human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

対話と株式会社性、誠実な近視眼と形式に対する食傷

 
党派性を超えて政治を語ること。
 
政治とは利害調整のことだが、党派が対立するのは、
こちらとあちらの利害が異なるからである。

互いに利益となる政策なら反対意見は出ないし、
互いに損害を生む事業は誰もやろうとは言わない。
一方の利益が他方の損害を招く場合、また双方の利益に多寡の差がある場合に、
意見や立場の対立が先鋭化する。

とは言え、実際よくあるのに議論に乗らないのは、
各党派が暗黙の了解とする利害の基準が、党派間で異なることである。

議論をして、論理がかみ合わず、相手を説得して理解に導くのではなく、
自説を曲げずいかに対立意見をねじ伏せるかに汲々とする、
そのような泥仕合ディベートが後を絶たないのは、
利害の基準のすり合わせをしないからである。

相手に歩み寄ることは弱腰で、つけ込まれるだけだ、と思っているからである。


議論をして、自分の意見が変わることは、悪いことではない。

誰かの意志や希望を背負った立場が、対立相手の価値観を汲み取り、
その結果として変化したとしても、それはその誰かに対する背信にはならない。

委任を受けた政治主体が果たすべきは、委任された内容を押し通すことではなく、
政治の場における議論で委任内容が変化した際に、
その変化した内実を持ち帰って委任主体に報告する、あるいは議論することだ。

(大切なことだが、株式会社はこのようなことをする必然がない)

議論や対話における意見、その姿勢の変化を否定すれば、
もはやそれは議論や対話ではなく、
なにか別の行為(ディベートゲーム)になっている。

 × × ×

常識や通念というレベルにおける価値観が、凝り固まっている。
不変であり、万人が是とする価値、画一的なそれを皆が求めている。
実際は違うのに、皆が同じものを求めているという物語を、皆が信じている。
信じている、という情報が、世間に大量に流布されている。

というより、
情報の個々の中身ではなく形式の統一性が、その物語の基盤になっている。

誰もが同じ口吻で、多様性の大切さを説くように。
誰もが同じ経路で、オーダーメイドの商品や唯一無二の経験を買うように。

形式に対する食傷感覚は、この先を生き抜くうえで重要となるかもしれない


日々の生活とは、卑近なものである。
目の前のことを遅滞なくこなすこと、この誠実さは、近視眼を免れない。

しかし、身の回りの既成事実は歴史をもつ、自分自身が歴史をもつように。
歴史とは時間であり、現在は過去の出力であると同時に未来への入力である。

科学技術や法制度、生活インフラを含む便利さは、過去の集積の賜物である。
生活の利便性が高度化するほど、その裏に潜む時間の堆積は膨大となる。

そして、日常生活が便利になればなるほど、
近視眼的生活時間と、生活を支える歴史時間の乖離が激しくなる。

その乖離は、そして必然的な乖離への無感覚は、近視眼の亢進を招く。
不安の種であるそれを直視しないことで、人は近視眼的安心を得るからである。

現代の消費社会には、このようなポジティブフィードバックが作用し続けている。


脳と身体がバランスを保つように、
崩れ続けるこのバランスも、遠からず揺り戻しが来る。

…いや、脳と身体は集団(大衆社会)のメタファーには使えない。
脳化社会における集団(ごく広い意味の党派集団)は、身体を持たない。

バランスを保つには、一人ひとりが個人であり続けるしかない。
この重要性は決して、氾濫する情報の波に乗って来ることはない。

 × × ×