human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

青豆とピーナッツ

 
『遠い太鼓』(村上春樹)をひさしぶりに再読し始めました。
一度目に読んだ時に書き込みがあって、初読は9年前だったようです。


つい最近オフィスで選書中にふと連想したのがきっかけなのですが、
他のきっかけが多すぎて、家にいるとそれが具体的に何だったのか思い出せません。

そういえば、家の本棚から本を取り出したのも久しぶりでした。
低いながらスライド式で幅と奥行きのある家で唯一の本棚は、
普段はインド雑貨屋で買ったテーブルクロスで覆われて居並ぶ本の背表紙は見えません。
では普段読む本はというと、本棚以外のあちこちにある積ん読からのチョイスです。

それはさておき。

『遠い太鼓』はギリシャ・イタリアの紀行エッセイ…ではなく、
氏の言葉でいえば「常駐滞在型旅行記」。
本書の時間軸の三年で氏は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げ、
その間ギリシャとイタリアを転々としながらどっぷり小説に浸かって書いていた期間のことを
「深い井戸の底に机を置いて小説を書いているようだった」と表現しています。
小説にもよく出てくる、井戸のメタファーですね。

それはさておき。


出だしをちらりと読んで、
9年前の自分が引いた線の箇所を読んで「ふーん」と思いながら、
最初に目に留まったのはまえがきのある部分。

氏が旅中に、自分を保つために書く文章である日記に対する姿勢について、
「シンプルでリアルに」、「ジェネラライズしないで」、と書いています。

これは氏のエッセイに限らず、氏の小説全般についても言える姿勢です。

が、そう思いつつも「あれ?」と思う。

僕が氏の小説や(特に)エッセイについて抱いていた印象の一つに、
「そこから引き出されてくる教訓の多さ、多彩さ」があります。


発端が具体的な事柄であるにしろ、
そこから教訓を導き出すのはジェネラライズ、一般化ではないのだろうか?

それは間違ってはいない。

けれど、重点の置きどころが違うのだ。


僕はつい、導出された教訓の方を「果実」だと思って読んでいました。
でもきっと、ハルキ氏が書くにおいて、教訓は「おまけ」なのです。
書く力点で言い換えれば、
瑣末で具体的な人や事件についてのシンプルかつリアルな描写に丹精を込め、
ついでのようにそこから出てくる教訓は「手癖」で継ぎ足される。

そう言って、べつに手癖で書くのが悪いとか誠実さに欠けると言いたいわけではない。
いわばそれは、遠泳のクロールにおける息継ぎのようなものだと思います。

深く潜り続けるには、途中で大きく息を吸って呼吸を整えなければ、体がもたない。


雑駁な経験を整え洗練することで生み出される教訓、
それは普遍の真理でもなんでもなく、
ただ「なんでもないこと」に過ぎない。

みんな似たような経験をして既に分かっていて、
敢えて言わずとも喉の奥に呑み込んでいて、
それでも口に出されれば「そうだよね」と頷き返す、
そのような「なんでもないこと」。

そのようなことがなぜか、格式ばって本に書かれると、
読む方は有難がって拝読してしまう。
そしてお墨付きを得たとばかり、説教してしまう。
それでも口に出されれば(以下同)。

 × × ×

今読んでいる『意識と本質』(井筒俊彦)に、こんなことが書いてあります。

 イスラーム哲学の初歩として、「本質」を2種類に分ける考え方がある。
 一方はマーヒーヤと呼ばれる、普遍的リアリティ、普遍性としての本質。
 他方はフウィーヤと呼ばれる、具体的リアリティ、個体性としての本質。
 世の習いとして、哲学者はマーヒーヤを、詩人はフウィーヤを追求しがちである。
 前者の好例はプラトンの「イデア」、後者はリルケの「即物的直視」。

本質を普遍性に見るか個体性に見るかで本質論ががらりと変わる、
というその多様な例を比較解説する序盤を自分はいま読んでいる段階で、
しかしマーヒーヤとフウィーヤを独特に結びつけようとしたのが芭蕉である、
というのとその概説を読んで非常に心惹かれた状態で上記について連想するのですが、


不易流行というのはマーヒーヤとフウィーヤの往還だと芭蕉はいう(と井筒氏はいう)。

一方で、小説とは具体的リアリティに徹するものであると、保坂和志氏はいう。

でもその保坂氏が、小説の中で一般化したり教訓を書いたりしないわけではない。
小説の中に現れる教訓は、個体性の内側でふと面影を見せる普遍性である。
その普遍性は、小説を規定することもなければ、登場人物を律することもない。
その普遍性は、いわば個体性が躍動するための「息継ぎ」である。

井戸端で痴話喧嘩の顛末を教訓化して「うんうん」と頷き合う生活者のリアリティ。
個体性に埋没する普遍性は、時に個体性を柔らかく包み込む普遍性でもある。


思えば、ハルキ氏の教訓は特に、「どうしようもない感」が強いような気がします。
そりゃそうなんだが、言っても仕方がないよ、というような。
でもそれでも、言わずにはいられない。
たとえば、予定が狂い続け、災難ばかりが起こる旅の道中においては。

そのような教訓を洞察と呼ぶには、俗に過ぎるし、役にも立たない。


そのような時、ハルキ氏は「やれやれ」と呟く。
スヌーピーの生みの親、C・シュルツ氏なら "Good Grief." と言うところだ。
 
 × × ×

遠い太鼓 (講談社文庫)

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