human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ラディカルの未来形、マジックミラー・シティ、意識活動の質的変化

 風紀係の教師の前に立たされた非行少女は、ただ一つのことを知っている。それは、自分の言葉がけっして相手に受けとめられることはないということ、もし受けとめられることがあれば、それは、相手が虚偽であるか、自分が虚偽であるか、そのどちらかの場合だけだ、ということである。(…)
「お前は誰だ」と訊かれて、優等生の言葉は風紀係の教師に向かい、「私は私だ、あなたの思っているような人間ではない」と答える。しかし非行少女の答え方はそれと全く異なっている。彼女は言う、「私は、あなたが私について思っている、その通りの人間だ。というより、あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。私はゼロだ。私は空虚だ。あなたが私にステレオタイプの像をかぶせる。すると私は、『ステレオタイプ』それ自身になるのだ」と。

(…)

 ゴダールの初期の映画『勝手にしやがれ』は、細部は違っているかもしれないが、大筋のところ、ほぼこんな映画だ。
 ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルという「ちんぴら」がいる。ジーン・セバーグ演じるパトリシアというアメリカ人の女子留学生がいる。二人は知り合い、恋仲になり、やがて、ミシェルがつまらないことで警察に追われる身になり、二人して南仏に逃げる。(…)パトリシアはさんざん迷ったあげく、警察に密告するが、してしまってすぐに後悔し、ミシェルに、いま自分があなたを警察に売ったから、もうすぐ警察がくる、早く逃げろ、と言う。しかしミシェルは腰をあげようとしない。彼はこんなことを言う、「おまえがそうしたのなら、俺は逃げない」。彼は、俺はおまえを愛している、愛しているおまえが売ったのなら、俺は売られる、そう答えるのである。

「ラディカルの現在形」p.153-154,155,156(加藤典洋『ホーロー質』河出書房新社、1991)

 森田[吉本ばなな『キッチン』原作の映画監督]の豪華なキッチン、高嶺[擬架空の沖縄映画『パラダイス・ビュー』の監督]の「通じさせなくする」字幕、松田[優作、リドリー・スコットブラック・レイン』の出演俳優]の役者絵の顔。ぼく達はここで、何を前にしているのだろう。僕たちはここで、ある意志のかたちを前にしている。その意志のかたちは奇妙な表情をしている。いまは無意識が力をもつ時代、しかも無意識でいることがことのほか難しい時代だということだが、無意識でいることができない場合、ちょうどその分だけ、たぶん人はラディカルにならざるをえない。ところで、そういう時、人は、ただ単にラディカルなのだ。そのことに意味はない。人は、ステレオタイプをなぞり、ステレオタイプを追い抜き、ぼく達に言う。私は「ステレオタイプ」なのだ。私はあなた方が作った、私の考えていることを、さあ、あててみろ、と。
 このことにいったい、どのような「意味」があるだろう。

同上 p.167

「無意識でいることがことのほか難しい時代」。

僕は前に、現代人はもう無垢ではいられない、ということについて考えたことがあります。

一つ前の「自覚の時代」の記事とつながる話ですが、個人が入手できる情報が増え、その方法が簡便になり、ついにはその方法の行使が「回避できない」、意識して遮断しても間断なく情報が流れ込んでくる現代で、人は無知を装うことしかできない、絶滅危惧種となった「無垢なる人」の存在が、架空の物語のなかでしか認知されない。

情報の奔流を冷静に見定め、波乗りのごとくその上方で己をコントロールする技術を、またその勇気を持たない大多数の人間は、無秩序に見える濁流に呑まれまいと、興味の対象を絞り切り、その他に対しては無関心を決め込む。

専門家以外は無知となり、当の専門家は異分野において無知を晒し、その姿勢がまかり通って、厚顔無恥歩行者天国を埋め尽くす。

たぶんそれは脳化社会の洗練の過程で起こる生物的な反応で、必然といえばそうなのかもしれません。
そして自覚とは、その意味で反生物的でありながら、反生物的な遠望によって生物種の存続を試みる「キャッチャー」、断崖の目前で羊の群れを押し留める意識の機能である。


それはよくて。
「私は私ではなく、あなたが私について思っているもの、それが『私』だ」という答え、「お前は誰か」という問いに対するこの答えには、マルクスのいう「命がけの跳躍」がある、と加藤氏は言う。
そこには、あるラディカリズムが含まれている。

「他者とは自分を映す鏡である」という見方からすれば、いやそれを極端化すればということかもですが、アイデンティティの確立が全的に他者に依存することも、そう奇妙には思われない。
自分は自分以外の他人ではなくほかならぬ独自の己のことである、そういう自己認識を自分で立ち上げ自己了解する。これは一つの物語であり、たぶん人間社会の文脈に「個性」という考え方が力を持ち、その力が社会の発展を促すと考えられた時に補助的に役立つ目的を担った物語であり、原理的にいえばそれは「補助」である。

ラディカリズムというのは、建前や本音が実用や遺物とともにごっちゃになった複雑怪奇な現在進行形に対して、ある特定の原理を基準に弁証法を推し進める、そのことで現在に新たな角度から光をあてる一つの手法です。
だから、そう呼ばれ始めて、周囲に認識されることになったラディカリズムは、人々が自分の生活や認識の中からは思いもしない姿形を、その生活や認識の中に浮かび上がらせる力を持つ。その意味で、一つの文脈をもった特定分野のラディカリズムは、いつか色褪せる運命をその起源から負っている。

そして、特定分野のというのでなく、思想としてのラディカリズムの貫徹というのは、鮮度を失い、色褪せて通俗化した光の中にいて、その外から「ここに射し得る新たな光」を幻視する、その可能性を持ち続けることである。


本題に入る前から話を大きくしてしまいましたが。

上で後者の引用は、「ラディカルの現在形」という章の末尾の部分ですが、その最後の一文を省いています。
その省いた一文とは、こういうものです。

 このことにいったい、どのような「意味」があるだろう。いま、ラディカルであることに、「意味」はないのだ

小論の最後に結論のように断定して書かれていますが、これは意見ではないように読めました。
つまり、「ラディカルであることに意味はない」、これはラディカルの定義です。
意味の連なりを遡求し続けた先の消失点(つまりその道行きは漸近的でしかない)に、意味は存在しない。

このように書けば、加藤氏のこの小論が「結論なし」と読める、と言っているようですが、そうかもしれないと思いつつ、そうでもないとも思えるのです。
というのは、ラディカリズムをラディカルに分析するのはナンセンスであって(文字通りですね笑)、僕が本を読む時はいつでも、その文章をプラグマティズムに基づいて判断する自分(の一部)がいます。

その僕自身の一部、僕が素直だと自己認識するその一部は、小論の結びの一文は「問い」であると認識しました。
結論に問いが差し出されること、これこそが批評の存在意義だからです。

 × × ×

やっと本題です。

加藤氏の評論の中に、「マジックミラー」という言葉が出てきます。
映画『パラダイス・ビュー』に対する氏の分析の中にそれはあります。

 つまり、まず『パラダイス・ビュー』という沖縄で撮られた、琉球語の、沖縄の映画が作品として存在し、それを日本の観客にも見せるため、字幕が付与された、というのではない。アメリカの英語の映画が、アメリカの観客のためにまず作られ、そこに字幕をつけて、日本に輸出された、という場合の字幕の用法とは全く異なっている。この映画は、日本の観客にむけて作られている。日本の観客にむけて作られながら、それではこの映画は、なぜ観客に「通じない」言葉で語られるのか。この映画は僕たちにそう考えさせる。というより、この映画はぼく達にそう考えさせるためにこそ、まず「通じない」言葉で作られ、それを翻訳しながらそれが「翻訳」にすぎないことを、そのむこうには翻訳されるべき何かがあることを、ぼく達に思い知らせるように作られているのである。それは素通しのガラスなのではない。しかしたんなる遮蔽幕だというのでもない。それは字幕なのだ。鏡というより、それはぼく達の顔、ステレオタイプとしてのオキナワを映しだす、マジックミラーだと断わって差しだされた鏡なのである。
(…)
この映画を作らせたのはあなた方だ。あなた方の沖縄にたいするステレオタイプ像がこの映画の原動力なのだ。ここから僕たちはこうした声を聞く。ぼく達の前にあるのは、マジック・ミラーなのだ。ぼく達にそのむこうは見えない。見えるのは僕たちの姿だ。そのむこうから誰かが見ている。ぼく達は、たしかにこの映画を前に、そんな落ちつかない気持を味わうのである。

同上 p.159-160,161

ここを読んで思ったことの一つですが、

隆盛を極めた脳化社会の結実である都市において、さらにはその思想を純粋培養して成長し、過去に電脳都市と異名をとったネット空間において、店舗や住宅の一つひとつが、またデザインやガジェットといった要素の一つひとつが、マジックミラーであり、その機能を帯びているのだということ。
そこで人が目にするものの各々が、その人の欲望や不満を映し出す、つまり人は身辺周囲のそこらじゅうで自分自身を見せつけられる。
と同時に、己が映し身の奥には常に、自分ではない誰かの顔が、顕わであり密やかな思惑が透けて見えている。


そしてもう一つ、その続きですが、
「マジックミラーの多重反射」という現象を思いつき、その意味するところを考えてみたいと思ったのでした。
以下はその考察です。

ある物質に入射する光は、3通りの経過を歩みます。
透過する、反射する、あるいは吸収される。
物体は光に関して、透過率、反射率、吸収率という各々その物体固有の物性値を持っており(物理科学がそう定めた、ということですが)、パーセントで表される3者を足せば、ちょうど1になる。

光の吸収というのは、要するに物質内の光路における波動の減衰ということで、話が複雑になるのでここでは無視します。
つまり、物体は光の一部を反射し、残りを透過させる、と考える。

マジックミラーは、光を透過しない通常の鏡(フルミラー)と違って、いくらか光が透過するように材料や膜の積層構造を調整した鏡です。
マジックミラーの2つの表面に光学的な機能差はなく、マジックミラーが境界となっている2つの空間の明るさの違いによって、鏡に見える側の面と光が透過して見える側の面とがあるように錯覚させるものです。
マジックミラータイプのサングラスは、装着した人の顔面(=サングラスと両目のあいだの空間)が暗く、同時に彼が明るい場所にいるという条件を満たすことで、目線を他人に見られずに彼の視界を確保することができます。

もちろん、直上の文脈における「マジック・ミラー」とは比喩であって、ここでも同じくメタファとして考えています。

たとえば。
警察ドラマの取調室にある鏡がマジックミラーだとわかるのは、それが知識として普及しているからであって、その奥に誰かがいるかもしれないという判断に知識が先行しています。
いっぽうで、商品や建物など人工物とはいえ本来は無機的な物体、さらには多様なコンテンツを含むネット上の無数のHPは、誰かの意図が介在し、その存在に何らかの目的があることが一目瞭然である点において、それらはマジックミラー的であると言える。

アマゾンの奥地を歩きながら現地人が合切袋に放り込む物々に映り込むのは、ただ現地人の思考のみである。
それと同じことは、テレビCMで「あなたの自己実現のために」と喧伝される健康器具を目にする消費社会の構成員には起こりえない。

もっと言えば、「鏡(フルミラー)としての他者」は己の欲求を押し隠して真摯にコミュニケーションをとる奥ゆかしい存在であるのに対し、傍若無人で滾る自己顕示欲のなすがまま他人を道具として利用することしか考えない人間は、よくて「ハーフミラーとしての他者」、そう捉えるのもつらい一般人には(他者は自己の鏡である、という観念を外せないばかりに)自分が汚物のように思われて直視をためらわれる存在、ということになる。

 × × ×

さて。

考えたいのは「多重反射」のほうです。
つまり、一つの商品には多くの人間の多様な意思や欲望が含まれており、ある一人の言動はその人以外の何人もの意図が介在してその影響が窺われる、というような…
書く前からややこしいと分かっていましたが、めんどくさそうですね。

方向性を変えましょう。


人工物の少なかった時代、たとえばアニミズムの繁栄する古代日本を思うと、八百万の神というのは、自然物という思惑のないものに対して思惑を読み取るという感受性の象徴です。
現代はたぶんその、逆をいっています。
人工物に取り囲まれた生活を生きる現代人は、思惑だらけの物質世界から、可能な限り思惑を読み取るまいと努力することで命脈を繋いでいる。

いささか大げさに二極化して書きましたが、この「逆」の意味するところは、オーバ・キャパシティ、です。
どちらも意識活動の必然の目指すところなわけで、つまり程度問題だ…
と書いて結論にしようと思ったそばから、そうではないという気がムラムラとしてきました。

たぶん後者は、「質的変化」を伴っている。


どんどん論理が粗っぽくなっているのは承知ですが、これは僕の脳キャパシティとMacBookのバッテリィの問題なので悪しからず。

「システム」のことを、これまで何度も書いてきましたが、

ある時代から「システム」自身が思考を持つようになった、あるいは人間がそう考えたくなるほど「システム」が複雑に進歩を遂げた
上に「意識活動の必然」という書き方をしたのは、夢・希望を抱いて実現を目指すとか、課題や問題の解決といったことが、生活環境がどう変わっても、ある量的な範囲で実行されることが人間の自然である、というような意味ですが、その意識活動の一部を「システム」が代替するようになった、あるいは人間がそう考えたくなるほど「システム」が複雑に進歩を遂げた

この一部代替ということが、上の「質的変化」の意味するところで、これはもしかしたら、「意識活動の必然」の範疇を外れるものではないか。


高齢化社会先進国日本」と同じように、この事態が歴史に前例のないものだという認識に立てば、それこそ背筋が伸びて頭も回ろうというものです。

 × × ×

ホーロー質

ホーロー質