human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-5

 
 存在するものを共有できる人数は限られている。しかし、存在しないものを共有する人数には、限りがない。これは、その価値や重要性とは関係がない。ただそれが、存在するか、しないかの違いだけだ。
 けれど、その「ないもの」を、あるように見せることができる者がいる。無形物に輪郭を与える者、あるいは、自らその「ないもの」の具現化となる者。この現象には、物理法則が介在しない。無から有が生まれ、一が瞬くうちに百となる。
 彼は、何になったのだろうか。何になろうとしているのだろうか。

「やあ、シナモン。この間の集まりは楽しかったかい」
「ええ。あの時は初めからずっと和やかで、みんな嬉しそうで、私も幸せだったわ」
「君もウーシャンフェンも、よく立ち回っていたよ。あの場が大成功に収まったのは君たちのおかげだね」
「そんなことない。フェンネルだって、すみっこの方でひそひそ話をしていたけれど、周りにずっと気を配ってくれていたのは遠目に見て分かっていたのよ。どこかで喧嘩でも起これば、駆けつけて仲裁してやらなくちゃっていう目つきをしていたわ」
「それは買いかぶり過ぎだな。僕はそんなにお節介じゃない。会場の隅にいたのは、密度の高いエリアで背後を晒すのが嫌だったからだし、気を配っていたのではなくて、たんに観察していただけだ」
「照れる必要はないのよ。ああいう集まりに普段なかなか出ないあなたが来て、楽しんでくれたのが何よりだわ。また次にも、来てくれるかしら?」
「たぶん。前も言ったけれど、気が向けばね。今回は楽しかったから、また次も出るかもしれない。ところでシナモン、君はいつも誰かと一緒にいるようだけれど、独りでいる時間はあるのかい」
「…そうね、改めて考えてみると、そんな暇は無きに等しいわね。そばに誰かがいれば必ずやることがあるし、誰かのために行動することが好きだからじゃないかしら」
「うん、それは僕もわかるよ、君はいま君が自分のことを表現した通りに僕には見える。ただ、ずっとコミュニケーションし続けるのは疲れないかい? 君みたいにいつでも全力を尽くすには、それ相応の充電時間を必要とするように思えるんだけど」
フェンネルは孤独が好きだからそういう風に見えるのよ。独りでゆっくり考えたり本を読む時間が休憩で、みんなの前に出て混じり合うことを仕事だって言うんでしょ。でもね、あなたのようなタイプはたぶん珍しいほうだわ。私だって極端だけれど、それでも、調合が元気の源だというのは常識の部類に入るんじゃないかしら」
「その通りだと思う。僕らは誰であれ、単独では十全に力が発揮できない。それぞれの個性が、混ざり合うためにあるものだからね。僕も自分が異端だとは自覚している。ただ君を見るといつも、もう少しゆっくりしたり、休む時間をとった方がいいんじゃないかとつい思ってしまうんだ。だからこれは独り言のようなものだね。気にしなくていい」
「ありがとう。フェンネルは優しいのね。あなたの忠告、大切にするわ」

 個性が反応する対象は個性だと考えてみる。一般性は媒介にしかなりえず、個性がまっすぐ一般性に向かうことはできない。いや、できない、という表現は妙かもしれない。目指すことはできるのだ。決して叶わない夢を見て、それを一心に追い続けることができるように。
 ただ、ある個性が一般性を目指すとき、別の個性はその媒介に成り下がる。一般性をひたむきに見つめる彼の目は、相手の目をまっすぐとらえながら、その光は妖しく乾きを帯び、焦点は相手を突き抜けた遥か彼方に設定される。すぐ近くにいるようで、とても遠くにいるように思える存在。
 そして我々は鏡であり、焦点の合わない目と向き合う僕の存在は、希薄になっていく。あるいは彼と僕の存在密度が、反比例的に変化していく。それはとてもつらいことだ。一緒に薄くなるのはまだいい。彼が濃くなるごとに、僕は薄くなっていくのだ。そして彼はここにはいない。
 僕はどこにいるのだろうか? 僕は、どこに行くのだろうか?