human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

群島的思考 中編〜行間の推進と水深、古本の復活と賦活

前半からちょっと間があいてしまいました。
早速、本題に入りましょう。
 
前編で、アンディ・クラークの本の一節にある「マングローブ効果」の記述、
あれは「考えることについて考える」ことのメタファーでありました。

この部分を読んだ瞬間、
僕はこの比喩を、僕自身の古本屋のコンセプトに流用しようと思いました。

古本屋、旧称(と呼ぶには早いが)「鎖書店」は、
本を三冊セットで販売しています。
セットを組むテーマは色々ありますが、
基本的に成り立ちが「連想」であるという点、
これがすべてのセットに共通しています。

 × × ×

鎖書:chainbooks、という名前は自分の中で色々候補を挙げた中での造語で、
縁書、環書、…と色々あったんですが、
ゴツゴツした見かけながら語呂がよかったこと、
「チェーン」という重そうなイメージは僕の好むところではなかったのですが、
鎖という重量感のあるリンクで繋がった本たちはその一端の揺れが相方にも伝わり共振ともなる、
一冊を読みながらその一冊の読みと同時に残り二冊との関係性も変わっていく、
という相互・相乗作用の効果の大きさのイメージともなる(これは後々に思いついたことですが)。

僕が作成するセット本のイメージはこのようなもので、
セットごとに提示するテーマは各々が「きっかけ」であって、
どう読むかはその三冊を読む人次第であるという買い手任せで、
これは「非消費的読書」というコンセプトも関係してきますが、
買う(読む)前には商品の効果・効能は(詳しくは)わからない、
だから付けられた値段も機能効果に見合ったものではなくあくまで便宜であり、
購入者が自分の力でその(抽象的に提示された、潜在的な)価値を見出さねばならない。

まあ、こんな面倒くさい買い物を消費とは呼べませんね。

けれど、僕は読書の魅力というかリカーシブ(@池谷裕二)的中毒性はここにある、
つまり読む前から何が書いてあるかとか読んだらどう感じるかが分かってる本なんて面白くなくて、
読んでみないとわからないし、読んでから数年とか数十年経ってからじゃないとわからない、
そんなくらい謎だから、謎のモチベーションで再読したりする、
そういう本を読む(に出会える可能性を信じられる)ことこそが読書の醍醐味であると思っています。

こんなんだからコンセプト自体がマニアックで、
「普段本を読まない人からすると何言ってるのか全然わかんないんじゃない?」
という正直なコメントを何度かもらったことがありました。
 
まあ、そんなこんなで、
 いくら非消費的と言いながら、いちおうお店としてやってんだから、
 なにかお客さんにわかりやすい説明がいるよね?
 直接的な効果のことじゃなくても、お店の魅力を言葉で納得できるような、さ。

という知人から頂いたアドバイスに答えを出せないままほったらかしてたんですが、
塩漬けというか熟成というか、
待てばカイロの肉骨粉(?)、
上記の本に出会った瞬間閃いたことを奇貨として、
なんとか新しいイメージコンセプトをここで捻出できればと考えています。

三冊セット本の、各セットごとにはテーマがあるわけですが、
その全体としての(全部に共通する、とは言い切れませんが)魅力、
それを聞いて、テーマ自体に元は関心がなかったとしても、
「ちょっと1セット読んでみようかしら」と、
あまり本を読んだことがない人も思えるような(難しい!)コンセプトの記述、
そして後述しますがそのコンセプトイメージ(絵)のためのアイデア創出。

 × × ×

マングローブ効果」についてでした。

僕は、自分の作るセット本を、
 ”大陸の近くに浮かぶ1つのマングローブ島”
になぞらえたいと思います。

 本(book、インドネシア語buku)が形成するマングローブ(mangrove)、
 2つを合わせてマングロブック・マングロブクー(mangrobook, mangrobuku)、
 という言葉を造ってみましたが(2つ前の記事はそのメモでした)、
 ちょっと長いのでwikiなどで調べると、
 マングローブ(の1種のオヒルギ)は漢語で「紅樹」というらしいので、
 短く書くために暫定的に「紅樹森」(本当は『くおんの森』みたいに「本3つ」の森にしたいのだけど)に……
 えー、そうすると、読みは「こうじゅしん」かな? 
 語呂悪いな……

おとなしくヒルギ本」にします。
 
本記事の前編で、「大陸に居ること」と「島を形成すること」を対照させましたが、
ヒルギ本はズバリ、後者です。

 陸に近い浅瀬で、
 三冊の本が一緒に浮いている。
 それらは「気根」を持ち、
 海の養分を吸収し、
 根を増やし幹を伸ばして葉をつけ、
 「島」をつくる。

 ヒルギ本を読む人は、
 その島に立ち、
 距離をおいて陸を眺めることができる。

 いっぽう陸では、
 人々は自由に歩き回り、
 木々は森となって生い茂り、
 人々は木に成った「実」としての本を読む。

えーと、これらが全部メタファーで、一つひとつに解説をつけてもいいんですが、
重要なところだけにしないと「木を見て森を見ず」になりそうですね。
 

ブログのタイトルにつけた「群島的思考」、
これは、ヒルギ本の島から陸を眺める視点を表現したつもりだったんですが、
前編の末尾メモにある項目の話ですが、
ヒルギ本を読もうとする、一つの島に立つ人は「島的思考」で、
ヒルギ本を売る(読んでもらう)ためにいっぱい作ってる僕だけが「群島的思考」になる、
なっちゃうんですね、メタファーをシンプルに読み取ると。

もうひとつ、今僕は海士町に住んでいて、まあ離島なんですけど、
離島から世界を眺める、という意味で「島的思考」という言い方はなされていて、
まあ淡路島とか周防大島とかもあるんですけど、イメージとしては、
陸(本島)から距離を置いてこその「島的思考」であって、
これに対してヒルギの島は浅瀬、陸に近い(水深も干潮時とかほぼない)所にできる。
このイメージの差というか、対照をどう考えるか。
 
コンセプトの話をすると、
ヒルギ本のテーマの存在は、
大陸的思考・価値観から距離をおくためにある。
常識とか通念から離れてみる、ということではなく、
視点の仮構はそうなんですが、なんというか、
その本一冊では収まらない読み方をするための三冊セット。
(これは元の鎖書のテーマと一緒です)

読者と本(著者)との一対一の対話が、ある特定の本の読書ですが、
その対話にからむ(読みに影響を与える)外部要素として、
読者自身の関心、その本との出会いの文脈(場所とか紹介してくれた人とか)などがある。

ヒルギ本のテーマはこの外部要素の新たな候補の一つです。

固有名詞を使わずに言い換えると、
(三冊の)本同士の共鳴が、読者の読解に作用する
あるいは、テーマの内容によっては、その三冊に収まりきらないかもしれない。
うん、リンクする本の数は重要ではなく、「本と本のあいだで」が本質ですね。

一冊の本を読みながら、(テーマの先見的設定によって)別の本が念頭にあることは、
自分の読みに影響を与える未知の何かの存在をそばに感じながら読むことではないか。

……まずいな、話が抽象的になってきた。
 
ちょっと別の話をします。


僕は古本屋をやっていて、図書館でも働いていますが、
正直なところ、新刊本にあまり大きな価値をおいていません。
もちろん、習慣的にそうなった面は大きいのですが、
それだけではありません、というか、
その習慣・生活の必要性は、経験則だけでない、論理が存在します。
 
現代社会を知ること、今の日本や世界の情勢を知ること、
これは自分の今の生活を充実したものにすることとどこかで繋がりを持ちますが、
生活的動機に基づく読書は、
それが今を知りたい、今の仕事や生活に役立てたいという思いを含むとしても、
必ずしも今の本を読むことが最適だとか、近道であるとは思わない。

どう言えばいいのか、
いや脇道の寄り道がどんどん複雑になりそうですが、
なんとなくの印象ですが、今読まれて(売られて)いる本には行間が少ない。
(各種クレーマー、アメリカ発の訴訟社会、ポリティカリーコレクト等々、
 ありますよね色々と……)
それは読めばわかりやすい、誤解が少ないという意味でもあります。
だから長所にもなり得ますが、僕はそういう本にあまり魅力を感じない。

「考えるために本を読む」と思っているからかもしれません。
(たとえば、保坂和志はそういう読み方をするし、彼が書くエッセイもそうです)

誤解のない文章というのは、考える余地のない文章でもある。
文脈がすいすい追える文章は、違った解釈への誘引がない。

自分の伝えたい思いを言葉にできると確信した書き手にすれば、理想的な文章でしょう。
その書き手の思いを過たず受け取りたいと思う読み手にしても、理想的な文章でしょう。

それで僕はといえば、まあ程度問題ですが、あまりそういう読み手ではない。

そして、そんな僕が読書の魅力を広めたくてやっている古本屋のラインナップも当然、
そういう本を扱わない…というのは不可能で、
少なくともそういう読み方を推奨しない売り方をする。

橋本治は、
読者自身の「読み」は行間にこそある、とどこかで書いていました。
その本に文字としては書かれていないが、読者が図らずも読み取ってしまうもの。
その読者にしか顕現しないものとして、それ以上のものはありません。
(だから、行間を読むための読書はある意味でコミュニケーションではない。
 あるいは、コミュニケーションの成立はそこそこに、その齟齬をこそ楽しむといえる)
 
ああ、一つの考え方として、
僕は一冊の本に読み手の行間を増やすために
三冊セットを作り続けているのかもしれません。
それは、僕がセットを作成するプロセスを思えば明らかなことです。
連想で本と本を繋げるという言葉そのまま、
僕は始終、それらのリンク・関係性、
「本と本のあいだにあるなにか」のことばかりを考えているのだから。

そして、他に可能性がないという意味ではないですが、
「行間のある本」の量的な傾向の一つとして、
古い本、現代という時間、日本という空間から遠い本ほど、
読者が立ち止まり、考え込むことが多くなるのではないか。
自分の常識や価値観に近い本ほど、文章の一言一句が自分にとって明快であるなら、
古い(遠い)本は知らない言葉が出てきたり、
見たことのある単語にも自分の解釈を適用してよいのか迷う。
その本と自分とのあいだの距離があり過ぎれば、
とりつくしまがなくなり、読む意欲も起こらない。

だから、「行間」は必ずしも、ポジティブに作用するとは限らない。

でも、その古い本との「遠さ」を近づける方法はある。
ヒルギ本のテーマは、その一手段となる。

テーマがあることで、その本が読みやすくなることは(きっと)ほとんどないが、
その本が一冊だけ古本屋で眠っているのを目にした時よりも、
読み手が現代性を感じ、今読んでも何かを得ることができると思える。

そのテーマは、モチベーションの賦活として作用する。あるいは、
本の生命が読まれることにあるのなら、古本の復活としても作用する。
 

うーん、
大事なトピックではあるんですが、
「島的思考」というイメージには近づけませんでした。
いや、近づいているのか?

よくわかりません。
話がぜんぜん終わらなかったので、
本記事は「後編」ではなく「中編」になりました。

ん?
これだと次で終わらせないとマズいか……
いや、ひとつ中後編は挟めるか(ニヤリ)。
(次で終わらないフラグ)
 
 × × ×

お世話になりました音楽。
思考が静かに捗りました。

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