human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

自覚の祝祭

いつまでも読み継がれる、古びない本があります。

でも、本とは本来、そのような意図でつくられたものです。

内容が古くなって、現代では読む「価値」がない本。
この「価値」は現代が下した判断です。

だとすれば、それを疑うことは、古びた本を復活させることになる。
現在価値がないという判断を覆すことが、新たな価値の創造となる

あらゆる本が、そのような可能性の、その一翼を秘めています。
そしてそれが一翼だと言うからには、飛び立つための翼がもう一枚ある。

読み手、しかもそれは創造的な読み手です。


温故知新という言葉を連想し、その言い換えを考えます。
インカーネーション

 × × ×

いつまでも読む価値のある本。
それは決して、内容が古びないことだけを意味しない。
書いてあることは、古い昔の、当時のこと。
今では存在しないこと、起こりえないこと。

でも、人が書いたものなら、そこに「その人」が現れる。
描写の視点、出来事に対する思考、分析。
純粋な客観があり得ないという、認識の限界。
その限界こそが、可能性の、あらゆる本の無限の可能性の源。

限界が無限を生み出すパラドックス
これは意識の無矛盾的な性質です。

 × × ×

『オルターナティヴズ』(イバン・イリイチ)は古い本なのですが、読む人に「今こそこの本を読むべきだ」と思わせる、強い力を持った本です。
「はじめに」の初めには、こうあります。

 この本の中の各章は、ある種の確定性の性質を問い直そうとする私の努力を記録したものである。したがって、それぞれがごまかしを──われわれの諸制度の一つの中に組みこまれたごまかしを対象に取りあげている。諸制度は、いろいろな確定性を生むものである。そして、まともに受けとめた場合、確定性は心情を死んだものとし、想像力に足かせをかける。私の言葉──怒りに満ちたものや情熱的なもの、技巧的なものやすなおなもの──が、微笑みを、したがって新しい自由をも引き起こしてほしい──たとえ自由がそれなりの代価を払って得られるものであるにしても──というのが、私のつねに変わらぬ願いである。

イバン・イリイチ / 尾崎浩訳『オルターナティヴズ 制度変革の提唱』新評論、1985、p.7

この一節に感じるところがあれば、その人はイリイチに招かれている。
彼の招待を受けること、積極性を賦活するための、最初の受動的行動。


それはよくて。
引用の「諸制度」、これは僕がいつも「システム」と呼んでいるものです。
たとえば、「卵と壁」(@村上春樹)の、「壁」もそう。

明文化された法律、常識や慣習。
数十行のプログラム(たとえばC言語とか)から、全国の宅配流通網を制御するネットワークまで。
社会集団の秩序を効率的に維持するための仕組み。
その始まりには、必ずある目的をもっていたもの。

たとえば「システム」をこのように意味付けるとき、「システム」は有史以来、拡大の一途を辿っています。
また、あらゆる「システム」は、ある目的をもとに生まれた当初は、人の頭が考えたという意味で身の丈を備えているものです。
その身の丈は、「システム」が集団に適用され、運用され、力を増していくごとに、形を変えていく。
 「システム」的な身の丈が、集団の成員一人ひとりの身の丈に変化する場合。
 あるいは、成員の感覚に関係なく、「システム」がもっていた身の丈が失われていく場合。

書きながら思いついたんですが、高度情報化社会が到来してから、「システム」の(変化の)主要な形は、前者から後者に切り替わったのではないか。
設立時の目的が見失われても、変わらず運用が続いている、形骸化した「システム」。
みんながやっているから(という理由付けは日本特有であるという認識はもう古いのかもしれません)、変えるのが面倒だから、という生物的な惰性が生かし続けている、非生物的な「システム」。
こういったものはすべて、後者の「システム」の中にあるのではないか。


話を戻しますが、『オルターナティヴズ』には、後者の「システム」に対するイリイチの根本的な疑義が書かれています。
その場面は1960年代のアメリカ、プエリトリコ、そしてそのトピックはキリスト教会に関するもの。
だから、「そんな二世代以上前の、海外の、宗教の話なんて関係ない」と、興味を切り捨てることは簡単にできる。
でも、抽象的にとらえれば、いつの時代のどこにでも起こる問題に対する、一人の人間の身の丈の思考(問題把握、分析、そして抗議と提案)が、この本では展開されている。
だから、いつの時代のどこにでも起こる問題に遭遇し、「これは立ち止まって考えなきゃな」と思った人は、時代、国に関係なく、イリイチに招かれている。

 × × ×

最初に書こうとしたことに戻ります。

この本の現タイトルは "CELEBRATION OF AWARENESS" 、「自覚の祝祭」というものです。
本の内容を鑑みて邦訳が「オルターナティヴズ」(代替案)になったのでしょうが、自覚という言葉が好きな僕は、この本を「イリイチが書いたんだ…」とわりと平坦な気持ちで手に取り、現タイトルを知ってから俄かに熟読する気になったのでした。
もしこの本が、新たな訳者を得て再版となるようなことがあれば、「自覚」の語をぜひタイトルに入れてもらいたいものです。

さておき。

本書の全体、つまり各章とも、上に引用した「諸制度の…ごまかし」に対する疑義と提言であり、その提言は制度に属する人々の一人ひとりに対して向けられ、彼らの「自覚」が肝なのだというメッセージが込められています。
だから、AWARENESSのほうは本書に横溢していて、ところでCELEBRATIONとは何か?

と、読みながら思っていたわけではないのですが、このことを思い出させてくれたのが7章「無力な教会」でした。
その中から一節を引用します。

 変化の自覚は、個人的責任の意識を高め、その利益を分かち合うよう促す。したがって変化の自覚は、単に祝祭への呼びかけに導くだけでなく、仕事(ワーク)への──他の人たちが労苦や幻想から自己を解放することを不可能にしている障害物の除去への──呼びかけにも導く。
 社会的変化とはつねに、社会構造の変化、公式かされた諸価値の変化、そして最後に社会的性格の変化の意味を含んでいる。これら三つの要因は工夫や創造性を束縛するものであり、こうした拘束に反対する行動を起こすことは、それらを足かせとして実感する人びとにとっての責任となる。

同上 p.134

これは、自覚の責任。
「責任の利益」などという言葉の並びをもはや誰も使わない現代には、清新に響きます。

 われわれはいま、人生の指導的な力としてのイデオロギー、信条、宗教の束縛から人間を解放しようとする、一世紀にわたる闘争の終点に立っている。神がキリストの形をとった託身インカーネーション)の意義に関する非テーマ的な自覚が浮上してきている。それは人生の体験に対し、堂々と「イエス」と言える能力である
 新しい対極が浮上している。物ごとの操作と対人間関係の間にみられる緊張*1を見通す日々の洞察も生まれている
 われわれは、有用なものを前にしたばかばかしいとされるものの自主性を、また目的あるものに対立する無償のもの、合理化・計画化されたものと対立する自発的なもの、さらに創意に富んだ解決策により可能となった創造的表現のそれぞれ自主性を主張できるようになった
 われわれが、社会的諸問題に対し目的をもって、計画された、創意に富んだ解決策を達成するには、なお長時間にわたりイデオロギー的理由づけを必要とすることだろう。意識して世俗的な立場をとるイデオロギーに、この仕事を任せればよい。
 私としては、全く何らの目的もなしに、私の信仰を祝うことにしたい。

同上 p.137-138

ここがまさに、自覚の祝祭、「自覚の時代に対するお祝いの言葉」だと感じられました。
そしてここを読んで、「今は良い時代なのかもしれない」と思いました。

物的な豊かさ、という意味ではありません。
精神的な意味、つまり「自覚」にとって、いちばん良い時代だということです。



「八方塞がり」ということがない。

現実生活として、苦しい人、追い詰められている人はたくさんいるかもしれない。
でも、彼らには逃げ道がある、あり得る。
そして彼らを救いたい人にとっても、その手段があり得る。
自覚はつねに、当面の問題に対するオルタナティヴを、次善策、プランBを提示できるのです。


選択肢が、商品の陳列棚のように、無数にあるのがよいこととは限らない。

ただ、選択肢が、己自身が生み出したそれが、もう一つあること。
自覚は、この「希望」の唯一の源なのです。

 つまり、メンタルストレスというのは、メンタルストレスという自存的な不快のことではなくて、「自分はこの不快な状況をどうすることもできない」という無力感、無能感とセットになったときにはじめて機能するものだった。ですから、どんな嫌なことがあっても、自分がスイッチをオフにした瞬間にこの嫌な気分はたちまち消えると思っていると、つまり自分は自分の状況をきちんとハンドルできていて、心身の状態をコントロールできるという確信があると、メンタルストレスは発症しない。実際にストレスを解決する手段を行使しなくても、そういう手段を持っていると思うだけで、ストレスはネガティブな効果を及ぼすことができなくなるんです。そういう話を[池谷裕二さんという脳科学の方の講演会で]うかがいました。

「第11講 鏡像と共─身体形成」p.214(内田樹『街場の文体論』)

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オルターナティヴズ―制度変革の提唱 (1985年)

オルターナティヴズ―制度変革の提唱 (1985年)

*1:翻訳される前の文章をぜひ読んでみたいものですが、この部分は「壁と卵」、システムと個人、と言い換えられるのではないでしょうか。