human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「我輩は官僚である。名前はもうない」

 
『未来を失った社会』(マンフレート・ヴェールケ)という本を読んでいます。

「社会もいずれは必ず人の一生と同じ経過をたどる」という標語を掲げ、
無秩序の増大であるエントロピー現象が社会のあらゆる領域で起こる様を、
歴史事件や統計データを並べたり、あるいは印象派的なエッセイ仕立てで、
社会学的に(著者は社会学者ですが)綴るその基調はシニカルなものです。

が、経済や生活水準の向上にかまけて見ぬふりをしてきた面を見る意味では、
岐路の時代において、まことに示唆に富む視点と考察に事欠きません。


本記事も相変わらず、思考を刺激された一節が発端となっています。
 
 × × ×
 

マックス・ヴェーバーは、官僚制を合法的・合理的支配組織として特徴づけた。そのような支配組織は、合理性、服従、専門、そして非人格性といった原理によって働き、いわばゲマインシャフト行動をゲゼルシャフト行動に変換する。このことは結局、予測可能な規則にもとづき、また特殊な専門家によって、出来事を客観的に片づけることを意味する。
(…)
合理性に関していえば、まったく非合理的でしかない多数の形式主義的、完全主義的な事象が存在するばかりではない。いわば規則を促進させるにつれ、どんな合理性の基準も感じられない官僚エリートの自己淘汰も生じてくる。非人格性、つまり客観性と中立性という点についていえば、価値と規範の規約集や上層の利害関心に奉仕することを優先し、公務における非公式の忠誠関係を顧慮する傾向がある。専門能力についていえば、役人の考えと専門家の判断とのあいだに、頻繁に摩擦が生じる。

 したがって官僚制には、エントロピーの感染源がたっぷりあることになる。しかし、その中心の局面に光を当てているのは、すでに述べたパーキンソンの法則である。つまり、すべて官僚組織は、本来の任務とは無関係に膨張し、自分の仕事をますます自主管理に集中させ、その結果ついに本来の任務をすっかり忘れはて、自分で生み出した問題にいそしむことしかしない傾向をもつ。
 もちろんわれわれは、官僚組織というものが国と公の分野にしか見られないものではなく、経済を含めた社会全体に浸透していることを知っている。

「Ⅳ:「高開発」社会の社会的エントロピー」p.224-225
マンフレート・ヴェールケ『未来を失った社会──文明と人間のたどる道』青土社,1996

 
官僚制のエントロピーとは、もともとは安定した秩序の構築を目指して設計された制度の各性質(合理性、服従、専門、非人格性)が、制度の徹底によってその性質を裏切る方向に作用し、総体的には無秩序を来すことを指します。

特に新しいことを言っているわけでもありませんが、
こうして集中的にネガティブな面を見せつけられると、いろいろな思いがよぎります。
 
 
最初に、引用最後の一文。
「官僚組織(制度)が社会全体に浸透している」。
まあそうだろうなと思いつつ、それが実際何を意味するのかを考えてみました。

同じ一文にあるように、ふつう官僚組織といえば「国と公の分野」がその代表格だとみなされています。
そして市民的な立場からして、官僚的な性質をあまり好ましいものとはとらえていない。

ちょうど自分はいま政府の「家賃補助支援給付金」の申請をしていますが、コロナ禍に対する支援制度の一つである初期の「持続化給付金」の超ザル的対応の反動なのでしょうが、あまりの内容空疎な杓子定規、事実を様式に合わせて歪曲しにかかる形式至上主義的な事務局側の対応に、ウンザリを通り越してある種の感動を覚えさえしていて(だからもう結果的に給付金降りなくてもニコラス・タレブのいう "F××k You Money" としてメンタル面で有効活用させてもらおうかと思ってるくらい)、それでいて申請手続きに関する問い合わせに対応してくれるのは政府委託の(たぶん)民間業者のオペレータで、彼女のまことに人間的な(僕にではなく制度に対する)困惑を漂わせた説明を聞いたりして、手続きのいちいちが興味深いのですが、それはさておき。


まず、官僚組織が社会全体に浸透しているとして、
さすれば一私企業のサラリーマンだったり個人事業者であるわれわれは何の官僚なのか?

あらゆる個人が所属する具体的な組織などというものはないので、
(「国」は今考えようとしている組織としては抽象的な存在です)
官僚組織がもつ性質と共通の性質を担う「なにか」に僕らは属する、と考える。

すると答えは簡単で(というのは僕がいつも考えてることだからですが)、
高度に複雑化・ベンディングマシーン化・匿名化を遂げた「システム社会」ですね。

それのどこが具体的なんだと言われれば、具体例を逐一挙げればいいのですが、
面倒なのでそこは抽象的にまとめるとして、

そのつど人の手や時間を介されてきた生活過程から、人手が除かれ無時間化したこと、
仕組みが単純で、素材や原理や作り手の手間が容易に想像できた生活用品が、そうでなくなったこと、
あるいは法という制度も、ローテクな生活実態に基づいて人間が頭で思い描けるレベルの単純さだった昔に比べれば、専門家集団が膝を突き合わせて時間をかけてあらゆる事態を想定しても事後的に不備があちこち出てきてAIに立案させるのが確実で現実的だなどという意見が出かねないほど複雑になったこと。

総じて、科学(客観)主義、効率主義、平等主義といった建前と、人間の頭脳の(身体性抜きの)拡張である機械計算能力を前提に、人間の集団的生活を円滑に営むために張り巡らされたメカニズムの網のことを「社会システム」と呼び、そのようなシステムによって回る社会を「システム社会」と呼ぶ(ことにします)。

ここで、官僚組織の4つの性質を再掲しましょう。
「合理性」、「服従」、「専門」、そして「非人格性」。
言うまでもなく、そのどれもが社会システムにも当てはまります。

合理性、昨今は発言主の社会的影響力が理の根拠になるという形で先鋭化しています。
服従とは、個人の意思には無関係に、システムに取り込まれざるを得ないということ。
専門、その極度の分化が組織の機能不全を起こす現象を「サイロ・エフェクト」と言います*1
非人格性とは、ネットの生活への浸透がその功罪とも増幅させた「匿名性」でもあります。

ヴェールケ氏が挙げた官僚制のエントロピーの例は、
大きく読み替えずとも僕らの日常生活にの一面でもあることがわかります。


さて。
「官僚制が社会全体に浸透している」、
痛々しくも、これはこう言い換えられると思います。
現代社会の大衆は官僚化している」。

僕らはみな、逃れるすべなく官僚システムの一員、「システム官僚」である。
そう考えると、政治行政を担う人々に対する一般市民の視線に、再考の余地が出てきます。


国家官僚の硬直性や腐敗をニュースで目にして、当事者でなければ、
普段の感情としてそれを「我が事」と思うことはそう多くありません。
他山の石だと建設的にとらえる人の内にも、嫌悪感が芽生えているはずです。

その嫌悪感とは、何か。

あるいは日常的な感覚では道端の吐瀉物に相当するものかもしれません。
眉を顰め、目を背けて「もう、やーね」と吐き捨てるような。
建設的な人なら嫌悪感を抑えつつ、同じ人間だとして「鏡」と考えるかもしれません。
今の自分はこんなことはしないが、時と場所と立場が違えばわからないぞ、と。

けれど、上で「再考の余地」と書いたのは、また別の解釈があるということ。

すなわち、同族嫌悪

先の「鏡」の捉え方は、あくまで基本姿勢は他人事で、
抽象化したうえで我が身に引き寄せるという迂回をしています。
だから、自分の精神にダメージもなければ、抑圧もない。

けれど、実際は誇張された存在であるとしても(国家官僚が官僚制の典型には違いない)、
メタファーとしての「鏡」ではなく、まさに現実の鏡を見ているかのように、
われわれが「彼ら」を直視しなければならないのが本来であるとするならば。

そこには「みずからが吐瀉物」であるような精神的ダメージがあり、
それがなければ、後々訳の分からない形で回帰してくる抑圧がある。
それも、その訳が分かるまでは「繰り返し」で。


とまあ、そのような視点でヴェールケ氏の文章を読むと、
その一語一語に対して身につまされる思いがしますが、
先に引用した節の最後にはこのような記述があります。

 要約すれば、官僚制は、オートポイエーシスの意味では、ますます複雑になる構造と機能を独立させる傾向がある。日常の言葉では、これを官僚の行き過ぎという。このように調整されすぎているシステムの働き方のために、めまぐるしい要求に適切に答えることができなくなる。その場合、社会的エントロピー二つのパターンで働くようになる。当該の組織が多発性硬化症の犠牲になるか、それとも、例外を通例にすることによって、必要な柔軟性を当該の組織が保持するか、そのいずれかである。後者は、機会主義に門戸を開くもので、マックス・ヴェーバーが想像したのとはかなり逆のことを意味している。

同上 p.226

 
太字部の二つはエントロピー増大の二つのパターンということで、
氏の意図としては、どちらも無秩序の拡大を意味します。

融通の利かない組織の硬直化、僕が杓子定規や形式主義と上で書いたのが前者。
後者は、組織レベルの視点でいえば規則の形骸化、恣意的な弾力的運用のことで、
これ自体は当たり前の認識なんですが、僕がふと思いついたのはこの個人レベルについて。


本記事で何度も挙げた、官僚制の4つの性質。
これは、それぞれある面では「非人間性」の一面でもあります。

僕が言いたいのはこういうことです。

官僚組織の成員は、組織上の役割として規則に基づく非人間性の発揮を義務づけられる。
その成員にとって、規則に反する「例外」は人間性を取り戻すための「息抜き」になる。
別の表現をすれば、抑圧された個性は「例外」により己のアイデンティティを取り戻す。

後者に対しては、制服を着崩す不良高校生などが典型例です。
一方の前者の例になるかはよく分かりませんが、今パッと思いついたことには、
理由も必要もないのに自分の衝動を止められない万引き常習犯、
飛行機内でマスク着用に執拗に抵抗して緊急着陸騒動を起こした大学講師、
のような人々に、当てはまると考えられるかもしれません。


……ここで終わると「例外を通例にする」ことがネガティブに響いたままになるのですが、
あらゆる物事には両面があります。

官僚制内部における例外の実行は、人間性を取り戻す行為でもあるわけで、
それが組織や社会からすれば秩序撹乱要因になるわけですが、
その主体である個人にとっては、動機としては至極まっとうな振る舞いといえます。

つまり、要はやり方次第というわけです。

そして、「多発性硬化症」が必然だとして、
その時限タイマーがいつ切れるかは分かりませんが、
(現代の風潮は「よもや自分が生きている間に切れることはあるまい」ですが)
「その時」にその犠牲にならない選択肢は、これしかないのです。

そして、
結局いつもと同じ結論が出てきましたが、

例外の発祥はつねにグラスルーツにあるのです。
 
 × × ×

 

*1:
あるいは「常識の専門家」というものを考えてみてもいい。
ヴェールケ氏の皮肉とユーモアあふれる文章を引用しておきます。

社会学者といえば、わずかなことに関して多くのことを知っている専門家であるのがごくふつうである。エントロピー力学の犠牲者として、彼らは時が経つにつれ、ますますわずかなことをますます多く知るようになり、あげくの果てには、ないことについてすべてを知るにいたる。これに対し常識は、たいてい多くのことをわずかしか知らない多面的知識の持ち主の知的働きである。彼らがエントロピー力学の犠牲者になると、ますます多くのことについてますますわずかしか知らず、あげくの果ては、すべてのことについてなにも知らないようになる」(p.44)