フェンネルは向かいの椅子に向かって話しかける。
「すべての言葉は沈黙に通ずる」
テーブルには彼以外だれも座っていない。
「言葉というか、会話だけども。二人で延々と続けていれば、いずれお互いに言うことがなくなる」
もちろん空間は返事をしない。
「言葉はそもそも、会話のためのものなのだから」
しかしフェンネルは、椅子の上部の空間に何かを感じとっている。
空間は何かで満たされている。
「会話は目的があって始まる場合もあるし、ふとしたきっかけで始まることもある。けれどいったんそれが始まれば、お互いが意思をもってそれを続けようとする。その意思が、最初にはなかった目的を生む」
フェンネルは考えている。
自分は椅子の上の空間を占拠しているが、
同時にここには、空間の欠如がある。
「その意味で、会話は創造的行為であるといえる」
僕がいるせいで本来あるはずの空間が、その存在を否定されている。
あるいは、ある〝べき〟はずの空間が。
「これまで現実に存在しなかったものを新たに生み出す。形があるわけでなく、発したそばからすぐに消えていくものであれ、彼らを含めこれまで誰も、見たことも聞いたこともないそれが、彼らのあいだでどんどん勢いを得ていく。その勢いは、彼らの意思に関わりなく、独自の生命力をもっているようでもある」
形の現実的存在は、空間の否定をともなう。
では、空間の肯定は形の不在なのか?
当然そう。対偶だ。
「しかし会話は時を経て、その勢いを少しずつ失っていく。また、唐突にこと切れる。二人の協力によって創造されたそれは、遠からず死を迎える。小さな死。ほとんどの場合彼らは、その一時的な死を喜びをもって迎える」
ではそれは〝そこには何かがある〟ということではないのか?
「会話の死によって、そこに沈黙が訪れる。沈黙はまた、新たな会話の開始によって破られるかもしれない。会話と沈黙は互いが勝手に相手を生み出す、永遠機関のようなものかもしれない。けれども永遠は現実にはない。最終の会話は最終の沈黙に呑み込まれる。最後に残るのは沈黙だ」
空間の肯定……。
「彼らは沈黙を遺した。彼らの存在を証しするものは、彼らが存在する間だけ空間を漂い、彼らが消えていくとともに、その証も霧消した。沈黙は彼らの存在の証ではない。では彼らは何も残さなかったのか?」
あるべき状態として自分が認める何かが、そこにはある。
そこに何もないのだとしても。
「……君はずっとそこにいた。そしていない。これからも、ずっと」
フェンネルはコーヒーを淹れるために立ち上がる。