human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「現在主義」と終末論、知と地と血

 壮大なる「時の知(chronosophie)」、予言と時代区分の混合、(…)普遍史の言説は、絶えず歴史につきまとってきた。未来への問いから生まれた、このような構成物は、その前提事項と同様、千差万別で(それらは総体的に、循環的にしろ、直線的にしろ、展望なるもの(ペルスペクティブ)を特権化していた)、根本的に過去と未来の諸関係を把握しようとするものであった。
(…)
 これらの筋立て(…)は、西洋史において非常に長きにわたり存在し、大きな影響力をもったが、こうした筋立てにおいて、古代・中世=中間の時代(Media Aetas)・近代という分割が、まずはルネサンス期の人文主義(ユマニスム)とともに行われた。そして、未来と進歩の開けは、終末の期待からいっそう分離していった。これは完成という理念の時間化による。この時、人は、過ぎ去ったものとして過去のみならず、現在をも過小評価するまでになった。現在とは、「輝かしい」わけではないにしてもより良い未来の前夜にほかならないのだから、犠牲にされうるし、そうあるべきだ、というわけである。

「序章」 p.36,38(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制』)

文脈を汲み取った抜粋ができませんが、本書を読んでいて下線部に立ち止まり、意味が取りにくいと思って何度か読み直すうち、太字部の「行間」から言葉が浮かんできました。

終末論にはプロセスがない」という。


僕の読解ですが、抜粋文中の「終末の期待」とは、たとえば産業革命以前の思想を指します。
科学技術の発達、その段階的な進歩が視認できるほどの発達が、「完成」というものがある日突然神が宣告するようなものではなく、それに達する階梯が存在するものであるという認識をもたらした。
これを「完成という理念の時間化」と呼んでいるのだと思います。

抜粋後半、特に下線部以降は産業革命以後の価値観を表現していて、けれど現在は、そこからさらに先にいる。
それが本書副タイトルにある「現在主義」で、本章以後を読んでいくとそれが分かるのだろう、というのはまだ読んでいない僕の単なる想像です。


話を戻します。
僕は「終末」という単語に反応したのですが、「行間」に作用したもの、つまり連想のきっかけは何だろうと考えてみて、ここ数ヶ月再読を続けている『太陽を曳く馬』(高村薫)だと気づきました。

組織に倦んだ内省的な警察官、東京都心に僧坊を構える宗教者たち、それに科学主義的知性を手放さずに座り続ける副住職を交えた膨大な宗教論争の論点の一つに、オウム真理教が取り上げられています。
オウムとは何か、それは宗教なのか。

宗教によって生物学的死の無残から逃走するというとき、高木が言ったとおり、そこでは当然死が前提となっているし、その意味では、宗教は必ず人間の生物学的死の周りをめぐる言辞ではあります。然るに、オウムにそうした死への視線はあるか。彼らが目指した神秘体験やニルヴァーナの境地はいずれも現世拒否への表明ではあるが、あくまで今生で達するだけで、その眼差しは死にも、また死を通り抜けた彼岸にも届いていないと言うほかない。(…)しかし、彰閑和尚はさらにこう問うてこられたのです。すなわち、オウムが目指した不死はほんとうに不死と言えるだろうか、と。正確にはこれは不死ではなく、たんに究極の生き残りということではないか、と。不死には決定的に死が張りついているが、生き残りはどこまでも生き残りであり、生は生であって、そこでは死は、あくまで生き残る価値のない他者の死に留まり続けるのではないか。ただ無感覚なものとして、自分の外に累々と転がるだけではないのか
(…)
そもそも、この社会の平和と退屈の産物でしかなかったノストラダムスの終末予言ブームが、オウムではなぜ現実の世界破壊に具体化されるに至ったか。(…)オウムの場合、グルも信者も社会に対する強烈な疎外感がおおもとにあったと言われていますので、社会の全否定は比較的容易に起こりえたと考えられますが、問題は、全否定がなにゆえ皆殺しになるのか、です。いつの世でも宗教は戦争をしてきたけれども、殲滅思想をあらわにした宗教は一度たりとも存在したことがない。このことから、オウムが無差別大量殺人を説いたことには、聖なるものが発現するには俗なるものが死ななければならないという宗教の基本構造ではない、なにか別の仕組みを考えなければならないのは明らかだ、と彰閑和尚は言われたのでした。謂わば、生が虚構と直結してしまうような仕組み。いや、もっと言えば、生が自分のために死を必要としてしまうような仕組み──」

「第五章 僧侶たち」p.216-218高村薫『太陽を曳く馬(下)』新潮社)

オウム真理教が異常者の集団で、彼らが起こした事件は特異な一過性のものである、という楽観的な見方は当時にもあったようですが(今は「忘却」という意味で増えているかもしれません)、僕は、そうではなく彼らは当時の普通の日本人たちであり、一連の事件は社会の現代を映す鏡であった、という認識で書かれた本をいくつか読みました。
(いちばん記憶に残っているのは『アンダーグラウンド』(村上春樹)です。読んだ時に書いた文章を張っておきます)
cheechoff.hatenadiary.jp
高村薫の文章をいま長々と抜粋して、ここに書かれているのは「現在主義の一形態」ではないか、と思いました。
社会にシステムとして埋め込まれた(「整備された」と言ってもいい)現在主義の、極端な発現の一形態。


先の「終末論にはプロセスがない」という言葉について。

ノストラダムスの大予言については、内容は知りませんが恐らく、誰が何をしようが何年何月何日に世界が破滅する(たとえば隕石が地球に衝突して)といったものでしょう。
その「必ずやってくる破滅の日」までの束の間のどんちゃん騒ぎが、日本各所で起きていたのかもしれません。

本当かしらと思いながら書くのですが、
「現在主義」に対する一つの解釈を与えるとして、
それは、
「現在主義」とは、"破滅の日"を永遠に先送りしながら意識し続けている態度・姿勢である
と考えてみる。

これは改めて考えてみれば突拍子もない話でもなくて、
たとえば"破滅の日"は、環境問題として実際に懸念されているものでもある。


…なにか、ここから話が一気に発散しそうなので止めておきます。
こういう時に残った「わだかまり」は詩として発散するのが良い手です。
少なくとも書き手にとっては、ということですが。

 × × ×

 知の蓄積、共有、効率的利用。
 知は地に降り注ぎ、蒸発を知らず、太陽なくして芽を育む。
 知の肉抜き、骨抜き、魂抜き。
 知は血を濃縮し、精製し、複製する。

 地なる知は風化し、血なる知は腐食する。
 知の蠢き、地殻の轟き。
 知の瞬き、鮮血の輝き。
 人知は、地なり、血なり。