「鎖書」概念考その1 ~ 心理療法との共通点
ここひと月ほどブログを更新していませんでした。
別の場所で文章を書いていて、そちらの方で「文章を書く意欲」が満足されていたようでした。
それはいいのですが、まあ、たまにはこちらでも。
司書の仕事の話を書きます(もちろん「考えながら」)。
オンラインのセット古書店を始めて、あと3ヶ月で二年になります(今確認しました)。
新しいことを思いつきで始めて、やり方はやりながら考えようと思い、
「三冊セット」という根本はそのままに、細かい部分は色々変わってきました。
セットを組む三冊のテーマの傾向(範疇)も、ずいぶん幅が広がったように思います。
「連想に従って」という、その連想の自由度が増したような、固定観念が減ったような。
また、インスタグラムでのセット紹介を始めたことで(最近書いている文章はここです)、
三冊の並びだけで各セットの魅力を提示するという当初のコンセプトも変わりました。
本記事では、この紹介文をベースに、鎖書の仕事について考えていきます。
(インスタのプロフィールページを以下に貼っておきます。
ブログパーツの調子がイマイチのようですが、調整がよくわかりません。
ユーザーでない方は見られないかもしれません)
https://www.instagram.com/bricolasile_chainbookstore/?hl=ja
× × ×
インスタの鎖書紹介文とは、上のリンクの各投稿にあるような文章なんですが、
その原型のようなものが、個人事業用HPのブログにあります。
簡単にいえば、
三冊のそれぞれから本文を抜粋して、
鎖書のタイトル(即ちテーマ)に沿ったコメントを付記する、というもの。
上記ブログに「種明かし」と書いている意味ですが、
当初はこれ(このリンク)を読者自身に発見してもらうというコンセプトでした。
つながりをあらかじめ知ってから読むよりは、
自分自身で見つけた方がその時の快感は大きいだろうと。
いや、このコンセプト自体は変わっていないとも言えて、
つまりインスタグラムでは種明かしされているけれど、
それを知らないで鎖書店のラインナップを見る人には関係がない。
僕が紹介文をインスタにアップしようと考えた時は、このことは念頭にありました。
それはさておき。
ここ最近読んでいるいくつかの本に、
鎖書店運営に対して大きな刺激を受けているものがいくつかあります。
先に貼り付けておきましょう。
ひとつめは、河合隼雄と谷川俊太郎の対談集。谷川氏の方が聴き手という、レアというか、とても刺激的な対談です。
河合隼雄氏の本は少し前から何冊も続けて読んでいて、
氏の言葉の一つひとつが自分に染み込み思考を賦活するようで、
今の自分が読むべき本だという確信があります。
(主に電車の中で読むんですが、時々感動して涙が出たりします)
前にはスヌーピーの本だとか、あと…忘れましたが、
河合氏のこの本は特に、ブックアソシエータの糧になることが書かれている。
僕のために書いてくれてるんじゃないか、という錯覚を何度も起こしました。
その錯覚ついでにオーブロシキ発言をすれば、
鎖書の選書はまさに心理療法とイコールじゃないか、という。
その認識に符合する箇所にいくつも付箋をつけていて、
これはいずれちゃんと引用して思考を整理せねばと思うんですが、
今は(勢いで書いていて面倒なので)しません。
内容的に思い出せることをちらりと書いておこうかな…
とにかく、「意味を見出してナンボの世界」なのです。
心理療法家は患者と一緒に無意識の世界に降りていき、
無自覚だが患者自身を苦しめる心の奥底の「なにか」を探索する。
患者に(睡眠時の)夢の内容を覚えてきてもらって、一緒に分析する。
というよりは、夢を語ってもらって、そこから連想するものを挙げてもらう。
心理療法家はそれに意味付けをするというよりは、
患者が自分の夢やその連想に対する意味付けを促し、またひたすら聴くに徹する。
心理療法家は患者の積極性を引き出すために基本的には受け身の姿勢だが、
無論大事なのはバランス感覚で「引いてダメなら押してみろ」ということもある。
結果的に患者の症状が良くなれば、それが治療の成果となる。
治療の、分析のどの要素が効いたか、というような考えにあまり意味はない。
ただ、そのようなプラグマティズムで単純に割り切れる話でもない。
「症状が良くなる」ことが何を指すかが、そもそも明白ではない。
よくわからない何かに囚われていた患者が、そこから解放されたとする。
それ以前の患者はひたすら解放を願っているかもしれないが、
その彼が、解放された彼自身の状態(心境)を想像できるとは限らない。
重荷としか感じていなかった束縛が、現実に繋ぎ止める碇であることもある。
…話を戻しますが、ある面で単純化すれば心理療法とは「無意識への探索」です。
それを(対面という前提で)言葉のやりとりによって行う。
僕が言いたいのは、心理療法の現場における言葉は「意味が浮遊する」ということです。
辞書的で四角四面な言葉遣いでは、心の深みに潜ることはできない。
上の「意味を見出してナンボ」とは、そういう意味で言ったのです。
患者と対話していて、論理が通じない、訳のわからないことを言っているように思える。
それを、非論理的だと決めつけるのでなく、患者自身の「論理」があるのだと考える。
その「論理」を、国語辞典に依拠して解明することは不可能です。
もう少し話を手前に(というか本題に)戻します。
鎖書の選書も、心理療法と同じく「意味を見出してナンボ」です。
それはこじつけかもしれず、牽強付会かもしれず、あるいは誤読かもしれない。
しかしそもそも、ひとりの人が本を手に取ることで起きる、当たり前のことです。
なので、その点はまず大して重要ではない、本質ではない。
誰もが同じ内容を汲み取り、同じ理解に至る本は、マニュアルと呼ばれます。
人によるかもですが、少なくとも僕は、マニュアルを読むことを読書とは考えない。
同じ一冊の本を、読む人ひとりひとりが別様に解釈し、我が物とする。
その「別様の解釈」こそが、個人の営みである読書の本質です。
さて、この話の流れからすると、ある一つの「別様の解釈」が組み合わせた三冊、
これを「鎖書」と銘打って並べられているのが、僕のオンライン古書店だということ。
そこに普遍性はない。いや、あるかもしれない。
いや、あるというよりは、それは「見つけることができる」という状態で存在する。
…なんだか話がぐるぐるしています。
鎖書の「概念」について考えると、いつも同じところにたどり着いてしまう。
それは「具体的でしかないもの」と取り組んでいるからかもしれませんが、
まあそう早々と諦めるものでもないでしょう。
上に挙げた残り二冊を媒介として、次回続きを考えるとします。
× × ×
p.s.
いや、ここでピーエスと書くのも変なのですが、
以上を書き終えてプレビューで読み直してみて、
自分が途中で挙げていたキーワードがその後からはすっぽかされていました。
うーん、整理しないで書くとよくあることですが、読み手には嬉しくないですね。
すみません。
キーワードは、先に太字にしておりました「意味が浮遊する」です。
上では辞書的だとか四角四面とか、やたらと意味の固定性に敵対心を抱いています。
別の言い方をすれば、固定された意味とは「言葉の純粋な道具的利用」でもあります。
ブックアソシエータの使命は、それを破壊することです。
もとい、意味の創造的機能を(グラスルーツに)膾炙させることです。
辞書的意味は、便宜のためにあります。
コミュニケーションのためには、その使用法に関して共通認識のあるツールを使う必要がある。
でないと話が通じない。当然です。
が、それは基本的な、というか表面的な状況においてのみ成立すること。
「コミュニケーション」、「便宜」、今使ったこれらの言葉。
どちらも、自己言及的な性質を持っています。
たとえばこれらが自分を定義するためには、自分自身を挙げねばなりません。
その実際的な効果は、「その運用において、次元とともに意味が反転すること」です。
…ちょっと勢いで書くには論理的に難解になってきました。
言いたかったことをさらりと書いて今回は幕引きとしたいです。
辞書的な意味とは、イコール固定化された意味のことですが、
活性化された「意味」は、つねにあらゆる場所で生まれ続けています。
その「意味」が辞書の意味と同じかどうかはあまり問題ではありません。
「意味」が、言葉以前の(リアルタイムな)「なにか」とリンクしていること。
そして、その「意味」を担った言葉を口にすれば、その「なにか」が再び賦活されること。
道具的側面だけではない、言葉の創造的側面とは、このようなものです。
その意味では、ブックアソシエートは詩作に近い。