human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」

 価値の領域で、時間地平の「状況の定義」への還元が、包括的な価値変化として観察されたもの──ある部分では、非常に誤解を引き起こしやすい「ポスト唯物論者」というような用語──と一致する。(…)とりわけ、他者あるいはすべてのひとに対する怖れや関心という形式のなかで、不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった。たとえば、この時代は「仮面を剥がれた不安の時代」とさえ性格づけられたのである。

「第六章 現代社会の自己記述におけるトートロジーとパラドクス」p.128-129
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

いきなりなんだ、と思われそうですが、続けて抜粋します。

公共の問題として、不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する。すなわち、不安は議論されず、論破されず、また矯正されることもない。つねに、コミュニケーションのなかに確かなるものとして現れるのである。心配を表明しているひとに、「まちがっているのは君だ」と応答することは不可能である。それゆえ、不安は、そのように扱われるにたるものであり、また敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす。これは、コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、「新しい価値」に的を絞っていくこととして役立つ。

同上 p.129

本書は日々牛歩の如くちびちび読み、
反芻ライクに進みつ戻りつの悪戦苦闘中なのですが、
そうして日をあけて二度三度読むと何らかの意味が浮かんでくる、
正しいとは限らないがそのような経験が刺激になって更に遅々となる。

和訳に問題がある、とこれまで数え切れないくらい思って、
でもそれを悪態ではなく前提として想像力を駆使するわけです。
訳された単語(群)から原文を想像し、さらにその原文の訳出可能性を探る、
なんてことはせず、要するに文脈を意識して訳語から連想する。

と言いつつそもそもちゃんと読解できているかすら怪しいために、
その文脈というのは端的に僕がこれまで読んできて抱いたイメージです。
はなから正しい読解なんざ目指しちゃいません。
以上、言い訳と愚痴のアモルファスでした。

この1週間で抜粋箇所を三度読み直し、何かが見えてきたのでした。
何か、とても恐ろしいものが。

以下、抜粋部分には「」をつけて書きます。

 × × ×

「価値の領域」における「時間地平の『状況の定義』への還元」

これは本ブログで何度も書いてきた、無時間モデルの主流化のことだと思います。
株式会社的・四半期決算的な時間幅が未来思考のベースになっていること。
時が経てば解決すると思うのは怠慢であり、
未来のゴールまでの道筋を現時点で描き切ることを良しとすること。
様々な価値観の変化には、この無時間モデルへの信奉(服従)が伏流している、と。

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」
「不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する」

もはや、不安はア・プリオリな存在となった、と言うに等しい。
これは科学、とくに心理学や精神分析学の発達に関係していると思われます。
個人の頭の中や心の中、極私的で非客観的なものに科学の光が当てられた。
それは個人を救うという意味で革命的であったと同時に、
公共の普遍性を破壊する意味でも革命的であった(のではないか?)。

「不安は…敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす」

比喩でいえば、不安が市民権を得たというようなものです。
各種モンスターのクレームが、その内容を問われずに正当性を得る。

「コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、」
(このすぐ後の「新しい価値」というのは、まだ全く想像ついていません)

これが、立ち止まってうんうん唸りながら考えても意味不明だったんですが、
今日三度目に読んだ時に、ふと着想が湧いたのでした(これが本記事の執筆動機)。
この部分を言い換えるとメタ・コミュニケーションの成立不能状態ではないか。
あるいは、論理(知性・言葉)への信頼の毀損といってもよい。

同じ言葉を使っていてもコミュニケーションが成立しないことは、よくあることである。
前提が違う、言葉の意味を取り違えている、話を聞いていない、相手に興味がない等々。
両者とも言いっ放しで会話が進んでも、それは言葉の次元ではコミュニケーションではない。
けれど一方がその不成立の原因を探り、その原因について相手に理解を求めることができる。
コミュニケーションの成立・不成立に関わらず、その可否への問いは共通の土台となる。
私の話がわかりますかとこちらが聞けば、イエスなりノーなり、相手は答えるだろう。
言葉が、いやもっと広く記号(ボディランゲージなど)がお互いの間で意味を持てば、
次数を繰り上げたコミュニケーション、即ちメタ・コミュニケーションは必ず成立する。

と、思っていた、当のそれが、「不安のア・プリオリ化」によって、なにやら怪しい。
その理路を、どう考えようかと迷っていますが…
優先度の問題にすると単純化のし過ぎになるでしょうか。
不安すなわち個人の主観が、コミュニケーションにおける言葉の意味よりも優先される。
言葉が、主観に応じて意味が捻じ曲げられて読み取られ、また発せられる。
言葉の持つ意味は人々の共通理解であるという前提がそこにはない。
むしろその前提を多数の人が無邪気に信じていることを悪用できるという発想が生まれる。
こう書くと、ポストトゥルースやいけしゃあ虚言癖政治家問題とも繋がっていきそうです。
オオカミ少年が多数派を占める社会が想像できなければ、その実現を避ける術はありません。


そして、序盤の二つ目の抜粋のあとに続く部分を以下に引用しておきます。
予言ととらえるには抽象的すぎるのですが、
やはり僕には恐ろしいことが書いてあると思わずにはいられません。

イデオロギーは、素朴な価値推奨以上のものを差しだすことが、いつも求められてきた。それらは、認知上の構成要素、すなわち社会条件と社会問題の記述を備えていた。ことによると、いまや認知上の構成要素は、記述、「シナリオ」、世界モデル、一般的な招集などの選択を指示する不安の普遍的定式へと還元されえよう。この定式は、独自の任意性を見つけるまえに、社会の自己記述を終結させるであろう。

同上 p.129-130

意味不明な箇所ばかりなのですが、「不安の普遍的定式」という一語にウッときました。

哲学にはかつて、普遍的な正義の形を探求した時代がありました。
ポストモダンがその営為の不可能性をさんざんあげつらいましたが、
それでも正義を探求する姿勢・プロセスそのものの価値は損なわれていません。
人も資源も環境も有限と知れた国際社会において、異文化間の利害は当然対立します。
利害関係が完全に調停することがなければ、末長い調整プロセスそのものが誠意となります。

普遍的な正義、それは実現すべき未来ではなく、
よりよき未来へ向けて歩むための導きの星として、
色褪せぬ輝きをいまだ放っている。

これに対置する形で突如認識させられたのが、
普遍的な不安という当の概念。

どうもこの字面が不吉に思えて仕方ないのは、ここに続く抜粋の文章のせいかもしれません。

というのも、
オートポイエーシス・システムにとって「自己記述の終結」が、
よいものであるはずがないからです。