human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

山岸センセと揖斐くん

相変わらず土曜日の話。

最近、土曜にVeloceにいる時間が長くなりました。

先週は『「しがらみ」を科学する』(山岸俊男)を午後いっぱいで読始&読了し、
今日は『安心社会から信頼社会へ』(山岸俊男)を5時間強で半分読みました。
前者はちくまプリマー新書という高校生向けの新書で、文字が大きく分量が(ふつうの新書に比べれば)少ないのですが、内容が濃かったので予想より時間がかかりました。
というのは、午後いっぱいで2冊目にとりかかれるだろうと思い後者を一緒にVeloceに持っていったからで、とりかかることはできなかったのですが前者の最後の方に「興味がある人はちょっと難しくなるけれど『安心社会〜』を読んでみて下さい」と書いてあって「おーまさに今持ってんじゃん」と思い、いつもはVeloce本は分野がばらけるように選定するのですが今回は続き物という位置付けで(実際は後者の方が出版が前ですが)今週から後者を読み始めたのでした。

「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門 (ちくまプリマー新書)

「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門 (ちくまプリマー新書)

山岸氏の本と出会ったのは学部生の頃、工学部の附属図書館ででした。
テスト期間中は図書館に籠るのですが、気分転換に本棚を漁っていると『信頼の構造』なるハードカバーの高価な本があり(習性で手に取った本はまず値段と出版年を確認します)、タイトルの面白さに興味を惹かれました。
内田樹氏の本にどっぷりハマったのも学部生の頃で、この話との前後関係は分かりませんが内田氏の影響で構造主義に興味を持ち始めたので時期的に近いかもしれません)
内容はうっすらとしか覚えていませんが扱うテーマは上に書いた2冊と共通で(ただ学術書なので非常に時間がかかった)、人間性が科学的思考によって裏付けられる(あるいは常識が覆される)ことに驚きました。
それからずっと後に、たしか日刊イトイ新聞で糸井重里氏が吉本隆明と対談した記事の中で糸井氏が山岸氏の研究のことを取り上げて「人間性を科学で証明できるのは凄いことだ、人間を肯定していいんだ」みたいなことを言っている(曖昧な記憶ですみません…ネット上にあるはずだから検索したら出てくるかも)のを読んで、なんだかじーんときました。

とはいえ、人間の善性が科学的に証明できるのだとすれば、それが意味するのは「科学はニュートラルではない」ということです
そして「希望がある」とは、「あるのは絶望だけではない」ということです。

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毎回ですが前置きでバテています。

さて、今日書こうと思ったのは、『安心社会〜』を読んでいて面白い連想が浮かんだからでした。

 しかしよく考えてみると、人間性の一般的な善良性を信じ、人間は一般に信頼できると思っていることと、人の言葉を簡単に信用してしまうお人好しかどうかということとは、少なくとも論理的には別の話です。たとえば、はっきりした証拠があるまでは人を疑ってかかるべきではないと考えている人について考えてみましょう。この人は、具体的な証拠がない限り人は信頼できると思っているわけですから、他人の信頼性についての高いデフォルトの判断をもっている高信頼者です。問題はこの人が、ある人が信頼できない人間であるという具体的な証拠を見せられてもその人のことを信頼しつづけるかどうかです。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。つまり、ある人が他人の信頼性についての高いデフォルト推定値(=他人について何も情報がない場合における信頼度合い)をもっている高信頼者だからといって、そのことだけからは、その人が、特定の人が信頼できないことを示す具体的な証拠となる情報に敏感なのか鈍感なのかは、一概には言えないはずです
「第四章 信じる者はだまされる?」p.104

疑り深い人は他人を信用できないねじ曲がった性格の持ち主だ、みたいなことを言われた時に(直接人に言われることはありませんが本を読んでいればそういう場面に出くわします)何でもかんでも色々考えてしまう僕はついつい自分を省みてしまうのですが、そんな僕はこの部分を読んで「希望」を感じました。
他人を信頼するかどうかと、その他人の行動履歴やら自分とのやりとりの状況等々を考えるかどうかは、「別のこと」なのですね。
この本を読んでいると「信頼」の分類(能力に対する信頼と意思に対する信頼)や「信頼」と「安心」の違いなど、ちゃんと説明されてみればいかにこれらの言葉が普段意味をごちゃまぜにして使われているかが分かって、うならされること頻りというか何度も立ち止まって色々考えさせられるのだけれど(大袈裟に言えば、日常で当たり前に使われる単語の意味が修正された時の影響は計り知れないですよね)、実はこんな真面目な話を書くつもりはなくて(書きながら「でも書いちゃうだろうな」とは思ってたけど)、上の抜粋部を読んでいて「ある人」のことが咄嗟に浮かんだのでした。

「いや、そんなことはない。面白いお話でしたよ」
「え、信じてもらえますか?」
「はい」揖斐は頷いた。「僕は基本的に、人の話を信じる人間です。人間はそんなに積極的には嘘をつきません。ただ、その人が感じたこと、認識していることが間違っている例の方が多いと思います
「では、私が自分を見誤っている、とおっしゃりたいのですか?」
「いえ、そんなことはありません。それは、僕の問題ではない。斉藤先生側の問題です。僕にとっては、斉藤先生がご自身をどう認識しているのか、という話を聞いた、というだけのことで、その先にある事実との対応を吟味することまで手を伸ばす必要性を、現在は感じていません」揖斐はそこで目を閉じた。そして二秒間ほどで、また目を開ける。
「Part 4 : Green persona」p.213-214(森博嗣『ZOKURANGER』)

なんと、揖斐准教授は「高信頼者」だったのです!
言い換えると(と僕は言いますが)、森博嗣氏も「高信頼者」だということです。

この認識は、森氏のエッセイをちょろっと読んだだけ、といったライトリーダにとっては衝撃的なものだと推察します。
ちなみに僕はヘビーリーダなので、「そうだよね、ふふふ」と思いました。

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p.s.1
抜粋部は『ZOKURANGER』を読んでいて唯一付箋をつけた箇所で、本記事の連想もこの意味で「道がつけてあった」とは言えますが、社会学の本から小説の一節に連想が繋がることは僕にとって良い意味を持ちます。それを言葉にするのは難しいですが…たとえば「小説を読むのは"現実逃避"ではない」とかでしょうか。

p.s.2
森博嗣氏の「ZOKU」シリーズは全3冊で、上で取り上げたのはシリーズ3冊目です。ただ「続き物」なのかと言えば違っていて、順番に読む意味があるかといえば内容的にはありません(登場人物の"何か"は同じかもしれません)。本記事に関係ないながらここに書いておきたかったのは…3冊の中では2冊目『ZOKUDAM』がダントツでオススメです。史上稀に見る現実的な「ロボットもの」(ロボットとはガンダムでいうMS=モビルスーツ)です。大学の理系研究室にいた人には懐かしいかもしれません。

ZOKUDAM

ZOKUDAM