰も望むべきではない。
 政治とカネの問題、汚職事件は制度や法律の抜け穴が利用されている面がありますが、
 当事者は誰しも「人間味を発揮」することで不正に手を染めるからです。
 …これは別の話でした、また戻ります。


いや、戻ると言いながら引用を離れるんですが、
この論文集を読み続けていて、全体的に感じるところがありました。

論理をギリギリと研ぎ澄ませる、あるいは詩的表現を爆発させる。
内容はわからないながら、そういう強い意志を文章に感じました。
そしてその勢いがどこを目指しているのか、を考えました。

それはたぶん、
「社会を動かすための言葉」
を、見つける、創る、発する、
といったところにあるのではないか。

吉本隆明谷川俊太郎か忘れましたが、
「世界が凍りつく一言」という言葉を見た覚えがあります。
言葉にはそういう力がある。
そう信じられた時代は、確かにあったのだと思います。
それを無垢に信じた者こそ、その言葉の担い手にふさわしくあった。


そして今は、
そういう時代ではなくなったのだと思います。
では当時が適していたのかといえばそういうわけでもなく、
「言葉が社会を動かす」ことのリスクが、
ローテクの当時よりも情報化社会である現代の方が圧倒的に高い
ということです。


原理的に考えると、
言葉が動かせるのは、
ある言葉がその内で響いて行動を起こさせるのは、
人ひとりだけです。
言葉がひとつの意味を持つのは一人の人間の頭の中だけのこと。
この原理に従うならば、
言葉が社会を動かすというのは、
その言葉に感銘を受けた一人が、
ただ一人だけでなく沢山いる場合を指します。
あくまで、その言葉を受け取る「個人」がそこには必要だ。

ただ、そう、
言葉へのこだわりは、「言葉そのもの」へのこだわりに転化する。


「やってる感」という表現が最近よく使われています。
ちゃんと仕事をやっている、役割を果たしている、ように見えることへの執着。
この「ように見える」ことの主体は誰でしょうか?
「やってる感」を判断しているのは誰でしょうか?

特定の個人ではない。
おそらく、そこに「社会」というものを擬制している。
仲正昌樹のいう「みんな」でもいい。

便利で無時間的な現代社会の随所に配された「落とし穴」の先に待ち受ける、
この「もとの目的を離れた手段への執着」
というのが、
どれも危険な傾向に思えます。
リーズナブルに見えて、実質がどんどん骨抜きになっていく。
便利さの追求が、ほどなく易きに流れていく。


話をタイトルに戻します。

人を動かす言葉。
現代は、それが特定の個人を想定しないで生み出されています。

たった一人の人間だけを動かしてもペイしない。商業主義。

そして、そういう言葉にも人は学び、順応します。
「人を動かす言葉」とは、個人そっちのけでいかに「それっぽい」かである、と。

そして「個人そっちのけの言葉」がその人のためを思って個人に向けられる。
それに違和感をおぼえる人のほうが「人間味がない」と言われる。
順応は連鎖します。
 

個人と集団とは、「志向」が違います。

個人が目指すものと、集団が目指すものは、だいたいが対立する。
集団の維持が個人維持の前提にもなるわけで、そこで妥協するのはほぼ個人です。

ただ、個人の志向が全て失われるともはや個人でなくなるわけなので、
個人は各々「ここから先は"集団"には入らせない」というプライベート領域を確保する。
物理的には家(部屋)がそうだし、意識でいえば好き嫌い、価値観、考え方、等々。
 
どうも、「鶏と卵」でどれが最初かというのはわかりませんが、
現代は過去のどの時代よりも、「集団の志向」が個人に入り込んでいるように思えます。

個人の人権、プライバシーの思想などは個人の志向の尊重の流れに見えます。
学校の制服廃止、一家で一人一部屋なども、子供を個人として尊重する方針に見える。

ただ、こう書いていて気づいたんですが、
個人の意識のほうに「集団の志向」がどんどん侵食しているのではないか。
衣食住をはじめとした、物理的な条件や制度法律が個人を尊重するようになった反面、
「個人の領域」を確保したはずの一人の人の頭の中が、知らず集団志向になっている。

言葉が道具化していく傾向と相関があるかもしれません。


…また飛びますが、

未開の文明を下に見る西欧中心主義を覆すきっかけはレヴィ=ストロースですが、
そうした文化人類学等の学問の進展が進歩史観を突き崩してきたことがまた時を経て、
思想の自由の実質を失うこと(これは「退歩」です)への無関心をも生み出した。
進歩がないなら退歩もない、というわけ。


話がごちゃごちゃし過ぎています。
僕自身が深い関心をもつテーマがいくつも混在しているので、
また改めて考え直す機会が、必ずあると思います。
 
 × × ×
 

若い女の子が大好きで、浮気ばっかりしてたのだってそう。根っこはひとつよ。そういうドラマみたいなことばっかり続けてないと、生活していかれないのよ。そんなふうにしてはしゃいでいないと、生きてる実感がしないのよ。
 石津さん、あたしね、小さい時には相当に父に可愛がられたの。チヤホヤちやほや、宝物みたいに扱ってもらった。だからあたし、父が大好きだったわ 。父にとっても、あたしは自慢の可愛い娘だった。すっごく美しい関係でしょ? 父はあたしという娘じゃなくて、そういう美しい関係を愛してた。だから、あたしが幼くて自分の意思を持たなくて、お父さんの可愛い人形でいるうちは山ほどの愛情をかけてくれたってわけ。(…)」

宮部みゆき『R.P.G.』集英社文庫,2001

 
 × × ×