human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

有用性、肯定性を「ずらす」ために

有用性で人をとらえることを断固として否定し、有用性を人の心に介入させない仕組み、相殺する世界観が心の更新のために必要なのだ。意味があるから生きているのではない。そこに戻るときに、人の心に更新される力が生まれる。

心の更新 - 降りていくブログ

昨日の夜、久しぶりにturumuraさんのブログを読んでいました。

「心の更新」という他の投稿よりは短い記事の中に…いや、それは他を参照して思考を展開していくのではなく、ふと思ったこと(あるいは常に念頭にあること)をそばに置いてあったメモに書き付けるような短さなのですが、その短い記事の中には婉曲のない「直球」の言葉が綴られていました。


「意味のなさ」を、意味を生命とする論理によって伝える難しさがあります。

文章の書き手の人となりを知っていれば、意味の間から、文章の行間からそれを読み取ることができます。
あるいは、文体、個々の単語や文構成の整序が立ち上げる意味に回収し切れない「文章の身体性」を読み手が感じられれば、書き手の情報がなくとも行間を読むことができます。
後者の場合、読み手に必要とされるのは、(他者が扱う、そして自分が扱う)言葉に対する信頼性です。

 × × ×

そして今朝、今日は新幹線で遠くへ行く用事があり、車中で読む本を本棚から選んでいました。
用事の内容にリンクするような本をと思い、背表紙のタイトルを眺めながら、意識の上では明確でないが感じられるはずの閃きを待っていました。

その時ふと、以前読んだ本に目が留まり、その本に栞が挟まっていることに気付き、何げなくそのページを開いて読んでみました。
付箋が貼られ、文の上の余白部にマルが付けられた箇所にはこうありました。

抽象的な自己同一はまだなんら生動性ではない。肯定的なものがそれ自身否定性であるということ、このことによってはじめて肯定的なものは自己の外へ出、変化のうちに自分をおくのである。だから、或るものは、自分のうちに矛盾を含んでいるかぎりにおいてのみ、しかも矛盾を自分のうちに容れ、持ちこたえる力であるかぎりにおいてのみ生動的である*1

 これらの文章を読みながら、レーニンは舌を巻いていたのだ。思考のこの躍動感はなんだ。かぎりなく抽象的な言葉をつかって思考を表現しているのに、ヘーゲルの手にかかると、そのドライな抽象語が、まるで生き物のように動きだすのだ。それは、彼のことばが、存在の見えない奥底でおこっている事態を、正確に反映しているからだ。

「第3章 ヘーゲルの再発見」p.82(中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫

論理を徹底的に追求することで「"意味のなさ"の意味」を表現する方法もあったのでした。


昨日の夜、turumuraさんの文章を読んだ時に、「何かとつながるかもしれない」という予感がありました。
昨日の時点では、何か思いつけば書こうと思ってしばらく考え、しかし改めて出てくる言葉がなく(というのも、その文章の考え方に僕は親和性を感じていて、そして付け加える言葉がなかったからでした)、心残りがありました。

逆の言い方をしますが、その「心残り」がなければ、今朝のリンクが生まれることはなかったと思います。

 × × ×

車中の本は『わかりあえないことから』(平田オリザ)にしました。
件の用事とは、とても広い意味で繋がっていると言えるでしょう。

では、これから早めの昼ご飯を食べて、出掛けようと思います。
今年に入って初めての電車と、初めての外泊(2泊)になります。
枕が変わって、寝られるでしょうか。

ジョークです。

*1:レーニン『哲学ノート(上)』九三頁(引用書注)