human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-2 「他愛のある人、自愛のない人」

 
 フェンネルは居間のソファで寛いで本を読んでいる。廊下がゆっくりと鳴る音が聞こえる。フェヌグリークが姿を見せる。
「ここにいたのね、フェンネル。ちょっといいかしら」
「どうぞ」フェンネルは顔を上げて、向かいのソファを手で示す。フェヌグリークは彼の顔をじっと見ながら、その返事を待たずに腰を下ろす。とても静かに。
「あなた、彼女の気持ちをもう少し考えて喋らないと駄目よ」
「彼女って?」
「シナモンよ。昨日の晩のこと。忘れたわけじゃないでしょう?」
 昨日は三人で、近所の居酒屋へ飲みに行った。恐らくフェヌグリークとシナモンはそう考えている。フェンネルは夕食を食べに行ったと思っている。酒を飲まなかったからだ。

「もちろん。それで、何の話?」
「ふん、やっぱり覚えてないじゃない。私だってね、あなたが馬鹿だと思ってないし、何度も同じことを繰り返したくないけれど、シナモンだけじゃなくて、あなたのためにもなると思って言ってるのよ」
「ああ。いや、分かってるよ。シナモンが一生懸命喋ってる話をちゃんと聴いているのなら、その話の中心に対してコメントしなければ自分の態度は伝わらない。君はそう言っていた」
「そう。彼女が自分の人生観について熱く語ってるんだから、君はその通りにやれてるよとか、自分のことをよく分析できるねとか、あなたならそういったまともな感想言えるでしょう? それなのに、妙に偏執的になったみたいに言葉の細部を突っついて、僕はパッチワークというよりは曼荼羅だななんて言い出して、それだけならまだしも、人を吊るして砂で絵を描くだの宗教的ではなくて諸行無常だなだの、もとの話題を完全に食って別の話にしちゃって、一体なんなの? 感想そっちのけで自分勝手に文脈無視した話始めて、しかもそこから表情までいきいきしちゃって。あなた、シナモンの顔なんて全然見てないでしょう?」
「いや、見てたよ。彼女に向かって喋ってるんだから、そりゃあ当然見るよね」
「あの子、変な顔してたわよね? え、一体何の話だろうって」
「まあね。僕だって、自分で話し始めてから、あれ何でこんな話してるんだろうって思ったくらいだから。で、君に聞いたよね? そもそも何の話してたっけって。君は会話にかけては非常に明晰だから、迷い込んだ話の筋をいつも的確に元通りにしてくれる」
「お褒めの言葉をありがとう。でもね、その言い方もどうかしてるわ。話の腰を折りたいように折って、その責任なんかこれっぽっちも感じてなくて、もう子供と一緒ね。あなたに悪気がないのは知ってるわ。それに無邪気に話ができること自体も、いいことではあるのよ。変に構えて、相手の機嫌を損ねないように上目遣いの応答ばかりするよりは。でもね」
「お互いに相手がいて会話してるんだから、最低限のキャッチボールは成立させておかないと礼儀に欠ける、だよね」
「そうよ。昨日も同じことを言った。あなたは、そんな当たり前なこと言われてもなあ、って顔で聞いてたわ」
「そんなことはないよ。常識の一部だと知ってはいるけれど、敢えてそれを言葉にするんだから、それだけ自分が非常識に見えるんだろうなって気付けたくらいだし。この歳になってそんな、相手を馬鹿にしてると思われかねない意見を言ってくれる人は他にいないからね、ありがたいと思っている」
「へえぇ、そんな顔にはとても見えなかったけれどね。まあいい…いや、よくないわ。だからね、何度も言うけど、そういう態度を取ることであなた、必要以上に他人に嫌われることになりかねないわよ。嫌われはしないまでも、あまり良い印象を持ってはくれない。人の出会いの第一印象のうち97%はね、知り合ってからの関係に後を引くものなのよ。いろんな人に好かれたいとは思わないって前に言ってたし、そう思うのはあなたの勝手だけれど、あなたが他人と一緒に仕事をしたりとか何やかやする時に、あなたの自分の見え方、他人が自分をどう見るかに対する無関心は、確実に仇になるわ。膨大な損失よ。しかも無意味な」
「その、97%というのはどこから」
「んなことどうでもいいの。今そういう話をしてるの。やっぱりあなた、人の話をまるで聞かないわね。右耳と左耳のあいだに、ちゃんと脳みそあるの?」
「あるといいね」
「……その冗談、まっったく面白くないわ」
「いや、別に冗談ではなく……まあいいや。えっと、そんなに興奮するような話ではないよ。僕のことを考えてくれるのはありがたいけども。で、そうだね、今言われてみると、僕はどうも話の筋よりも言葉の細部に囚われがちなようだね。普段あまり人と会話をしないし、本ばっかり読んでるし、その読書がまたメタファーとか文体を気にするような読み方をしているものだから、なんというか、癖になっちゃってるんだろうね。本を読む時の習慣が、人と会話している時にも顔を出す。言葉のやりとり、あるいは言葉の連なりを頭で追っていくという意味では、会話も読書も同じだからね。それに加えて、その癖を制御しないで自然に任せておくことで、自然な会話になるという思い込みもある。当然、会話のキャッチボールを成立させる方がコミュニケーションの基盤になるのだから、そちらを過度になおざりにしてはいけない、という認識だったんだけれどもね」
「どうやら、過度になおざりになっていたようね」
「そうらしいね」
「……まるで他人事のような言い草」
「うーん、そういう考え方は面白いかもしれないね。本を読む自分より、会話をする自分の方が他人である。いや、他人に近い、なのかな。いや、でもこれはある意味で当たっているな。コミュニケーションは自己の境界を曖昧にして別の個体と接する行為だけれど、本は頭の中だけなのに対して対面では五感もフル活用するから、多次元的に境界が薄くなるわけだ。ああ、感覚器毎に自己の境界があるという発想はなかなか斬新だな。一考の価値があるかもしれない」
「……」
「あ、ごめん。話が抽象的過ぎたかな? いや、ジョークです。冗句。ふふ…いや、ごめん」
 フェヌグリークは笑っていない。フェンネルは、それも仕方がないと考えている。ジョークの機能は笑いをもたらすことだけではないからだ。そしてこう思う。人が聞いて、哀しみの涙を流すジョークとはどのようなものだろうか、と。

「その、思うんだけどさ、君は職業柄かもしれないけれど、円滑な会話とか、効果的な意思伝達とか、そういったことを重く見すぎてるんじゃないかな?」
「重く見すぎる? 私は当たり前のことを言っているだけよ」
「うん、それは否定しないよ。ただ、思っていることを正確に伝えるとか、誤解を生まないようにするとか、要するにコミュニケーションの効率化を追求すると、どこかでそれが面白くなくなっちゃうんじゃないかと思うんだ」
「これはまた高度なことを仰るのね。相手のことは決して理解できない、コミュニケーションはすれ違うから面白い。わかってるわ、それくらい。人と話すのが仕事の核だもの。だけど、あなたの言うそれは、基本的な人間関係が構築されたあとに問題にすることよ。お互いのことをある程度知り合って、自分の意見をぶつけ合えるような信頼関係ができてから、やっと意識にのぼってくるようなトピックなの。つまりこういうわけね、あなたは初対面の人間に対して高度なコミュニケーションを要求する、そしてそれが自然であると言い張る。何考えてるのかしら。そんなの、子供に自転車を教えるのに、初日から補助輪を外して、サドルの上で逆立ちさせるようなもんだわ」
「そうだね。君の指摘はまったく正しい。僕はきっと他人からは、自分の娘を曲芸師に育てようとするスパルタンの父親のように見えるんだろう。自分はサラリーマンなのに。そんな狂った父親のいる家には、地域の回覧板さえ回ってこないかもしれない。でもね、どう表現すれば伝わるのか、考えてみないとわからないのだけど……例えば、こう言ってみようか。今君は高度な問題だと言ったけれど、基本レベルの問題があってそれをクリアすれば高度な問題を意識する、というような明確な分類は、本来すべきじゃないのではないかと思う。ハウツー本なんかに、コミュニケーション作法とか実用心理学みたいな名目で書いてありそうなことで、コミュニケーションの方法という視点で構造化すれば、たしかにそう表現できる。でもね、そうやってマニュアル化して、その通りにことが運び、期待通りの結果を得ることを良しとする。なんだかそれはコミュニケーションを、コンベアに機械部品を等間隔で並べるような単純労働と同じとみなす発想のような気がするんだ」
「ああ、わかったわ。フェンネル、あなたね、思考が抽象的なのよ。いや、そんなこと自覚しているわね、もっと言えば、あなたの思考は抽象的でしかない。あなたが一生懸命やってる分析は、現場に活かされてないのよ。実際のコミュニケーションの場から程遠いところで、一人で楽しく思考実験をやってるだけ」
「それが無駄だと?」
「勿体無いじゃないの。あなたが嫌われる理由なんて、そりゃないとは言わないけど、わざわざ進んで自分の他者評価を下げる意味なんてどこにもないわ。人は他人なしでは生きていけないって、あなたいつも言ってるじゃない。他人と上手く付き合える頭を持ってるのに、どうしてその頭をまっとうに活用しようとしないの?」
「研究活動は当たり外れがあるからね。投入した労力の数パーセントが芽を出せばいい方だし、そのなかで大きくなって実をつけるものが出てくれば、もう僥倖だといえる」
「コミュニケーションは研究ではないわ!」
「そう言い切れるものではないと僕は思うけどね。少なくともその評価に主観が立ち入る余地はある」
「人が生きていくうえで、いちばん根っこにあるものじゃないの。人が集まって社会をつくって、人と人が協力してあらゆるものを築き上げる。何をするにも、まず最初に気を遣わなきゃいけないところでしょう?」
「いや、君の考え方を否定しているわけじゃない。嫌味に聞こえるのを承知で言うけど、まず君は、まっとうで正しいことしか言っていない。少なくともこれまで、僕の耳が聞いた限りではね。そして、これは信じてもらうしかないけど、君の話はちゃんと聞いている。頭に入れて、想像して、理解している。だから、この2つを了解してもらったうえで、それでも君の気持ちが収まらないのだとしたら、もう理由はあと一つしか考えられない。聞いたら君は確実に怒るだろうから、ここでは言わないけれども」
「……言いなさいよ。そこまで言って、ただで済むと思ってるの?」
「え? いや、まだ言ってないのに、おかしくないかな? それ」
「知らないわ。あなたが何言っても、私怒るから。言わなくても怒る」
「うーん、未来は決定済みというわけだね。それが運命ならば、甘受するほかない。……どっちでも同じなら言わないに一票」
「言ったら満貫、言わなかったら跳満よ」
「なんと! では起死回生の、暗槓ツモ嶺上開花!」
「ロン、槍槓」
「ぎゃふん」