human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

テグジュペリ-吉本-村上ライン

 ぼくは、自分の車室へ戻ってきた。ぼくは、ひとり言をもらした。彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまもぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのではない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。ぼくは憐憫を信じない。いまぼくを苦しめるのは、園丁の見地だ。いまぼくを苦しめるのは、けっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は懶惰の中と同じように、落ち着けるものなのだ。

「人間」p.231 (サン=テグジュペリ『人間の土地』)

僕は『言語にとって美とはなにか』というようなものを準備し、そしてつくり、というようなときから、なにか目に見えない思想的あるいは文学、芸術的対立といいますか、アンチテーゼみたいなものとして僕が見てきているものは、もっと違うというか、日本のことじゃないんですよ、いわば世界思想の領域でそういうことを考えていると思うんです。だから、そういう意味だったらば、いま日本の現状はこうなっている、こうなっているというようなことは、あまり僕には問題にならないというふうに思うんですよ。

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それだけれども、そうばかりいっていられないという面があるのは、つまりそんなことをいっていても、やはり人間は働き、金をとり、それで生きているということがうそでないように、そうでなければ生きていないというように、やはりそういう次元では問題になるじゃないか、せざるをえないじゃないか、そういうことはあると思うんです。だから、そういう次元ではさまざまな、つまりロシヤ・マルクス主義をあたかも普遍性であるかのごときことをいっているのに対しては、それはだめなんじゃないかというようなアンチテーゼも出しますし、もうそんなことは再現されるわけがないよ、戦争が終わると同時に過ぎ去ったものだよというふうに思えるものに対してまたアンチテーゼを出したい気持もありますしね。(…)ただ、食べて生きているのが疑えないように、そういうものがあるというのは疑えない。だからそれに対してどうだこうだというあれもあるというような、批判もあれば意見もあるというような、そういうことは確かにあるのですけれども、そういうことが別に生産的だというふうに思っているわけでもないんです

「序」p.35-36 (吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』)

「だから詳しいんだ」と僕は言った。「フランスにぶうぶう鳴いて地下のキノコを捜す豚がいるけど、あれと同じだよ」
「あまり仕事が好きじゃないの?」
 僕は首を振った。「駄目だね。好きになんかなれない、とても。何の意味もないことだよ。美味い店をみつける。雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう? みんな勝手に自分の好きなものを食べていればいいじゃないか。そうだろう? どうして他人に食い物屋のことまでいちいち教えてもらわなくちゃならないんだ? どうしてメニューの選び方まで教えてもらわなくちゃいけないんだ? そしてね、そういうところで紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それが僕らのやっていることだよ。何かをみつけては、それをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人びとは情報と呼ぶ。生活空間の隅から隅まで隙を残さずに底網ですくっていくことを情報の洗練化と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする。自分でやっていて」
 ユキはテーブルの向かい側からじっと僕を見ていた。何か珍しい生物でも見るみたいに。
でもやってるのね?」
「仕事だから」と僕は言った。それから僕は突然向かいに座っているのが十三かそこらの女の子であることを思い出した。やれやれ俺はいったいこんな小さな女の子を相手に何を言ってるんだろう? 「行こう」と僕は言った。「もう夜も遅いし、そのアパートまで送るよ


村上春樹ダンス・ダンス・ダンス(上)』