human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

今、日々在りて

ここ最近、併読書のなかで、長々と読み続けてきた本の読了がいくつかありました。

『意識と本質』(井筒俊彦)、『存在なき神』(ジャン=リュック・マリオン)と、それから先ほど読み終えたのがイヴァン・イリイチの『脱病院化社会』。

それぞれ、最終頁を閉じたあと、
背表紙から表紙へと視線を移して、しばし感慨にふける、
ということがありました。

古本屋の仕事をするうちに、昔は精読しかできなかったのが速読というか拾い読み(正確には「拾い精読」)ができるようになり、どの本をちゃんと読むか飛ばして読むかの判断もわりと最初から判断がつくようになったんですが(といっても選書が感性的である以上、それはスキルというより感性への順応といったものですが)、ちゃんと読む本として認定した本の精読のほうは以前よりも腰の入り方が深くなったような気がします。

というわけで、精読了した本を前にすると、何かを得たというよりは自分の何かが変わったと思うことがあり、しかしイリイチの本(これまでにはあと『オルタナティブ』、『シャドウワーク』、それから渡辺京二訳の『コンヴィヴィアリティのための道具』を読みました)はどれも、得たものは新しい知識というよりは新しい言葉、いや言葉の遣い方、むしろ言葉を通じて生き方を表す方法のようなもので、読了して自分の何かが変わったということを言い換えると、外から何かがつけ加わったというよりは内にあったものが活性化されたという感覚です。


新しさと懐かしさを同時におぼえるような。

自分が(言葉の外で)求めていたものを言葉にするとこうなるのか、という。

いや、
自分がいろいろと言葉を探りながら求めていたもの、
その言葉は、「求めるものを表現するための言葉」の遣い方であったのだけど、
それとは全く別の仕方で表現されたものとして、
「求めるものを実現するための言葉」として表れている、という驚き。


 × × ×


今まで何度もこのブログで、
自分の生活方針について、
「何をするか」よりも「どういう状態であるか」を重視する、
また、それを状態の志向という表現で書いてきました。

その状態を、イリイチから贈られた言葉でいえば、
 「コンヴィヴィアリティ」
(「自立共生(的な生き方)」)

となります。

僕自身はこの状態の実現を理想とし、
(その実現は、安定不変の幸福を意味しません)
それに向けて、自分がすることとしないことを選び、
自分自身の価値観を形成し続けていきます。

また、「共生」という言葉は第一に自分と関係する具体的な人々を連想させますが、
僕自身は周囲環境や本といったものも対象だと考えていて、
というのも現在の生活は後者の比重が大きいからですが、
来年はじめから新しい生活の準備(拠点の決定と生業の構築)を始めるにおいて、
前者の意味での「共生」も視野に入ってくることになります。

 つまり、自分と関わる人を選び、
 またその関わりの深さを選び、
(それらを選ぶということはまた、
 自分がそれらを選ばれることでもある)
 そのことでお互いの選択が、
 お互いのコンヴィヴィアリティを活性化するように、
 選び、また選ばれる。

イリイチが多数の著作で指摘し続けていたように、
産業社会的価値観はコンヴィヴィアリティの基盤に馴染みません。
けれど、現代社会の基盤がそこにある以上は、
それと適度な距離をおいて付き合っていくしかありません。
具体的には、
プラグマティックな現状認識としては肯定も否定もしないまま、
生活思想としては生産主義・効率主義に対して常に留保を怠らない(鵜呑みにしない)、
といったことです。

そのような生活方針を貫いた結果として、
将来的に、産業社会的価値観からすれば失敗となるようなことになっても、
それに囚われないためには、
それを自分の身体性を担保にして否定し続ける姿勢も必要となるでしょう。


難しいことかもしれません。
でも、簡単というか、
ことはシンプルであるかもしれません。


脳化社会で、人は無垢ではいられません(でないと呑まれる)。
一方で、素朴であり続けることはできる。
けれど、そのためには一生涯の努力を要する。

「素朴であり続けるための努力」というのは矛盾して見えます。
でもこれは、身体という基礎に築かれた脳化社会の矛盾と対応しています。

 古代の呪いを解くのは、宗教という呪術です。
 現代の呪いを解くのは、言葉という呪術です。

「言葉による身体性の賦活」という迂回路は、
 グラスルーツにしか存在しません。

そういう生き方を、
周囲とともにしていけるように、
動いてみようと思います。


今日々在りて、
コンヴィヴィアリティ。

お粗末でした。