human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

脳化社会の「もう一つの側面」/ローファイ絶望社会論

『未来を失った社会』(マンフレート・ヴェールケ)を読了しました。

原著は96年初版で、統計データなどは古いのですが、語りがいい。
「絶望の舌鋒を振るう社会学者」とのことですが、楽観はもちろんないが、悲観とも違う。
ラジオの天気予報のように淡々と世界の崩壊(エントロピーの極致)について語る調子は、
昨今流行のローファイ音楽のようでさえある。
「だからどうした、当たり前じゃないか」と言われると、「ま、そうかな」と思う。
絶望か希望か、という水準が、意味遊びに相対化されたような平易さ。

読む人によって、
希望の論理を絶たれて生気を失うかもしれないし、
この絶望の正視が希望へのスタートだと発奮するかもしれない。
と言って実際はどちらもありえないだろうけれど。
まっとうな人なら「陰気臭いなあ」と一言で終わらせそうだ。
著者をもっと頑固な意志の人にすれば中島義道氏に似ているかもしれない。
でも著者は社会学者である(もっと言えば「社会学者嫌いの社会学者」である)。

僕が面白かったのは連想の糧としてであって、
読みながら色んな本や発想と繋がることがあってその都度興味深かったのですが、
書いておこうと思ったことが一つだけあるので書いておきます。

 × × ×

「脳化社会」(@養老孟司)という言葉をこのブログで何度も使ったことがあります。
現代の先進国社会を表現するにこれほどふさわしい言葉はない。
この言葉は、養老氏の社会批評エッセイでもそうですが、基本的に批判的に用いられます。
「ああすればこうなる」、頭でっかちの、身体性抜きの、現在ファースト計画社会。

僕も今までこの言葉はネガティブなイメージでしか使ったことがありませんでした。

この本を読んでいる間、「脳化社会」の言い換えというか関連として、
「挫折を招くコントロール欲(にまみれた社会)」(@ニクラス・ルーマン)、
「好コントロール装置(官僚機構のことだったかな?)」(@池田清彦)、
などを思いついていました。

それで、あろところ(後述)を読んでいてふと、
「脳化社会のポジティブな捉え方は見田宗介がしていたじゃないか」
と思いつきました。
 消費のイメージ(幻想)化による資源浪費の抑制、
 またそれと実体経済との分離による実体経済(→身体性)の回復。
 運命委任と共存する想像力の解放。
現代社会はどこへ向かうか』で描かれた、幸福の未来社会。

見田氏の構想は、現代が脳化社会だからこそ描き得たのでした。
気付いてみると、養老孟司見田宗介がなぜリンクしなかったのかが不思議なほど。
それほどまでに強固に、脳化社会というイメージの「片側」しか見えていなかった。

物事にはすべて両面がある。

この一般論を了解していればあらゆる概念を柔軟に捉えられる、かといえば、
そんなはずはないのでした。
もともとそう思っていたわけではありませんが。
 
 
上で触れた「あるところ」についてなんですが、
この養老-見田リンクについてページ内表紙の余白にメモしていて、
そこにはページ数とともに一言「ポジティブを相殺するためのネガティブ」とあります。

この一言の意味もわからないし、
これと当該リンクとその指定ページの内容との関連もわかりません。

連想ミサイル連射の欠点はリンクの履歴だけが残って、
各々のリンクの意味が忘却されやすいことなんですが、
ちゃんとした意味があったのならいずれ思い出すだろう、
という未来の自分への信頼に基づいた方針なので、
そこはあまり気にせずにとりあえず指定ページのマーカー部を引用しておきます。

著者が引用したヘンリー・ミラーの著書からの孫引きです。

 北では、片時もじっとしていられない人びとのあいだで時間が湯水のように使われているように思える。彼らの一生は、浪費された時間以外の何者でもないといってよかろう。ぶよぶよした顔でセックスに消耗した四五歳の太って息切れする男、それはアメリカが生んだ無意味の最大の象徴だ。彼はエネルギーの色情狂であって、エネルギーがあってもなに一つやり遂げない。彼は石器時代人の残像だ。脂肪と過剰な刺激を受けた神経でできた統計学の束であって、保険勧誘員に不安な診断書を作成してもらえるためにだけ存在している。裕福で忙しなく頭が空っぽの無為の寡婦たちといっしょになって、国中に種をまき散らす。この寡婦たちときたら、おしゃべりと糖尿病が難なく入れ替わる亡霊めいた修道女の一団をなしている女どもだ。

p.281 太字は引用者

この引用部が書かれたのは1977年。
これを昔のことだと思うか、そうでもないと思うか。


それはよくて、
このマーカー部のそばにはメモが二つあります。

 「そう見える他人が存在すること」「他人から自分がそう見られること」
 を、気にしなく(てもよく)なった社会

これが一つ目。二つ目は以下。

 個人主義の「感度の振り分け方」
 cf. RPGのさいしょ、主人公へのパラメータふりわけ、とそのメタ視点

二つ目の後半について、
ロールプレイングゲームの中に、
主人公の初期能力値に対してボーナスポイントを任意に付与する、
というシステムのものがあったと記憶しています。
能力値というのは、力、素早さ、かしこさ、…というような。

まず、個人の能力について、いくつか項目があって数値化できる、
という視点にひとつの人間に対する考え方が現れています。
そして、その数値を(わずかであれ)自由に設定できる、
というシステムは、その考え方に上乗せする形のイデオロギーとなります。


ポストモダンは、価値や規範の相対化を招いたとされます。
いや、招いたというよりは、各地で起こっていたその相対化の、
思想的な見地における現れと考える方が自然でしょう。


引用に対して、なんと強烈な皮肉かとも思いますが、
そう表現されて妥当な人びとが(あるいは当時だけでなく現在も、あるいは大勢)いて、
けれど当人はそう言われてケロリとしているような人びとがいて、

その先にあるのはいくつかの舗装道と獣道とジャングルだという、
ローファイ・ヒップホップな話
でしかないのです。

 × × ×