human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「鎖書店」説明ページのための文章

このブログにはほとんど書いてこなかったのですが、現在「新しいコンセプトのネット古書店」の開業準備中で、半年以上前からコツコツと進めていました。

今日はその準備の大詰めで、販売HPの説明書き(要するに「売り文句」)を書いていました。
「鎖書店」と命名したものについて、長い間考え、書き溜めていたメモを読み返し、それから「えいや」で一筆書きのように文章を打ち込みました。
推敲をあまりしていない、いわば初稿ですが、紹介のため転載しておきます。

薄利多売の対極をゆく、キーワードは「非消費者的読書」です。

以下の販売HPに商品データをアップロードして、近々開店する予定です。
本好きな方も、普段本を読まない方も、長いですが一読して興味を持たれましたら、ぜひ当「鎖書店」をご利用下さい。

ブリコラジール=サンタナ鎖書店


 × × ×

本HPにお越しいただき、ありがとうございます。
このショップ、つまり鎖書店は、利用者と本との間に「新しい出会い」が生まれることを願って立ち上げました。

鎖書とは、なんらかの関係で繋がった複数の(主に3冊の)本のことをいいます。もちろん造語です。

一冊の本はふつう、著者が本の中に書いた文章を、その本を手に取った読者が読むものです。
つまり本を介して、著者と読者が一対一で相対するわけで、著者と読者との関係はその一冊の中で閉じています。
上下巻やシリーズものは、複数の本の間に関係がある。また、同じ著者の本、同じジャンルの本…と、ある枠組みを考えれば、その中に含まれる複数の本も、互いに関係をもつ。こういった関係はすべて、外的な、客観的な関係です。
その、客観的な関係に対して、「主観的な関係」を考えることができます。
簡単に言えば、主観的な関係とは例えば、「俺(私)が読む本は、自分が読むという理由によって互いに関係がある」といったものです。ある人の家の、本棚にある複数の本は、それらがそこにあるというだけで関係がある。
あるいは、「本Aを読んでいる(読み終わった)時に本Bのことが頭に浮かんだから、本Aと本Bとは関係がある」という形もそうです。
一人の人間の経験をよりどころとして並べ置かれる本たちは、主観的な関係によって結ばれている。

鎖書とはまさに、店主(僕)の独断と偏見という主観的な関係をもつ本たちです。
オフィスに自作した書庫にある、僕が読んだものも未読のものも混ぜこぜの蔵書(複数の読書家から引き取った古本です)から、「連想」という意識活動一点に方針を絞って選ばれた、当の本たちにとっても思いも寄らない組み合わせです。
そんな訳の分からない、こじつけで意味なんてないかもしれない本のセットを、誰が好んで買うのか?
と、そう考えるのが常識かもしれません。


僕は最初に「新しい出会い」を生み出したいと書きました。
ふつうに、つまり書店で、古本屋で、あるいはAmazonで本を買うのとは違う形での本との出会いを実現させたい。
では、鎖書店で本を買うことの、なにが「新しい」のか?

ポイントは、ここで本を買おうと思うあなたは、ある鎖書の価値、セットで買うことになる三冊の本の価値を、よく分かっていないという点にあります。

たとえば。
鎖書のうちのある一冊を読んでみたい、でもあとの二冊は特に興味がない。
と、あなたがそう思った時、「賢い消費者」的な感覚からすれば、その一冊だけを別のところで買えばいい。
俺(私)がもし、その一冊のことを(読む前なのに)よく分かっていて、読み終えれば自分がどのような満足を得るかも予想できていて、コンビニでサンドイッチを買うのと同じように、買って食べる前と後とで(お腹の状態を除いて)自分が何も変わらないことを望んでいるのならば、その一冊だけを、一番安くて、ついでに手間のかからない手段で買えばいい。
でも、と考える。
でも、そうではなく、その一冊のことを自分はよく知らないし、レビューも見ていないけれど、なぜか興味が湧いて一度読んでみたいと思っており、読んだあとに何が起こるか想像できない(面白い、またはつまらないと思うかもしれない。あるいは自分の感想や評価なんてどうでもよくなるくらい価値観が変わるかもしれない)、それが不安ではあるが、その「結果が予測できない」こと自体を楽しむ気持ちが、俺(私)にはある。
何よりも、その一冊が内蔵している未知と、それを読んで起こりうる自分の変化に対する好奇心がある。

もし、あなたが、本に対してそのような気持ちを抱いているとすれば、その一冊が「単なる一冊」ではなく「鎖書」という形であなたの目の前にあることは、あなたの好奇心をさらに刺激するきっかけとなるはずです。

僕は、本は「消費するもの」ではないと考えています。
理想の消費者は、商品の値段がその使用価値に見合うかどうかをしっかりと見定め、価値と値段の差し引きがマイナスにならない(ひいては最大化する)場合に、購入を決断します。
しかし、書店に並ぶ本に対して、同じ姿勢がとれるでしょうか?
少なくとも僕は、イエスと答えることができません。
本の価値は、それを使い切るまで分からず(厳密に言えば「使い切る」ことが本当に可能かどうかも疑問です)、かつ一人ひとりにおいて価値の大きさが異なる。つまり、本の本来の価値は、お金に換算できない(巷に並ぶ数字は流通価格という間に合わせのものです)ことはもちろん、客観的な指標もありません。
言い方を変えれば、本のほんとうの価値は読み手が決める、そしてその責任を読者が負うということです。


以上、ショップの説明について散漫に書いてきましたが、簡単にまとめてみます。

本HPを訪れた時に、「余計な本がくっついている」「ムダに値段が高い」と思われる方は当然いると思います。
それは消費者的感覚として、正しい反応です。
ただ、そのそれぞれに理由はあります。
「鎖書」という形式で販売するのは、一冊の本が(読者の中で)その一冊が持つ以上に発展する可能性を込めているためです。
「値段が高い」のは、そこに、手前勝手であれ店主の選書料と、読み手自身が本の価値を見出すと自分に発破をかけるための散銭が含まれているとお考え下さい。

これらのことに納得いただいて(しなくてもよいのですが)、当鎖書店をご利用いただけますと幸いです。

敬具

店主