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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「TRAVERSES/6」を読む (1)

 
20世紀末のフランス思想誌(の翻訳)なるものを読了しました。
テーマは、冷戦とか、共産主義とか、ポストモダンとか、第三次世界大戦とか…

世紀末の政治 (TRAVERSES)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

  • メディア: 単行本

近現代の世界史(=本書を読む大前提の知識)に疎い人間が手を出す本ではなく、
ただ「今村仁司監修」という文字(と価格の安さ)につられて手に取ったのでした。

正直言って難し過ぎて、1割も理解はしておらず、
わかる文章だけ拾おうと思って読み始めたのが…だいぶ前です。


なんとか橋本治本(難解でもわりと前知識無用)に食らいつくように読むだけは読んで、
おかげでわからんなりにスゲー! と思える人(ルーマンとリオタール)にも出会えて、
頑張った甲斐はあるにはありました。

記録として寄稿者を列挙しておきます。
少なくとも名前は聞いたことが…という人は下線。

 アレクサンドル・ジノヴィエフ
 ジャン・ボードリヤール
 クロード・ジルベール
 マルク・ギヨーム
 セルジュ・ラトゥーシュ
 ジャック・ドンズロ
 フランソワ・リオタール
 マルク・ル・ボ
 グザヴィエ・ルベルト・デ・ヴェントス
 マリオ・ペルニオラ
 フィリップ・キューヴァル
 ミュニッツ・ソドレ
 マイケル・マッカンレス
 ルネ・シュレール & ガイ・ホッケンゲム
 レックス・バトラー
 ポール・ヴィリリオ
 ベネッタ・ジュール=ロゼット
 ダリュシュ・シャイェガン
 ニクラス・ルーマン
 ルイ・マラン
 ティモシー・シモン
 シルヴェール・ロトランジェ
 パオロ・ファブリ
 今村仁司(監修者あとがき) 

内容について批評や分析ができるはずもありませんが、
今村氏があとがきで言ってくれているように、
自分の「関心に応じた素材」、思考材料として利用させてもらおうと思います。

 とりあえず、核心になると思われる論点を指摘したにすぎないが、本書の諸論文は、現代が直面する主題・課題・様相を多面的に提示している。読者はそれぞれの関心に応じて自由にこれらの論文をさしあたっての素材として利用されることを希望する。

「監修者あとがき」p.317
文末の日付は、1991年10月20日

…あえて抜粋する文章でもありませんが、背中を押してくれるようでもあるので。
なんだか学生の気分ですね、久しぶりの感覚。

ついでのちなみに、僕は(自称文系の)工学部出身です。高校は理数科(へんなの)。
学部時代の三度の文転(経済・文・法)は軽重あれど全て未遂に終わった過去を持つ。
 
政治思想や歴史の内容云々にはとっつきようがないので、
「言葉」の使われ方や意味などに反応していくと思います。
 
 × × ×
 

権力とは、自らが、あるいは人々が設定するその対象がしばしば幻想であったとしても、また個々人の同意がたいていの場合形式的であったとしても、行使されうるのだ。端的にいえば、権力はこうした限界内でのみ、社会的政治的形式の一状態を保つという展望においてのみ行使されうるのであり、このことがおそらくは今日の劇的変化の特性なのである。

クロード・ジルベール「契約の終焉」p.34

権力志向は、「上を目指す」と言われるように変化を求める形態もあるはずですが、
このように言われると、本質的に保守的な姿勢なのかもしれないと思います。
持てるものを増やしたいというのは、今持っているものを失いたくないことでもある。

そして対象が「幻想」や「形式」でも行使されると言われれば、
会社や組織に限らずあらゆるところに権力(を行使できる場面)があり、
それは対他的でないところ(つまり自分一人の事情の内側)にもある。

そう考えると、権力志向の増進は社会生活に「不変のもの」が溢れてきたことと対応する。
傍目には劣化しない生活品だとか、電子信号、データだってそうですね。
その傾向が「本人の意思に関わらず」という面もある。

だからこそ、その自覚が重要だと思うのですが。
 

オーウェルは文学作品[『一九八四年』]を書くことを通して、理論は官僚主義支配に抵抗しうる様式ではないことを示唆する。理論と官僚主義支配との間には、むしろ類似性ないし共犯関係がある。両者は共に、自らが関わる領域を完全に管理しようとするからである。(…)ところで、ヴァルター・ベンヤミンが指摘していたことだが、語り手は自らが語る世界に常に巻き込まれていく。それにひきかえ、理論家はどんな場合も、自らの対象を概念的に練り上げる操作に巻き込まれることはないのである。

フランソワ・リオタール「抵抗線」p.75

科学は政治利用されやすい。
そうして科学の皮を身に纏った政治は「他人事」風情になりがちですが、
その因ってきたる性質が政治ではなく科学のものだ、と考えられます。

また、「科学主義」という思想を考えれば、組織だけでなく個人の問題でもあります。
理論と官僚主義の類似性は、科学主義信奉者が管理社会を望む傾向をも示唆する。
それは、管理する側だけでなく、管理される側の人間にも当てはまるように思います。
 

瞬間と個別性とに対するこの殺戮との対照として、ヴァルター・ベンヤミンの『一方通行路』と『ベルリンの幼年時代』を構成する短い散文を援用したい。テオドール・アドルノであれば、これらの散文を「ミクロロジー」と名づけたことであろう。(…)ある言葉との出会い、ある香りとの出会い、ある場所との出会い、ある本との出会い、ある顔との出会い、こうした出来事を作り上げているのは、他の「出来事」と比べた場合のその新しさなのではない。こうした出来事はそれ自体で密儀の価値をもつ。それが知られるのはもっと後になってからでしかない。出来事は感受性にひとつの傷口を開いた。それが知られるのは、ひそかでおそらくは気づかれることのない時間性を刻み取りながら、その傷口がその後に再び開いたからであり、これからも再び開くからである。この傷口が未知の世界へと入り込ませたのである。しかも全くそれと気づかせることなく。密儀は何の手ほどきもしない。それは始まりを告げるのみである。

同上 p.78

美しい文章だと思いました。

「密儀」の価値、それは無時間モデルでは表せず、他人と共有もできない。
その価値を得るには、時間への信頼、あるいは時間への諦念を前提とする。

この消費社会で、「密儀」の価値を教えてくれるものが、あるでしょうか。
また、それを肯定してくれるものが。
 

 少なくとも二世紀にわたって、近代性は我々に政治的自由、科学、芸術、技術の拡張を欲するよう教えてきた。近代性が我々にこの欲望を正当化するよう教え込んだのは、この進歩が人類を専制政治、無知、野蛮、悲惨から解放するはずだと言われていたからである。共和国、それは市民たる人類である。この進歩は今日では開発というさらに恥ずべき名のもとで追求されている。しかし、人類全体の解放という約束によって開発を正当化することは不可能になっている。この約束は守られなかった。約束の不履行は約束の忘却によるのではない。約束を守ることを禁じるのが開発そのものなのである。新たなる文盲、南と第三世界の人民の貧困化、失業、意見の独裁政治、したがってメディアに影響された偏見の独裁政治、性能の高いものが良いとする法則、こうした事柄は、開発の欠如に起因するのではなく開発に起因している。それゆえに、もはやそれは進歩とは呼びようもない。

同上 p.83

太字部を最初に読んで、その表現に衝撃を受けました。
それで印をつけていたのですが、今抜粋してみて、考え込んでいます。
構造主義的発想なのはわかりますが、一体どういう意味だろう?
レトリックに気をとられて、具体的な内容を考えていなかったのかな。

「約束は守られなかった」、ただ未来にそれを達成する努力を続けている、
という目標を掲げているのなら、その達成により約束は守られるのではないか?
いや、そもそも「約束を守ることを禁じる」という言い方が、
その目標の実現性(がゼロに近いのだとしても)とは別のところを指している。
 
…たぶん「開発の正当化」というのが、僕がよく使う言い回しであれですけど、
「発明は必要の母」という科学技術観を指しているのではないかと思います。
つまり、目的とか用途は、発明が生まれたその「後にくっつける」ものだという考え方。
名目の曖昧な予算があって、それを(次年度も欲しいから)使い切るために使うのと一緒。

発明の、つまり開発の本質が「出たとこ勝負」なら、約束もへったくれもない。
 約束が(主体の意思の問題や不手際等によって)守れないのではなく、
 約束が(「開発の正当化」という前提によって)禁止されている、
ということだろうか?

文脈からすれば唐突な解釈ですけど…

(つづく)