タイトルは本のタイトルではなく、
『人間の土地』(サン=テグジュペリ)の解説のタイトルです。
表紙絵が宮崎氏だったので「へえ!」と嬉しくなって読み始めたのですが、
最初からいくらか読み進めている間、
酷というか、
怒濤というか、
今まで数多くの文庫本を読んできて、
「こんな辛辣な解説は初めてだな」
と思っていました。
辛辣といっても批判ではなく、
いや批判にも読めますが筆致としてその次元は通り越していて、
感情の差し挟まれない史実の列挙の奥には、
眉間をわずかに寄せて一点を静かに見つめる、
氏の透徹した表情が窺えました。
2014年の映画「風立ちぬ」に込められた思いが書かれている、
と感じられる箇所がありました。
もちろんこの文庫版の解説が先に書かれたのですが(1998年)、
「風立ちぬ」に限らず、
氏の仕事に対する思想の表現であるように思えます。
サン=テグジュペリの作品や、同時代のパイロット達が好きになればなる程、飛行機の歴史そのものを冷静に把えなおしたい、と僕は考えるようになった。飛行機好きのひ弱な少年だった自分にとって、その動機に、未分化な強さと速さへの欲求があった事を思うと、空のロマンとか、大空の征服などという言葉では胡麻化したくない人間のやりきれなさも、飛行機の歴史の中に見てしまうのだ。自分の職業は、アニメーションの映画作りだが、冒険活劇を作るために四苦八苦して悪人を作り、そいつを倒してカタルシスを得なければならないとしたら最低の職業と言わざるを得ない。それなのに、困ったことに、自分は冒険活劇が大好きだと来ている……。
宮崎駿「空のいけにえ」p.239-240 (サン=テグジュペリ『人間の土地』(新潮文庫)あとがき)
「本当に好きなもの」にどう相対するか…。
ここを読んで、僕は自分のことを考えました。
× × ×
「本当に好きなもの」について、もっと知りたいと思う。
それはもちろん、「本当に好きなもの」のことを自分はよく分かっていないから。
よく分からないが、それでも自分がそれを好きであることは分かる。
そして「それをもっと知りたい」という思いは、
「それがこうあってほしい」という思いと正反対のベクトルを持っている。
後者は、分からないことを知ろうとする姿勢ではない。
分からないことを理解したと思いたいだけの願望だ。
自分がそれを好きだと思う、
その事実は実感していて、しかし理由は明らかでない。
しかしその理由が「よく分かっていない」ことの中にある、ことは分かっている。
そこに踏み込むことは、未知への冒険であり、
どんなことが起こるのか全く予測ができない。
あるいは「実は自分はそれが好きではなかった」ことが明らかになる可能性もある、
という不安がつきまとう。
でもこの不安は、「それがこうあってほしい」という願望の裏返しだ。
未知へ足を踏み入れずに、遠目で分かった気分になりたがる浅薄な願望。
その「軽さ」が許せない、
自分の好奇心に対して不誠実だ、
という使命感に衝き動かされて、
絶えずつきまとう不安とともに足を踏み出す。
× × ×
思いつくままに書いて具体的な話が出ませんでしたが、
「自分が好きだと思っていたもの(人)たち」が本当にそうだったのか、
抜粋部を読んでしばらく振り返っていたのでした。
そして、その個々の対象に対する答えは出ませんでしたが、
「それに相対する時の自分の姿勢に表れる」
ということは言えるだろうと思いました。
どれだけそのことについて長く思い続けてきたか、
この時間の長さがそのまま何かを意味するのではなく、
直接、自分がそれと出会った時に、
それこそその場で思考が開始される前の一瞬で答えが出るだろう、
と思いました。
こう思って、不安が減るわけではありませんが、
「この不安は、あるべき不安、自分が抱え込むべき不安だ」
という認識は、
足を踏み出す勇気を与えてくれます。
× × ×
あと一つだけ抜粋しておきます。
風景は、人が見れば見るほど磨耗する。今の空とちがい、彼等の見た光景はまだすり減っていない空だった。今、いくら飛行機に乗っても、彼等が感じた空を僕等は見る事ができない。広大な威厳に満ちた大空が、彼等郵便飛行士達を独特の精神の持主に鍛えあげていったのだった。
同上 p.241-242
航空技術が発達して、人類未踏の地はなくなったと言われます。
また情報機器の発展は、極地の風景を座して見ることを可能にしました。
誰も見たことのない風景は、もうありません。
でも宮崎氏のこの一言に触れて、僕はこの認識を新たにしました。
「風景は、人が見れば見るほど磨耗する」。
これは通時的な現象ではなく、共時的な現象だと考えました。
つまりこの一言は同時に、
人々から顧みられなくなった風景は、原石の輝きを取り戻す
ということも意味するはずです。
そしてもはや現代では、
「見たかどうか」
「写真に撮られたかどうか」
「データ化されアーカイブに登録されたかどうか」
といった考え方の中には、人としての思想も姿勢もなくなってしまいました。
(ここにあるのは「システムの思想」とでも呼べるようなものです)
もし問いたいのであれば、問われるべきは「人としての思想」です。
僕は現代的な情報の奔流に(距離を置いて)触れながらも、
これを問い続ける姿勢を維持したいと思っています。
× × ×

- 作者: サン=テグジュペリ,堀口大学
- 出版社/メーカー: 新潮社
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