human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

続・透明感について

 コトバは、元来、意味的側面においては、存在分節をその第一義的機能とするものであって、この点だけは分節(I)でも分節(II)でも変らない。しかし、既に詳しく述べたように、分節(I)は有「本質」的分節。ここでは、分節とはいろいろ違う事物を「本質」的に分別することである。「本質」によって金縛りにされて動きのとれない事物は、他の侵入を絶対に許さない。他の一切を拒否し、排除することによってのみ、それらの事物は自らを主張する。「本質」は事物を固定し、結晶させるものだ。この事態を、存在者の存在不透明性という言葉で、私は言い表そうとする。
 これに反して分節(II)の次元では、あらゆる存在者が互いに透明であるここでは、花が花でありながら──あるいは、花として現象しながら──しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。「……のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。

「意識と本質 Ⅶ」p.169
井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店,1983

透明、あるいは透明感という言葉に対して、ずっと関心を持ち続けています。
このブログ内でキーワード検索してもらえればそれはわかりますが、
中でも直接テーマとして取り上げた記事はこれ↓です。
cheechoff.hatenadiary.jp
この記事を最近シミルボンに書評として投稿した時に再読の機会がありました。
そうして関心が活性化された時に上の引用部を読んで、「おお!」と思いました。

透明であることに対する新たなイメージを得た、ということです。


引用中の分節(I)と分節(II)について簡単に触れておくと、
これは禅の悟りを開く修行の過程の文脈で、
言葉や意識によって事物を分節する(あるものを他とは異なる特定のものだと認識する)、
そのあり方が悟りを開く前後で違っていて、
前が(I)、後が(II)ということです。

これは本記事の主旨とは関係がないのでさておきますが、

ふつう僕らがものを認識するのは、そのものの本質をとらえることによってなされる。
「そのものを端的にいえば」
とか、
「まず浮かぶイメージは」
といった形で。
この「ものごとの本質をとらえる」ことを、僕らは非常に重要だと考えています。

本質を見逃すばかりに、勘違いが起き、思い通りに事が運ばず、不利益を被る。
逆に、本質を見つけさえすれば、目の前にある問題は解決する(少なくとも解決に向かう)。

つまり、本質という言葉には通例、肯定的なイメージしか与えれらていません。
この認識を、ひとつの固定観念であるとして開放することが、引用部を読む入り口です。


さて、やっと言いたい話に入れます。

引用部では、つまり禅道において悟りを開くうえで、
本質的な事物の把握、「本質的分節」はネガティブな意識状態として捉えられています。

「「本質」は事物を固定し、結晶させる」

あらゆる存在をあるがまま受け入れるうえで、この意識作用は取っ払わねばならない。
このような(通常まったく常識的な)意識状態を、井筒氏は
「存在者の存在不透明性」
と表現します。

そして、これの対照として、
悟りを開き、かつ俗世を離れたままでいるのではなく、
悟りを得たまま還俗した人の意識状態について、
「あらゆる存在者が互いに透明である」
「本質によって固定されず、花が「花のごとく」ある」
「存在的に透明で、他の一切にたいして自らを開いた花」
といった言い方がなされています。

ここで言われている「透明(感)」について、
僕が持った印象が、書きたかったことです。
(この印象自体は、悟り云々との整合性を考えてはいません)

 × × × 

あるものが、またはある人が「透明である」(ようにこちらに感じられる)とは、

 それが(その人が)それそのものでありながら違うもの(人)にも見える

ということもあるのではないか。


前の(冒頭にリンクを貼った)記事では、
透明度に対して「薄っぺらさ」と「奥行きの深さ」の両方のイメージが浮かぶ、
といったことを書きました。

自分が見ている対象物が薄いと、光がその物を透過するために、その奥にあるものが見える。
一方、自分と自分が見る遥か遠くの対象物のあいだにある空間についての透明度を考えれば、
その対象物がはっきりと見えることが、空間の透明度の高さと奥行きと結びつく。

透明さは、物象世界における存在感の薄さ、また即物的な希少性の表れです。
つまり、五感(とくに視覚)の把握に対して、リアリティの減少として作用する。
その逆の側面では、幻想を駆動源とする意識活動に対する特徴としての強度を持つ。


何が言いたいのか…

これまで僕は、「透明さ」はポジティブであれネガティブであれ、
この性質をもつ物(者)それ自体の特徴としてしか考えていませんでした。

しかし、禅と本質に関する井筒氏の考察文章を読んで気づいたことに、

透明な物(者)は、自身の透明性を媒介として他と繋げる能力を持つものでもある。

自分が透明であることは個性の乏しさではなく、
他者と自在に繋がりうる透明さこそがその個性の表れである、
という見方がありうる。


僕が持っていた(今も持っている?)透明感(を感じる人)に対する憧れ、
それについて、今まで色々と言い換えてきました。
 何を考えているかわからないこと、
 意識の底が見えないこと、
 どこまでも未知を抱えていそうなこと、
 今にも消えそうな(ので僕が関わらなきゃと思わせる)こと、
などなど。

で、これらの特徴と、今回の新たな発見である「媒介性」という特徴とは、
そう遠くない関係であるなと思います。

その人を見ていて、
その人でないものが(なんとなく、でもたくさん)見えること、
このことが僕自身の視野や連想の問題ではなく、
その人が内に秘めた性質のように思えること。

未知性。
媒介性。
可能性。
関係性。

これらと繋がり、もしかすると包摂するかもしれない、
透明性。

あるいは、
飛躍が過ぎるかもしれませんが、


「透明」とは意識の別名なのかもしれません。