human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

三島由紀夫と上野千鶴子

連想でオフィスの書庫の本を繋げてセット販売する、「鎖書店」というネット古書店を運営しています。
書庫には多様なテーマの本が並んでいて、作成するセットの分野はいろいろです。
が、やはり連想という自分の無意識に頼ると、僕自身の興味の度合いがセット作成に影響を与えます。
そのセット作成、つまり選書作業をあまり秩序立てない、ルーティン化しないことが仕事の独自性を生かすことになる、と考えて現在はわりと奔放に作業を進めています。
 
そんなこんなで、手当たり次第に本を読んではテーブルや棚に並べ、積み上げるという散文的に書けば無秩序な作業の中で生まれるセットの中には、自分の関心にピタリと合ったものが混ざることがあり、それがそうしようとあらかじめ考えて作ったわけでなく、出来上がってふと気付いて驚き、ついでに感心もします(こんなことをしていると、自分の無意識が誰か他人ではないのかと思うこともあります)。
 
そういう時には商売に関係なくその関心を掘り下げてしまい、仕事と趣味の境目がどこにあるのか、さっぱりだと言いたいところですが、そんなものは最初からないことははっきりしています。
(これで儲かっていれば言うことないのかもしれませんが、きっと話はそう単純ではないのでしょう)
 
とにかくそのようにして、鎖書店のラインナップを追加したという通知(facebookへの投稿)に添える文章が、売り文句どころか誇大妄想になっている、という実例が以下です。

 × × ×

鎖書店より、1セット追加しました。

セットを考えるうち、テーマが自分の関心のど真ん中であることに驚いています(因果の不思議な商売です)。
ので、思いついたことをちょっと書きます。

https://3tana.thebase.in/

設計者や管理者の本来の意図を超えて自己維持・発展を続ける"システム"(←すごく広い意味で使っています)の駆動原理のひとつに「自己準拠性」というものがあります。ある物事の価値や目標を判断する基準が、その物事自体に存在するという構成を指します。管理者はシステムの維持発展のためにこの性質をシステムに組み込むわけですが、この性質の獲得と、システムが管理者の手から離れていくことは、必然の糸で結ばれています。
自己準拠性はトートロジーと似ていますが、それよりもっと構造が複雑なイメージでしょうか。

三島由紀夫と並べられて上野千鶴子氏がどう思うか知りませんが、フェミニズムはマッチョイズムと、自己準拠性を胚胎しているという意味で繋がりうると気付きました(セットのあと一冊には、消費社会の自己準拠性について書かれています)。
三島の『行動学入門』は「行動の美学」と「終わりの美学」について書かれており、彼の「行動と終わり」を知る現代人にとってこの本は遺書に思えなくもありませんが、最近とりあげた多田富雄氏の『生命の意味論』からの抜粋をこのセットと照らし合わせると、恐ろしいメタファーが生まれます。平たく抽象的に言えば次のようになります。

 ・「存在」の究極の自己準拠は、ひたすら「存在」である
 ・「現象」の究極の自己準拠は、「現象」の消滅に至る

"システム"はもちろん「存在」と「現象」のアモルファスですが、その構成比率(の変遷)について考えることは、現代人にとって決してムダにはならないでしょう。

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