「おしまいには、とくに〈類推の山〉の掟のひとつを書きこんでみたいんだ。頂上にたどりつくためには、山小屋から山小屋へと登っていかなければならない。ところが山小屋をひとつはなれる前に、あとからやってきてそのはなれた場所に入る人たちを用意しておく義務があるんだ。そして、その用意がおわってからでないと、もっと上に登ってゆくことはできない。だから、僕らは新しい山小屋にむけて突きすすむ前に、もういちど下に降りて、僕らがはじめに得た知識を、別の探索者に教えておかなければならない……」
「後記」p.192
ドーマル『類推の山』
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定義。──登山とは、最大の慎重さをもって最大の危険に立ちむかいつつ、山を歩きまわる技術である。
ここで技術と呼ぶのは、ある行動を通じてある知識を遂行すること。
「覚書」p.200
引用太字部は本文傍点部
私よりもずっと経験ゆたかな仲間が言う。「足が言うことを聞かなくなったら、頭で歩け」と。その通りだ。なるほど物の道理にかなってはいないが、よくあるように足をつかって考えるよりも、頭をつかって歩くほうがましではないか?
同上 p.205
ちょっと滑ったり落ちたりしたときは、一瞬でも休んだりせず、むしろすぐ起きあがって歩行のリズムをとりもどせ。転落の状況は記憶によくとどめておくが、体にその記憶の反芻を許してはならない。
同上 p.205
あてずっぽうに進むときは、もとにもどってこられるように、通る道になにか跡を残しておけ。石を重ねておいたり、棒で草をなぎたおしておく。けれども先へ進めない場合や危険なところに着いたら、きみの残した跡を追ってきた人を迷わせるかもしれないと考えるべし。(…)たとえそうするつもりはなくても、人はいつも足跡を残してしまうものだ。同胞の前できみの足跡に責任をもて。
同上 p.207
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頂上への道をしっかりと見つめつづけ、だが足もとを注視することも忘れるな。最後の一歩は最初の一歩に左右される。頂上が見えたからといって到着したつもりになるな。足もとに気をくばり、つぎの一歩をしっかりと支え、だが、もっとも高い目標から目をそらすな。最初の一歩は最後の一歩に左右される。
同上 p.206
引用太字部は本文傍点部
それゆえ、意味は要素の非安定性に基礎づけられなければならない。べつの言い方をするならば、意味は、動態的システムの資産であるということである。こうした基礎的な前提条件は、現実性の非安定性と呼ぶことができるもののなかに再現される。この現実性における意味ある経験の焦点というものは、それがあるところの場所にはとどまれず、移動しなければならない。意味の構造は、この問題に関わる現実性と潜在的可能性との差異にもとづいている。この二つの部分からなる構造の機能は、確定的ではあるが非安定的な現実性と、非確定的ではあるが安定的な潜在可能性という交互に生起する集中力を組織することとなる。事実、われわれは世界に対して、非安定性か非確定性をもって、接しなければならない。つまり、安定的な確定性をもつことはできないのだ。しかしながら、非安定的な確定性と安定的な非確定性という正反対の問題を関連づけることによって、状況を展開させることができる。この関連は、意味として生じ、好結果の意味のヴァリエーションと文化的淘汰によって進化するのである。意味のこの進化は、複雑性の増大に帰着するように思われる。
「第二章 複雑性と意味」p.46-47
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』