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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ハイエクを読んで:被害者先取、他律主義、そして自暴自棄

 まさしく、ほとんどすべての人が望んでいるからこそ、われわれは社会主義への道を進んでいるのである。その歩みを不可避なものとするような明白な現実があるのでは決してない。「計画は不可避である」と主張されている問題に関しては、あとでぜひとも論じなければならない。とすると、最も大きな問題は、この歩みはいったいどこへわれわれを導くのか、ということである。もし固い信念をもってこの歩みに抗いがたい勢いを与えている人々が、今わずかの人々のみが理解していることを本当に知り始めた時、彼らが恐怖のあまり後ずさりし、半世紀にわたって多くの善意の人々が追求しようとしてきたことを放棄するというようなことが、ありえないと誰が言えよう。問題は、われわれ同時代人が広く信じていることがどのような結果をもたらすか、ということである以上、それは決してなんらかの党派の問題ではなく、われわれすべてにとっての問題なのであり、最も重大な意義を有するものなのだ。われわれすべてが、高い理想に向かって未来を意図的に形作っていこうと努力しているのに、その努力が、はからずも求めようとしたこととまったく逆のことを生み出すことになるとしたら、それは何にもまして大きな悲劇ではないだろうか。

「序論」p.376
F.A.ハイエク『隷属への道』西山千明訳、春秋社、1994
(原著の出版は1944年)

ハイエクの『隷属への道』を読了しました。
読み始めたのはこれも数ヶ月以上前で、そのきっかけを忘れてしまいましたが、読んでいる期間中に、他の様々な本や新聞記事でハイエクの名を目にしました。

本書は世界中の人々に影響を与えた「古典的名著」とされています。

第二次世界大戦の後半、本書が実際に書かれたのは1943年ですが、イギリスに住むハイエクは、イギリスが敵国であるドイツ帝国の価値観と似通ってきていることに危機感を抱いたのが執筆動機だといいます。
かつて出身地のオーストリアに住んでいたハイエクはドイツの政治文化に詳しくなり、ドイツが社会主義に傾倒していく様を現地で肌に感じた経験から、のちイギリスに拠点を移した時に、同じ社会主義的価値観の台頭が20年遅れでイギリスにも訪れていることに敏感にならずにはいられなかった。
この異国の地におけるデジャブ体験が、ハイエクの明敏な知性の起爆剤となり、もとは専門が経済学だったハイエクが、「政治的提言の書」と自認する本書に取り組むことになりました。


本書の内容には触れません。
現代の日本人にも読む価値がある、とだけ書いておきます。

今の日本が民主主義の危機だとか、独裁国家に近づいているとか、言われています。
そのことにイエスと言う人も、ノーと言う人もいて、それぞれに論拠を持っている。
どちらであれ、重要なのは、その認識によって僕らが何を得るか、でしょう。

日本政治の現状分析の中には、
当然「日本がどこへ行こうとしているか」という視点も含まれる。
進路に危機があるのなら、
いわば羊の集団が崖へ突っ走っている状況なら、方向転換しないとまずい。
そう言われればそうかと思い、
しかし現状に自覚を持った羊が、それでも歩みを止めないこともある。
危機意識が行動に結びつかないのなら、
危機感を煽る言論は、内容がどれほど切実であれ効果がない。

その場合、問いの次数を繰り上げる必要があります。

 僕らにとって「危険」とはなにか、
 それがもたらすものを僕らはどう思っているのか。
 僕らは本当は何を望んでいるのか、
 僕らを駆動する主観的合理性は僕らをどこへ連れて行くのか。

 × × ×

そう、最初は主観的合理性の話を書こうと思っていたのでした。

タイトルの「被害者先取」について、
こういう用語があるか知りませんが、内田樹氏が著書で使っています。

かつて「訴訟大国アメリカ」という言い方がされていましたが、今では日本も含め先進国みながそうなっているのでしょう(今日の新聞に、ロール式網戸を調節する紐に首が絡まって死亡した幼児の親がメーカーとリノベーション施工会社を提訴したという記事がありました)。

各種クレーマー、モンスターペアレントはじめ、近年用語登録されたこれらの人種はすべて、自分が被害者であることを主張し、相手に受認させることで自己利益を引き出します。

PC(ポリティカリーコレクト)運動も同じ流れにあり、これは(それが全てではないと思いますが)社会的影響力を持つ個人の主張の一部を取り出して文脈を無視して曲解し、精神的苦痛や名誉毀損などを受けた被害者を創造してその個人を攻撃する手法として利用されています。

内田樹氏は『街場のメディア論』で、メディアが扱う様々な事件に「組織 対 個人」の構図がある場合にはケースバイケースの正当性がどちらにあるかを突き詰めずに個人に味方をする報道を続けてきたことで、この「被害者先取」の価値観が世間に膾炙したと論じています。


話はハイエクの本にいったん戻りますが、
『隷属への道』を読了した(つい数時間前ですが)時にまず思ったのが、「ハイエクは知性を信頼している」ということで、それは本記事の上部でも書いたとおり、大戦中の英国人が自分では意識せずにどのように危険な価値観に染まりつつあるかを論じ、彼らに自覚を促し、かつて世界中の模範となった(らしい)19世紀大英帝国の思想の復権を願っていたからです。

自分が望んでいることが起き、事が進んだあとにもたらされた事態が、自分が望んだものであるとは限らない。
それは、本来的に限界のある人間の将来に対する読みの甘さもあり、それ以前に「自分の望み」が端的に間違っている、現状をあまり把握できていないが周りがそういうからというのでそれに合わせて自分も同じことを望んでいるのだと思い込ませている、こともある。
これらのいずれに対しても、本人の知性が正常であれば、現状の理解と正確な「自分の望み」の自覚を促すことで、危機に突き進む現状を改善できる。
そう考えて、人々に自覚のツールを提供しようという意志のことを僕は「知性への信頼」と呼んでいます。


それで、次に「主観的合理性」のことですが、
個人においては誰であっても、その行動や思考には合理性が伴っています。

これは意識するにしろしないにしろそうであって、言い方を変えれば、自分のあらゆる行動や思考について、事後的に何らかの説明がつく
そしてこのことをまた見方を変えて捉えれば、人は、客観的に間違っていたり効果がなかったり不利益でしかないようなことに対しても、正しいとか価値があると考えることができる
主観的合理性は、個人の数と同じだけ多様に存在する「個人が考える正義」と同じ効果をその人にもたらす。

だから、主観的合理性は、他人の思考を取り入れたり知らなかった事実や知識を知ることで、その「理のシステム」を変容させていきます

内田樹氏のブログや著書で展開されている評論の、読み手へのメッセージという意味での立場は一貫していて、それは評論で取り上げている人物(や組織)の主観的合理性を分析するというものです。
その人物が反社会的な言論を振りまいていたり、国民を舐めてかかる政治家であったとしても、その反社会性や不誠実を指摘するだけではなく、なぜ彼らはそう振る舞うのか、それが彼らにどのような利益(満足)をもたらすのか、あるいは彼らがどのような価値観(やトラウマ)に縛られているのか等々、そういった彼ら自身の主観的な視点や思考に対する考察を欠かさず加えます(むしろこちらが本論ですらある)。

そして、この主観的合理性の分析もまた、知性への信頼を示す一つのアウトプットです。

語るに落ちるというのか、聞くに値しないことは実際たくさんありますが、誰が聞いても無価値だと思える言葉を(たとえばネット上で)垂れ流し続ける人がいるとして、彼自身が自分の言葉を無価値だと思っているとは限らないし、もしそう思っていたとしても、その言葉を発信する何らかの価値を彼が信じている可能性だってある。
そう考えると、最近河合隼雄氏の本をいくつか読んだせいか、この姿勢は精神分析家のものでもあると気付きます。

論理には客観性がある、言葉には(いちおう)辞書的な意味がある、法律にせよ常識にせよ明示的あるいは暗黙の社会的なルールがある、人はそれらを他人と共有し、共通の価値を認めることで社会性を備え、共同体を維持することができる。
ただ、個人が発する言葉はその個人が生まれ育ち過ごした環境で獲得してきたものであり、言葉の奥にあるニュアンスやイメージはそれこそ千差万別であり、その差が意思疎通に不都合をもたらすと同時に、その差こそが個人の個性の証でもある。
他人と「同じ」である、「同じ」を目指すことは、社会性の獲得であると同時に、個性の毀損でもある。

社会性と個性は二律背反的な関係で(社会と個人というのがまずそうです)、どちらか一方だけというわけにはいかず、互いにバランスを取る、いや常に揺れ動く両者の重みのバランスを取り続けていくしかない。
主観的合理性の分析とは、社会性を前提としながらもこのバランスに配慮しています。

ここで比べるのもなんですが、対してポリティカリーコレクトという思想は(時に)個性への攻撃となります。
political(政治的)と言っているのだからPCは公共的な場を前提しており、言論の社会性を問うているのだから当然だと思われるかもしれませんが、それは言葉の定義だけのことで、PCが個人的な領域に踏み込むことが多々あるということです(ネット言論というのがそもそも個人と社会の境界を曖昧にしています)。

 × × ×

さて、まだ最初に書こうと思ったことにたどり着いていません。

本を読了した時に、書評ではなくとも何か書きたくなることがよくあります。
ハイエクの本を読み終えた時にも、そのような意識が生まれました。

それで、本書の最後にあった「序論」の内容が余韻として残っていて、
「主観的合理性」「知性への信頼」とともに、タイトルのキーワードが思い浮かびました。
これらを繋げるのが本記事の本論なのですが、体力が残っているかどうか……

 × × ×

「被害者先取」の話は先に書きました。
僕が興味を持ったのは、功利的戦略として有効だと思われているこの価値観がなにをもたらすか、具体的には、他のどのような価値観に結びつくか、です。
 
「悲観的な未来予測を繰り返す人間は、次第にその実現を望むようになる」

これは、実際に訪れて欲しくない未来ではあれ、その未来が現に到来すれば、自分の予測が正しかった、自分には先見の明があったからだということになるからです。
だから「悲観的な未来予測」という行為は、一種のアンビバレントを引き起こします。

アンビバレントという言葉はたしかグレゴリー・ベイトソンが、二律背反的な命令を親から受けた子供が陥る精神的錯乱について命名したものです(これは完全に受け売り)。
たとえば、おもちゃを投げる、手を叩く、といった行為に対して、ある時は褒められ、また別の時には叱られ、叩かれすらする。
その時の文脈を考える能力も、親が気分によって言動を激しく変えるという認識も持たない子供は、自分の行為がもたらす帰結を予想できず、正常な思考能力の発達が阻害される。
……ちゃうな、これはダブルバインド理論ですね。

まあ、単に用語の問題なので、さておきます。
 
言いたかったのは、短期的な意図や願望が、その継続によって引き寄せる長期的影響と一致するとは限らない(全く逆へ向かうこともある)、ということです。
『隷属の道』を読了して一息ついた時にふと、「被害者先取」という価値観にそのような匂いを一瞬、嗅ぎ取ったのでした(たぶん)。


事件や事故がおこらずとも、日常生活における何らかの不都合に対して、自分が被害者だという立場でいれば、彼自身は安心できる。
なんとなれば、その不都合の原因が彼自身にはないと思えるから。
自分の努力が足りない、不注意や怠慢がその不都合を引き起こしたのではない、それは普段から誠実かつ謙虚に生きている自分に外部から降りかかってきた厄災である。

そのような思考法を、彼の身の回りに起こる不都合のすべてに適用していくようになると、どうなるか。
自分の意思で何か事を起こした時に、それがよいことであれば自分の功績とし、それが悪いことに結びつけば人のせいにする。
自分の行動とそれがもたらす波及的結果との関係を、実際的な因果関係によってではなく、結果の良し悪しに応じて恣意的に取り結ぶようになる。
(知らない人の多い喩えですけど、『ACCA13区監察課』のシュヴァーン王子はこういう人間ですね)

…というのはさすがに非現実的ですね。
よほどの状況がないと人はそう盲目的になれるものではない。
というわけでもう少し現実的なパターンを考えます。
 
「被害者先取」という言い方はある矛盾を抱えています。

被害・加害の関係は、事件なり事故なりが起こらずには生じ得ません。
複数の個人の間で何らかの不都合が発生した際に、その不都合の因果関係をとらえて、初めて被害者と加害者が取り沙汰される。
どういうことか。

「被害者先取」戦略を我が物と心得る人間は、事件の発生を「待ち構える」姿勢に釘付けられる(武道用語では「居着く」)、ということです。
つまり、彼は自分から行動を起こさない、あるいは自分の行動を「自分が主体的に行ったものではない」と自認して憚らない。

この状態を、本来の意味とは違った使い方だとは思いますが、ここでは「他律主義」と呼んでおきます。
自分の(不都合な)現状は自分が作り出したものではない、周りのいろんなことに巻き込まれた結果である。
だから自分のせいではない、その責を自分が負う必要はない。
自分が抱く不満や不快を全て外部要因に帰する思考は、その本人に無自覚なことに、自分で自らの状況を律する能力がないことを証立てている。
ここにおいて「無自覚」がポイントです。

自分で自分を律する能力を発揮しない「他律主義」者。
彼は、単に能力を使わないのではない。
自分はその能力を持っているが、自分には手の届かない何らかの外からの力によって、その能力を封じられている。
誰かしらん「悪い奴ら」によって、自分の潜在能力が抑制され、うまく立ち回ることができない。
そう思っている。

その彼は「無自覚」のうちに何を望んでいるか。

彼は自分自身に、自律能力が「実際に」ないことを望んでいるのです。
その能力が誰かに邪魔されて抑制されているだけなら、いざ能力が発揮できた時に、自分の「被害者先取」戦略が崩れてしまう。
通常の思考なら、「悪い奴ら」の影響を取り除いて自分の力が発揮できるようになったと喜べるはずのところ、彼は自分の「正確な現状認識」である陰謀論(「悪い奴ら」は自分にはどうしようもないくらい権力を握っている、等)が正しくなかったことを認識することの恐れから、そう思えない。

そのような恐れを抱かせる危うさから解放されるのは、自分が本当に自律できない人間になる場合だけです。
こうなると、もう彼は自暴自棄の域に達していると言うほかありません。


自分は懸命に努力して誠実に生きているつもりだと思っている当人が、そのような自暴自棄に陥っているようなことがあるとすれば、ハイエクの言葉を借りて「それは何にもまして大きな悲劇」ではないでしょうか。

内田樹氏は『下流志向』で、教育を市場原理的価値観に委ねたことが、受験勉強に追われる中高生が「一生懸命に」怠惰になり仲間の足の引っ張り合いをする学習崩壊を招いたことについて、その理路を説いています。

繰り返しになりますが、大事なのはそれが真実かどうかではなく(仮説は真偽の問題とは別のレベルに属します)、その認識・自覚が当事者に何をもたらすか、そしてそれをツールとして僕たちに何ができるか、です。

 ここで、私はきわめて不愉快な真実を述べなければならない。その真実とは、実はわれわれは、ドイツがたどってきた全体主義に至る運命を再び繰り返すという危険に、すでにある程度陥っているのだということである。この危険は、確かにまだ差し迫ったものではない。また、この国の状況は、ここ数年ドイツで見られたものとはかなり異なっているために、われわれがドイツと同じ方向へ進んでいるとはにわかに信じがたいかもしれない。だが、ドイツのようになるにはまだ長い道程があるにしても、この道は、進めば進むほど後戻りが難しくなるのである。人間は、長い視点で見れば自らの歴史の造り主であるとしても、短い視点で見れば、自らが作り出した考えの虜となっている。それゆえ、われわれが危機を回避できるためには、まだ間に合ううちにその危険に気づく以外手立てはない

「序論」p.372


 × × ×

隷属への道

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街場のメディア論 (光文社新書)

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  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2010/08/17
  • メディア: 新書